第7章 集う者達 ―Sion Side―

Episode25「会合」

「やめてくれ…」


 目の前には気を狂わせ自分の顔面を何度も何度も剣で突き刺す者。背後には聞いてるこっちの頭がおかしくなりそうな叫びを上げながらのた打ち回っている者。他にも床に自分の頭を何度も打ちつけ笑っている者。まるで亡者のように自我を失った人々が僕の足に縋り付いて来る。


「違う…僕はそんなつもりじゃ…」


 僕の足にしがみ付き、焦点の定まらない目で見上げている。笑っているのか泣いているのか、何を伝えようとしているのか何も分からない。

 震えて足が折れそうになるのを必死に堪えていると、突然剣を持った血まみれの男が襲い掛かってくるが、咄嗟に右手を突き出すと掌から炎が迸り、目の前の男は一瞬で灰のように消え去った。


「まぁた殺した…」


「人殺しだ人殺しだ…」


 足元に纏わりつく亡者の言葉が呪いのように耳から離れない。

 僕は何人の命を奪ってきたのだろうか。

 ソフィアを守る為と覚悟を決めたはずなのに、今でも人を殺す事に罪悪感が付き纏う。何度自分に言い聞かせても、何度やっても人を殺す瞬間に芽生える恐怖が拭えない。そういった己の未熟さがソフィアを何度も危険な目に遭わせてしまっている。

 いや、それはソフィアだけではない。ああしていれば、迷っていなければ、あの時こうしていれば。

 でも今更何を言っても両親は、レノは、アンディは…もう戻らない。


「シオン、お前は将来きっと優しくて強い男になれるぞ」


 遠い思い出の父さんが大きな手で僕の頭を力強く撫でてくれる。


「シオン、神様へのお祈りを忘れては駄目よ。神様はいつだって私達を見守ってくれているわ」


 僕も母さんの言う通り神様を信じていた。だからあの日まで週末のミサは父さんと母さんと一緒に毎週通っていた。教会はいつだって幻想的で、優しい空気に満ちていて、見た事なんてなくても神様はいるんだって気にさせられていた。

 その頃から隣国との小競り合いは続いていたけど、僕はそれを何処か遠い他人事のように感じていた。何故なら僕のいたその頃の西D地区のゲートは一度も突破された事がなかったから。それを神様に祈っているおかげで平和なんだって甚だしい勘違いをしていた。変わらない日常、それがずっと続くものだと思っていた。


 いつものように父さんは朝になると出掛けて、僕は母さんと家で父さんの帰りを待つ。昼が過ぎて、母さんは夕飯の支度を始めて、何事もなくいつものように父さんが帰ってきて家族で楽しい団欒…その日も変わらない一日で終わるはずだった。

 そんな日常を粉々に砕くような破裂音が突如西D地区に響き渡った。何が起きたのか分からない僕と、深刻な表情を浮かべて微かに震える母さん。静寂が訪れたかと思うと遠くから徐々に聞こえてくる怒号。次第に近所から悲鳴のような声が聞こえてきたかと思うとそれはどんどんと増えてやがて地鳴りのようになる。母さんは窓の外を覗こうとする僕を抱き締めるとその場で神への祈りを呟き始めた。


「二人共無事か!?」


 そこへ父さんが帰ってきたけど、いつもと様子が違っていた。母さんは涙を流しながら今度は父さんに抱き付く。


「行くぞシオン! 早くするんだ!」


 血相を変えた父さんに一瞬困惑するけど僕は差し伸べられた手を取るとそのまま父さんの腕に抱かれる。そうして家の外に飛び出そうとドアを開いた瞬間だった。激しい衝撃が襲い掛かり、一瞬にして僕の視界は真っ暗になる。

 しばらくして誰かの声が聞こえて目を覚ました。真っ暗だった世界に微かに差し込む光に目を細めると誰かに腕を引かれ僕は光の中に引きずり込まれた。だが光の先は見た事のない瓦礫だらけの街だった。

 こんな場所は知らない。そう思っていたけど足元にある奇妙な感触に気が付き足元の瓦礫を見てみる。

 そして知ったのだ、ここは僕の家だったと。そして見たのだ、足元に転がる無残な両親の死骸を。

 父さんと母さんだ、でもそんなはずがない。一瞬で矛盾した思考が同時に沸き上がり混乱し震える。

 だって父さんと母さんは人間だから、こんな形はしていない。顔の半分は父さんだけど、もう半分は見た事もない化け物だ。母さんの頭は元々二つになんて割れていなかった、それに腕も足もちゃんと二本ずつあった。


「父さんと母さんは何処?」


 その問いに足元の死骸が答える。


「父さんはここだよ、シオン」


「お母さんもここよ、シオン」


 人だった何かが僕の足に絡みついてくる。


「う…ああぁ…!」


 恐怖で足が竦んで動けない。


「優しくテ…ツヨイ…」


「カミサマ…カミサマに…イノリ…」


 ぼろぼろになり、ただれた皮膚は砂利や埃にまみれ、汚らしいゾンビのような両親だったモノが不気味な笑みを浮かべて迫ってくる。


「うぁ…うわあぁぁぁっ!! ああぁぁぁっ!!」


 恐怖から体中から炎を迸らせると炎の柱が立ち上り二人は一瞬で灰となって視界から消え去るが、炎の先にはアンディが立っていた。


「アンディ!」


 俯くアンディに戸惑いながらも呼び掛ける

とこちらに気付いたのかアンディは項垂れたまま首を曲げて見やるが、髪の隙間から伺えるその眼は僕の知るアンディのそれではなかった。それどころかこちらに向けられた首がグルリと一周回り、再び僕をじっと見つめる。捻れた首の筋肉はまるで絞った雑巾のように歪に盛り上がり、焦点の合わないその視線は尚も僕に向けられている。

 畏れてはいけない、アンディは僕の…唯一無二の親友だ。僕は一度彼を裏切ってしまった、もう二度と裏切りたくない。

 そんな想いから必死に笑顔を繕い、炎の柱を纏いながらそっとアンディに手を伸ばし歩みを進める。だが近付くに連れて無表情だったアンディの顔が歪み出すと眼から血を流し、確かな憎しみがこちらへ向けられる。それでも僕は歩みを止めず、一歩一歩アンディへと近付く。


「大丈夫だよ…アンディ…僕は君に謝らなければいけない…」


 どうか許して欲しい、そんな身勝手な願いを込めながら僕はそっとアンディの肩に触れた。

 この炎の柱は僕の力、意識して制御すれば燃やさない事だって可能だ。ソフィアも僕の腕の中でこの炎の柱に包まれながら無事だった。しかしそんな僕の意思とは関係なく炎は一瞬でアンディを包み込んだ。


「そんなっ!? やめろ! アンディ! アンディ!!」


 アンディを包む炎を払おうとすればする程に炎は勢いを増し、皮膚を、肉を灼き、血を蒸発させる。しかし燃え盛る炎の中、アンディはカタカタと顎を鳴らし狂気に満ちた笑顔を浮かべていた。


「ウラギリモノ。オレはオマエをコロスッ。ケ…ケケケッケケ…! マッテロ…シオン…コロシテヤルぞぉ…!」


「アンディ…僕は…僕は…!」


 抱き締めようと腕を伸ばした瞬間、アンディは灰となり跡形もなく消滅した。


「あ…あぁ…ああぁっ…!」


 僕は誰一人守る事も…救う事も出来ないのか…?




「はっ…! はぁっ…!」


 突然目が覚めると、そこは無機質な部屋。


(今のは…夢…?)


 そうだ、僕は今血の盟友本部にいて…昨日の夜…。

 みんなの容態が気になり、焦る気持ちを抑えながら広間へと向かう。しかしその途中、まるで僕を待っていたかのようにセリアが壁に背を預けて佇んでいた。


「おはよう」


「お…おはようございます」


 冷たい視線を向けられ思わず後ずさってしまう。昨日の事を責められるのだろうか…そう思うとこの場から逃げ出したくなった。しかし予想に反して彼女は踵を返すと僕に背を向け黙って広間へと歩き出す。


「…来ないの?」


「あ…行くけど…」


 何と言えばいいか分からず躊躇していると彼女は溜息を吐きながら振り返る。


「はぁ…レヒトから聞いたけど、ホントにうじうじしてるわね貴方」


「え…」


「昨日の事なら心配いらないわ、私達は神の知識、領域に足を踏み入れようとした。だからあの事で恨むなら神様を…ってところかしら」


「で、でも僕があんな事を話さなければ…」


「…何故かは分からないけど神は私達をそう作ったのよ、神の領域には踏み込めないようにね」


 そう言うセリアは思うところがあるのか、表情からは怒りが見て取れた。


「私は…神を赦さないわ。人間は平等…そんなの嘘よ」


 怒りを紛らわせるように一度溜息を吐くとセリアは俯きながら再び壁に背を預け続ける。


「神は人に命を与えお前達は平等だと言った…。でも本当にそうだと思う?」


「それは…」


「何を以って平等かどうかなんてどうでもいい。ただ苦しむ者がいて幸せな者がいて…運命に抗う力を持つ者と持たない者がいる」


 どうやらレヒトが全てを話していたらしい、彼女は全てを知っていた。恐らく血の盟友団員にも知れ渡っているのだろう。


「まぁそれでも私達は…前に進まなくてはいけないのよ」


「…ありがとう、セリアさん」


「礼を言われることじゃないわ、貴方がそんな調子じゃ万が一のとき困るのよ」


 そう言い残し再び踵を返すと今度は振り返る事なく彼女は先へ進んでいくが、その背中は昨日よりも頼もしく見えた。

 これはもう僕とソフィアだけの問題じゃない。次に戦う時、僕はレヒトのようにゼファー達、悪魔に対抗し得る数少ない戦力になる。


「戦うんだ…今度はみんなの為に」


 気を引き締めると僕はみんなが待っているであろう広間へと歩き出した。


「おはようシオン君、体は大丈夫かい?」


 広間に到着すると昨日のように巨大なテーブルには全員が着席し、クロフトはいつもと変わらぬ表情で投げかけてきた。


「大丈夫です、それより昨日は本当に…」


「君が気にすることじゃない。何より改めて神の畏ろしさをこの身で知れて良かったぐらいさ」


 その言葉に救われたような気になると僕は昨日と同じ席へ腰を下ろす。


「さて、早速だが諸君に報告すべき案件がある」


クロフトの神妙な面持ちに広間が静まり返った。


「今朝、セインガルドに滞留している仲間から緊急連絡が入った。セインガルドB地区内に…異形の悪魔が現れたそうだ」


 その言葉にどよめきが起こるがそれも無理はない。僕自身も我が耳を疑ってしまう。


「悪魔は出現した直後、住人の数名を喰らい何処かへ消えたという」


「まさかゼファー達が…」


「消えた後は特に何事も起きていないそうだが…」


 この先ゼファー達がやろうとしているのは神との戦争だ。だがそんな事をしたらこの世界はどうなるのだろうか。

 そこで黙っていたレヒトが口を開いた。


「これから話すのはあくまで俺の推測だ」


 前置きをするとレヒトは真剣な表情で話し始めた。

 まずゼファー達の目的、それは会話の節々から予想すると神への反逆だと言う。かつて神に敗れた堕天使、それらは地獄に堕ちた後も虎視眈々と復讐の機会を狙っていたとレヒトは推測していた。

 それは僕があの不思議な空間でエリヤに見せられた光景にもあった通りだ。そこで僕はエリヤとの会話を思い出す。


「ジハード…」


 レヒトの推測通り神に敗れた堕天使ルシファーは地獄の王サタンとなり、再び神に挑んでいた。神々の戦争に巻き込まれた世界は消滅したかのように思えたが、僅かに生き残った人類はそれから気が遠くなる程の刻を経て現在の世界を構築する。

 その二度目の戦いの際にルシファーは地獄から地上へ這い上がっており、それに気付いた神はヘヴンズゲートが開かれる前に天使を送り込みこれを討っていた。だが今この世界にはゼファーのような悪魔が既に存在しているにも関わらず天使の襲撃はない。それには何か神の意図があるのだろうか?


「ベルゼクト、蝿の王ベルゼブブが執事をやってる事から王室は悪魔の軍団と推測されるが…どうなんだセリア?」


「…そうね」


 話を振られたセリアはゆっくりと重々しい口を開いた。


「ただゼファーにバイエル…彼等は正確に言うと悪魔ではないわ」


 躊躇いがちに視線を逸らしながら小さな声でそう呟く。


「彼等は堕天使…ゼファーはかつてアザゼル…そしてバイエルはベリアルという名の天使だった」


「ゼファーが元は天使? タチの悪い冗談だ」


「見たでしょ、彼等の背中には漆黒の翼がある。そして私に力を与えたのも…堕天使アザゼルよ」


「成る程な、堕天使アザゼル…力を与える者と呼ばれる所以か。でも何だってあいつはお前に力を?」


「…私だって教えて欲しいぐらいよ」


 そう言うとセリアはぐっと唇を噛み締め口を噤む。


「そういえばあの時お前の横にいた参謀…マリエルは何者だ?」


 そういえばあの場にはセリアと共に後方から魔法を放つ女性がいた。


「あいつも黒い翼を持っていたって事は、ゼファー達と同じ堕天使なんだろ?」


「それは…彼女の正体は私も詳しくは知らない。確かに堕天使だと思うけどゼファーも彼女の事は何も話してくれなかったから…」


「そうか、それじゃ現時点で判明している敵勢力は堕天使が三人と生粋の悪魔が一匹…」


「もう一人…セインガルド国王がいるわ」


 セインガルドの国王…建国から続く血脈より現在王位に就いているのは若き三代目と聞いているけど、その姿は国民の殆どが見た事がない。B地区でも見た事のある者は少ないと言われる程、人前には滅多に姿を現さないと噂の国王だった。


「何となく察しはつくが…その国王ってのは…」


「想像通りよ、堕天使ルシファー…又の名を地獄の王サタン」


「今の国王は三代目って聞いてるけど…」


「姿を変えるぐらい何て事はないわ。前国王は病気により退き、王位は息子であるルシア様という体になっているけど…三代に渡る国王の正体は全てルシファーよ」


「ルシファーがルシアか…何の捻りもない名前だな」


「ただこれ以上は私も知らないわ。彼等と行動を共にしていた私でもルシファーの本当の姿…悪魔らしい部分は一度も見た事がないの。あくまで私が知っているのは三代国王全てがルシファーであることだけ」


 どうやらこのセインガルドは建国された当初から悪魔の掌だったらしい。それにしても悪魔が建国する意味…それは第十のセフィラ、マルクトを意味しているのだろうか?

 思えば北C地区には天使サンダルフォンを祀る教会がある。そしてサンダルフォンは王国マルクトの守護天使…まさかセインガルドはその為に建国された?

 ルシファー、ベルゼブブ、アザゼル、ベリアル…そして堕天使という事しか分からないマリエル。彼等の狙いがヘヴンズゲートを開いて天上の神を滅ぼす事だとしたら…恐らく進軍を開始する前に悪魔の軍団を召喚するはずだ。


「ルシファー達は神に攻撃を仕掛けようとしてる…だからヘヴンズゲートを開く為にセインガルドを建国して…」


「そして街中に悪魔が現れた…どうやら最後の扉が開いた事でいよいよ進軍の準備を始めたと考えて良さそうだな」


「えぇ、二人の推測は間違っていないと思う。きっとこのままじゃ世界は…悪魔に覆い尽くされる」


 召喚された悪魔が世界中に溢れ返ったら神との戦争以前に世界は滅んでしまうだろう。


「悪魔に覆い尽くされた世界…何だかちょっとかっこい…」


「馬鹿は黙ってろ」


 かなり本気っぽいゲンコツをエリスの頭に叩き込んだ瞬間豪快な音と共にその姿が消えた。恐らく椅子が壊れたのだろう、エリスは涙目で頭を抑えながらちょこんと机の上に顎を乗せる。


「分からないのは…神の思惑ね。かつてはルシファーが地上に現れただけで天使を送り込んできたのに、今度は何で…」


「そりゃお前…」


 レヒトが言い難そうに頭を掻く。


「もう既に神の眷属がこの世界にいるからじゃないか?」


 そう言って僕達は思わず涙目になっているエリスを凝視する。そうだ…そういえばこの子は天使よりも上位の存在…女神だ。


「な、何ですか?」


「…これが神様の送り込んだ刺客だとしたら神様ってのは思ったより頭が悪いのかもしれん」


 不和と争いの女神…その肩書きだけなら確かに彼女の存在はこの世界にあって然るべきものだろう。ただ当の本人にその記憶も自覚もまったくないのが問題だ。


「シオンやソフィアまで同じ時代に存在しているってのは偶然にしちゃ出来過ぎだ」


 言われてみれば確かにそうだ。メタトロンの生まれ変わりが月の秘密を知る唯一の人間と出会う…何千年も続く歴史の中でその二人が巡り合ったのは神の仕業としか思えない。ソフィアも思うところがあるのか横顔を覗き込むと何か考え込んでいる様子だった。

 しかし僕達の出会いが神の思惑だとしたらそれはレヒト達にも言える事だろう。記憶を失った女神と出会った殺し屋…。レヒトは正体不明ではあるが少なくとも人間でない事は確かだ。


「あの…少し歴史の整理をしていいかしら」


 そこで考え込んでいたソフィアが各々の経歴を再確認した。

 まずこの中で最も古くから存在していると思われるのがエリス。彼女はゴモラにいるマスターに拾われてからの記憶しかないそうだが、今も白い翼が生えているという事から僕のように生まれ変わった存在ではないと思われる。そうなると下手すればこの星の誕生と同じぐらい昔から存在している可能性だってある。

 レヒトは少なくとも二千年前から生きているが、彼もまた記憶がないため正確な事は分からない。そしてソフィアは約千年前から…セリアは約五百年前。

 ヴァンパイア達はその話を聞きながら呆然としていたけどそれも当然だろう。何故ならヴァンパイアの最長寿はゴードンであり、その彼はソフィアと同程度の時を過ごしている。しかし今ここにはゴードンと同じか、それ以上の時を過ごしてきた者が集っている。千年の時ですら理解が及ばないというのに、その倍以上を生きている二人の世界など想像もつかない。


「エリスちゃんは恐らく…ジハードを経験していると思うの」


 ソフィアの推測にその場にいた全員がはっと気が付いた。確かに彼女が女神…それも不和と争いを司っているのならジハードに参戦していたと考えるのが自然だ。

 そこで再び全員の視線がエリスに向けられる。


「わ、私が神様と悪魔の戦争に…?」


 今の様子からはまったく想像もつかないけど、ゼファーと戦う姿を見ていた僕には十分納得のいく話だった。

 更にソフィアは衝撃的な発言を続けた。


「そしてレヒトさん、あなたもジハードの時に彼女と共に戦っていたのでは…?」


 その言葉にレヒトは否定も肯定もせず考え込んでいた。

 レヒトは二千年前、何もない平原で目を覚ましたという。それ以前の記憶は一切ないものの、その実力はエリスをも凌いでいるように思える。人間でないのは確かだが、もし彼もまた神々の眷属だとすればそれは果たして神か悪魔か…。

 一同が沈黙し静寂に包まれているとセリアがぽつりと呟く。


「…戦神マルス」


「セリアさん…何か思い当たることがあるんですか?」


「ゼファーが話していた昔話に…エリスと共に語られる戦神がいたわ」


 その言葉でエリスは何かを思い出したのか驚愕の表情でわなわなと震え出す。


「わ、私…ゼファーに言われました…」


 震える肩を自ら抱き締めながら苦しそうに言葉を絞り出すエリスの言葉を誰もが固唾を飲んで見守る。


「私には恋人がいて…その人の名は戦神マルス…。でも私達は神の世界から追放された…」


「こ、恋人…?」


 その時レヒトの額から汗が流れ落ち、只ならぬ様子のエリスに全員が押し黙った。

 もしかしたらこの先は神々だけが知る世界…昨夜の悲劇が再び引き起こされるかもしれない。その場にいる者に覚悟を問うとクロフトが静かに頷き、それを受け僕は怯えた様子のエリスに問い掛けた。


「何で…神の世界から追放を…?」


「あ…あぁぁ…! 私達は…罪を犯しました…! その罪は――」


 全員が彼女の次の言葉に身構える。そして震える唇から衝撃的な事実が告げられた。


「セ…セックシュしましたぁっ!」


「………は?」


 その場にいた全員の口が開いたまま塞がらずにいた。同時に数名が椅子から転げ落ちる。


「女神エリスはあろうことか神の一人でありながら恋人であるマルスとセセセセックスなど汚らわしい行為をして神様の怒りに触れたのですっ!」


「う…嘘だぁっ!!」


 だがそこで何故かレヒトが激しく取り乱していた。こんな姿を見るのは初めてだ。


「嘘じゃないわよ…」


 セリアがこめかみを押さえながら呆れ顔で釘を刺す。


「私も聞いたわ…女神エリスと戦神マルスは恋に落ち、性行為を働いた事で神は激怒し二人に罰を与えエデンから追放した…」


「性行為は人の業とも言われていますから…神の眷属が人間と同じ行為をすれば怒られるのも仕方ないですね…」


「いや待て二人共! まだ俺がマルスとは決まっていない!」


 椅子から転げ落ち全身から汗を流しながら必死に否定するレヒトだが…


「マルスって…戦神なんだよね…」


「余計な事を言うな!」


 レヒトが戦神ならあの強さも説明がつく。ゼファー達、堕天使を三人同時に相手するなんて普通の天使には不可能だろう。そんな真似が出来るのは天使よりも上位の…最も神に近い存在だけだ。


「落ち着け諸君、俺にはこいつみたいな翼はない。よって神じゃない、ほぅらね?」


 その場でクルリと回り弁解するレヒトだが、何だかもう見ていて可哀想になるぐらい必死だ。


「でもレヒト…あのお爺さんはレヒトも『あちら側』と接続されたって…」


「かー! バカのくせに何でそんなこと覚えてんだ!」


 あちら側と接続…それはもしや王冠ケテルの先、エデンの事ではないのか…?

 レヒトには悪いけど真理ダアトの扉を開いた事で何となく意味が分かってしまう。ただこれ以上追い詰めると彼がどうなってしまうか分からず危険だ。余程エリスとの恋人説を認めたくないらしい。


「…ロリコン」


 そこでセリアの恐ろしく冷ややかな視線が注がれる。


「お、お前まで…俺は命の恩人じゃないのか…?」


「でもエリスちゃんの為に命を賭けて戦ったんですよね?」


「あれはあんたの救出ついでだ! 決してこいつの為に戦った訳じゃない!」


 確かにレヒトは最初からエリスをついでだと言っていた。しかしここまで全力で否定していると逆に怪しく思えてくる。

 するとそんなやり取りを黙って見ていたエリスの目からは大粒の涙が零れていた。


「レ…レヒトはっ…私と恋人が…そんなに…そんな…うぅっ…!」


 その場にいた全員が冷ややかな視線をレヒトに向ける。


「おい…泣かせたぞ…」


「可哀想に…きっと初恋だったんだろう…」


「神様ってのも複雑なもんだな…」


「男神の男神で泣かせておいてまだ泣かせるとは…」


「ペドだペド…」


 ヴァンパイア一同がこそこそと批難の声を上げる。


「レヒトさん…」


 聖母と呼ばれたソフィアは悲しそうな表情を浮かべていた。


「最低」


 そしてセリアは先程よりも冷たい、まるで汚物を見下すような目を向けており、総攻撃を受け今度はレヒトが泣きそうになっていた。


「もう…勘弁してくれ…」

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