Episode22「ベルゼクト」

「私はベルゼクト、王に仕える執事…という事になっている」


 上品さの漂う出で立ちはただの飾りだ。隠す気がないのだろう、現れた時からばら撒いている邪悪な気配はゼファーやバイエルのそれを遥かに上回っている。直感的にこいつは根本からゼファー達とは異なる存在だと理解する。


「ただの執事が蛇の首の首領と知り合いってのは無理があるんじゃないか」


「…種が芽吹いたのならば毒草は今のうちに刈り取らせてもらおう。ゼファーの言う通りお前の存在は危険だ」


 そう呟くとベルゼクトの体から黒い霧が噴き出すがそれはゼファー達が放っていたものとは違い、広間に充満していくと徐々に俺の肉体を蝕もうとしていた。


「無理するなよジジイ、体に響くぜ」


「労わってくれるのならこのまま静かに死んでくれ」


 言い終えるとベルゼクトは黒い霧に紛れて姿を消すが移動した訳ではない。霧だけを残して言葉通り気配諸共消えたのだ。


「続きはまた今度だ、待ってるぜレヒト」


 霧の中からそんなゼファーの言葉が届くとベルゼクトと同様に気配が消え去る。やがて視界一面は黒い霧に覆い尽くされると闇に閉ざされ、そこには初めから誰も存在しなかったかのような静寂が訪れた。残るは俺の肉体を蝕まんとする黒き濃霧だけ。

 神経を研ぎ澄ませ訪れるであろう攻撃に備えていると突然耳元で声が聞こえてきた。


「どうやらまだ完全には目覚めていないようだな」


 声のした方へ反射的に剣を振るが何の手応えもない。


「何処だクソジジイ、出てこい」


 その声に反応する者はなく、代わりに今度は反対側の耳元で低い声が聞こえてきた。


「我は蠅の王、今のお前では姿を捉える事すら叶わぬ」


 今度は周囲を薙ぎ払うように剣を振るがやはり手応えはない。

 今の俺には姿が見えないとはどういう事か。その意味について考えようとした時、突然背中に激しい衝撃が走りそのまま前方へ吹き飛ばされる。咄嗟に身を翻すが濃霧で何も見えない為、受身も取れず壁に背中からぶつかった。


「ちっ…!」


 何がどうなっている…?

 攻撃の瞬間に気配が感じ取れなかったが、それより今の攻撃は一体何だ?

 まるで衝撃という概念そのものを叩き付けられたかのような不可解な一撃だった。

 目に見えなくとも拳や蹴りなどの物理的な攻撃ならば感触、衝撃、力の伝わり方などからある程度は推測出来る。しかし今の攻撃からは何一つ情報が得らず、例えるなら巨大な石を一点にぶつけられた…そんな攻撃だ。ある意味俺が先程放った力と似たようなものに思える。

 ならばと壁を背にして身構える。これならばどうやっても相手は前から仕掛けるしかないはずだ。姿が見えないのなら正面から迎え、攻撃されたと同時に相打ちを狙う。

 目を開いていると濃霧が眼球を侵食し始めたのか痛みが走り出してきた為、目を閉じ訪れるであろう攻撃に全神経を研ぎ澄ます。

 その時、再び気配が感じられないまま今度は腹部に衝撃が走りると壁にめり込みながらも剣を前方に振るうが手応えはない。その直後背後の壁から衝撃が走ると俺は前方へと吹き飛ばされた。


「クソ…何がどうなってやがる…」


 ダメージはそこまでではないが、どの道このままではジリ貧だ。

 どうしたものかと考えあぐねていると濃霧の中から苦しそうな声が微かに届いた。


「まさかセリアか? お前何でまだここに…」


「やめ…て…ベルゼク…ト…」


 悲痛な声はベルゼクトに向けられているのだろうか。しかし濃霧は薄れることなくセリアを蝕む。


「セリア、今まで良く尽くしてくれた。ヒトにしては十分に役立った」


 ベルゼクトの声は近くで聞こえるが依然として気配は感じ取れない。


「…用済みになったセリアを俺諸共処分しようって腹か」


「ヒトは神には逆らえない、原罪を背負うヒトはそのように作られている。彼女もまた世の理から外れた永い刻を生きる者。だが問題は私やお前と違って彼女はただのヒトだ」


 永い刻…やはり彼女は数百年前、悪魔に滅ぼされたという東方の国の生き残りなのか?


「ただ誤解しないで欲しいのだが、彼女に力を与えたのはゼファーの独断だ」


 突然濃霧が晴れると足元ではセリアが長い髪を広げたまま苦しそうに蹲り、その先に姿を現したベルゼクトが静かに佇んでいた。


「冥土の土産だ、一つ昔話でもしてやろう」


 今から五百年前、ここセインガルドより遥か東にとある国があった。セリアはそこで生まれたが、幼い頃に両親を失い貴族に買い取られ奴隷として生きていた。

 だがある日、突然彼女の前に現れたゼファーは彼女に力を与える。神の力を手に入れたセリアは奴隷生活から脱却すると戦場へ身を投じる兵士となり、強者が正義の戦場に於いて負け知らずの一騎当千の戦乙女としてその名を轟かせた。


「しかし悲しきかな、その名は天にまで届き神の逆鱗に触れた。その結果、彼女の祖国は天使によって一夜にして焦土と化したのだ」


「天使? 悪魔の間違いだろ」


「いいえ…私があの日見たのは確かに白い翼を持った天使だったわ」


 その時、蹲っていたセリアがよろめきながらも立ち上がるとそう言い放つ。


「おい大丈夫かよ」


「私は復讐を果たさなきゃいけない…私の故郷を滅ぼした神へ…」


 そう言うセリアの目にはぶつける当てのない憎しみに満ちていた。事情は分からないが、天使によって故郷が滅ぼされたというのは本当のようだ。


「…五百年、ヒトでありながら我々によく尽くしてくれたよ」


「分からんな、結局お前達の目的は何だ? 神への復讐か?」


「そう、かつての大戦により敗れた我等が王を今度こそ神の玉座に」


「神の玉座って…正気かよ」


 こいつらは神への復讐の為に何かをしでかそうとしているようだが、そもそも神がいると言われてもピンと来ないため理解が追い付かない。

 そういえばシオンがその計画はソフィアやエリスに何らかの関係があるような事を言っていたが未だ皆目見当がつかない。


「さぁ、お喋りはこの辺で終わりだ」


再びベルゼクトの体から黒い霧が溢れ出すとその姿を消した。


「おいセリア、お前このまま黙って殺される気か」


 その問いにセリアは黙したまま何も答えない。


「まぁお前の過去については大変だったと思う、気の毒だったな」


「あなたに…何が分かるの…」


 その返事には苛立ちが感じ取れるが構わず続ける。


「さぁてね、ただお前のその目が気に食わん」


「目…?」


 セリアの目は出会った頃のエリスと同じものだ。ただ絶望しかない、翼があっても自らの意思で飛ぼうとすらしない。飛んでみれば知らない世界は無限に広がっているのに、最初から全てを諦め、投げ捨て、踏み出そうとすらしない。


「こんなクソッタレな世界だが見方一つで世界はいくらでも変わる。どうせお前今までろくに人間らしい生活送ってこなかっただろ」


「そんな…ことは…」


「ご飯食ってて美味い! 幸せだ! 恋をして好きだ! ヤリたい! 綺麗な眺めを見てすげぇ! 忘れたくない! とか思ったことあるか?」


「………」


「人間ってのはこういう楽しみがあるから素晴らしいと思うぜ。そんな人間だけに許された特権を堪能せずに死ぬなんて勿体ないと思わないか?」


「私は…何の為に生きれば…」


「さぁな、だが生きていればいくらでも探したり試せるじゃないか」


「試す…?」


「やってみたい事を好きなだけやってみればいいんだよ。俺を殺したいならそれを目標にしてもいい」


「…あなたが私の生きる意味になってくれるの?」


「え、いやそこまで責任は取れないが…まぁ目標の一つにはなってやるよ」


「目標…」


「あぁ、俺より強くなるとか、もっと人生を謳歌してみろよ。結婚でもして幸せを手に入れたら見下せば良い、この虚しい独り身野郎ってな」


 その言葉にセリアは銃を強く握り締める。


「…私はどうすればいいの」


「まずあのクソジジイをぶちのめす。ここで死んだら全部終わりだ」


 そこで再び視界一面が濃霧に覆われた。

 仲間に裏切られたショックと先程の濃霧で衰弱しているのか、セリアから覇気は感じられず、とてもじゃないが戦える状態ではない。そうなるとこいつを守りながら何とかしなければならない。


「離れるなよ」


 すぐ側にいたセリアの腰に手を回し抱き寄せる。


「え…あ…」


「戦えないなら無理に戦う必要はない、俺が何とかしてやる。だからお前は生きる為に全力を尽くせ」


「うん…」


「お前ベルゼクトの弱点とか、この霧の正体について何か知ってることはないか?」


「ごめんなさい…それは私にも分からない…。ただ一つ言えるのは彼は蠅の王…ベルゼブブ。魔王サタンの右腕と呼ばれる…悪魔界の頂点に立つ一人…」


「…こりゃ厄介な相手だな」


 相変わらず霧の中にベルゼクトの気配は感じ取れない。

 仕方無く地面に剣を突き刺すと盾のようにしてセリアを抱え込んだまま防御に徹する。黒い霧は毒のように何もせずとも俺達を腐らせていく為、こんなのはただの時間稼ぎにしかならないのは分かっている。しかし今はとにかく耐えて光明を見出す以外に手段はなかった。

 先程と同じく背後から衝撃が走るが今度は防御に徹しているお陰でその場で堪えられた。反撃しないのを良いことに続け様に攻撃を繰り出してくるが、依然としてその攻撃の正体が分からなかった。

 物理的な攻撃のはずだがそこには何も存在していない。ともなれば物理的という言葉は的外れかもしれないが、先程戦ったマリエルが放っていた魔法のような光の矢とも異なる。そもそも衝撃だけで判断するなら物理的な何かで殴られているのは間違いないのだ。問題はその物理的な何か…そもそもベルゼクトの姿が見えないのが最大の問題だ。それは俺だけでなくセリアにも見えていない以上、彼女から打開策を得るのは難しいだろう。

 そうこう考えている間にもベルゼクトの攻撃は激しさを増していた。


「レヒト…逃げて…」


「はっ…この霧の何処に出口があるのやら」


「私が…いなければ…」


「黙れ、そんなのは却下だ。お前がいようがいまいがこのままじゃ俺も死ぬ」


 何かこちらの攻撃を当てる方法が分かれば…。

 俺達に与えられた時間に余裕はない。腕の中から微かに聞こえる呼吸は苦しげで、衰弱したセリアの力がどんどんと失せていくのが伝わってくる。


「クソ…どうすれば…」


 ふとその時、濃霧の先に灯る微かな光が見えた。あれは確か…


「エリス…」


 剣を引き抜き、意識が途絶えたセリアを抱えたまま引き摺るようにして光に向かって歩き出す。


「どうした、死を直前にして愛しきエリスに一目会いたくなったか」


「うるせぇストーカージジイ…纏わり付くんじゃねぇ…」


 絶えず攻撃が襲ってくるがそんなものはお構い無しにずんずんと歩みを進める。そして光の前に辿り着くとそこには濃霧の中でも光り続ける球体に包まれたままのエリスが安らかな寝顔で横たわっていた。


「この野郎…呑気に寝やがって…」


 現状のままでは打つ手がない…ならばこの際エリスに賭けてみるのも一興だろう。こいつが何かの役に立つとはあまり思えないが、あの暴走していた状態なら現状に穴を穿てるかもしれない。

 エリスに頼るのは正直不本意極まりないがこのままだと俺達は確実に殺される。そもそも此処に来る羽目になった原因はエリスだ、少しぐらいは役に立ってもらおう。

 エリスを包む光は魔法の障壁のようで、手を伸ばしても触れる事は叶わない。ならばと、少々強引だが剣を振り上げた。


「この…起きろバカ野郎が!」


 だが光の球体目掛けて思い切り剣を振り下ろそうとした瞬間、ベルゼクトの攻撃が剣に叩き付けられると悪魔だろうと岩石だろうと何でも斬ってきた愛剣が綺麗に砕け折られた。


「剣がなくては何も出来まい」


「テメェ…」


「こうなっては些か楽しみに欠けるな」


 大切な愛剣を失い、沸々と怒りが込み上げてくる。その怒りはやがて棘のような物質となり周囲の濃霧を貫く。


「あぁ、そういえばお前は『向こう』と接続し始めていたか」


「黙れ…」


「剣を折られ怒っているのか? 余程大切にしていたようだな」


 あの剣には思い出が詰まっていた。長い年月を生きてきて唯一巡り合えた友の形見。ガラじゃないのは分かっているが、あの剣は俺が人間として生きていくきっかけであると同時に、人間として歩き出してからの軌跡だった。


「地獄に堕ちろ蠅が」


「ほう、私を地獄に追い返すと。面白い冗談だ、どうするのかね?」


「消えろ――」


 体から迸る殺意が物質的な棘から波動へ形を変えると周囲の空間が歪み、宙には亀裂が走り軋み出す。それでもベルゼクトにダメージはない。

 ならばもっとだ、もっと奴への殺意を強めれば良い。

 負の念が力となって波動を強めると空間は更に歪み、ついには次元の壁を破壊し始める。


「ほう…私ではなく空間を殺すか。成る程、お前ならではの攻撃だ。しかし空間の崩壊は世界の崩壊を意味していると理解しているのか?」


「あぁ…?」


「世界の理を破壊するのだ、そこから徐々に侵食が進みやがてこの世界は消滅するぞ」


 詳しくは分からないがハッタリを言っているようにも聞こえない。どうやら俺はこの世界そのものを破壊しようとしているようだ。


「そうなれば当然そこの二人も死ぬが…どうした、やらないのか?」


「クソが…」


 その言葉に殺意が薄れていき、それに比例して迸る波動も弱まっていく。


「貴様はやはり危険だな。これ以上刺激するのはよろしくないようだ」


 突然足元から何かが突出するとそれは俺の胸を貫いた。


「がっ…!?」


 口から零れた血が足元で倒れていたセリアに降りかかる。

 何だ、俺は今何をされた?

 自分の胸を見てみるが黒い霧がはっきりと角のような形を取り心臓を貫いている。そこでこいつの攻撃の正体がやっと分かった。


「蠅の王…クソッタレが…」


「流石に気付いたようだな。そうだ、私はこの無数の蠅そのものだ」


 小さい蠅の無数の集合体…黒い霧の中に閉じ込められた俺は今、奴の体内にいるようなものだ。そして無数の蝿全てがベルゼクトならば奴を倒すのは不可能に近い。


「種明かしが終わったところで眠ってもらおう、戦神よ」


 貫かれた胸の傷口から無数の蟲が現れると今度は体内を蝕み始めた。


「があぁぁぁぁっ!!」


 余りの激痛に気が遠くなる。

 このまま俺は何も出来ずに殺されるのか?

 いくら考えてもこの状況を打破する方法が思い浮かばなかった。これではエリスを目覚めさせる事も叶いそうにない。


「クソ…が…! 起きろ…エリス…!」


 薄れそうな意識の中、だが確かにその言葉にエリスは反応しゆっくりと目を開いた。


「…やっとお目覚めか」


「レヒト…?」


「後は任せたぞ…」


「レヒトッ!」


 慌ててエリスが起き上がるとそれまでエリスを包んでいた光の球体が消滅した。そして串刺しになった俺を強く抱き締めながら背中の翼を一度大きく羽ばたかると一陣の強い風が巻き起こる。その風は何処か懐かしく、ボロボロだった体を癒してくれるような気がした。


「…あれ?」


 しかし気が付けば体内に侵入していた蟲の気配は痛みと共に消え去り、胸を貫いていた蝿の群れも消滅し傷口が塞がっている。まさか本当に今の風で傷が癒えたとでも言うのか?

 突然の不可解な出来事に混乱するが、驚くのはそれだけではなかった。なんとエリスを中心として俺達の周りだけ黒い霧が霧散している。


「お前一体…」


「うぅ~…レヒトォ…! ひっく…!」


 しかし感動的な場面のはずが、涙と鼻水で顔がぐちゃぐちゃになっているエリスを見て急に冷めた。というかそんな状態で思い切り抱きつかれているせいで服がベトベトになっている。


「…とりあえず離れてくれ」


「うううぅぅ…! わら…わらひ…! ずっと怖ぐでぇ…!」


「分かった、オーケー、頼むから今すぐ離れやがれこの野郎」


「うっ…うっ…! チーン!」


 ジーザス、こいつとうとう人の服で鼻かみやがった。

 その瞬間思わずエリスのテンプルに拳を叩き込んでしまう。


「びぎゃぁっ!!」


 妙な叫びと共にエリスは濃霧の中へと吹き飛び、離れた所から激突音が聞こえてきた。


「…やべ」


 折角の救世主を自らの手で吹き飛ばしてしまった。すると霧散していた黒い霧が再び纏わり付いてくるが、何故かエリスが吹き飛んだ先はまるでエリスの周辺を避けるようにそこだけ霧が晴れている。どういう理屈かは不明だがエリスの周囲には黒い霧が近寄れないらしい。

 意識を失ったままのセリアを抱き抱えると唯一の安全地帯であるエリスの元へ駆け寄る。


「な…な……」


「ふぅ、ここにいれば一安心だな。しかしお前蠅すら寄ってこないってどんだけ…」


「いきなり何をするんですかアナタはぁっ!?」


 まずい、神秘的な雰囲気の欠片もない見慣れた鬱陶しいエリスだ、厄介な事にキレてやがる。


「いきなりって…お前がそもそも人の服で鼻を…」


「だからってこんなか弱い少女のテンプルに普通ナックル叩き込みますかぁっ!?」


「か弱い? 安心しろ普通は首から上が粉砕してる」


「そそそそそ、そんな殺人パンチを私に…!?」


「だがお前は生きてる、やったな」


「再会出来たのにこの仕打ち!? 折角また会えたら言おうと思ってたのに…!」


「あ? 何をだよ」


「だからですねー! あのですねー…! えぇと…そのぉ…」


 鼻息荒くして息巻いていたエリスだが、突然勢いが弱まっていくと次第に頬が赤く染まり出した。


「…何なんだお前は、キレたり赤くなったり…相変わらずイッてるな」


「だ、だってぇ…私…えっと…」


 視線を泳がせ、もじもじと体をくねらせながらも、こちらをちらちらと見てくる。駄目だ、こいつが一体どんな思考回路をしているのかまったく理解出来ない。


「…あれ、その人は?」


 ふとエリスは俺に抱き抱えられたままのセリアを発見すると不思議そうな顔を浮かべた。


「あぁ、こいつはセリアって言って…何だろうな?」


 何と説明すればいいのか分からない。さっきセリアにはそれらしい理由を並べたが、俺は単に生きて欲しいだけだった。それが本当に本人の為になるのかどうかは断言出来ない、言わばこれは俺の我侭みたいなものだ。だからその我侭を通す為にこうして守っている訳だが、それをこいつに上手く伝えられる自信がない。いや、寧ろ下手に刺激すると何をしでかすか分からなくて怖い。


「あー…えーと、何だその。訳あって俺はこいつを死なせる訳にはいかないんだ」


「あ、はぁ…なるほど…。えっと、つまりレヒトはそのセリアさんを守ってるんですか?」


「そうなるな」


「へぇ…ほぉん…そうですかぁ…」


 今度はエリスの顔に影が差し、じと目でこちらを見てくる。


「な、何だよ」


「いいえ別にぃ…その人も結構幼いですねぇ…」


「幼い…? 若いだけだろ」


「なるほどー…やっぱりそうなのかぁ…うーん…それなら私にもちょっとは可能性が…うーん…」


 どうしよう、誰か助けてくれ。本当にこいつが何を考えてるのかまったく分からない。


「目覚めてしまったか…エリスよ」


 この馬鹿のせいですっかり忘れていたが、そういえば今はベルゼクトと死闘を繰り広げている最中だ。


「へ、誰ですか?」


「この黒い霧あるだろ、この黒い霧がお前に話しかけてるんだよ」


「き、霧が私に!? 何でしょうか霧さん!」


 説明するのも面倒だ、というか説明しても多分こいつじゃすぐには理解出来まい。


「…お前は随分と変わったな、これは罰なのかそれとも新たな始まりなのか…。何れにせよお前も既に用済み…最愛の男と共に葬ってやろう」


「なーっ!? 最愛って何言ってるんですかちょっともうやめてくださいよそういうの困りますからぁー!」


 そう言って顔を真っ赤にしたエリスは無謀にも黒い霧に向かって一直線に突っ込んでいく。


「ば…おいやめろエリス!」


 制止の声を無視してエリスは霧の中へ突っ込んだ…と思ったら霧の方から先に、まるでエリスを避けるように晴れてしまう。


「ちょっとー! 逃げないでくださいー!」


「く、来るな…!」


 …これは一体どういう事だろうか。さっきまで俺はこの黒い霧の悪魔と命懸けの戦いを繰り広げていたはず。だがこの状況は何だ?

 追い掛けるエリスと、必死に逃げ惑う蠅の王ベルゼブブ…おかしい、何かがおかしい。


「ちっ…まだこちらの分が悪いか…!」


 そう言うと黒い霧が一箇所に収束し、執事姿のベルゼクトが姿を現した。


「ななな、霧がお爺さんにー!?」


「おいおいベルゼクトさんよ、そんなアホから必死に逃げてどうしたんだよ」


「…気付いていないのか、エリスの正体に」


「エリスの正体?」


「そうかそうか、記憶はまだ取り戻せていなかったな」


 得心いったように不敵な笑みを浮かべている姿を見ていると再び怒りが込み上げてくるが、ベルゼクトはそれを制するように手を突き出した。


「私の役目は既に終わっている、そろそろお暇させてもらおう」


「役目だと?」


「一つだけ教えてやる。お前の横にいるその少女は不和と争いの女神、エリスだ」


 俺の横にいたエリスは自分の横をキョロキョロと見渡すが当然そこには誰もいない。


「彼女は『あちら』と完全に接続している。故に不本意ながら今の私では触れる事すら叶わぬ」


「蝿の王が聞いて呆れるぜ」


「彼女から迸る神気…それすら感じ取れないか。命拾いしたな、エリスに感謝するがいい」


「ボケたかジジイ、笑えない冗談だ」


 神気がどういうものか知らないがこいつから迸ってるのはただ電波だ、それはしっかりとキャッチしている。

 しかしとてもベルゼクトが冗談を言っているようには見えなった。


「直に分かる…次に会った時がお前の最期だ」


 そう言い残し身を翻すと、現れた時と同じように黒い霧に包まれながらベルゼクトは今度こそ完全に姿を消した。


「き、消えた…消えちゃいましたよ!?」


 こんな事でいちいち驚いてる奴が女神だって?

 いくらなんでも冗談が過ぎる、というか頭痛がしてきた。


「…とりあえずこっちは終わったな」


 何はともあれ無事全員生き延びた事に安堵の息を漏らした。


「あのレヒト…私は一体…」


「気にするな、徘徊老人の妄言だ」


 手筈ではこの後シオン達と共にセインガルドから脱出する事になっている。セリアもいることだし、今ここで敵の手中であるセインガルドから逃げられるのは好都合だ。


「あ、レヒト…剣は…」


 エリスが指差す先には無残に折れた愛剣が転がっていた。剣の柄を踏み付けると反動で真上へ飛び上がり、柄を握り締めるとそれを鞘に収めてエリスに投げ渡す。


「…持ってろ、大切なもんなんだ」


「レヒト…。うん、大丈夫です! 短くなったおかげでこれなら持ち運べます!」


 その言葉がこいつなりの気遣いかは分からないが少しだけ肩の力が抜けた。

 来た道を引き返す道中、簡単に事の顛末を説明してやりながらエリスの身に起きた出来事を尋ねてみる。

 どうやらエリスはゼファーに襲われた事は覚えているが、途中からの記憶が抜け落ち何故ここにいたのか分からないそうだ。ベルゼクトの最後の言葉を信じるとして、こいつが本当に女神だとすれば抜け落ちている記憶の間が女神エリスとしての顔だったのだろうか。しかし本人に自覚症状はなく、当然自分の力についても何も分かっていなかった。

 連れ去られた理由に容姿などを挙げては頬を緩ませていたが、突っ込むのも面倒なのでそういう事にしておいてやる。実際のところシオンの推理から女神としての顔を持つエリスが狙いだと踏んでいたが、連中がこうもあっさり見逃すという事はもう用済みとなったのか、或いはこの能天気なアホな姿を見て一切の脅威にならないと判断したのか…。

 何れにしてもこうしてエリスとセリアが無事だったのだから良しとしておこう。後はシオンが無事ソフィアを助け出していれば作戦は成功だ。


 しかし新たな問題が残っている。

 神への復讐…ベルゼクトの言っていた聖戦の刻が近付いているのなら奴らとは再び戦う事になるだろう。半信半疑だが本当に神々による聖戦なんてものが始まればそれは世界を巻き込む大戦へと発展する。そうなると否が応でも俺達は巻き込まれ、戦わざるを得ない。

 去り際にゼファーも確かに言っていた、待っていると。きっとこの先、もう一度奴とは殺し合う日が必ず来る…不思議と運命めいた確信があった。


「上等だ…首洗って待ってやがれ」

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