Episode8「家出」

 レヒト達が眠りに落ちた頃、B地区に拠点を置くマザーブラッド本部に蛇の首の首領であるゼファーはいた。

 通い慣れた一人の幹部の自室前に立つとその気配を察したのか中から女性の声が聞こえてくる。


「入っていいわ」


 許可を得てゼファーは室内に入ると、そっと扉の鍵を閉める。


「こんな時間にレディの部屋を訪ねるなんて、失礼な人ね」


 女性はベッドに腰掛けたまま無感情に男にそう吐き捨てた。ゼファーはそんな女性の態度を気にかける様子もなく椅子に腰を下ろし、テーブルにあった酒に口をつける。だが女性もまたゼファーのそんな不遜な行動を気に留める様子もなく手元に置かれた本に再び視線を落とした。


「…それで何の用かしら?」


「残念ながらソフィアには逃げられちまったよ」


「そう…当然の結果ね」


 二人は視線を交わす事無く、世間話をするかのように続ける。


「そうだな、確かに当然の結果だろうさ。だがちょいとばかし事情が変わってきた」


「どういう事かしら」


「一人仲間が出来たみたいだぜ、多分吸血されたんじゃねーかな」


「…だとすればゴードンと同じデイ・ウォーカーという事かしら?」


「やられた連中の話を聞く限りだとそうみたいだ。俺の予想だと二人は今頃C地区に逃げ込んでるはずだ」


「ソフィアが吸血を…。まぁ外に出ていないのなら問題はないわ」


「あぁ、だけどこっからが不思議なお話だ。二人を見失って行方が分からなくなったのは一昨日なんだが…さっき東C地区に現れたらしい」


「何処が不思議なのよ、あなたの予想通りC地区でしょ?」


「詳しくは俺も分からんけどな。ただ…そっちの方じゃ悪魔がやられちまってるんだよ」


 それまで事務的に対応していた女性の表情が一瞬変わった。読んでいた本からゼファーへ視線を移し、怪訝そうな表情を向ける。

 その反応を見てゼファーは微かな笑みを浮かべながら続けた。


「どうだ、不思議だろう?」


「悪魔を倒せるとすれば…ソフィアの犯行かしら?」


「その辺はあんたが一番良く分かってるはずさ、倒せるかどうかは別として彼女がそんな真似をするかねぇ」


「それは…」


「ちなみに東C地区にいたその二人組は前日にゴモラでも暴れてたみたいだ。そっちでは男の方にやられたらしい」


「…つまり二人を見失ったその翌日に、今度はゴモラで二人が確認されたというの?」


「そういう事になる。ただゴモラでの出来事を目撃した部下も相当混乱してたからな、それがソフィア達って確証はない」


 ゼファーの予想通りC地区へ二人が逃げ込んでいるのだとしたら、それは蛇の首から逃れる為であり、納得のいく逃走経路だ。しかし東C地区で確認された前日にもゴモラに現れていたとすれば妙な話である。

 もしそうなら二人はまずソドムからゴモラへ移動した事になる。その移動速度を考えると列車を使った可能性が高いが、問題はソドムと同じく蛇の首監視下にあるゴモラへわざわざ向かった理由だ。

 ソフィアの協力者が何者かは未だ不明だが、ゴモラに現れた二人がソフィア達と考えるには疑問が多かった。そして何より、ソフィアの事を知っている様子の女性はソフィアが悪魔を倒すなんて真似をするとは考えられなかった。

 そうなると残る可能性は一つ。ソフィア達とは別の二人組が悪魔を倒した事になる。

 しかし人間程度では悪魔にはどうやっても歯が立たない。悪魔の階級にも

にもよるが、最弱の悪魔ですらゴードンによって吸血されたヴァンパイアが大勢で囲んで勝てるかどうか分からない程の力を持っている。

 考えれば考えるほど理解に苦しむ女性だったが、そんな彼女の悩む様子を見てゼファーは自慢げに語り出した。


「これも俺の予想だけどな、ゴモラに現れたのはソフィアじゃなくて…俺達寄りの存在じゃないかね」


 だがそれを聞いた途端、女性の眉間に皺が寄った。

 自分達寄りの存在…それはつまりヴァンパイアではなく、神々の眷属という事になる。そんな突拍子もないゼファーの話に女性は若干の苛立ちを覚えた。


「あなた…本気で言ってるのかしら。分かっているとは思うけど神が自らこの世界に干渉する事は…」


「あぁ、普通なら有り得ない。でも俺達やソフィア以外に悪魔を倒せるとしたら…それしかないだろう?」


 女性は開かれていた本を苛立たしそうに閉じると、ベッドから立ち上がりゼファーに詰め寄った。


「馬鹿馬鹿しい。そんなに言うならあなたが直接確認してくればいいじゃない」


「あぁ、そのつもりさ。でも相手が俺の予想通りだとすれば…マリエルと会うのもこれが最後になるかもしれないだろ?」


 ゼファーはそう言うと椅子から立ち上がり、マリエルと呼んだ女性の頬に手をあてる。しかしマリエルは無表情でその手を払い除けるとゼファーの座っていた椅子に腰掛けた。


「その程度の相手に負けるぐらいなら存在していても意味がないわ」


「はっ、厳しいね。まぁ問題はソフィアだけじゃないかもしれないって事だ」


「ベルゼクト達にその話は?」


「まだしてないぜ。だってA地区まで行くのは骨が折れるし、何よりあそこの空気は好きになれねぇんだよな」


「はぁ…あなたの予想が当たっていたら無駄かもしれないけど、こっちも念の為に準備はしておく」


「おう、報告を楽しみに待っていてくれ」


「予想が外れている事を祈るわ」


「あぁ、そこでソフィアでも見付かれば有難いんだけどな」


 ゼファーは残っていた酒を飲み干すと教団本部を後にし、夜風に当たりながら月を見上げた。


「さって、それじゃターゲットが移動する前にさっさと東C地区を洗うかね」


 それまで気の緩んだ表情だったゼファーの顔が険しくなる。

 奥底で疼き出す衝動を堪えるが、ゼファーの股間は既に大きく膨張していた。この後に待ち受けているであろう死闘を思うと昂ぶる気持ちが抑え切れない。

 何とか高揚する気持ちを落ち着かせながら東C地区を目指すゼファーだったが、その途中で見知らぬ女性に声を掛けられる。


「あぁん? 俺は今とってもデンジャラスな状態なんだよぉ…?」


 今にも暴れたい衝動を堪えながら血走った目を向けると、どうやら相手はただの娼婦だった。


「きゃ、怖ぁい…。そのデンジャラスなトコ…鎮めてあげよっか?」


 そう言ってゼファーの股間に手を這わせる娼婦は清楚な顔立ちをしているが、漂う雰囲気はまるで肉食獣だ。そのギャップに思わずゼファーは生唾を飲み込む。


「…結構大きいけどそのおっぱい、挟める?」


「きゃっ、何処見てるの~! …ちゃぁんと出来るもん…他にも何でも…ね」


 ゼファーの表情は険しいままだったが、その視線は彼女の胸元に釘付けとなり、どんどんと鼻の下が伸び口元が釣り上がっていく。


「言っておくけど俺の凶器は暴れん坊だぜぇ…?」


「ふふ、楽しみぃ~。私の中でぇ…一杯暴れて良いからぁ」


 C地区のゲートを目指していたゼファーは昂ぶる気持ちを鎮める為だと自分に言い聞かせながら、女性と共にゲートとは真逆の方向にある宿へ消えていった。




 気が付くと顔に違和感があった。目覚めた瞬間はそれが何か分からなかったが、少し経つと自分の顔が何者かに舐められていると気付く。しかしそれが分かったところでますます訳が分からない。

 俺は確かエリスと一緒に行動している。となると俺の顔を舐めているのはエリスという事になるが、いくらこいつが人外の生き物だとしてもこれは流石に行き過ぎだ。


(いや確かにあいつは頭の中にも翼が生えてそうだし…何やらかしてもおかしくは…)


 などと考えている間も俺の顔は猛烈に舐められ続けていた。

 段々と腹が立ち、目を開くと同時に体を勢い良く起こし辺りを見渡してみるがそこには誰もいない。一瞬混乱するが、犯人は腹にある微かな重みだった。


「ハッ、ハッ、ハッ!」


 子犬が腹の上で激しく尻尾を振りながらこちらを見上げている。


「…何でこんな所に犬がいるんだ?」


 寝惚けた頭で昨日の記憶を辿ろうとしていると、そこへエリスが現れた。


「あ、レヒト起きました?」


「あぁ…。おい、この犬は何だ」


「何だって…昨日の夜から一緒にいるじゃないですか」


 それを聞いてようやく思い出した。そういえば昨夜はこの犬も一緒に泊まれる宿を探したじゃないか。

 子犬は俺の腹から飛び降りるとエリスの足に飛び付き、これまた節操無く尻尾を振っていた。

 そしてエリスが犬を抱き上げ頬擦りすると、今度はエリスの頬を激しく舐め始める。


「…幸せそうだな」


「幸せですよぉ~。こんなに可愛いんですも…ぷあっ! もうヨハネ、口は…ぷふっ! ちょ、ちょっと…ぷぁー!」


「何だ、名前つけてたのか」


「はいー、ヨハネって名前ですよ! ねー、ヨハネ~?」


 エリスはヨハネを両手で持ち上げ掲げると、名前を呼ばれた子犬はまるで返事をするかのようにワンと一度鳴いた。


「何でも良いけどよ…ちゃんと面倒は見――」


 と言いかけた瞬間、俺はベッドが濡れている事に気が付いた。布団を捲ると俺の股間周辺に黄色い染みが出来ている。


(…ジーザス)


 信じられない光景に思わず布団を元の位置に戻すが、その行動の一部始終を見ていたエリスは不思議そうな顔をこちらに向けていた。


「どうしましたか?」


「いや、どうもしてない」


「え、でも何だかレヒト凄く汗かいて…」


「寝苦しかったんだ」


「んー…?」


 生意気にもエリスは疑うような目を向けてくる。基本的に馬鹿のくせして所々こうしてしつこく噛み付いてくるから面倒臭い奴だ。

 しかし冷静に考えてみるが、これはどう考えても俺の犯行じゃない。実際俺のパンツはちっとも濡れてなんかいないのだ。だとすれば犯人はどう考えてもヨハネしか有り得ない。

 しかしエリスがこの状況で俺の話を聞いて理解出来るだろうか、いや出来まい。何故ならこいつは馬鹿だからだ。

 ヨハネと俺の尊厳を守る為にはエリスに気付かれないよう、布団をこっそり処理しておく必要がある。だがそうは思ってもエリスはまったくこちらから目を離そうとしない。

 ヨハネに何とかしろとアイコンタクトを送ってみるがヨハネはそっぽを向いており、さっきまであんなに激しく尻尾を振っていたくせに今はだらりと垂れ下がっている。

 まさかとは思うがこいつ…気まずくて知らないフリをしているというのか?

 所詮は犬だ、まさかそんなことあるはずがない…と思いつつ、今はヨハネのその行動が恨めしかった。

 この状況から脱却する方法を必死に考えていると良いアイディアが思い浮かぶ。しかしその瞬間エリスが布団を捲りにかかった為、俺は思わず声を荒げた。


「触るな!」


「ひっ! な、何でですか…?」


 いきなり怒鳴られたせいかエリスは若干涙目になっていた。あぁ、更に面倒な状況になってきたぞ。


「いや何だその…朝だからな、あれなんだ、布団を捲ると俺のが凄い事になってるんだ」


 起きてから大分時間が経っている為、実際は既に萎えてしまっている。だがこう言っておけば普通の女なら大抵は納得して引き下がるだろう。

 そう思っていたがやはりエリスは馬鹿だった。どうやら言葉の意味が分からないらしい。


「レヒトのが…凄い事? 何が凄い事になってるんですか?」


 わざわざ人がオブラートに包んで言ってやったのに…。


「あー、俺のチ○コが大きくなってるんだよ」


 面倒になりストレートに伝えてみるが、エリスの思考回路は俺の予想を遥かに超えていた。

 それを聞いて赤面するどころか逆に涙が滲んでいた目が突然輝き始めてしまう。


「チ○コがおっきく…み、見てみたいです!」


 何を言っているのかと逆に驚いてしまうが、エリスは問答無用で布団を剥がしにきた。


「や、やめろコラ!」


「マスターから話は聞いた事あったんですよー! どんな風になってるのか見てみたかったんですけどマスターは見せてくれなくて!」


 あのマスター、見かけによらず随分と変態なのかもしれない。しかし今はそれどころじゃない。最悪の事態だけは回避しなければならなかった。

 頼みの綱のヨハネは壁の隅でこちらに背を向けて座っており、どうやら俺を助けるつもりは一切なさそうだ。

 そして今は何とか布団を押さえつけているが、いつまでもこうしている訳にはいかない。

 こうなってはしまっては最終手段を取るしかない。


「おいエリス!」


「ほぇ?」


 一瞬エリスがこちらに顔を向けた瞬間、俺はエリスの唇を奪った。

 両手が塞がっている以上、今の俺に出来る事と言えばこのぐらいだ。


「…………」


(止まった…か?)


 どうやら効果はバッチリだったようで、布団を捲ろうとしていたエリスの動きが完全に停止した。

 ほんの一瞬唇が触れ合っただけだが、エリスはこちらを見たまま硬直し、見る見るうちに顔が真っ赤になっていく。


「な…な…何…を…」


「何って…目覚めのキス?」


 咄嗟にやってしまった事だが、とりあえずエリスを止めるという目的は果たせた。しかし状況は更に悪化してしまったかもしれない。


「私の…は、初めて…」


「初めてって、さっきヨハネとディープなキスしてただろうが」


「ヨ、ヨハネは別なんです!」


「たかがキスぐらいで何を慌ててるんだお前は」


「たかがって…! レヒトのバカー!!」


 顔を真っ赤にしながら目に薄っすら涙を浮かべたエリスは突然部屋から飛び出す。その行動が理解出来ずに俺は呆然とその後姿を見送っていた。

 勃起したチ○コが見たいとか言ってた奴がファーストキス程度でギャーギャー言うとは何とも不可解な話だ。

 だが考え方次第では自分から出て行ってくれるのなら逆に好都合ではないか?

 これで悩みの種が一つ無くなる訳だ。

 いつの間にかベッドの下に潜り込んでいたヨハネはちょこんと顔を出しながら、悲しそうな鳴き声を上げて俺を見上げていた。


「何だよ、元はと言えばお前のせいだろ。悪いと思ってるならエリスを連れ戻して来い」


 俺の言葉が通じているのか分からないが、ヨハネは一度元気に吠えるとそのまま部屋から飛び出して行った。


(…不思議な犬だ)


 部屋に一人残された俺はさっさとシーツを取り替えるが、それが終わると手持ち無沙汰になってしまう。

 エリスもヨハネもいなくなった、これで俺は自由の身だ。面倒な連中がいなくなった事だし、今のうちにさっさと移動してしまえば一人で仕事の続きに取り組める。

 そうは思うものの、どうにも実行する気になれず俺は綺麗にしたベッドの上で横になった。

 ゆっくり出来る時間だというのに、どうにも落ち着かない。今は日が昇っているからエリスが襲われるなんて事も無いだろうし、このまま何処かへ行くのなら勝手にすれば良い。俺にはあいつの子守をする義務なんて無いし、そんな事をしてやるつもりも更々無い。

 そもそもたかがキス一つであそこまでショックを受けられても逆にこっちが困るってものだ。人のチ○コは平然と見たがるくせに、どういう思考回路をしているのかまったく理解出来ない。

 そんなエリスに対して一瞬怒りが込み上げてくるが、それもすぐに失せてしまった。まさか俺はエリスがいなくなった事で感傷に浸っているとでも言うのか?

 自問自答してみるがよく分からない。頭の中は整理出来ているのに、俺の気持ちは何か引っ掛かっていた。


「はっ…馬鹿馬鹿しい」


 柄にもない事で思い悩む自分に反吐が出そうだ。たかがガキ一人いなくなった所で何だと言うのだ。

 気分を切り替えて食料を買いに街へ繰り出す。そして日が暮れた頃に部屋に戻るが、エリスは未だに帰ってこなかった。

 どうせそのうち腹を空かせて戻ってくるだろう。そう考えエリスの事は気にせず買ってきた物を胃に流し込む。

 しかしそれから日付が変わっても、結局エリスが俺の元に帰って来る事はなかった。

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