Episode20「メタトロン」

 目を覚ますとそこは太陽のない穏やかな平原だった。此処が何処か分からないけど、僕の意識はただそこにあった。辺りを見渡そうにも動けない、そもそも肉体がないのだから。まさか僕は魂だけの存在になってしまったのだろうか?

 その時、僕とそっくりな姿の少年が目の前に現れた。その隣には父親と思われる男性。ただその男性は僕の父親とはまるで別人だ。まさか此処は僕が生まれ変わった後の世界?


「いいえ、此処はエデンの東にあるノドという地」


 突然僕の隣には見た事のない少女が立っていた。直感的に彼女もまた僕と同じくこの世界に生きている存在ではないと分かる。薄黒いローブを纏い杖を持った彼女は肉体こそ存在しているもののその体は宙に浮いていた。ただ知らないはずのその容貌と声には何処か懐かしさがあり、初めて会ったとは思えない。


「君は…?」


「あれはアダムとイヴの息子、カイン。そしてカインの息子エノク」


 僕の声が届いていないのか彼女は二人を見つめながら淡々と続ける。


「カインは弟アベルを殺した人類最初の殺人者、同時にヒトがついた最初の嘘もまた彼」


「人類最初の…殺人者…?」


 アダムとイヴの息子、そしてエデン…まさか此処は神話に出てくる神の国、天上の楽園エデンだとでも言うのか。


「カインは罪により、神によってエデンの東にあるノドの地へ追放された。追放された土地の人達に殺される事を恐れたカインに対し、神は人々に彼を殺す者には七倍の復讐があると伝え、カインには誰にも殺されない為の刻印をした」


 突然風景がぼんやりと霞んだかと思うとカインはいなくなっており、僕と同じ姿をしたエノクという少年はいつの間にか大人の姿になっていた。今度はその隣に妻と二人の娘。四人はまるで何かから逃げるように暗闇の中を走っていた。


「ヒトとして地上に生きたエノクはロトと名を変え妻と二人の娘を授かった。だが彼等の住むソドムは穢れ、同じく穢れたゴモラと共に神は滅ぼす事を決めた。私は預言者としてソドムに遣わされ、ロトに神がソドムとゴモラを滅ぼす、と伝えた。そしてロトは夜が明ける前に妻と二人の娘を伴ってソドムから逃げ出し、近隣の都市ツォアルへと向かった」


「その話なら知っている…ソドムとゴモラは天からの硫黄と火によって一夜で滅ぼされる事になった」


「でも私はロトにこうも言った。逃げる際、決して後ろを振り返ってはいけない、と。しかしロトの妻は後ろを振り返った」


 彼女の言う通り妻の女性が後ろを振り返るとその瞬間体が白く染まり、まるで石像のように固まってしまう。そして石像は大きく天に聳え立ち柱となった。


「振り返った妻は塩の柱となった。それに釣られて振り返った娘達も塩の柱となる…此れが三本の塩の柱ネツィヴ・メラー


 目の前には巨大な三本の塩の柱。だがエノクは絶望に顔を歪めながらも決して振り返ろうとはしなかった。


「この後、エノクは三百六十五年生きた後に神が彼を連れ、彼は神と共に歩む事になる」


 何かの物語を読み進めているかのように僕は光へと向かって歩き出すエノクをただ眺める。

 光が視界を覆い、それが晴れたかと思うと一面何もない空間でエノクだったそれは静かに佇んでいた。その姿はヒトとは大きく異なり、三十六対の翼を生やし炎の柱を身に纏っている。


「あれは…あの炎はまさか…」


 僕は知っている、これは紛れも無く僕が使ったあの炎だ。


「天上に昇った彼は、契約の天使、天の書記、神の代理人、七十二の異名を持ち、太陽よりも燦然さんぜんと輝く天の御使いメタトロンとなった」


「天使…メタトロン…」


「こうして彼はヒトでありながらカインより続くアベルの呪いを断ち切り、アダムとイヴの犯した原罪を持たぬ神の眷属となった」


「エノク…ロト…神となった人間…」


「それからヒトは繁栄した」


 見ていた風景が一枚の絵画の中に収まると辺りは漆黒の闇に包まれ、僕達はいつからか絵画の前に立っていた。

 絵画はまるで紙芝居のようにぱらぱらとめくれていくが、そこには人類の繁栄の軌跡が描かれている。ただそこは僕の知らない世界だった。

 しかしそれから何百年も続いた平穏の世界は突如として終わりを告げる。


「サタン降臨」


 ぽつりと女性が呟くと次の瞬間、世界は業火に包まれた。


「神への復讐の為、地獄より地上へ這い上がった堕天使ルシファー。これが神々の戦争、ジハードの始まり」


 地獄絵図と化した世界に次々と現れる白い翼を持つ天使。

 戦いは天使達の勝利に終わるが、人類が築き上げた輝かしい文明は滅びを迎え、星を覆い尽くさんばかりに存在していた人類の殆どが死に絶えた。

 それでも僅かに生き残った人類は絶望の中、再生への道をゆっくりと歩み出す。原始的な始まりから徐々に、少しずつ人類は数を増やし繁栄していく。以前より劣るものの文明は発展し、世界中にいくつもの巨大な集落が生まれていった。集落はやがて現在のような巨大都市へと発展するが、その中の一つに見覚えのある都市が現れた。


「これは…セインガルド…?」


 ドーナツ状に広がっていく要塞都市は紛れも無く僕がよく知るセインガルドだ。


「人類は数多もの困難を乗り越え、現在に至る」


「…君は誰なんだ?」


 上も下もない一面暗闇が支配する世界に浮かぶ一枚の絵、その前で静かに佇む少女に問う。


「…私は預言者エリヤ、神の言葉を授かりヒトにもたらす者」


「その預言者が僕に何の用なんだ、こんな紙芝居を見せて何が目的だ? さっきのロトと同じように神の意思でも伝えてくれるのか」


「これは私の意思、私もあなたも死んだ」


「…やっぱり君も死んでいるのか、じゃあ此処は一体?」


「ここは第十のセフィラ、王国マルクトの扉」


 エリヤがそう言った途端、背後に何かの気配を感じ振り返る。すると目の前には暗闇の中でもはっきりと見て取れる大きな扉があった。しかし妙な事に扉は既に開かれ、その先にはただ暗闇が広がっている。


「あなたは知っている、あなたもまた私と同じく守護者なのだから」


「…守護者?」


 エリヤは静かに頷くと僕の手を取って何処かへ飛んでいく。気が付けばいつの間にか僕には肉体があった。気になるのは衣服は一切身に纏わず、生まれたままの姿であることだ。だが不思議と恥ずかしいという感情はなく、エリヤもまたそれが当然であるかのように見えた。何故僕だけ裸なのかは気になったが今はそんな事を考えても仕方ない。

 しばらく何もない暗闇を飛んでいると彼女は先程とは違う、しかしこれまた開かれたままの扉の前で立ち止まった。


「これは…王冠ケテル…?」


 だがそれを見て思わずそう発した自分に驚かされた。何も分からないはずなのに扉を見た途端勝手に口をついて出てきた。


「そう、第一のセフィラにしてヘヴンズゲートとなる扉…王冠ケテル


 だがそれが当たり前であるかのようにエリヤは顔色一つ変えずに続ける。


「待ってくれ、僕はそんな事は知らない」


「いいえ、忘れているだけ。その証拠にあなたはこれが王冠ケテルであることをっていた」


「忘れている…?」


 王冠ケテルと呼ばれる扉を見てみるが確かに初めて見たとは思えない懐かしさがある。しかしいくら考えてもこんな場所に来た覚えなんてありはしない。


「君は…僕の事を知っているのか?」


「知っている。シオン、こうしてあなたと話すのは二度目」


「二度目…? どういう事だ、一体何処で…」


「思い出して。私はあなたの…」


 言い掛けた途端、彼女の姿が薄れていき闇へと溶けていく。


「お、おい! どうしたんだ!」


「時間がない…真理ダアトの扉を…」


真理ダアトの扉…?」


「全ての答えはそこに…」


 最後にそう言い残すとエリヤの姿は完全に見えなくなってしまう。

 彼女が何を言っているのかまったく分からない。何より自分が何者なのかすら不安になってきた。

 分からない事だらけで混乱してしまうが、ふと振り返るといつの間にかそこには未だ開かれていない扉があった。


「これは…?」


 先程の話からすればこれもセフィラとかいう何かの扉なのかもしれない。まさかこれが彼女の言っていた真理ダアトの扉なのだろうか?

 しかし答えがあると言われても何の事かさっぱり分からないし、どうすればいいのかも分からない。


「…開けてみるしかないのか」


 無骨で何の装飾もない鉄のような扉に手を伸ばすと手と扉の間に柔らかい光のようなものが溢れた。

 驚いて手を引っ込めると光はすぐに消えたが、恐る恐る近付けると再び光が溢れ出す。

 逡巡するが意を決してそのまま扉に触れる。すると触れた瞬間に何かが扉の内側から僕の内部へと入り込んできた。

 それはヒトが知り得ない知識。脳に掛けられていた鍵が外され解き放たれていく感覚。扉が開くと共に僕の奥底で眠っていたもう一人の自分がどんどんと目覚めていくのが感じ取れる。

 これは記憶の解放。先程見た映像と今の自分、現在へ至る歴史、点としての疑問が全て線となって繋がった。


「僕は…僕が…メタトロン…」


 エノク、ロト、メタトロン、永遠に続いていた命は一度途切れた。

 第一のセフィラ、王冠ケテルを護る守護天使だったメタトロンは殺され、扉は開かれた。そして死んだメタトロンは生まれ変わる。それがシオン…僕だ。僕がメタトロンの生まれ変わりなら炎の力が顕現した事にも納得がいく。

 しかしそんな事は些細に思える程、真理ダアトの扉からもたらされた神々の知識は畏怖さえ覚えるものだった。

 知識…真理ダアトの扉。それはこの世界の真理であり、森羅万象の真実。ヒトでは想像も理解もし得ない、正に神々のみる事が許される世界の真実。


「これが…本当に神だというのか…」


 理解はしていても納得が出来ない。嘘だと思いたくてもそれが紛れもない真実であると理解出来る。故に僕はただ呆然とするしかなかった。

 人々が神と崇めていた存在、祈り…それらの意味とは一体何だったのか。


 神とはヒトによって生み出された概念とする知識、想像の究極体。


 然るに創造主とは有であり無である、故に森羅万象はーー


 頭の中で整理しようにも具体的な説明が出来ない。これを理解し他人に伝えるには言葉や行動でなく、真理ダアトの扉によってヒトに嵌められた枷を外すしかないだろう。陳腐な言葉だが考えるよりも感じろ、そうとしか言えなかった。どれ程の言葉を並べても、どれだけの学者が研究しようと決して証明が不可能な真実…これらは原罪を背負いしヒトの子では決して知り得ない。

 世界の真理を識ると、気が付けば真理ダアトの扉は完全に開いていた。その先はこれまで見た扉と同じくただの闇しか見えない。まるで扉というより知識の詰め込まれた宝箱のようだった。

 そこで突然体と意識が浮遊していく感覚を覚える。どうやらこの世界にいつまでも留まる事は今の僕には許されないらしい。

 思わぬ形で世界の真理を理解し、自分の過去を知った。だがそれに一体何の意味があったのだろうか。彼女の、エリヤの狙いとは何だったのだろうか。

 こうして神々の知識を得た今でもエリヤの正体は分からないままだった。まだ…僕には何かが足りないというのか。


 意識が薄れていき、体に重力を感じる。目を開くとそこは僕が死んだはずの場所だった。

 その場で起き上がり確かめてみるが、潰されたはずの頭は何事もなかったように残っており、他の何処にも傷がなくなっている。

 はっと我に返り正面を見ると意識を失う前と同じく巨大な十字架にソフィアは磔られたまま、その首にはゴードンの手がかけられていた。


「…ソフィアから手を離せ」


 僕の声に気付いたゴードンは驚きに目を見開き凝視する。


「何故…何が起きた…お前は確かに死んだはずだ」


 そう、間違いなく死んだはず。でも先程まで見ていたのは夢なんかではない。今でもはっきりと分かる、この世界の真理が。だから今こうして僕が生き返っているのも不思議ではなかった。そして僕が本当にメタトロンの生まれ変わりならば彼に勝機は万に一つもないだろう。


「来るな、もし一歩でも動けばこのままソフィアを殺すぞ?」


 目に見えて焦っている様子のゴードンはソフィアの首にかけていた手に力を込める。下手に刺激をすれば彼は本気でソフィアを殺すだろう。だからと言ってこのまま儀式を見過ごせばそれもまたソフィアを殺す事になる。


「フ…フハハハ…! そうだ…儀式はもう終わる、そこで大人しく見ているが良い」


 隙を伺ってゴードンだけを仕留める手段はないものかと思考を巡らせていたその時、ゴードンに握られていたソフィアの首が嫌な音と共に折られ、頭がだらりと項垂れた。


「時は満ちた、我等が母よ! その力を我に寄越せ!」


 一瞬何が起きたのか理解出来ずにいるとゴードンは恍惚な表情を浮かべながら鋭くなった歯をソフィアの首元に突き刺そうとする。だがソフィアの肌に歯が触れる直前でゴードンの顔面は炎に包まれた。


「グオアァッ!?」


 突然の出来事にゴードンはその場で倒れ込むと燃え上がる自分の顔を必死にはたく。しかし決してその炎が消える事はない。


「熱いか…?」


 ゆっくりと一歩ずつ、ゴードンの前へ歩み寄る。

 この炎は僕が元々持っていた力だ。以前は使いこなせなかった天上の炎、メタトロンの力。本来はもっと強大なはずだが、今の僕にはこの程度の炎しか扱えないらしい。だがこの男を殺すには十分だ。


「許さない…絶対に許さない…」


 手に炎を宿すとゴードンの頭を鷲掴みにし更に炎上させる。


「がああぁぁぁ!」


 苦しみ悶えるゴードンが苦し紛れに拳を繰り出そうとするが僕の身体に触れた瞬間、その拳にも天上の炎が灯った。燃え出した炎は勢いを増しゴードンの全身へと広がっていく。僕はその光景を涙を流しながらぼんやりと眺めていた。

 全身を灼く炎は地面へと広がり、やがてソフィアを中心とした魔方陣全体を灼き尽くすと柱のように燃え上がる。いつの間にかゴードンは声さえ上げることが出来なくなり、ボロボロと体が崩れ出すと灰さえ残さずに消滅した。

 掴んでいた頭も何もかもが無くなった。力無く十字架に触れるとそれを一瞬で灼き、落ちてきたソフィアを抱き締める。


「ごめん…君を…救えなかった…」


 まるで他人事のように感じたエノクの記憶。繰り返されてきた神の悪戯。だけどそれは紛れもなく遠い過去の記憶。

 僕はまたしても護れなかった。気の遠くなる程の遠い刻を経て尚、僕には大事な人を護る事さえ出来ないのか。その怒りが天上へ向かう。


「何で…何で僕はこんな思いばかりしなきゃいけないんだ!!」


 炎の柱は天上を灼き貫き、暗い天蓋目掛けて何処までも伸びていく。その先に神がいるのならばその全てを灼き尽くしてしまいたい。炎の中にあっても腕の中で冷たく眠るソフィアを強く抱き締める。


「もうたくさんだ…何が神の力だ…そんなものいらない…。大好きな人が側にいればそれだけで…何もいらない…クソオォォッ!!」


 溢れる涙を堪える事もせず天に向かって叫び、怒りの炎をその先にいる神へぶつけんと炎の柱は更に広がっていく。月の間一面を全て灼き尽くすと床が溶け出し足元が崩れ始めるが止め処なく炎を放出する。

 崩壊していく足元で一瞬バランスを崩すとソフィアを抱いたまま僕の体は滑るようにして高い塔から落ちてしまう。気付いた時には既に手遅れだったが、落下しながら僕は安堵していた。

 これで終わる。永遠に続いてきたこの魂はようやく終焉を迎えられる。

 腕の中で冷たくなったソフィアの頬にキスをすると目を閉じる。しかし後に訪れた衝撃は思っていたものと異なり、体は動かないものの周囲からは色んな声が聞こえてきた。


「シオン…?」


 そんな喧騒の中、懐かしい声が腕の中から聞こえてきた。それは紛れもなくソフィアの声。夢でも見ているんだろうか、それともこれは幻聴なのか。

 目を開いて確かめようにも瞼さえ動かせず、やがて僕は眠るように意識を失った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る