Episode11「刺客」

 月明かりに照らされた二人のシルエット。一際激しくレノの首元から血が吹き上がるとそれは雨のように頭上から降り注ぎ、吸血が終わったのか神父は満足気な笑みを浮かべてレノを解放する。その足元で血を浴びながら僕は落ちてきたレノの体を受け止めた。


「レノ! しっかりしろ!」


 僕の腕に抱かれたレノの目は虚ろで呼吸も弱い。まさかこのまま死ぬのでは…そう思った瞬間、レノに変化が起きた。

 体中の血管が突然浮かび上がると虚ろだった目が見開かれる。そして眼球は破裂したかのように赤い血眼に変化し、幼さが感じられた小さい犬歯は獲物を穿つ為の鋭い物へ。そして腕の中でもがいていたレノが突然拳を振り上げると僕は咄嗟に後ろへ飛び退く。

 頬に痛みを感じ、手の甲で拭うとそこには自分の血が付着している。うずくまるレノの指先を見ると爪が長く鋭い物になっていた。


「どうやら君もヴァンパイアのようだが…はて、何故こんなところに使徒でもない者が?」


 新たな仲間の誕生が嬉しいのか神父は穏やかな笑みを浮かべたままレノの側に歩み寄る。


「ふぅむ、何やら君からは他の者とは違う匂いがするな…。人間に近いはずだが…まさか真祖の眷属…?」


 真祖…それはソフィアを指しているのだろうか。もしそうだとしたらまずい。ソフィアは何も知らないまま今も子供達と一緒にいるはずだ。そしてこんな辺境の教会に神父の格好をしたヴァンパイアが現れた事からシスターも教団の手の者に違いない。彼女からヴァンパイアの匂いがしなかった理由は恐らく人間の立場で教団に協力しているからだ。教団に協力する理由などは一切不明だが、この教会が敵のアジトの一つだとしたら非常に拙い。

 加えて現在の脅威はこの神父一人だが、ソフィアの存在を知られたら蛇の首から逃げるどころではない。下手をすれば世界中にあるという教団の使徒がこぞってセインガルドに集結するだろう。

 ならば今、僕がやるべき事は――


「ここであんたを…殺す」


 柄にもないことを口にした自分に思わず驚いた。殺すなんてソフィアが悲しむだろうし、本音を言えば誰も殺したくない。だけどそれじゃ駄目なんだ、そう決意したはずだ。

 ソフィアを護る、それが僕の今の存在意義であり生きる理由だ。


「やる気のようだね。出来れば同属殺しは避けたいのだが…話し合いで解決とはいかないか」


 そう言うとそれまで笑顔だった神父の顔が急に険しくなる。しかしその身から感じられる余裕は揺るがない。

 僕がヴァンパイアになってから日が浅いとか、そんなものが戦闘に関係あるのか分からないけど、今ここでやらなければ僕達は終わりだ。

 覚悟を決めると思い切り地を蹴り低い姿勢のまま神父に突撃する。一直線に突っ込み、下から思い切り拳を振り上げ胴を貫くように地面スレスレから拳を打ち出そうとするが、突然横腹に衝撃が走ると僕の体は直角に横へ吹き飛んだ。

 あばらが数本折れ肺に突き刺さったのか激痛が走り呼吸がまともに出来ない。一体何が起きたのか確かめようと顔を上げると神父の横には不穏な気配を纏ったレノが立っていた。


「まさかレノ…何をするんだ…?」


「素晴らしい、実に良い一撃だよレノ君。ただやはり…精神も侵食されてしまったかな」


 精神を侵食…?

 見ればレノは息を荒らげ、目は焦点が合っていない。それはヴァンパイアの本能に支配された狂戦士バーサーカーのようである。


「この様子ではアンナ君に会っても分からず食い殺してしまうかもしれないな。実に残念だ」


 残念と言う割に神父は実に楽しげな様子だ。

 まさかレノはもう元には戻れないのか?

 考えてみたけど自分の身に起きた事を振り返ればその望みがないのは明白だった。

 じゃあ僕は…レノを殺すのか…?


「シオン君…と呼ばれていたな。どうした、レノ君が相手じゃやりにくいか」


「この…外道が…!」


「外道? 何を言っているんだ、私は神道を歩む聖職者だよ」


 そう言って楽しそうに笑う神父を見ていると殺意が臨界点を超え、怒りに任せて再び地を蹴ると一直線に神父に突っ込む。

 蛇の首の人間が誰一人反応出来なかった速度だが、今回の相手は人間ではない。レノは神父を守るかのように恐ろしくキレのある蹴りを放ち、僕の行く手を阻む。咄嗟に頭を下げてレノの攻撃を回避するが、その際にバランスを崩した事で僕は勢い良く地面を転がり、結局何の攻撃も出来ずに神父の横を擦り抜けた。


「力の使い方が分かっていないようだね。加えて戦闘経験もない。動きが単調過ぎるよシオン君」


 ヴァンパイアとなった事でレノは動体視力も、単純な力も僕と同じかそれ以上になっている。神父だけを倒したいが、その前にレノを何とかしなければ勝ち目は無さそうだ。しかしレノを『殺す』と意識すると途端に戦意が鈍ってしまう。

 そうして攻撃を躊躇っているとレノが突っ込んでくるが、予想以上の速さで一瞬反応が遅れてしまった。直撃する寸前で辛うじて回避するが鋭い爪先が頬を掠める。


「やめるんだレノ!」


 避けざまに呼び掛けてみるがレノには何の反応もない。

 体勢を立て直し襲い来る攻撃を掻い潜りながら思考を巡らせ冷静に状況を分析していく。

 先程レノの攻撃によって砕かれたあばら骨は既に再生し終わっていて問題は無い。神父はレノの実力を測っているのか、静観するだけで手を出す気配は無さそうだ。

 そうなるとやはりレノを何とかするのが先決だが、残念ながら今の僕にはレノの動きを封じるような術はないし、適度に弱らせて動きを止めるなんて芸当は尚更不可能だ。そうなると残る道は…


「頼むからやめてくれレノ!」


 レノの攻撃からは一切の迷いが感じられず、僕を殺す為の一撃を次々と繰り出してくる。何とか回避は出来るものの、ここまま避けているだけじゃどうしようもない。何度必死に呼び掛けてみても僕の言葉はまったく届いていない様子だった。

 何でレノはこんな事になってしまったんだ?

 レノはアンナを連れてこの教会から逃げたがっていた。まさかそれはこの教会の秘密を知ってしまったから?

 だったら尚更、何故そんな教会に協力する事を決断してしまったのか。


「何でなんだよレノ…こんな事してもアンナが悲しむだけだぞ!」


 アンナ、その名前を聞いた瞬間にレノの表情に初めて変化が生まれる。絶えず攻撃は続いていたが真っ赤な瞳からは涙が溢れ出していた。


「アンナ君が悲しむなんてとんでもない、彼はアンナ君の為にこの道を選んだ」


「嘘だ…! そんなの…!」


 攻撃を必死に避けながらも神父の一言一句を聞き逃さぬよう集中する。


「本当さ。この教会はね、我々母なる血マザーブラッドの一員を育てる為の養成機関のようなものだ」


「養成機関…だと…!?」


「悲しい事にC地区といってもまだまだ孤児は溢れ返っている。そういった孤児の為に孤児院を営み、いつかは我々のような立派な使徒となってもらうよう子供達には此処で暮らしてもらっているのだよ」


「ヴァンパイアが立派な使徒…?」


「あぁ、そうとも。シスターがヴァンパイアの力に適した子供を選別し、我々が力を与える。そして我々は血を交わした家族となり、神の預言者であらせられる教祖様に生涯尽くすのだ。そして今回そんな名誉ある家族に迎え入れる予定だったのがアンナちゃんさ」


 そうか、こいつ等の最初の狙いはアンナ…そしてそれを知ったレノは…!


「そのはずだったのだが…どうにもレノ君が駄々をこねてね。やるならアンナではなく自分にしろ、と」


 レノはアンナを救う為に教会から逃げようとしていたのか。

 不可解だった行動の理由を知り思わず胸が締め付けられる。


「レノ君は立派に母なる血マザーブラッドの一員となり、生活が安定したらアンナちゃんを引き取って普通の暮らしを夢見ていたようだが…この調子じゃそれも叶わぬ夢となりそうだ」


 神父は哀れみどころか侮蔑のような眼差しでただの狂戦士バーサーカーとなったレノを一瞥した。


「だから言ったのだよ、選ばれし者でないと危険が伴うと…」


「…黙れ」


 これ以上聞きたくない。

 この教団は身寄りのない孤独な子供達を上手いこと洗脳し、ヴァンパイアを量産する為だけに子供を利用していた。それを知ったレノはアンナを救える唯一の希望に縋った。その結果が…


「お前達は…狂ってる…」


 迫り来る拳を避けた瞬間、伸びきった腕に抱きつくようにして何とかレノの動きを封じ込める。当然レノは僕を振り解こうと暴れるが、決してその腕を離さない。


「狂ってる? 身寄りのない子供達の待つ未来を君は知らないのか?」


「よく…知っているさ…」


 確かに僕の生活は裕福ではなかった。でもだからって…外道に落ちようと思った事はなかった。何かを守る為に生きる事が悪いとは思わなかった。小さな幸せの為に日々を必死に生きる事は存外幸せな事だったと気付かされた。

 だから僕は今、ソフィアを守る事が自分の幸せだと胸を張って言える。それはレノだって同じで、ただ妹のアンナを守りたい…それが彼の幸せなんだ。

 腕の中で暴れていたレノの力は段々と弱まり、ついには項垂れたまま動きを止めた。


「子供達の未来を狭めて閉じ込めて…何が神の預言者だ、笑わせるな。世界は広いんだ…幸せはすぐ側にあるんだ…。それをお前達が与えようなんて…傲慢だ」


 僕に向けられた焦点の定まっていない目は確かに訴えていた。言葉は無くともレノの想いが伝わり、僕は覚悟を決める。

 レノの夢、希望。それはアンナそのもの。もう自分ではアンナを救えない、そんな絶望がレノの心を殺してしまった。今僕の目の前にいるのはレノであったヴァンパイア。

 こいつこそレノを殺した…仇だ。


「許さない…絶対に…」


 動きを止め、棒立ちになったレノの胸を零距離から迷わず拳で貫く。心臓を打ち抜き拳が背中から突き出ると粉々になった肉片と鮮血が飛沫のように飛び散った。


「ごめんレノ…僕に出来る事はこれしかない」


「シオン…」


「子供達は…アンナは必ず助けてみせるから」


 その言葉を聞いたレノの目には一瞬光が宿り、笑みを浮かべながら僕の耳元で遺言を呟くと力尽きた。動かなくなったレノの体からそっと腕を引き抜くとその場にそっと横たわらせる。


「あぁ、殺してしまうとは、なんという罪人か。シオン君、君は彼の最後の望みすら絶ってしまった」


 最後の望み?

 こいつはレノの事なんて何も分かっちゃいない。レノが最期に遺した、微かな…でも確かに届いた言葉と想いが僕の迷いを断ち切ってくれた。


『ありがとう、アンナを頼む』


 僕はその想いを…願いを裏切る訳にはいかない。


「罪人でも構わないさ…。僕の手は既に汚れきっている」


「ふむ、ならば聖職者として君を断罪せねばなるまい」


 その瞬間に男の目の色が変わった。僕は立ち上がると構えを取り正面から対峙する。

 今の僕はただヴァンパイアの力に頼っただけの戦い方だ。その力に慣れていて戦闘経験も僕よりありそうなこの男に真っ向勝負で勝てる確率は決して高くない。だけど何処かに突破口はあるはずだ。

 ソフィアのような例外を除いてヴァンパイアは基本的に再生速度を上回る攻撃を受ければ死ぬ。今僕がレノを殺したように心臓を一撃で仕留めれば倒せる。つまり確実な一撃を叩き込めればこの男だって…。

 いくつかのパターンを頭の中でイメージし僕は呼吸を整える。


「どうしたのかね、まさか怖気付いたかな?」


 レノの為にも、僕達の為にも、僕はここでこの男を――


「殺す!」


 覚悟を決めて再び僕は一直線に男へ突っ込んだ。


「やれやれ、まるでイノシシだ」


 男は僕の一撃にカウンターを合わせるつもりなのか、避ける素振りもなく真っ向から構えたままだ。

 お互い手の届く距離に入った瞬間に男の拳が顔面に飛んでくるが、僕は横に蹴り出し急な方向転換をしてそれを回避すると、逆足で踏ん張りブレーキを掛ける。予想外の動きに戸惑っているのか、がら空きになった男の腹目掛けて僕は思い切り拳を振り抜いた。

 男は完全に僕を舐めて掛かっていたせいで、まったく反応出来ていない。

 これで決まった、そう思ったが寸前のところで僕の拳は受け止められてしまう。


「面白い動きだよ、しかし所詮は素人」


 そのまま拳を握り潰されると思い切り投げ飛ばされる。成す術もなく僕の体は宙を飛び、壁を突き破ると聖堂の中心へ受身も取れずに落ちた。


「ぐっ…がはぁっ…!」


 ヴァンパイアの力だけならそこまで大差ないと思っていたがとんでもない。男に潰された右の拳は完全に使い物にならなくなっていた。再生するにはかなりの時間が掛かる。

 明らかに僕とは桁外れの力だった。体中の骨が粉々になったかのように体がまともに動かない。


「あぁ、偉大なる守護天使サンダルフォンよ。この罪人をどうか許したまえ」


 両手を広げ笑みを浮かべたまま男は突き破った壁から悠々と歩み寄ってくる。


「願わくばこの少年の御魂が貴方の守護する王国マルクトへ至れるように」


「ヴァンパイアが神様にお祈りか…ぐっ…笑える…ね…」


 力を振り絞って近くにあった椅子を掴むと投げ付けてみるが、男はそれをあっさりと蹴り返し、尚もこちらへ向かって前進してくる。


「おぉ、グローリア。彼に祝福の息吹を与えたまえ」


 そう言いながら男は未だ動けず膝を突く僕の前に立ちはだかった。


「アーメン」


 そして胸の前で十字を切ると直後に男の鋭く尖った爪が僕の胸を貫き、そのまま体を持ち上げられる。


「まるで磔刑、罪人に相応しい最後だ」


 男の爪は僕の心臓を的確に貫いていた。反撃しようにもこの状態では生命維持をするのがやっとで、傷の再生どころか腕を上げる力すら残っていない。


「死ぬ前に教えてらおうか、君は誰の血を受けた?」


「何の事か…分からない…」


「君がヴァンパイアである事は明白。更に言えばその傷の再生速度は我々のそれを遥かに上回っている。でなければ今もこうして君が生き続けるなんて有り得ないからね」


 どうやら僕はソフィアのおかげで他のヴァンパイアに比べて大分タフに出来ているらしい。

 確かにこうして話をしている間にも少しずつではあるが全身の再生が始まり、体にも力が戻ってきている事に気が付く。どうやら僕は心臓を貫かれていても再生力はそれを上回るらしい。


(もう少しだ…)


 これはチャンスだ。男の心臓を一撃で貫ける力を蓄える為に、何か時間稼ぎになる話題はないかと思考を巡らせる。


「僕は…D地区出身だから…。いつの間にかヴァンパイアウィルスに感染していたらしい…」


「成る程…真祖様はD地区にいらっしゃるのか」


 得心が行ったのか男はうんうんと頷き激しく興奮している様子だが、それも無理ないだろう。千年近くも世界中で探していた人物が、少なくともセインガルド近辺に居ると分かったのは歴史的発見といっても過言ではない。


「具体的にどのように感染したのだね? 女性との接触はなかったか?」


「その前に…この爪を抜いてくれないか…何だかんだ言ってこれ苦しいんだけど…」


「ふむ…」


 男は一瞬悩んだ様子を見せるが、静かに僕の体を降ろすと素直に爪を引き抜いてくれる。

 すると傷口が一気に再生を始めるが、僕は男に気取られないよう弱ったフリをしたまま話を続ける。


「それで…女性との接触って何のこと?」


「君に噛み付いた女性がいたはずだ、その女性は今何処にいる?」


「そんなこと言われてもな…気が付いたらこんな体になっていたんだ…」


「そうか…君はいつからヴァンパイアになったのだね」


「…一週間前かな。ある朝目覚めたら太陽がやたら眩しくて、それでもしかしたらって思ったんだ」


「太陽が眩しい…成る程、君は日の光に晒されても死ぬ事はないのだな」


 まるで研究者のように男は僕の言葉を一つ一つ咀嚼しながら、決して忘れまいと記憶しているようだった。僕の言葉を信用し油断している今ならこの男を…殺せる。


「あぁ、そうだ。そういえばヴァンパイアになった日から左の掌に妙な刻印が刻まれているんだ」


「妙な刻印…? 是非とも見せたまえ!」


(よし、食い付いた…)


 焦らすように左手をそっと差し出すと男は少しずつ開かれていく掌を瞬きもせずじっと見詰めているが、当然そんな刻印など存在しない。


「――死ね」


 完全なタイミングで右手が男の胸を、心臓を貫いた。男はまったく反応出来ずに、呆気に取られた顔で僕を見上げると口から血を吐き出す。


「ガキが…騙した…な…」


「ソフィアは僕が守る」


「ソフィア…あぁ…やはりそうだったか…」


 しかし男は今までで最高の笑みを浮かべると、顔をグルリと聖堂の入り口へ向けた。そしてその先に立っていたのは…


「シスター…聞いたな、ソフィア様はすぐ近くにおられるぞ…」


「はい、確かに。彼女でしたら宿舎で子供達と遊んでおられます」


 今まで何処にいたのか、そこにはシスターが怪しい笑みを浮かべて立っており、その後ろには男と同じ聖職者の格好をした男達が三人並んでいた。


「ま、まさか…」


「よくやったアルフォンゾ、神の御許へ安らかに。アーメン」


 アルフォンゾと呼ばれた男は胸を貫かれたまま満面の笑みを残して息絶える。


「シスター、よくやった。これで我等が教祖様は真の神となられる」


「うふふ、勿論謝礼は弾んでくれるんですよね?」


「あぁ、受け取るが良い」


 そう言うと男は手刀でシスターの首を刎ね落とした。


「これでお前の御魂は神の御許へ、一足先に天国へ行くが良い」


 突然の出来事に僕は混乱する頭を必死に整理する。シスターはやはり教団に加担する敵だった。だがもっと拙いのはソフィアの居場所が完全にバレたこと。そしてこの三人の聖職者は全員ヴァンパイアであること。狙いは完全にソフィアだ。


「や、やめ――」


 男から腕を引き抜くと床を蹴り上げ突進を試みるが、飛び出した直後に顔面と腹部に男二人それぞれの拳が食い込んでいた。僕の体は壁に当てたボールのようにあっさりと跳ね返され、勢い良く後方へ吹き飛ばされる。


「ガキの処分は任せた。私はソフィア様を迎えにあがる」


 そう言って男は背を向け宿舎へと歩き出した。


「行かせるか…!」


 すぐさま体を起こすと二人の男の位置を把握し、その間を擦り抜けようと全力で飛び込む。しかし右から避けようがない蹴りが飛んできた。それを両手で何とか受け止めるが、ほぼ同時に反対から鋭いローキックが放たれ瞬時に避けきれないと判断すると被弾を覚悟し衝撃に身を備える。だが身を備えてもその威力は尋常でなく、自分の爪先が膝より前に飛び出したのを確認した瞬間、僕の体は宙を舞い受け身も取れずに顔面から落ちた。

 足の骨が完全にへし折られた。骨だけでなく、腱まで完全に切れたのか片足がまったく動かない。

 痛みも忘れ対処法を必死に模索しようとするが、考える暇もなく二人が襲い掛かってくる。しゃがんで両腕で必死に体を守ろうとするが両腕はあっさり折られ、粉砕され、無防備になった体には容赦なく攻撃が降り注ぐ。

 肉片が飛び散り、体中の骨は砕け、内臓、眼球が自分の体から飛び出ているのが分かる。

 それでもまだ微かに意識が残っているのは却って地獄だった。月の魔力が尽きたのか既に死んでいるのか分からないが、傷が再生する事はもうなかった。傷以前に自分の肉体が今ここに残っているのかさえ分からない。まさか僕はもう魂だけになってしまったのだろうか。

 二人の男は僕が息絶えた事を確認したのか、先程の男の後を追ってソフィアの元へ向かっている。


 もう…どうする事も出来ないのか。力が手に入ったと思ったのに…僕は結局何も出来ないまま、また大切な人を失うのか。


 いつだってそうだ。あの日も、僕は家族を守れなかった。神の言う通りにしていても、神の敷いたレールから少し外れた家族は神に奪われた。大切な家族はただの塩の柱となってしまった。

 生まれ変わっても両親、友人、親友、そして愛する人もまた奪われようとしている。

 何の為に僕は生まれ変わった?

 新たな箱庭の、この運命すらまた神に操られるというのか?


 ならば僕は…神を殺そう。


 かつて僕だった肉片が燃え出す。何の兆候もなく、静かに紅い炎が揺らめき出し、その炎は段々と強く、大きくなっていく。

 それは太陽さえ焼き尽くすかのような業火。静かに燃える炎は天上をも焼き尽くす。大きくなった炎は聖堂の天井まで届き、やがて柱となる。

 その時、誰かの声が頭に響く。それは懐かしい声。それは僕に告げる。


 義の書記エノクよ、さあ、彼らに告げるのだ。『お前達は地上に恐ろしい災いをもたらした。お前達には平安も、罪の許しも与えられない。いつまで嘆願しても、憐れみと平安を得る事はできないであろう』


 そう、彼等は許されざる存在。ならば僕は断罪者として裁こう。その力を得る為、接続の式を紡ぐ。


王国マルクトより基礎イェソド世界タヴの…小径パス通過。基礎イェソドより栄光ホド太陽レーシュ小径パス通過。栄光ホドより勝利ネツァクペー小径パス通過」


「な、何だこれは…」


「炎から…聞こえているのか…?」


 ヒトが堕天したセフィラを昇天のため逆へ登っていく。此れは地上より天上への強制接続。


智恵コクマーより王冠ケテル愚者アレフ小径パス通過。王国マルクトより王冠ケテルへセフィロト接続完了。王国マルクトより天上の父へ求めるは我が炎の柱」


 炎の柱はついに聖堂の天井を貫くと遥か天上まで昇り、再び静かに収束する。そして視界を覆っていた紅い炎が消え行くといつからかそこには僕の体があった。

 何が起きたのかよく分からず体を確認してみるがいつも通り、何の変化も見られない。おかしいのは粉々になっていたはずの体が完全に元通りという点だけだ。だが不思議と恐怖や不安はない。

 後ろを振り返るとサンダルフォンが月の光によって静かに輝いていた。血の涙なんて流していない。それどころか先程感じられた恐怖は一切無く、寧ろ心が安らぐ。もしかしたらこれはサンダルフォンが与えてくれた奇跡なのだろうか。


「………」


 男達に視線を移すとこちらを見て戸惑っている様子だった。だがそれも当然だろう。ヴァンパイアにこんな力があるなんて僕だって聞いていない。

 いや、きっとこれはヴァンパイアの力なんかではない。その証拠に僕はこの力を知っている。

 右手をじっと見詰めているとその手が突然紅い炎に包み込まれた。これは先程僕の体を包んでいた炎と同じものだと直感的に分かる。そしてこの炎の使い方を僕は知っている。

 そっと右手を男達へ向かって薙ぎ払うと、何の変哲も無かったように思えたが、次の瞬間突然男達の体が燃え出した。

 これは普通の炎ではない。男達は灰さえ残さず文字通り消滅し、静まり返った聖堂で僕は右手の炎をじっと見詰めてこの力が何なのか考える。

 しかしいくら考えても到底説明出来る気がしなかった。何が何だか分からない事だらけだ。ただそれでも、今はやるべき事を見失ってはいけない。


「ソフィア…!」


 無残に破壊された聖堂を飛び出し宿舎に向かって走り出すが、鐘塔の前に差し掛かると新たな教団の刺客達を発見した。教団側は僕の存在に気が付くとすぐさま迎撃の態勢を取るが、僕は足を止めることなく先程の炎の力を思い切り解放する。

 何も考えずに振り抜いた拳だが、先程と同じようにその場にいた三人の刺客は一瞬で消滅した。

 どうやら敵はこの鐘塔から侵入していたらしい。昼間に見た時は厳重に施錠されていた扉が開いてる。だけど今はそんなものに構っている余裕は無い。障害を排除するとソフィアのいる宿舎まではすぐだった。


 中からは子供達の泣き声が聞こえてきた。生きてるという事は、何とか間に合ったのだろうか…不安に逸る気持ちを抑えながら、慎重に足を踏み入れる。しかし目の前に広がる光景を前に僕は絶句してしまう。

 先程まで絵本を読んだりかくれんぼをして暖かい空気に包まれていた教室。溢れる光は変わらないが、そこには言葉を失うような悲惨な光景が広がっていた。

 教室中に飛散している血痕。恐怖に怯え隅で震え上がる子供達。そして教室の中心では虚ろな目をしたソフィアが血塗れで佇んでいた。


「ソフィア…一体何が…」


 僕の声に気付いたソフィアはゆっくりとこちらに振り向く。その瞳は血のような紅い色のまま、ただただ涙を流していた。


「守り…たかった…」


 そう言うソフィアの足元に転がるいくつもの肉塊。血の海に沈んでいるそれが纏っている衣装には見覚えがある。…刺客達の着ていた服だ。


「もう…失いたくなかった…。ただ逃げるだけじゃ…駄目なんだって…」


 誰かに許しを請うかのようにソフィアの悲痛な言葉が胸に突き刺さる。だがその想いは子供達には伝わらない。

 子供達のソフィアを見る目は恐怖以外の何物でもない。それが分かっているからこそ、ソフィアはどうすることも出来なかった。

 掛ける言葉が見つからず、僕はその光景をただ見詰めるしかない。しかし自分達の置かれている状況を考えると、今すぐにでもここから離れなければならなかった。


「ソフィア…」


 何と言えばいいのか分からないまま、僕はそっと呼びかける。


「…分かっています、追手ですよね…教団…母なる血マザーブラッドの」


 その言葉に素直に頷くとソフィアはそっと目を閉じ、何かを決意したように真っ直ぐ見詰め返してきた。


「行きましょう、これ以上ここにいたら子供達が危険です」


 そこでもう一度、涙を堪えるようにぐっと目を閉じると、次に開かれた瞳の色は普段と同じ透き通るような綺麗な蒼色をしていた。

 ソフィアは子供達に振り返る事なく歩き出すとそれに倣って僕も後に続く。


「ソフィアお姉ちゃん!」


 だが突然呼び止められ振り返ると、そこにはアンナが涙を流したまま立っていた。


「行かないで…お姉ちゃん行かないでよぉ…」


「そうだ…お姉ちゃんがいなくなったら僕達は…」


「怖いよぉ…助けてよぉ…」


 どうやら子供達は戸惑いながらも、ソフィアが自分達を守ってくれた事だけは理解している様子だった。それが嬉しかったのか一瞬ソフィアは顔を歪ませるが、涙を堪えて子供達に告げる。


「すぐに兵士を呼ぶから…大丈夫。あなた達は絶対に傷付けさせない」


 成る程、首を跳ね飛ばされたシスターと刺客達の無残な死骸を見れば嫌でも事件となり、しばらくは警備の目が付く事になる。

 そして僕達が出て行けば教団がこの教会に襲撃に来る理由もなくなるし、警備の目があってはそう易々と近付く事もないだろう。

 だがその後は…?

 シスターがいなくなったこの孤児院を誰が引っ張っていくのだろうか。


「ソフィア…実はシスターはもう…」


 子供達に聞こえないようにそっと耳打ちをする。しかしソフィアには何か考えがあるのか、子供達に向けられた笑顔には何一つ迷いが無かった。


「大丈夫です、子供達は私が守ってみせます」


「…分かった」


「みんな、しばらく寂しいだろうけどもう怖い事はないからね。少しの間…みんなで力を合わせて頑張れる?」


 それは僕が孤児院にいた頃の先生を彷彿とさせるような優しい口調で、思わず子供の頃の記憶が脳裏を過ぎった。


「お、俺がみんなを守る!」


「僕も…僕も!」


「あたちがみんなのご飯作ってあげる!」


 子供達はさっきまでソフィアに感じていた恐怖をすっかり忘れてしまったのか、彼女の言葉を素直に受け止めていた。恐らくこれが天使の心さえ動かした聖母と呼ばれた彼女の力なのだろう。

 ソフィアはアンナの頭を優しく撫でると立ち上がり、僕達は今度こそ振り返らずに教会を後にした。

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