Episode10「教会と兄妹」

 日が昇ると同時に僕達は宿を後にした。

 先日と同じように露店で食料を入手しつつ、街並みを楽しみながら歩き続ける。恐らくもうしばらくすれば北C地区のゲートも見えてくるだろう。

 そんな事を考えながら歩いていると、みすぼらしい格好をした少年が露店の前で立ち尽くしていた。そしてその少年の様子を物陰から見守っている幼い少女が一人。何処か見覚えのある光景に思わず僕の歩みが止まる。

 少年と商人が会話を始め、商人の気が逸れた隙を狙って物陰に隠れていた少女が露店へ向かって歩き出す。そして露店と擦れ違う瞬間に商品のリンゴを一つ持って懐に隠したのを僕は見逃さなかった。

 少女が見えなくなったのを確認した少年は商人との話を切り上げ、少女が去っていた方角へと歩き出す。その一連の行動にソフィアもまた気付いていた。


「もしかして今の子供達…」


「うん、僕と…同じだ」


 C地区ではソドム程の飢饉がないとは言え、やはり貧しい人々は存在している。本来ならこんな回り道をしている場合ではないのだろうが、妙に二人が気になった僕はあっさり承諾したソフィアを連れて二人の後を追った。

 彼等に会ったところで説教をするつもりなんてない。ただ彼等が僕と同じような日々を過ごしているのか、それが気掛かりだった。そして出来る事なら…何か力になってやりたい。

 不可解な行動ではあるが、僕は罪滅ぼしになるとでも思っているのだろう。僕は結局親友であるアンディを見捨ててしまった。彼が今頃どうなっているのか…ソドムを知る人間なら答えは一つ、僕は親友を殺してしまった。僕は二人を見た瞬間にアンディを殺してしまった罪悪感が込み上げてきて、いてもたってもいられなくなったのだ。

 これまで頭が一杯だったせいでその感情は薄れていたが、一度思い出すとそれは留まる事無く心を支配する。その為か二人を追う足取りは重い。そんな僕の気持ちを察してかソフィアは口を開く事無く黙って付いてきた。

 街を抜け森の中へ入ると、そこから先は一本道が続いていた。二人に気付かれない程度に距離を開けながらその後姿を追う。そうしてしばらく歩ていると少年は周囲を警戒するような素振りを見せながら何処かへ入っていき、少し遅れて僕達が到着したその場所は開けた平原にぽつりと立っている教会だった。

 聖堂の裏には施設があり、少し離れた所には鐘塔が見える。所々ひび割れが目立ち老朽化している聖堂だが、何処となく温もりを感じるような優しい雰囲気が漂っている。

 まだ僕にも両親がいた頃、休日に何度か教会に訪れて祈りを捧げた記憶がある。そんな思い出も入り混じってか、僕は教会の前で呆然と立ち尽くしていた。

 見上げると太陽が聖堂に遮られ、そこから溢れるような逆光が差し込み幻想的な光景が広がっている。その光景に魅入っていると鐘塔の鐘が鳴らされた。

 あぁ、僕はこの光景を知っている。ここを訪れた事なんてないし、両親と礼拝に訪れた記憶はあれど、それとは別の郷愁を覚える。何故かは分からないけど心が不思議と落ち着いていく事だけははっきりと分かった。

 神がいるとしたら、僕を赦してくれているとでも言うのか。そんな都合の良い解釈をしている自分に気付くと急に自己嫌悪してしまう。

 かぶりを振り気を取り直すと隣にいるソフィアへ視線を移す。すると彼女もまた僕と同じ様に呆然とした様子で聖堂を見上げていたが、その表情は何処か苦しそうな、まるで神に対して必死に赦しを請う罪人のようだった。

 掛ける言葉が見当たらず僕は何となく鐘塔の方へ視線を逸らす。するといつの間にかそこに立っていた一人のシスターと目が合った。立ち尽くす僕達を確認したシスターは穏やかな笑みを浮かべながらこちらへ歩み寄ってくる。


「礼拝にいらしたのですか?」


「あ、いや…僕達は…」


 返答に困っているとそこへ先程見掛けた幼い少女が現れた。


「センセー、この人達はだぁれー?」


 少女は小走りに駆け寄ってくるとシスターの後ろに隠れるようにしてこちらを伺う。


「あ、あの…その子は?」


「身寄りのない子をうちで預かっているんです、この近辺に孤児院はありませんから…」


 そう言ってシスターはしゃがみこむと少女の頭を優しく撫でた。その表情からは母親と言っても差し支えのない程の慈愛が感じられる。


「いひひー! お兄ちゃんはれーはいにきたのー?」


「えっと…」


「そうよ、お兄さんと私は礼拝に来たの」


 会話を聞いていたソフィアはシスターと同じようにしゃがみこむと、少女に笑顔を向けた。


「あなたお名前はー? 私はソフィアよ」


「アンナー! ソフィアお姉ちゃん!」


「そう、アンナちゃんっていうのね。よろしくね」


 以前孤児院で働いていただけあってか、ソフィアはアンナと名乗る少女とすぐに打ち解けたように見える。

 二人は握手を交わすと、その場でよく分からない踊りを始めるアンナを前にしゃがみ込んだソフィアが笑顔で手拍子を始めた。

 そんな初めて見るソフィアの姿にさっきまで僕の心を支配していた暗い気持ちはいつの間にか薄れていた。


「ふふ、良かったら礼拝して行かれては如何ですか?」


「そう…ですね」


 こうなってしまっては今更何もせずに帰るというのも気まずいため、シスターに案内されて僕達は聖堂の中へ入る事にした。

 すっかりアンナはソフィアに懐いたようで、二人は手を繋ぎながら後ろから付いてくる。

 祭壇の前に立つと再び幻想的ながらも荘厳な雰囲気に身を包まれた。聖堂奥、上部に広がるステンドグラスには翼を生やした天使の絵が描かれ、そこから差し込む光が聖堂内を満たしている。

 決して豪勢とは言えないし老朽化している聖堂だが、柔らかい光と祭壇を飾る装飾品は疲れ切った心を不思議と温かくさせた。


「この聖堂では七大天使の一人であり、天使の牢獄『第五天マティ』の支配者とされる大天使サンダルフォンを祀っているんです」


「サンダルフォン…?」


「えぇ、エノクと同じくかつて人間であったエリヤという預言者が生きながらにして神にその所業を認められ、天使として昇華された存在…それがサンダルフォンなのです」


 どれも聞いた事のない名前だけど、どうやらステンドグラスに描かれている天使はそのサンダルフォンらしい。


「共に祈りましょう。第五天マティ、我等が王国マルクトを守護される大天使サンダルフォン、我が祈りへ何卒慈悲なる答えをお導き下さい。大天使ミカエルと共に悪しき魔王を討ち取って下さい。世界に主の福音を賜らん事を…」


 隣で祈りを捧げ始めたシスターに倣って僕も祭壇の前で膝を突き、静かに目を閉じ祈りを捧げる。

 こうして祈りを捧げるなんて何年ぶりだろうか。両親を失ってソドムで生きるようになってから神の存在など信じなくなったというのに、今こうして信じていなかったはずの神に祈りを捧げるとは何とも皮肉な話だ。

 もし神が存在するのならば…僕はこいねがう。どうかソフィアだけでも救って欲しい。そしてアンディが無事であるよう…彼に神の加護を…。

 気が付けば後ろではアンナとソフィアが同じように目を閉じて祈りを捧げていた。

 幼い頃聞かされた話では祈りとは神の声を聞く為にするらしい。神に祈り続けていれば人間が生まれながらに背負っている原罪がいつか赦され、神の声が聞けるようになる。そして神々の世界にだけ存在の許された完璧なる人間、アダム・カドモンへ近付く事が出来るのだそうだ。

 預言者…それがこの世界において神の声を聞いた者とされ、最もアダム・カドモンに近いとされる存在だ。

 当然ながらそんな預言者なんて見た事はないし、あくまで神話に存在する登場人物だろう。だけど本当に預言者が実在するのなら教えて欲しい。神は一体何を考えているのかと。

 祈りながらまるで神を冒涜しているかのような考えをしている自分に気付き、罰当たりな気がして自嘲気味な笑みが零れた。こんな都合の良い僕の祈りが届くはずがない。分かってはいるものの、それでも祈らずにはいられなかった。

 ふと振り返りソフィアの様子を伺ってみるが、祈りを捧げる彼女の表情は先程と同じで何処か苦しげながらも真剣そのものだった。

 すっかり気が散ってしまったものの、その後もしばらくシスターの言葉を聞きながら気を取り直して僕は神へ赦しを請い祈り続けた。

 礼拝が終わるとシスターは聖堂の裏にある宿泊施設へと案内してくれたが、そこにはアンナのような孤児が他にも数人いた。そして子供達はソフィアとあっという間に仲良くなり、断りきれずにソフィアはシスターと一緒に子供達と外で遊び始める。その光景を僕は穏やかな気持ちで眺めていた。

 思えば僕もこうして孤児院では優しい先生達に囲まれていたおかげで、両親を失った悲しみを忘れる事が出来た。そう考えるとこの子供達が大きくなっても僕のような思いをする事なく幸せに生きて欲しいと思える。

 その時、子供達の輪の中に入る事もなく、何処か物憂げな表情で木陰に座っている少年に気が付く。声を掛けようと歩み寄るとそれは先程見た少年だった。


「…君は一緒に遊ばないの?」


「いいよ…俺はガキじゃないし…」


 そう言う少年は僕より幼いものの、確かに他の子供達より年上のようだ。しかしその表情はただみんなと遊ぶのが恥ずかしいという訳ではなさそうだ。


「そっか…。さっき露店でやった事は…君が考えたの?」


 この件について尋ねるべきか悩んだものの、年長者である彼が何故この環境下で盗みを働いたのか気になった。

 少年は一瞬気まずそうな表情を浮かべるが、視線を交わす事なくぶっきらぼうに答える。


「…だったら何だよ、さっさと先生にチクれよ」


「そんな事はしないよ。ただどうして盗みを働くのか気になったんだ」


「…ここにいたくないからだよ」


 少年の言葉の意図する所がよく分からなかった。こうして教会で匿ってもらっているのに、一体何が不満だと言うのだろうか。

 だが少年の表情からは何か考えがあっての事に思える。それが妙に引っ掛かり、そのまま話を続けてみる。


「アンナ…あの子も同じ考えで?」


「アンナは俺の妹だ。だから…あいつは俺が絶対に守るんだ」


 守る…そう言いながらも妹に盗みを働かせているという事は、二人一緒に教会から追い出されたいのだろうか?

 そうまでして何故この教会から出て行こうとしているのかが尚更分からない。だがそれを尋ねると少年は固く口を閉ざし、取り付く島もなくなってしまった。


「話したくないなら無理には聞かない。あ…今更だけど、僕はシオン」


「…レノ」


「ありがとう、レノ。君と話せて良かったよ。アンナと無事に抜け出せると良いね」


 これ以上話を聞いても彼の機嫌を損ねるだけだと判断すると話を切り上げる。

 彼は彼なりに思う事があり、それがアンナの幸せを考えた末に出した答えならば、その選択について僕がとやかく言う権利は無い。何よりアンナを守ると言ったレノには親近感を覚えた。

 話を終えて腰を上げるとレノは何かを言おうとして口を噤むが、きっとここで聞いても彼は何も答えないだろう。

 ソフィア達の方へ視線を向けると相変わらずみんなで楽しそうに遊んでおり、とてもじゃないがそれを邪魔する気は起きなかった。

 思わぬ所で時間を食ってしまっているけど、今日はこの近辺の宿で休んでも良いかもしれない。急げば明日の深夜にはB地区行きの列車にも忍び込めるだろう。

 今後の予定を決めると僕は教会の周囲をグルリと周るようにして散歩する。


 市街地から少し離れた場所にある教会はまるでC地区の中から切り取られた空間のように静かだった。それが心地良く感じるのだが、人気が無くなり妙な不安を感じてしまうのは先程のような温かい空気に触れていたせいだろうか。

 気が付けば僕は鐘塔の前までやって来ていた。何気なく扉を見てみるとそこには頑丈そうな錠が掛けられていたが、教会の敷地内にしてはその錠は不釣合いなぐらい大きく頑丈で、禍々しく見えた。

 子供が勝手に忍び込んで梯子などから滑り落ちる危険を考えれば封鎖するのは仕方のない事だろうけど、それにしては厳重過ぎる施錠の様に思える。


「シオンさん…でしたか、何をしているのですか?」


 突然後ろから声を掛けられ驚き振り返ると、そこには少し困った表情のシスターが立っていた。


「あ…その…厳重に扉を閉めてるなって…」


「そうですね…。昔この鐘塔の梯子から滑り落ちて大怪我をした子供がいて…それ以来こうしてしっかりと施錠しているのです」


 そう言ってシスターは悲しげな表情を浮かべるが、そこに何か違和感を感じ取る。

 悲しげな表情…その中には何か得体の知れないものが隠れているような気がする。しかしそんな事を聞ける訳もなく、促されるようにして僕はシスターと共に鐘塔を後にした。


 日が暮れ始めた頃、ソフィアに今後の予定を伝え、教会を後にしようとする。しかしソフィアはアンナや他の子供達によって引き留められてしまった。


「ソフィアお姉ちゃん…もう行っちゃうのぉー…?」


「ごめんねアンナちゃん…。お姉ちゃんはずっと一緒にはいられないの」


「じゃあソフィ姉ちゃん、今日だけここで一緒に寝ていこうよ!」


「え、えーと…」


 子供達に懇願されるソフィアは嬉しそうであるものの、どうすればいいのか分からずに困惑していた。目で助けを求めるソフィアだが、僕だってここまで慕われている彼女を子供達から取り上げるのは難しい。

 たらい回しの様に今度は僕がシスターに助けを求めると、シスターは笑いながら提案してくれた。


「良かったら今晩はこちらで休んでいかれてはどうですか?」


 思わぬその提案は所持金に余裕のない僕達には有難かったが、素直にその好意に甘えていいものかと逡巡してしまう。杞憂だと思いたいが先程シスターに覚えた違和感も気になる。

 しかし考えあぐねていると困った表情を浮かべたソフィアは子供達に腕を引かれ抵抗出来ずに連行されてしまった。

 現状を顧みるとこうして穏やかな時間が過ごせているのは奇跡のように思える。追われている身ではあるが、流石に追手だってこんな場所に僕達がいるなんて予想もしないはずだ。

 そう考えるとここで一泊するのは良い撹乱かくらんになるかもしれないし、ソフィアへの負担を考えれば一度ゆっくり休むのも良いかもしれない。丁度一人で考えたい事もある。


「…申し訳ないですけど、一泊だけお願い出来ますか?」


「勿論ですよ、今夜はこちらの施設でゆっくりくつろいで下さいね」


 シスターの柔らかな笑みを見ると先程感じた違和感はただの気のせいだと思え安堵する。

 振り返ると僕とシスターのやり取りを見ていた子供達の表情は皆眩しいぐらいに輝き、その瞬間に児童全員がソフィアの元に集結した。


「お兄ちゃんが泊まっていくって! お姉ちゃんも一緒だね!」


「やったー! ソフィお姉ちゃん、絵本読んで欲しいのー!」


「よーし…じゃあ今日は一杯遊びましょうかっ」


 一瞬ソフィアが本当に良いのかと不安げな表情を浮かべたが、僕はその答えとして笑顔を向ける。それを受け取ったソフィアはまるで不安を振り払うかのように子供達に満面の笑みを向けると手を取って部屋の奥へ移動した。

 その背を見送ると僕は改めてシスターに礼を言って頭を下げる。


「助かります、本当にありがとうございます」


「いえ、いいのですよ。きっとあなた方がこうして此処へ訪れたのも神のお導きでしょう」


 神の導き…。だとすればこうして僕達が追われているのも全て神のシナリオなのだろうか。

 …いけない、どうにも僕は神というものに対して不信感が強いようだ。こうして一時でも安らぎを得られるのも、シスターの言葉を借りるなら神の導きだ。ここは素直に神に感謝しておかないと後で本当に罰が下りそうで怖い。


「あ、ただ外は暗くて危険なので…施設の外には出ないようお願いしますね」


 その後シスターに今夜の寝床へ案内してもらうと僕は早速ベッドの上で横になる。

 色々と考えなければならない事がある。それにはまず現状の整理をしておかなければいけない。

 まず気掛かりなのはアンディの事だ。僕の為に動いてくれたアンディ…その想いを裏切ってしまった。自分が間違っているつもりはないけど、かと言って彼を責める事なんて出来ない。でもそのせいで大切な親友が命を落としてしまったかもしれない…そう思うと自分の行動が軽率で浅はかだったのではないかと悔やんでも悔やみきれない。

 ソフィアを救い、アンディも救う方法は無かったのか?

 今更考えても仕方の無い事なのは分かっていても、考えられずにはいられなかった。だがいくら考えたところでその答えなんて出るはずもない。

 激しい自己嫌悪に見舞われるが、弱音を吐く事は許されない。ならば今出来る事と言えば彼が無事である事を祈り、いつか彼に贖罪せねばならない。

 それまでに更に多くの罪を重ねる事になるだろうけど、全てを失ったあの日から僕は生きる事自体が罪だ。ならば今更罪を重ねる事に対して恐れる必要などないだろう。それが人殺しの罪であろうと…僕はそれを認め受け入れなければならない。そして生き延びてアンディへ謝らなければいけない。

 これから追手と交戦する事になったとしても、いつまでも人を殺したくないなんて気持ちで戦ってちゃ駄目だ。彼等はそれこそ命懸けでソフィアを捕まえに来るだろう。

 ソフィアの話によると追手は母なる血マザーブラッドとかいう教団と、恐らくそこから依頼を受けた蛇の首だ。蛇の首だけならまだしも、ヴァンパイアの集団である教団と交戦すればタダで済まないのは目に見えている。多数を相手するとなれば同じヴァンパイアである分、こちらが圧倒的不利になるのは間違いないだろう。

 そしてソフィアの実力は未知数だけど、彼女は戦いを望んでいない。だから僕は彼女を戦わせたくない。綺麗事かもしれないけど、血を浴び、罪を背負うのは僕だけで十分だ。故に僕はどんな敵であろうと絶対に負ける訳にはいかないんだ。人を殺す事に躊躇いを覚えていては駄目だ。


(もっと…もっと非情に徹するんだ)


 そんな僕の意思に反応するかのように、体内を循環する血液が熱く鼓動する。ふと窓の外を見上げるとそこには暗い空に煌々と怪しい光を放つ月。


「月の秘密…か」


 ソフィアのように月の魔力を吸収し、それを体内にいつまでも留める事が出来ない僕は、この時間がヴァンパイアとしての本領を発揮出来る唯一の時間帯だ。しかしそれは教団の敵も同じこと。万が一を考えるとこの時間こそ警戒を緩める訳にはいかない。

 ベッドから起き上がると窓辺から周囲を見渡してみる。ヴァンパイアの力を得たお陰で夜目が利くようになった僕は闇の中で微かに動く人影にすぐ気が付く。しかしよく見ればそれは昼間に少し話を交わしたレノだった。


(こんな時間に一人で何を…?)


 いくらC地区がD地区より治安が良いと言っても、それはあくまで比べる対象がD地区の話であって、夜になればC地区にだって変な連中は沸いているだろう。

 シスターの監視の目もある事を考えると、まさかレノは施設から逃げ出そうとしているのか?

 しかし周囲にアンナの姿は見えない。レノが一人でいる理由を考えてみるが、昼間に交わした会話の中に何かヒントがあるはずだ。妹のアンナを守ると言ったレノ…この行動は何か関係あるのだろうか。

 不意にアンナがどうしているのか気になった僕は、ざわつく不穏な予感を打ち消すように足早で子供達の元へ向かう。すると開けた教室でソフィアは絵本を読み聞かせており、子供達はそんな彼女を中心に囲うようにして楽しげに耳を傾けていた。その中にアンナがいる事を確認して一先ず安心する。


「あら、シオン?」


 ソフィアがこちらに気付き顔を上げると子供達の視線も一緒に僕へと向けられた。


「お兄ちゃんもいっしょに絵本よもー!」


 そう言ってアンナが僕の足元に駆け寄ってくるが、僕の異変を察知したソフィアの表情に一瞬影が差す。


「何か…ありました?」


 だが足元で無邪気な笑顔を浮かべるアンナを見ると何も言えず、僕はソフィアに笑顔を返す事しか出来なかった。


「いや、どうしてるのか気になって…。アンナ、絵本は楽しいかい?」


「うん! 今ね、おおかみさんがつかまっちゃったの!」


「そっか、邪魔しちゃってごめんね。ソフィア、僕はまた部屋で休んでるよ」


「はい…。何かあったらすぐに言って下さいね」


「うん、分かった」


 ソフィアにそれ以上気取られないよう笑顔を残して部屋を後にする。そして僕の足は自然と外へ向けられた。

 レノの身が心配だし、何より彼の行動があまりに不可解である。

 しかし施設から出た後になって僕はシスターが見当たらなかった事に気が付いた。てっきり子供達が勝手に外に出ないように監視していると思っていたんだけど…。

 嫌な予感がしてきた僕は先程レノを見掛けた場所へ走り出していた。

 辺りに照明などなく、月明かりに照らされただけの敷地内は不気味なぐらい静まり返っている。

 先程窓から見えた場所へやって来たがそこにレノの姿は無かった。ここから見えるのは聖堂と宿泊施設…そして鐘塔だけ。街へ出るには森を抜けなければならないけど、この暗闇の中で子供が一人明かりも持たずに抜けるのは難しいだろう。そう考えるとレノはまだこの敷地内の何処かにいる可能性が高い。


 聖堂を覗いてみるがそこは無人だった。昼に見た時は光差し込む荘厳な聖堂だったが、夜になりステンドグラスから差し込む月の光と多数の蝋燭に照らされた聖堂は不気味に感じる。

 聖堂奥のステンドグラスに描かれた巨大な姿のサンダルフォンの表情は険しく、何処か怒っているようにも見えた。

 雰囲気が変わるだけでこうも印象とは変わるものなのか…。


「な…なん…だ…あれ…?」


 そんな感想を抱いた瞬間、目の前で恐ろしい出来事が起きる。突然ステンドグラスに描かれたサンダルフォンの目元から何かが垂れ落ちた。一瞬ステンドグラスに傷が入ったのかと思ったが、それは確かに流れ落ち続けている。

 恐る恐る聖堂の中央まで歩みを進めるとその正体が判明する。ステンドグラスに描かれたサンダルフォンの目元から流れていたそれは…紛れも無く血だった。

 理解出来ない現象に恐怖を覚える。目の錯覚ではないかと考え直そうとするが、確かに血は何処からともなく溢れ出し、流れ続けていた。


(一体…これは何なんだ…?)


 恐怖のあまり足が竦み、その場から身動きが取れなくなる。怒っているのか、悲しんでいるのか、あるいはその両方か…。サンダルフォンは険しい表情のまま血の涙を流し続けていた。


 その時、聖堂の外から物音が聞こえるとそれまで固まっていた体が弛緩し我に返る。レノかと思い開かれたままの聖堂の扉を潜ろうとするが、その瞬間に二人の人影を確認し思わず身を隠して様子を伺う。

 一人はレノ、そしてもう一人は修道服に身を包んだ見慣れない男だ。この教会の聖職者はシスターだけだと思っていたが、神父もいたのか?

 しかし神父にしてはその男の気配は普通ではない。以前の僕ならきっとその何かが分からずただ恐怖していただろう。しかし今の僕は普通の人間ではなくヴァンパイアだ。

 だからだろうか、どうやら同属の匂いには敏感になっているらしい。レノと会話を交わす神父からは漂うのは呪われし血の香り。間違いなく神父は僕と同じヴァンパイアだ。

 しかし同じヴァンパイアと言っても僕やソフィアとは全く以って異なる点がある。それは彼から漂う血の匂いが濃過ぎる事だ。

 ソフィアは月の魔力によって基本的に吸血を必要としないし、僕は先日ソフィアから吸血しただけで吸血量としては然程なく、漂う血の匂いはまだ微かなものだ。ソフィアに至ってはヴァンパイア独特の匂いを纏っているだけで血の匂いなんてほとんどしない。

 だがこの神父は明らかに僕達とは異なり、ヴァンパイアである事を隠すつもりもないようだ。

 神父から感じられるのは狂気。レノが何故そんな男とこんな時間に密会しているのかは分からないが、嫌な予感が確信に変わりつつある僕は息を殺し二人の会話に耳を立てる。


「覚悟は出来たのかね、レノ君」


「本当に…本当にアンナは助けてくれるんだろうな」


「あぁ、約束しよう。それが彼女の為になるのか分からないが…」


「いいんだ、アンナは俺が守る。それで俺はどうすればいい」


「ふむ…契りを交わしてもらう。契りを交わす事によって君もまた我々と同じ、母なる神に選ばれし使徒として母なる血マザーブラッドに尽くしてもらう」


「…この教会から離れることになるのか?」


「そうだな、しばらくは力に慣れるためにも母なる血マザーブラッドで修練してもらう。君が力をコントロール出来るようになったらアンナ君にはまた会いに来ればいい」


「分かった…」


「よろしい。痛いだろうが決して声は上げないで欲しい、出来るかな?」


 そう言う神父の声は表面だけなら柔らかく優しい声だが、その裏から感じられるのは狂気。それにレノも気付いているのか、覚悟を決めたはずの体は小刻みに震えていた。


 …我々と同じ、神に選ばれし使徒。

 …母なる血マザーブラッドに尽くす。


 その言葉の意味を理解した瞬間に体に戦慄が走った。


 我々と同じ…即ちヴァンパイア。

 母なる血マザーブラッド…其れはソフィアの敵。


 つまりこの神父、いやこの教会は…


「やめるんだレノ!」


 声を上げながら飛び出し、それに気付いたレノは閉じていた目を見開く。その目はまるで救いを求めるように涙を浮かべていたがレノは既に神父の腕の中。


「シ…オン」


 神父は僕の存在に気が付くと怪しい笑みを浮かべ、そのままレノの首元に…噛み付いた。


「う…ぎゃあぁぁぁぁっ!!」


 あまりの激痛にレノは叫びを上げ暴れて逃れようとするが、神父はその腕を解くどころかレノの細い体をへし折るかのように強く締め上げ、更に牙を深く突き立てる。吸血行為を阻止しようと二人の間に割り込もうとするが、僕の手が届く直前で神父はレノを抱いたまま宙高く飛び上がった。


「や…やめろぉぉぉ!」

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