Episode12「迷子の少女」

 教会を出て森を抜けるとすぐさま教会で化け物と聖職者の殺し合いがあったと報告し、警備兵が教会へ向かったのを確認すると急いで東へと進んだ。

 僕が全力で活動出来るのは日が昇るまでの間のみ。教団などの追手から少しでも離れる為にも出来ることなら今日中に東C地区のゲートに辿り着きたいところだ。


「シオン…一体何があったのか教えてもらえますか?」


 走りながらソフィアが尋ねてくる。先程のことを素直に話していいものかと悩んだが、隠していても仕方ないと考えレノのこと、そして不思議な炎の力について分かる範囲で全て正直に伝えた。


「そうでしたか…またヴァンパイアの力で人が不幸に…」


「ソフィアのせいじゃない、全ては教団が…」


「その教団が発足した原因は私ですから…やっぱりいつまでも逃げ回る訳にはいきませんね…。レノ君のような被害者をこれ以上生み出さないためにも…」


「ソフィア…」


「それにしてもシオンの炎の力は…一体何なのでしょうね」


「やっぱりこれはヴァンパイアの力ではない?」


「えぇ、少なくとも私を含めて今まで見てきたヴァンパイアにそんな力を持った者は見たことがありません」


 死んだと思った直後、よく覚えてないけど僕は炎の柱に包まれていた。考えれば考えるほど不思議な現象だ。その時に誰かの声が聞こえた気がしたけど、その声の主も内容も覚えてなんかいない。ただ酷く懐かしい声だった事だけは覚えている。しかしいくら思い出そうとしてもそれ以上は分からなかった。

 そして思い出せないといえば炎の力についてもだ。あの炎を使役する直前、自分で何かを呟いた気がするがその内容は今ではさっぱり思い出せない。そしてそれが発動条件だったのか、今の僕から炎の力は失われていた。

 感覚的に使い方は覚えているものの、肝心の炎そのものが失われては何の意味も無い。この先ソフィアを守る上であの炎の存在が心強く思えた分、何だか出鼻をくじかれたような気分だ。それと同時に折角の力を使いこなせない不甲斐無さから自分自身に嫌気が刺す。

 果たして再び教団と戦闘した場合、炎の力を抜きにしてソフィアを守りきれるのだろうか。

 疲労が限界を超えきっているせいか思考がイマイチ纏まらなかった。今はこれ以上考えても仕方ないと割り切り、無心で東C地区を目指して走り続ける。


 そうして日が昇り始めた頃、僕達はようやく東C地区へと辿り着いた。この後は西C地区へ来た時と同じように貨物列車に乗り込んで東D地区へ抜ける予定だが、日が昇っている間は深夜に比べて警備が厳しい。加えて早朝にも関わらず何故か東C地区内は普段よりも多くの兵士が配置されていた。何か大きな事件でもあったのだろうか?

 とにかく僕自身の力は夜に比べて弱まっている為、これ以上先に進むのは難しい。戦闘による疲れもあり適当な宿を見繕うと僕達はそこで深夜まで過ごす事にする。

 受付を済ませ金を払い、部屋に移動しようと階段を上がろうとすると、不意に宿主に声を掛けられた。


「お二人さん、夜はあんまり出歩かないほうがいいぜ」


「…何かあるんですか?」


「あぁ、つい昨日の夜の事だけどよ…蛇の首の連中が四人も殺されてな…恐ろしい事に死体はバラバラだったらしいぜ。いくら蛇の首とはいえ酷い話だよ…」


 C地区に蛇の首がいるのは想定の範囲内だったが、その蛇の首に手を出す人間がいる事に驚きを隠せなかった。


「それ…犯人は…?」


「見つかってねぇよ。噂じゃ人間の仕業じゃねぇとか言われてるけどな…まぁ警備も厳しくなってるし室内で大人しくしてりゃ大丈夫だろう」


 人間の仕業じゃないと聞いた瞬間にヴァンパイアの存在が思い浮かんだが、教団が蛇の首に手出しする理由が分からない。一体この街で何が起きているのだろうか。

 不安を拭いきれないが今はとにかく休みたい。部屋に入るやいなやベ僕はッドに倒れ込むと死んだようにそのまま意識を失った。


 それから目を覚ましたのは翌日の朝だった。目を開くとソフィアが優しい笑みを浮かべたままじっと僕を見詰めている。


「おはようございます、シオン」


 未だ僕達の置かれた状況は決して良くない、寧ろC地区にも蛇の首が現れた事を考えると悪化しているだろう。でも彼女の笑顔を見ていると不思議にもそんな事がちっぽけに思えるような安らぎを感じた。

 少し重い体を起こすと体の節々がまだ痛むものの、傷はほとんど完治している。自分の掌をまじまじと見詰めるがやはり炎の力は失われたままだ。

 結局あの力は一体何だったのだろうか。本当にサンダルフォンが起こした一瞬の奇跡だったというのか?

 だとしたら神様っていうのは気まぐれでいい加減な奴だ。

 いつの間にか表情が強張っていたのか、ソフィアが心配そうにこちらを覗き込んでいた。


「あの…体は…」


「あ、あぁ…もう大丈夫だよ。心配掛けてごめん」


 僕は取り繕うように笑顔を向ける。使えないものは使えないんだから今はいくら考えても仕方ないだろう。


「本当に心配してたんですよ? 丸一日も寝ていたから…」


「え、そんなに…?」


 一刻も早く東D地区へ移動したかったのに、まさか朝まで寝過ごしてしまうとは…。しかし昨日の警備態勢を見る限りだと深夜でも列車に忍び込むのは難しかったかもしれない。

 自分に腹立たしさを覚えながらも過ぎたことは仕方ないと言い聞かせ、何とか苦笑いを浮かべる。


「色々ありすぎて…疲れてたのかな。でもホントにこの通り、もう大丈夫だから」


 ソフィアの手を取り握り締めるとまだ心配げな表情を浮かべていたが、一先ずは安心してくれたようだった。と、そこで僕の腹から突然音が鳴る。


「あ…そういえば昨日から何も食べてないんだっけ…」


 恥ずかしかったけど、そんな僕を見てソフィアがクスリと笑った。


「じゃあ今日は買い物ですね」


「そうだね…D地区に行く列車の正確な発車時間も調べておきたいしね」


 そんな訳で僕達は町へ繰り出す事にした。時刻は昼時という事で街は人で賑わっており、この群集の中でなら追手に発見される可能性も低いだろう。

 教団は蛇の首に比べると相当厄介な相手だが、ソフィアの話だと僕やゴードンのように彼女から直接吸血されていない不完全なヴァンパイアは日中は出歩けない。そして蛇の首も真昼のC地区では目立った動きは取らないはずだ。そうなると一先ず日があるうちは襲撃の心配はあまりしなくて良いかもしれない。

 戦闘続きで心も疲れきっていた僕はそう結論付けると、今はただ純粋にソフィアといる状況を楽しむ事にした。ソフィアもそんな僕を気遣ってくれているのか、いつもより少しテンションが高いように思える。

 綺麗な硝子細工など見つけては感嘆の声を上げ、瑞々しい果物を一つ買うとそれを二つに分けて手渡してくれる。そんな普通の人なら当たり前の、何でもない日常が今の僕にとって至福の時だった。


「あ、これってもしかして…」


 ふと露店に並んでいる雑貨屋の前でソフィアが足を止めた。その視線の先を覗いてみると小さな箱がいくつも並べられている。


「お嬢さんどうだい、今時オルゴール売ってる店なんて珍しいぜ」


 店主が笑顔で迎えてくれる。その露店はオルゴールを売っていた。オルゴールなんて嗜好品を好んで持ってる人なんてこのセインガルドでは主に上流階層の人々だ。D地区は当然、C地区でも持っている人なんてそんなに多くはないだろう。

 絵画や音楽などの芸術を楽しめるような人間なんてほとんどがB地区かA地区の住人だ。そう考えるとこのC地区でオルゴールを売っているのは確かに珍しい事だった。僕が持っていたオルゴールも親から聞いた話では父がB地区で仕事をした際に購入してきたものだという。戦前、まだヴァンパイアウィルスなんてものがなかった頃は、D地区の住人がB地区まで仕事で行き来するのもそう珍しい事ではなかったらしい。


「こいつは上からの流れもんでね、こっちじゃ買ってくれる人がほとんどいなくて商売あがったりさ」


 苦笑いしながら話す店主だが、その表情は何処か充足感に満ちていた。

 D地区では生きる為に文字通り命を懸けて商売をするが、C地区の商人はまるで自分がやりたいからやっているように思える。

 今まで全てを疑い、常にリスクを考え慎重に買い物をしてきた僕だったが、そんな店主の姿を見ていると買い物とは本来こうあるものなのかと思えた。もし戦争がなかったら、もし両親が死んでいなかったら、僕はこうして普通の生活が日常になっていたのだろうか。そんな有り得ない妄想に浸っているとソフィアは店主との話を終えて次の店へと歩き出そうとしていた。

 過去を振り返っても仕方がない、今出来る精一杯を尽くしてソフィアと普通の生活を送れるように頑張ろう。そう考えると少し胸のつっかえが取れたような気がした。

 それからも食べ歩きをしながら僕とソフィアは束の間の休息を堪能する。少し歩き疲れたところで噴水のある広場に出るとそこで腰を降ろして休む事にした。


「ふふ、楽しいですね」


 そう言うソフィアの笑顔は僕への気遣いはなく、純粋に心から楽しんでいるように見えた。


「うん、僕もこんなの初めてだけど…楽しいよ」


 本来なら油断しては駄目だと自分を戒めなければいけない状況のはずだが、今だけは…と思わずにはいられない。ソフィアといると心の余裕がなくても不思議と優しい気持ちになれてしまう、そんな気がした。

 噴水の淵に隣同士で座っているとふとお互いの指先が触れ合う。驚いた僕はその瞬間に思わず手を引っ込めてしまうが、そんな姿を見てソフィアはクスリと笑った。


「恥ずかしいんですか?」


「そ、そりゃまぁ…人もたくさんいるし…」


「キスもしたのに手を繋ぐのは恥ずかしいんですか?」


 そう言ってソフィアは意地悪そうな笑みを浮かべる。一体どうしたというのか…ソフィアがいつになく積極的というか、大人の女性独特のオーラを纏っている気がする。

 いや確かに僕とは比べ物にならないぐらい長い時間を生きてきているのだから、その辺の大人なんか目じゃないぐらい人生経験豊富なお姉さんではあるのだが。


「折角のデートだし…手繋ぎませんか?」


「デ、デート!?」


 その言葉に僕は一瞬で赤面してしまう。言われてみれば確かにこれはいわゆるデートである訳だけど、改めて言葉にされると急に恥ずかしくなってきた。

 思えば今まで女性とデートなんてした事がない。そもそもソドムで暮らしていた僕からすればデートなんて概念すら忘れていた。しかしそんな僕のあたふたしている姿が面白いのか、ソフィアは笑いを堪える素振りを見せると突然手を握ってきた。


「シオンは今までたくさん頑張ってきたから…今日ぐらいは休みましょう?」


 それまで悪戯っ子のような笑顔だったソフィアが柔らかい笑みを浮かべる。

 あぁ、僕はきっと一生この人には敵わないだろう。どれだけ背伸びをしても、強がっていても、きっと彼女には全部分かってしまうんだ。

 ソフィアは僕が守るんだ、だからいつまでも頼ってはいられない、そんなちっぽけな男のプライドがあった。でも認めよう、僕はまだまだ子供だ。だけどいつかは胸を張って僕がソフィアを守るんだと言えるようになってみせる。

 だから今は…今だけは甘えさせてもらおう。


「ありがとうソフィア、僕は…」


 しかしその続きを言い掛けた瞬間、僕達の目の前で少女が凄まじい勢いで顔面から突っ込んで転んだ。


「う…うぅー…」


 少女は倒れたまま唸りを上げるだけで動かない。ソフィアは慌てて立ち上がると少女の元へ駆け寄る。


「大丈夫?」


「うぅー…レヒトのバカァ…」


 少女は泣いているようで、肩をプルプルと震わせていた。


「ほら折角の服が汚れるわよ、起き上がれる?」


 ソフィアは優しく肩に手を添え少女をその場に座らせる。すると少女の腰程まである長く綺麗なブロンドの髪が地面に広がり、その顔はよく見ればまるで人形じゃないかと思うぐらい幼いながらも端正に整っていた。特筆すべきは見る者全てを引き込むような、硝子のように透き通った綺麗な翠色の瞳だ。

 が、しかし。そんな感想も鼻から垂れている血によって全て台無しになっていた。


「あぁ、血が出てる…ほらこれで拭いて…」


 目に涙を溜めながら鼻血を流す少女の鼻をソフィアは持っていた布で優しく拭き取る。過去に聖母と呼ばれた姿を再び垣間見た気がした。


「あ…ありがとうござい…うぅっ…」


「どうしたの、お母さんとはぐれちゃった?」


 優しく尋ねるソフィアだったが、何かを間違えてしまったらしい。少女の怒りの矛先がソフィアへ向けられた。


「子供じゃないですよ! バカにしないでください!」


「あ、えっと…ご、ごめんなさい…」


 流石のソフィアも突然の事に驚いたのかつい謝ってしまう。だが冷静になったのか少女は大声を上げた途端にまた泣きそうになっていた。


「どうしたの…? 良かったら話を聞かせてくれる?」


 正直面倒事になりそうな予感がして思わずこの場を後にしたくなるけど、ソフィアにそんな様子が微塵もないため僕は諦めて二人の成り行きを黙って見守る。

 ソフィアに優しく諭された少女は小さくコクリと頷くとゆっくり立ち上がり、二人は僕から少し距離を置いたところで腰を下ろした。

 …情けない話だが、さっきまで良い雰囲気だっただけにソフィアをあの少女に奪われたようで少しだけ寂しさを覚える。


「私はソフィア、あなたは?」


「エリスです…」


「エリスちゃんね。それで一体どうしたの…?」


「レヒトが…レヒトが悪いんです…」


 レヒトと言われても何処の誰かさっぱり分からない。ただ何となく少女にとって恋人とかそういう相手だろうと思った。


「レヒトさんに何かされたのかしら?」


「キスされたんです…何の前触れもなく一途な乙女の唇を奪ったんですよ!」


「そ、それは無理矢理されたのかしら…?」


「無理矢理ですけど…でも私もやぶさかではないと言いますか…ちゃんと手順を踏んだ上でロマンチックな雰囲気の中でしてもらったら文句はないんですけどぉ…」


 これはもしかして…いわゆる男女の痴話喧嘩ってやつなのだろうか…?


「そうなのね、エリスちゃんはそのレヒトさんのことが好きなのかしら?」


「す、好き!? いやいやいやいや冗談キツいですよー! だってまだ出会って数日ですよ!? そういうのはちゃんとお互いを知ってからじゃないといけないってマスターがですね!」


 図星だったのかエリスという少女の顔が真っ赤に染まり、恐ろしい程の速度で手を左右にブンブンと振る。見るからに動揺しているのだが、その様子が何処か怖いと思えるのは僕が女性に慣れていないせいなのだろうか。


「いやでも不思議な人なんです…出会って数日のはずなのに何処か懐かしくて…知らないはずなのに知ってる気がして…」


 さっきまで大興奮だったエリスが途端に冷静になりポツリポツリと語りだす。何というか…実に感情の起伏が激しい女の子だ。


「それって運命の相手…じゃないのかしら?」


「運命の相手…ですか?」


「そう、もしかしたらレヒトさんもエリスちゃんに同じような感情を抱いているんじゃないかしら?」


「レヒトが…私のことを…?」


「もしそうだとしたら、二人の出会いってとても素敵な事だと思わない?」


「確かにレヒトってば何だかんだ言いつつ私と一緒にいてくれるし…そもそも私を誘ったのだってレヒトの方からだし…」


「ふふ、エリスちゃんももっと素直になってみたらどうかしら? 意外と人の気持ちって口にしないと分かってくれないものよ、ね?」


 ソフィアのその言葉が何故か僕にも向けられたような気がして思わず視線を逸らしてしまう。やっぱり僕の気持ちは全部見透かされているんじゃないだろうか…色々と不安になってきた。


「よーし、何だか気持ちが晴れてきました! ソフィアさんありがとうございます!」


「頑張ってね、応援してるわ」


「はい! それじゃ早速レヒトのところへひとっ飛び…じゃなくてひとっ走りしてき…ま…?」


 勢い良く立ち上がり飛び出そうとしたエリスだが、すぐにその勢いが落ちていく。そしてこちらに振り返るとその目には再び涙が滲んでいた。


「ど、どうしましょう…ここは何処でしょう…?」


 …結局エリスは迷子だった。


 それから日が落ちるまでエリスと共にレヒトとやらを探す羽目になるが、この広いC地区で人一人を探し出すのは困難だった。結局最後までレヒトは見つからず、僕達は元いた噴水の前へ戻ってくる。


「うぅ…付き合わせちゃってごめんなさい…」


「ううん、良いのよ。ホントはもっと協力したいけど…ごめんなさい、私達はこれからやる事があるの…」


 人探しをしながらも調べを進めていたおかげで、列車の発車時刻は既に把握済みだ。

 最も警戒が薄れる最終列車の発車まで時間はまだあるものの、日が沈むと外を歩く人は次第に減り、教団の追手も活動を開始するだろう。そうなるとこれ以上行動を共にしていては無関係のエリスも危険な目に遭わせかねない。


「いえいえ、ありがとうございます! 誰かに優しくされるなんてマスターとレヒト以外は初めてだったからすっごく嬉しかったです!」


「私の方こそエリスちゃんと一緒に過ごせて楽しかったわ、気を付けて帰ってね」


 笑顔で別れを済ませると僕達は駅の近くで身を隠せる場所を探す事にする。夜になったとは言えまだ早い時間帯のため人の往来はそこそこある。

 焦らず道行く人に紛れながら少しずつ駅へ近付くと、丁度身を隠して駅構内を覗ける絶好の場所を発見した。そこは家の屋根だったが、周囲の建物に囲まれているおかげでこちらの姿は発見し難い。

 僕とソフィアは裏路地に入るとそこから軽々と屋根の上に飛び乗り、時間が来るまで息を潜める。


「…不思議な子でしたね」


 その時、小声でソフィアが話し掛けてきた。


「さっきのエリスって子? 不思議というか…変わってたね。あんな感情の起伏が激しい人は初めて見たよ」


「え、えっとそれもそうなんですけど…そうじゃなくて…」


 笑い話かと思っていたが、どうにもソフィアは神妙な表情を浮かべていた。


「何だか…普通の人間とは違う気がしました」


「…まさかあの子もヴァンパイアってこと?」


「いえ、ヴァンパイアではないです。だけど何だか…」


 思い返してみるが僕にはそんな気配を感じ取れなかった。気のせいだと思うが、ソフィアのこの様子だとそうとも言い切れない。

 しかし此処で僕達がいくら考えても分からないし、この先エリスと再び出会う事はもうないだろう。それを伝えると気掛かりは残っているようだがソフィアはそうですねと一先ず納得した様子だった。


 息を潜めてからしばらく時間が経ち、徐々に列車の発車時刻が迫ってくる。もしかしたらまだ事件の影響で厳戒態勢が敷かれているかと不安だったけど、、思っていたより警備の手は薄く列車に忍び込むのは容易に思えた。

 東D地区、通称ゴモラは蛇の首の縄張りのため到着後すぐに紛争地域へと逃げ込まないとならない。そして確か東には現在セインガルドと交戦中の国もあるし、ゴモラを出たらまずはそちらへ向かうのが最善策だろう。

 僕はセインガルドから出た事なんてないから他国は簡単に入れるかどうか分からないけど、そこまで逃げたらとりあえずは安心出来る。つまり最大の難関はゴモラに到着してからどう紛争地域を抜けるかだ。

 ゴモラに到着してからの事を考えていると、人通りがすっかり失せた通りを一人の少女が歩いているのが目に入った。いくらC地区が安全と言ってもこの時間に少女が一人で外を出歩くのは危険ではないのだろうか?

 しかし目を凝らすと驚いた事に、その少女は紛れも無くさっきまで一緒にいたエリスだった。ソフィアもそれに気が付くと心配げな表情を浮かべる。


「何でこんな時間に…まさかまだレヒトさんを探して…」


「かもしれない…。それか…もしかするとあの子帰る場所が…」


 エリスは迷子だったけど、この辺の子だとばかり思い込んでいた。それも帰る家がちゃんとある前提で考えていたけど、もしも彼女がレヒトという人の所以外に帰る場所がなかったら…?

 そんな唯一の居場所から逃げてきて此処に迷い込んできていたとしたら…


「どうしましょう…」


「助けてあげたいけど…もうすぐ列車が…」


「じゃあ駅にいる警備兵に事情を説明して保護してもらうのは…?」


「…本当はあまり騒ぎを起こしたくないんだけど…放っておく訳にもいかないよね」


「ありがとうございます、シオンは此処で待っていてください。私が行ってきます」


 だがそう言って屋根から降りようとしたソフィアの腕を僕は咄嗟に掴んだ。何故止められたのか分からずソフィアは少し怒った様子だったが、僕の視線は正面から外せなくなっていた。


「何で止めるんですか…?」


「待ってくれ…あの男…見覚えがある…」


 僕達が話し合っている間にエリスの前には男が立ち塞がっていた。何か会話しているようだが、距離が遠過ぎてその内容までは分からない。


「…もしかしたらエリスちゃんの知り合いの人かもしれないですし、ちょっと様子を見てきます」


 そう言って腕を振り払うとソフィアはすぐさまエリス達の元へ駆け寄る。

 相手に気付かれるのではと心配になったが、流石は千年も逃げ延びてきたヴァンパイアの真祖。完全に気配を殺してあっという間に二人の近くまで接近してしまう。


(クソ…思い出せない…。何者なんだ、あの男…)


 嫌な予感が拭い去れない僕は少し遅れて静かに屋根から飛び降りると、気配を殺しながらソフィアの後を追った。

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