第3章 逃亡生活 ―Sion Side―

Episode9「吸血」

 ソフィアを抱えて乗り込んだ貨物列車はすぐにC地区へ辿り着き、僕達は警備兵に見付からないよう積載所から抜け出す。

 到着した時C地区はまだ日の出前で静まり返っていたものの、住居が立ち並ぶそこは予想通り身を隠すには打ってつけだった。

 しかし蛇の首の追手が此処まで来ない保証はないし、何よりソフィアを狙う黒幕、母なる血マザーブラッドの追手が何処から現れるか分かったものじゃない。そう考えるといつまでもC地区に残る訳にもいかなかった。

 そこで次の行き先を考えてみたところ、東D地区…通称ゴモラの存在を思い出す。

 ゴモラはかつてのソドムのように現在は隣国と交戦の真っ只中で、その混乱に乗じて密入国する者は後を絶たないと聞く。ならば逆にセインガルドから抜け出す事も可能なはず。その為には再びC地区からD地区へ抜けなければならないが、恐らくゴモラにも定期的に走る貨物列車は存在しており、此処へ来た時と同じようにして忍び込めば左程難しい事ではないだろう。

 ソフィアに考えを伝えてみると柔らかい笑みを浮かべながら頷いてくれる。それを見て再び決意を固めると、僕達は東C地区へ向かう為にまずは北C地区を目指す事にする。

 急ぐなら馬車を使うのも手だが、所持金に余裕は無く、いつまで続くか見通しの立たない逃亡生活では無闇に金を使う訳にはいかない。加えて夜間の襲撃を避ける為にも昼に徒歩で移動するなら、順調に行けば二日で東地区には辿り着けるはずだ。

 辺りはまだ薄暗く、追手の警戒をしつつ僕とソフィアはまだ静かなC地区の路地を歩き出した。


 それから時間が経つにつれ人通りは増えていき、太陽が頭上に昇る頃にはD地区では見た事のないぐらいの活気がC地区に溢れ出す。見る物全てが新鮮に見えて思わず顔が緩みそうになるが、追われている身だと自分に言い聞かせて気を張り巡らせた。

 いくらヴァンパイアの力を手に入れたとは言え、その本領は月の昇っている間に限られる。それを踏まえると母なる血マザーブラッドの教団員と遭遇する可能性は限りなく低いが、蛇の首に襲撃された場合ソフィアを守りきれる保証はない。

 緩みそうになる気を何度も引き締めつつ、不自然にならないよう極力大きな動きは見せない。しかしそんな僕の緊張とは裏腹に隣を歩くソフィアは警戒している様子はなく、極々自然に街並みを楽しんでいるように見えた。時折視線が合うと彼女は楽しいですねと言わんばかりの笑みを向けてくるが、それが妙に気恥ずかしくてつい視線を逸らしてしまう。

 そうしてしばらく歩いていると小腹が空き始め、その辺にあった露店に立ち寄ってみると売られているリンゴの価格に僕は目を丸くした。


「何だい坊主、うちの商品に文句でもあるのか?」


「い、いや…安い…ですね…」


「ん? がはははっ! うちは安くて新鮮なのが売りなんだ!」


 それはD地区では体験した事のない商人とのやり取りで、買い物がこんなにも楽しいなんて思ったのは生まれて初めてだった。

 買ったリンゴを半分に割りソフィアに手渡すと、彼女は相変わらず柔らかい笑みを浮かべている。


「シオン、楽しそうですね」


「ごめん…ソドムじゃこんな事なかったから」


「ふふっ、追われてるはずなのに楽しいなんて…不謹慎かしら」


 そう言いながらソフィアはリンゴに齧り付く。彼女の言葉に嘘偽りはないようで、その表情は今まで見た事のないぐらい晴れやかなものだった。


「あ、美味しいっ…」


「うん…仕入れてる物がソドムとは違うんだろうね」


 追われているはずなのに、こうしてソフィアと一緒に逃げる日々が楽しいと思えてしまう。

 夜間限定とは言え、彼女のおかげで僕は力を手に入れられた。ならばいつ来るか分からない追手に対して常に怯える必要はないんじゃないか?

 そう思うと少しだけ肩の力が抜けたような気がする。

 かと言って本当に油断する訳にもいかないので、依然周囲には最低限の気を配りながらも僕はソフィアとC地区を楽しみながら歩を進めた。

 しばらくして日が沈むと段々と人通りは減っていく。気持ちとしてはこのまま一刻も早く東へ向かいたいところだが、夜中に歩き回るのは目立つ。そして万が一追手がいたら顔も割れてしまった僕達は一瞬で発見されるだろう。

 そこで僕達は身を隠す意味も兼ねて素直に宿屋で休む事にした。


 C地区へ来てから思った事だが、食べ物にしても何にしてもD地区に比べて物価が安く、ソドムの市場が如何に蛇の首に斡旋されていたのかがよく分かった。

 宿に来る前にもソフィアと夕食を摂ったが、その時の食事代だってソドムで売ってたリンゴ一個の価格と比べて安いぐらいだ。そんな商品の価格を見ていちいち驚く僕にソフィアはずっと笑っていて、それが気恥ずかしかったものの、流石にこの衝撃は隠せなかった。


 宿に到着すると交互にシャワーを浴びるが、この時に血や泥が染み付いた服も一緒に洗ってしまったせいで着る服が無くなった僕達はお互いバスタオルを羽織っていた。


「あ…あの…明日の朝には乾いてると思うから…」


 ベッドの上でどぎまぎする僕の横でソフィアは随分と落ち着いた様子で湯上りの余韻に浸っていた。

 僕なんかより遥かに長い時間を生きている大人なのだから当然と言えば当然だろうけど、残念ながら僕は違う。

 こんなに綺麗な女性と二人きりで宿に泊まった経験なんてある訳がないし、タオルから露出する女性特有の白く絹のような透き通った肌を間近で見る機会なんてものもない。更に言えばソフィアからほんのりと漂う良い香りのせいで余計に緊張してしまい、やたらと喉が渇いて上手く喋れなかった。

 結局何を話せばいいのか分からず、お互いシャワーを浴びてからはずっと無言のまま時間だけが過ぎていた。


「もしかして緊張…しています?」


 視線を逸らしたまま静かに頷くとソフィアはクスリと小さく笑った。


「こーんなお婆ちゃん相手に緊張してくれるなんて…ちょっと嬉しいですね」


「で、でも…外見は若いし…綺麗だし…」


「ふふ、そう思うと便利な力ですね」


 相変わらずソフィアは無邪気に笑っていたが、その笑顔を見ていると不意に胸の中で変な気持ちが疼き出す。

 シルバーブロンドの髪から覗く雪のように真っ白い肌。

 気が付けば僕の視線は彼女に釘付けになっており、吐き出す息も徐々に荒くなっていた。


「シオン…?」


 不思議そうな顔をこちらに向けてくるソフィア。そのあどけない表情を見た瞬間、スイッチが入ったように僕の体は強い衝動と共に脈動を始める。

 それは彼女を抱きたいなんて感情ではなく、もっと暴悪なもの。信じられない事に僕はソフィアに対して殺意にも似た激情を覚えていた。

 そんな自分が恐ろしくなり視線を逸らすが、一度始まった脈動は収まるどころかどんどん強くなっていた。


「はぁ…ぐっ…うぅ…!」


「ど、どうしたんですかシオン?」


「な…何でもない…何でもないから…」


 ベッドの上でうずくまり、必死に衝動を押さえ込むように体を強張らせる。異変を察知したソフィアが心配そうに触れてくるが、その柔らかい手を今すぐ引き千切って貪りたいと思ってしまう自分がいた。

 危険だ、このままでは何をするか分からない。そう判断しベッドから飛び降りるが、体に上手く力が入らずその場で倒れてしまう。

 喉が異常に渇いていた。呼吸さえ困難となり、激しい衝動と苦しみのせいで僕はその場でもがき始める。


「がっ…! かはっ…はぁっ!」


 最早ソフィアの事すら気にする余裕が無くなりつつあった。

 そんな僕の異様な姿を見てもソフィアは取り乱さず、そっと僕の頬に手を添えてくる。


「もしかして喉が…乾くんですか…?」


 何故分かったのかと疑問が沸く前に僕は無言で強く頷くが、理性が吹き飛びかけていて思考すらまともに出来ない状態だった。だから僕は次に彼女が取った行動をおかしいとも思わず本能に身を委ねてしまう。

 ソフィアは僕を仰向け寝かせるとその上に覆い被さり、耳元で優しく囁く。


「…血が欲しいんですよね?」


 その言葉を聞いた瞬間、僕は返事をする間も無く目の前に差し出されたうなじへ牙のように鋭くなった歯を突き立てた。

 ソフィアの身の案じる事など頭には一切なく、僕は本能が求めるままに首元を牙で抉り、そこから溢れ出てくる血を貪るようにすすり飲む。

 更にソフィアが逃げられないよう、腕と足でしっかりと抱き締めながら獲物を食らう姿はまるで捕食者のようだ。

 その間ソフィアは逃げる素振りをまったく見せないどころか、苦痛に顔を歪めながらも僕の頭を優しく抱き締め、耳元に微かに届く痛々しい声は寧ろ心地良かった。


 それからどれぐらいの時間が経ったかは分からない。ふと我に返ると眼前には獣に食い散らかされたような、無残にも首の半分近くを抉られた血塗れのうなじが飛び込んできた。


「ソ…ソフィア…?」


 変わらず僕の頭を抱き締めたまま動かないソフィアに恐る恐る声を掛けると、弱々しい返事が返ってきた。


「…もう…大丈夫ですか…?」


 ゆっくりと離れ僕を見やるソフィアの表情は何処か悲しげだったが、いつものように優しく笑っていた。


「僕は…何を…。そ、そんなことよりソフィア…首が…」


「私は大丈夫です…少し休めばすぐに…」


 そう言ってソフィアはゆっくりと目を閉じる。恐ろしくなった僕は首を余り動かさないよう静かにその場で仰向けに寝かせ、腰に巻いていたタオルを震える手で彼女の傷口にあてる。


(僕は…何て事を…)


 突然恐ろしい程の衝動に襲われて…僕は欲望のままに彼女の血を…。

 そこで今更ながらヴァンパイアという存在について思い出した。


 ヴァンパイアとは一般的に人の血を吸って生きる存在とされているが、噂ではヴァンパイアウィルスに感染した人間が人の血を吸うなんて話は聞いた事がない。しかし僕はウィルスに感染したのではなく、ソフィアに吸血された正真正銘のヴァンパイアだ。


(僕は…勘違いしていた…)


 今になってようやく自分が手に入れた力に恐怖を覚えた。

 この力があればソフィアを守れるなんて思い上がっていたのが恥ずかしい。生き残る為だったとは言え僕は人間をこの手で、力で殺めた。そしてとうとうその力の矛先を守るべき大切な人にまで向けてしまった。

 ヴァンパイアの本能に支配されていくような恐怖と、それを御せなかった自分への憤りで気が狂いそうだった。

 口元からはソフィアの血が滴り、それを意識した途端に吐き気が込み上げてくる。口内はソフィアの血で粘着ねばつき、独特の臭いと味で充満している。

 先程まで異常なまでに欲していたはずの血だが、我に返った今はそれがただただ恐ろしくて仕方がなかった。

 しかし今はそんな自己嫌悪に陥ってる場合ではない。目の前で弱々しい呼吸を続けるソフィアに何か出来る事はないかと必死に考える。しかし何も出来る事が思いつかず、僕はただソフィアの大丈夫だという言葉を信じて祈るしかなかった。

 自分の無力さに打ち拉がれながらも、しばらくソフィアの手を握っているとゆっくりとその目が開かれる。


「シオン…泣いているのですか?」


「ソフィア! だ、大丈夫なの…?」


「もう大丈夫ですよ…。月の魔力を使って傷の再生を早めました」


 そう言って体を起こすとタオルの隙間から見えたソフィアのうなじは何事も無かったように、傷が跡形も無く消えていた。


「これが…月の魔力…」


「えぇ…月の魔力があるから私は吸血の必要がないんです」


 何処か悲しげな表情を浮かべるソフィアの瞳は、いつの間にか昨夜見た血の色に染まっていた。


「お互い血塗れですね…。一緒に…シャワー浴びましょうか?」


 言われるがまま一緒にシャワーを浴びるが、先程のような恥ずかしさや緊張はなく、ただ彼女への罪悪感と自分への恐怖と憤りで一杯だった。

 お互いに血を洗い流すと今度は裸のまま一緒にベッドの中に潜り込む。気が付けばソフィアの瞳の色は元に戻っていた。

 そこで彼女からまだ聞かされていなかったヴァンパイアの特徴について説明を受ける。


 まず瞳の色は月の魔力を使用する事で変化する。

 瞳が血の色に変わるのは月の魔力を使用した時に限られているようで、どうやら自覚がないだけで僕が昨夜ヴァンパイアとして目覚め力を使った時も同じように瞳が血の色に染まっていたらしい。そして先程の吸血の最中もヴァンパイアとして覚醒した為に瞳の色が変化していたようだ。

 もう一つの特徴はソフィアのような月の秘密を知るヴァンパイアは日の光を恐れない。これはソフィアに直接吸血をされた僕や母なる血マザーブラッドの教祖ゴードンも同じである。しかし厳密に月の秘密の魔力を受け継いだ訳じゃない僕とゴードンはソフィアの持つ力とは多少異なる部分があった。

 それが先程の吸血衝動である。ヴァンパイアは力の行使に月の魔力を必要とするが、ソフィアはそれを体内に蓄積する事が可能な為、吸血行為を必要としない。

 しかし僕のような不完全な存在は魔力を体内に蓄積する事が不可能で、月から付与される魔力もソフィアと比べると微々たるものだ。だから月から付与される力、その範疇を越えて月の魔力を行使するとその反動として不足した分を補う必要が出てくる。その不足分を補う行為こそ吸血行為だった。

 血、それは即ち生命力であり、月の魔力に加えてそれがヴァンパイアの力、命の源となる。

 僕は昨夜一度死に掛けた後に蘇っているが、どうやらあれは厳密に言うとソフィアに生き返らせてもらった訳ではなかった。

 彼女が僕に与えたのは月の秘密の一端…言わばヴァンパイアの因子だ。それによって僕は月から魔力を得られるようになり、自力で蘇ったに過ぎなかった。ただその再生は突然の覚醒のせいで制御が効かず、月から付与される魔力を遥かに上回ってしまっていた。そのせいで僕は魔力不足に陥っていたらしい。

 日中はヴァンパイアの力が影を潜めていたおかげで吸血衝動に駆られる事はなかったけど、夜になり力が活発になった事で思い出したように不足分の魔力を補おうと吸血衝動が起きたと思われる。

 この事はソフィアも初めから予想していたようで、僕に他の人間の血を吸わせる訳にはいかないという理由から自らの血を差し出した。つまりソフィアは僕に力を与えた時から吸血させる覚悟を決めていたのだ。


「私ならいくら吸血されても死ぬ事はないですから…」


 そうは言っても愛する女性の生き血をすするというのはやはり抵抗がある。かと言ってソフィアの言う通り、他の人間の血を吸う訳にもいかない。

 何よりソフィアの話ではゴードンに吸血された者、更にその者に吸血された者と、ヴァンパイアの力は感染する度に月の秘密が薄まっていく。しかしそれでも吸血された者が同じくヴァンパイアとなる事に変わりはない。

 そしてヴァンパイアとしての純度が低い者ほど月の魔力の吸収量は少なくなり、力を行使する度に吸血を必要としてしまう。そうなると結果的にその者は慢性的な吸血衝動に襲われ続ける。

 だったら力を行使しなければ済む話だと思うが、純度の低いヴァンパイアや適正のない人間が一度でも吸血衝動に駆られるとそのまま理性を失ってしまう事も多いらしい。


 話を聞き終えると僕は改めて自分の力について頭の中で整理する。

 ソフィアを守り抜くなら僕は今後も月の魔力の吸収量を超えて戦う事になるだろうし、その度に吸血が必要となってしまう。つまり彼女を守って二人で生きていくには…選択肢は一つしかない。


「私のせいでシオンを苦しめてしまっているのは分かっています…。でも全ては私の責任だから…」


「…僕は大丈夫だよ。それにソフィアを守ると決めた時からヴァンパイアとして生きる覚悟はしてた」


「でも…もしかしたら私も知らないような異変がこれからシオンの身に起こるかもしれません。それでも本当に…」


「もうヴァンパイアになってしまったんだ。どの道後戻りは出来ないし、するつもりもないよ」


 ソフィアは吸血が不要だったりと、他のヴァンパイアとは違いがある。だから他のヴァンパイアの特異点などは未だ全ては把握しきれているとは断言出来なかった。

 今回の僕の吸血衝動はソフィアが予想していた通りになったけど、もしかしたら今後彼女も知らないような異変が起こるかもしれない。下手すればそのせいで僕が命を落としたり、ソフィアに更なる危害が及ぶ可能性も考えられる。

 それでも僕の決意は決して揺るがない。ソフィアが側にいてくれるのならきっと大丈夫…縋るような気持ちで自分にそう言い聞かせ、必ず守り抜いてみせると心の中で誓う。

 そんな思いを込めてソフィアを強く抱き締めると、彼女もまた僕の胸に頬擦りしながら身を寄せてくれた。

 そうして素肌を重ね合わせていると直に伝わってくる体温が心地良く、どちらからともなくそっと口付けを交わす。それから僕達は抱き合ったまま眠りに落ちていった。

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