Episode7「悪魔」
「おぉ…」
ゲートを潜り抜けた先は、とてもD地区の隣にある街とは思えなかった。ゴモラに立ち並ぶ建物はほとんどがボロボロで死の街と呼んでもいいような景観だったが、それに対してC地区は至って普通の街だ。今まで見てきた他国の都市とそう大差はなく、人の賑わいも中々のものだった。
まるで不思議の国に迷い込んだような気分になり妙に楽しなってくる。一瞬エリスの事が頭を過ぎるが、俺は当初の予定通り気にせず歩き出した。
とりあえずB地区へ行くにも審査が必要な為、まずはその審査の申請だけでも済ませるべく俺は街の人にゲートの位置を聞き込みながら目的地へ向かう。
ゴモラのような街も好きだが、こういう活気に溢れた街も良い。風俗の勧誘などはなくやや刺激に欠けるが、夜になればきっとそういうのも出てくるだろう。ゴモラの女達の提示する金額は相当なものだったが、C地区が他の街と大体同じ相場だったら今の所持金でも一発ぐらい楽しめるはずだ。
そうなるとやはりエリスは置いてきて正解だった。あんなのが一緒にいたら楽しめるものも楽しめなくなる。
まぁあれだ、こうして自分で楽しみを見つけていく事が大事なのであって、エリスも自力で俺のような楽しみを是非とも見つけて頂きたいものだ。
街並みを眺めながらこの街の風俗街は何処かと探していると、いつの間にか人気のない路地に入り込んでしまっていた。
いかんいかん、お楽しみの前にまずはゲートの申請をしなければ。本来の目的を思い出し裏路地を後にしようとするが、背後から妙な物音が聞こえてくる。何かと振り返ってみるとゴミの山から二本の足が突き出ていた。
「…何だただの人形か。うん、そうだそうに違いない」
見なかった事にしようとするが、他にもゴミ山から突き出ている物を発見してしまう。
それは白くて巨大な翼。翼の生えた人形とは随分と変わった趣味の奴もいたもんだ。だが不気味にもその翼はピクピクと痙攣している。
「…あれ、生きてらっしゃる?」
…何故奴がこんなゴミ山の中に落ちているんだろうか。とりあえず言えるのはこの不可解なゴミは間違いなくエリスだ。
「むー! むー!」
ゴミ山の中からくぐもった叫びが聞こえだすと突き出ている足がジタバタと動き出す。正直言ってかなり恐ろしい光景だ。翼もビクンビクンと機敏に伸びたり縮めたりしていて、知らない人間が見ればホラー以外の何物でもない。
このまま見捨てて行きたい所だが、翼の生えているこいつが他の人間に見付かっては間違いなく騒ぎになってしまう。しかもエリスは馬鹿っぽいし、下手すれば俺を探す為にその場で周囲の人間に事情を全て話しかねない。
仕方なく救助する為、俺は腫れ物を触るようにそっと暴れる足を掴んだ。
「むー!?」
だが驚いたエリスは更に足を激しく振り回し、俺の顔面に蹴りが直撃する。おふざけパンチしか打てなかったくせに蹴りは結構強烈だった。
ムカついた俺は力任せにゴミ山から足を引っこ抜き思い切り投げ飛ばす。投げ飛ばされたエリスは顔面から壁にぶつかりその場で崩れ落ちた。
「手間かけさせやがって…。おい、生きてるか?」
ビクともしないエリスの横に歩み寄り様子を伺っていると、突然エリスは顔を上げて俺を睨んできた。その目は涙で滲んでいて、鼻からは血が流れている。
「何て…ことするんですかぁ…!」
あぁ、面倒だ、完全にご立腹でいらっしゃる。
「いやだってお前が暴れるもんだから…」
「いきなり足掴まれたら誰だってビックリしますよ!」
「不可抗力だろう。第一ゴミ山に頭から突っ込んでるお前の方がおかしい」
「あ、あれは着地に失敗して…」
「着地…? まさかお前…ゲートを…」
「はい、飛んできましたけど?」
嘘だろ、何だその便利な翼は。飾りみたいなものだと思っていたがどうやら実用性もしっかりあるらしい。
科学的にこいつの体の大きさと翼の比率やら、その為の筋力と重み等を考えれば空を飛ぶなんて不可能だと思っていた。こちとら真面目に審査を受けて通っているっていうのに、何の取り得もないと思っていたこいつにもどうやら活用方法があったようだ。
「よし、次からは俺も連れて一緒に飛んでくれ」
「む、無理ですよ! 一人で壁越えるのだってすっごい大変で…もうすっかり翼が筋肉痛です!」
翼にも筋肉痛なんてあったのか、初めて知った。というか長年学者達が夢見て頭を悩ましている空を飛ぶ手段をあっさりと実現した生き物だ、思考といい俺からすれば分からない事だらけなのだろう。
「筋肉痛なんて気合で何とかなる。さぁ、今すぐ俺を連れてB地区まで飛べ」
「無理ですってばー…。ほら見てください、筋肉痛のせいで…」
見てみるとゴミ山から突き出ていた時と同じように左右の翼がビクンビクンと痙攣している。これは筋肉痛のせいだったのか。
「使えない奴だな…。ちょっとは役に立ってみせろ」
「なー! 自力でゲートを越えてきただけでも誉めて欲しいぐらいなのに!」
「当然の事だろう、それが出来なきゃお前は連れて行けなかった」
「むぅ~…! ってそんな事より血が…血がぁ…!」
今頃自分の鼻から垂れている血に気付くと、エリスは突然あたふたとし始めた。
「お前も傷の再生は早いんだろ、気にするな」
「そういう問題じゃないんですよ! レディとして鼻から血が流れてるなんて…!」
「レディ? お前からそんな言葉が聞けるとは驚きだ、ワンダホー」
「なー! また馬鹿にしてぇ…!」
こんなやり取りをしていていると、段々と人の気配が近付いてくるのが分かった。こんな堂々と翼を出してるこいつが見つかっては面倒な事になってしまう。
「いいからとりあえずその翼を隠せ、マスターのとこにいた時はどうやってたんだ?」
「え、マスターはロープで翼と胴体を一緒に縛って…」
あのマスター、結構エグい真似をしていたらしい。だが確かに今出来る方法はそれぐらいしかないようだ。
俺はズボンのベルトを外すとそれを無理矢理翼とエリスの体に巻き付けようとする。
「痛いー! 痛いですってー! もうちょっと優しく…!」
「ええいうるさい、少しぐらい我慢しろ!」
「って、このままヤッたら丸見えですよ!」
そうだ、服の上から縛り付けても意味がない。一度裸になってからベルトで固定して、それから服を着せなければならなかった。
俺はすぐさまエリスの上着を脱がしにかかるが、エリスの上着は特注のようで肩甲骨辺りに翼を出すための穴があり、そのまま脱がそうとしても翼が引っかかってしまう。
「くっ、なんて邪魔な…」
「キャーキャー! いきなり脱がさないでくださいよっ! ちょっ、見えちゃうー!」
エリスが無い胸を必死に抑えているせいで余計に服が脱がせられない。
「だー! いいから早く脱げって言ってんだよ!」
「へへへへ、変態っ! 私の体が目的だったんですかぁ!?」
「お前みたいなつるぺたボディにゃ興味ない!」
「ひ、ひあぁ! ななな、何でズボン脱いでるんですかっ!?」
見てみればベルトを外したせいで俺のズボンは膝まで下がってパンツが丸見えだった。しかし今は俺のパンツが見られる事よりもこいつの翼を見られる事の方が厄介だ。
俺は服を破り捨てたくなる衝動に駆られながらも、極力気を落ち着かせながらかつ急いで服から翼を通そうとする。だがそうこうしている間に今度は別の場所から叫び声が上がった。
「キャー変態! あ、あんたそんな子供に何やってんのよ!」
振り返ると一人の女が俺達の姿を見て顔を真っ青にして叫んでいた。
「うるせぇババア! どっかに失せろ!」
「ひぃっ! だ、誰かー! 警備兵さーん!!」
あ、やばい、面倒な事になってきてしまった。女は物凄い速さでその場から走り去ると大声で助けを求めだした。
「もう…そんな怒ってばかりだと周りから誤解されちゃいますよ?」
「誰のせいでこんな事になったんだろうなぁ…」
何だか泣きたくなってきたが、頑張って服を脱がせる事に成功するとベルトでしっかり翼を纏める。服を着る時は逆にすんなりといったため、着替えを終わらせると俺はエリスを連れてすぐさまその場から逃げ出した。
「はぁ…疲れた…」
B地区への審査申請を済ませた頃にはすっかり日が暮れてしまい、俺はそのまま宿を取るとベッドで横になっていた。ちなみにエリスは現在シャワーを浴びており、昼間の騒動以来ようやく一人で一息つけた。
いくら戦っても疲れを感じる事は滅多にない俺がここまで疲れを感じるのは珍しい。だが疲労の原因はエリスの件とは別にもう一つある。
申請の結果はC地区へ来た時と同じく明日にでも出ると思っていたのだが、どうやらB地区へ行く為の審査は三日も掛かるらしい。詳しい話を聞いてみると階層が上になるほど審査は厳しくなるようで、A地区へ行くとなると申請に一週間も掛かるそうだ。
ただでさえ時間が惜しいというのに、加えてこれから三日間はあのバカと一緒に過ごさなければならないと考えるだけで気が滅入る。
それにしても深く考えず付いて来いなんて言ってしまったが、エリスは一体いつまで付いて来る気なのだろうか。まぁ面倒になったら頃合を見計らって俺が逃げ出せばいい。先程のようにエリスを見捨てて行く事なんて簡単な事だし、仕事が終わるまでの辛抱だ。
考える事も億劫になると俺はしばらく目を閉じ思考を停止させる。しかしいつの間にか意識が眠りに落ちると、随分と生々しい夢が脳内に映し出された。
そこは清々しく綺麗な草原。柔らかい光と風に包まれ、鼻に木々の香りが突く。おおよそ俺には似つかわしくない穏やかな場所で夢の中の俺は横たわっていた。
見覚えのない場所だが、夢の中の俺にとっては馴染みのある場所のようだ。
そこで俺は誰かを待っている。自分の姿は見えないため果たしてこれが俺なのか、他者なのか定かではない。ただ今の俺と比べてみれば夢の中の男はまったくの別人のようである。実際の俺がこんな場所にいたらきっと落ち着いてなんていられない。
男の待ち人が誰なのか未だに分からないが、どうやら俺はその人物にだけは心を開いているらしく、穏やかな気持ちで待ちつつも心の何処かで興奮していた。この感覚からすると、きっと待ち人は想い人か何かだろう。甘酸っぱい恋愛なんて経験もした事のない俺は徐々にと苛立ちを覚える。
自分の夢の中だと言うのに、夢の中の俺は俺の意志なんて無視して物語を進めていた。それが拍車をかけて余計に苛立つ。
頬を撫でる柔らかい風すら今じゃ不快で、鼻を突く木々の香りは吐き気を催す。間違いない、これはまたいつもの悪夢だ。
ようやくこれが夢だとはっきり認識した瞬間、俺は半ば無理矢理に意識を浮上させた。
「大丈夫ですか…?」
目を覚ますとエリスがこちらの顔を覗き込んでいた。適当に返事をしてエリスを押し退けると、いつの間にか自分がびっしょりと汗をかいている事に気が付く。
「何だかうなされてましたけど…」
「気にするな、変な夢を見ただけだ」
「あの、私はもう終わったからレヒトも浴びてきたほうが良いと思いますよ」
見てみれば小汚かったエリスは見違えるようになっていた。ボサボサだった長い髪は綺麗になっていて、まだ微かに湿っているせいか妙に色っぽく見える。漂う石鹸の香りも相まって改めてエリスが一応女性である事を実感させられた。
一瞬襲い掛かりたい衝動に駆られるが、まったく警戒する様子のない彼女の顔を見ているとそんな気は一瞬で失われる。それに何より実際事に及んでも幼児体型で興奮するのは難しいし、こんなバカと関係を持ったら後が面倒になるのは目に見えてる。気分転換も兼ねて俺はシャワーを浴びる事にした。
シャワーを浴びながらふと先程の夢について思い返す。俺はあれと似たような夢をずっと昔から何度も見てきた。
俺ではない誰かの夢。だが決まって夢の中の俺はあの男だ。状況や場所は変わっても男はいつも想い人を待っている。その夢を見る度に俺はこうして不快な気分にさせられていた。今となってはすっかり御馴染みの悪夢である。
体を洗い終え冷水で頭と体を冷やしてやると気分がすっきりして、エリスの問題も少しばかり前向きに考えられるようになった。
このまま付いて来るのならセインガルドに訪れた目的についても何れは話しておかなければならないだろうし、いつまで付いて来る気なのか本人の考えもちゃんと聞いておく必要がある。そして同じ記憶喪失の仲間同士、話してみれば案外俺自身の正体を掴む手掛かりがあるかもしれない。
そう考えながら部屋に戻ると、そこにエリスの姿は無かった。部屋の中を見渡すが特に襲撃された様子もなく、俺の荷物もそのままだ。まさかエリスが勝手に外へ出て行ったのだろうか。D地区より安全とは言え初日から無用心過ぎる。
とりあえず窓から外の様子を伺ってみると、意外にもそこからエリスの姿はあっさりと確認出来た。
「…何してんだお前は」
二階の窓から下にいるエリスに声を掛けてみるが、振り返ったエリスは満面の笑顔を浮かべていた。
「あの、この子がですね~」
そう言う彼女の腕には一匹の子犬が抱かれており、足元にはその子犬が入っていたであろう段ボールが置かれている。
「ふふふ~、可愛いでしょ~?」
そう言いながら満面の笑みで子犬に頬擦りすると、子犬も尻尾を振りながらエリスの顔を舐め回す。そんなエリスと子犬のじゃれ合いを見ていると折角すっきりした俺の気分は再び落ち込んでいった。
「分かったから…さっさと犬を置いて戻ってこい…」
「えー!?」
俺の言葉に驚くエリスだが、逆にこちらがその反応に驚かされる。まさかとは思うが…
「お前…その犬も連れて行くつもりか?」
「駄目ですか…?」
勘弁してくれ…。ただでさえ厄介な人外の生き物を一匹連れてるっていうのに、今度は犬も一緒に連れて行けというのか。
当然断ろうとするが、こちらを見上げる真剣なエリスの目を見ると即答するのが躊躇われてしまう。何故躊躇う必要があるのかと自分に問いたくなるが、もう一つ俺を真剣な眼差しで見つめる者がいた。
「……クゥン」
(…何なんだこの二匹は)
犬が嫌いという訳ではないが、別に好きだという感情も無い。そもそもペットを飼うという感覚が俺には理解出来ない。犬なんか連れて行っても餌代がかさむだけだし、金が減るだけで何の得にもならない。第一首輪も無しでこの犬が何処までも付いて来るとは到底思えない。
…思えないはずなのだが、この犬の真剣な眼差しを見ているとそうでもないような気がしてしまう。犬の感情なんて分かるはずもないのだが、俺がシャワーを浴びている間にこの二匹には見えない絆が芽生えているように感じた。
一瞬こんな事を考えてしまった自分が壊れてたのではないかと怖くなるが、今も尚俺を見つめる二匹の眼差しを見るとどうにも断りづらい。というか断ったところでエリスを納得させる事が出来るのかどうか不安だ。
そうして答えを出せずに葛藤していると、ふとエリスの周囲から何人かの気配を感じ取った。D地区に比べてC地区は安全だと思っていたのだが、どうやら俺も考えが甘かったらしい。
相手は五人程で、全員が武器を手にして殺気を纏っている。パンツ一丁で外に出る訳にはいかないず、俺はズボンと靴だけ履くとそのまま窓から飛び出した。
「ど、どうしたんですかいきなり」
「…何の用だ」
エリスを無視して闇に紛れる気配に向かって吐き捨てる。既に自分達の存在が気取られていると知った相手は素直に姿を現してきた。
「可愛いお嬢さんだねぇ…イヒヒッ」
鎖鎌を持った男が前に出てくる。だがこの男、一緒にいる連中と比べて一人だけ様子がおかしい。おかしいと言ってもD地区にいた
「こいつが可愛いって、お前の頭の中どうなってんだよ」
「可愛いよぉ…サイコーだぁ…なぁお前達ぃ?」
振り返り同意を求める男だったが、後ろにいた仲間の表情は強張ったまま俺達を見据えていた。
「どうやらお前の友達も理解出来ないらしいぜ」
「うぇー…所詮人間には理解しようったって無駄なのさぁ…イヒヒッ!」
「人間っていうか常人な、このキ○ガイが」
「お前達ぃ…この可愛い可愛いお嬢さんがさぁ…ボスの言ってたアレかもしれないんだぁ~、アハァッ!」
「ボス…って事はお前等、もしかして蛇の首の連中か」
「そうともさぁ。何でも君ぃ…うちの団員を随分やってくれたみたいじゃあないかぁ…イヒヒッ」
「おい、無駄話をしてないでさっさと女を…」
と、横から口を挟もうとした団員の首から上が突然吹き飛ぶ。
「うるさいなぁ…うるさいよぉ…。もう少し会話ぐらいさせてよぉ…げへぇ…」
そう言う気味の悪い男の鎌からは血が滴っていた。
一瞬の出来事で呆気に取られたが、どうやらこいつは仲間だろうと平気で殺すらしい。それを見た他の男達の顔にははっきりと恐怖の色が浮かんでいた。
「で、これは俺への報復か?」
「まっさかぁ~。僕がボスに言われた仕事はそこのお嬢さんを捕らえることだけさぁ…。そうそう、名前はソフィア…だったなぁ」
「ソフィア? 残念ながらこいつはエリスだ、お前達の探し人じゃない」
人違いも甚だしいと思ったが、男は俺の言葉が通じないのか口元を吊り上げながら舐めるようにエリスを見つめる。
「分かるよぉ…君は人間じゃないだろぉ。そしてソフィアちゃんもぉ…人間じゃないんだよネー!」
突然男は叫びを上げると鎖鎌を予備動作もなく一気に振り回す。咄嗟に俺はエリスの頭を掴んでしゃがむと攻撃を避けるが、後ろにいた男の仲間達は反応すら出来ずに胴体から真っ二つに切り裂かれてしまった。
「良いねぇ…良い反応するねぇ君ぃ…! 僕の仲間を殺しただけあるよぉ~!」
頭上で鎌を振り回しながら恍惚とした表情で舌なめずりする男だが、今の攻撃を見てこいつもまた俺やエリスの様に人間ではない何かだと確信した。
「はっ、その仲間を自分で殺してりゃ世話ないぜ」
ゆっくり体を起こし、男と対峙する。だが俺達の間に突然エリスが割り込んできた。
「…どうして殺したんですか」
さっきまでの能天気な雰囲気は微塵もなく、震えるような声でエリスはぽつりと呟く。
「仲間なんでしょう…何で殺すんですか…」
その声には悲しみと怒りが入り混じっていた。そういえばこいつは殺すという事に対して尋常ならざる嫌悪を持っている。どうやら拙いスイッチが入ってしまったらしい。
「ウヒィ…ソフィアちゃんその顔サイッコーだよぉ…! もっと悲しんでぇ~、怒ってぇ~、ほらほらぁ~!」
男は鎌を上空に放り投げると後ろで倒れている仲間の死骸目掛けて一気に振り下ろす。その威力は鎖鎌のそれではなく、仲間の体は粉々に砕かれ肉片と共に血が周囲に飛び散った。
「やめて…ください…」
「あれれぇ~、怒っちゃったぁ? でも…サイッコーの顔だぁ! イヒャァ!」
器用にも最初に飛ばした男の首に鎖鎌を突き刺すとそれを振り回しエリスの足元に叩き付け、鈍い音と共に男の頭が潰れる。返り血が足に飛び掛るもエリスは怯む事無く、寧ろ握られた拳は怒りで震えていた。
「アハァ…普通の女の子なら叫んじゃうのにぃ…! 良いよぉ…サイッコーだよソフィアちゃひぃー!」
その様子を見て完全に勘違いしている男が今度はエリスの足目掛けて鎌を振り投げるが、寸前のところで俺は鎌を男目掛けて蹴り返す。普通なら反応すら出来ずに直撃する速度だったが、男は難なく返ってきた鎌を素手で受け止めた。
「君もぉ…人間じゃなぁいねぇ…?」
「さぁね、その辺は俺も教えて欲しいぐらいだ」
エリスの前に立ちはだかり背中に手を伸ばすが、普段ならあるはずの得物がそこには無かった。…そういえばズボンだけ履いて出てきたため剣は部屋に忘れてきてしまった。
普通の相手なら素手で十分だろうとタカを括っていたが、残念ながらこいつを相手に素手でかつ無傷で倒すには骨が折れそうだ。
「なぁ、ちょっと得物を忘れてきたんだ。少し待っててくれな…」
素直にお願いしようと思ったが、言い終わる前に男は鎌を投げ付けて来る。後ろにエリスがいるせいで避ける訳にもいかず、攻撃を片腕で受け止めるがその一撃は予想以上に重く、俺の腕を鎌の切っ先が貫通していた。
「お前…人の話はちゃんと聞けよな…」
「アハァ…もっとこっちにおいでよぉ…君の顔をよぉく見たいんだぁ…イヒ!」
男は一気に鎖を引き寄せ、俺は体を持っていかれないよう踏ん張るが、その結果腕に刺さっていた鎌がそのまま切り裂くように抜けて腕がバックリと裂かれてしまった。鎌が抜けた瞬間に大量の血が溢れ出すが、今はそんな事を気にしている場合ではない。少しでも隙を見せればこいつは一瞬で殺しにくる。
「おいエリス、その犬連れてさっさと逃げろ」
男から目を離さずに後ろで俯き固まったままのエリスに声を掛ける。
残念ながらエリスを護りながら丸腰で勝てるほど簡単な相手ではない。それ程の相手に巡り合えた事が嬉しくもあるが、劣勢の現状だと残念ながら素直に喜べなかった。
だが今はそんな事はどうでも良い。ここでエリスが捕まったり死んでしまったら負けたようで何だか屈辱だ。
「でも…レヒトが…」
「お前にいられる方が邪魔なんだよ、さっさと部屋に戻れ」
「…死んじゃ…駄目ですからね」
「誰が死ぬかバカ」
「殺すのも…駄目ですからね」
「え、じゃあ俺はどうすれば」
無茶苦茶な注文だけ残すとエリスは子犬を抱えたまま宿の中へ引っ込んだ。
…殺しちゃ駄目、でも俺も死んではいけない。そんな生温いやり方が通用する相手なら良かったが、残念ながら今回はそうも言ってられない。
男は逃げたエリスを満面の笑みで見送ると、こちらに視線を戻す。
「何だ、簡単に見逃してくれるんだな」
「君を殺したらソフィアちゃんはゲットォ…だろぉ? …イヒヒッ!」
「バカかお前は。お前に俺は殺せないし、第一あいつはソフィアじゃなくてエリスだっての」
当然ながら今更そんな事を言っても男は聞く耳を持たずに、ゆっくりと手元で釜を回し始める。
「しかし君も人間じゃないんだねぇ…シオン…だったっけぇ…? 君は一体何者なんだろうねぇ…プヒヒッ!」
「いや待て、俺もシオンじゃない」
「うひひぃ! もう腕が回復しちゃってるぅ! サイッコーだよぉ! 何度も何度も
相変わらず男は人の話を聞かないばかりか、激しく興奮しているのか股間が大きく盛り上がっている。
あまりの異常さに流石の俺でも不気味に思えてきたが、男の体に起きた異変は股間だけではなかった。額の左右から角のような突起が生え始めるとその突起はどんどんと大きくなり、何処かの聖書に出てくるような禍々しい悪魔のような角となる。
「もう抑えられないよぉ…本気で殺っちゃうよぉ…イヒヒヒッ!」
「おいおい…ヴァンパイアウィルスなんて噂は聞いてたが悪魔が出てくるなんて聞いてないぞ」
「ヴァンパイア~? そんな下等な物と一緒にされちゃぁ困るねぇ…イヒヒッ!」
人間じゃないのは分かっていたが、まさか悪魔だったとは予想外だ。しかし俺は不思議と気分が高揚していた。
こいつが正真正銘本物の悪魔なら準備運動の相手として不足はない。惜しむべきは丸腰で戦わなければならない事か。
「まぁたまには素手も悪くない」
俺は構えると軽快にステップを踏み始める。
邪魔だったエリスがいなくなった事によって男の一撃を軽々と避けると一気に間合いを詰めた。その勢いで男の腹にパンチを入れると男は勢い良く吹き飛んで民家の壁に直撃しそうになるが、見えない何かにぶつかりその場に倒れる。
「ウヒィ…凄いよぉ…こんな所でこんな力を持った人と出会えるなんてねぇ…イヒヒッ!」
「おい、お前今何かにぶつからなかったか?」
「あはぁ…これは結界さぁ…。死ぬまで逃がさないよぉ…」
「はっ、悪魔ならではの便利魔法だな」
「僕が死ねばぁ~、結界は消えちゃうけどぉ~。でも死ぬのは君なんだぁよ…イヒッ!」
男が鎌を地面に突き刺すと、鎌は勝手にどんどんと地面を掘り進んでいく。何が起こるのかと観察していると突然足元から鎌が飛び出してきたが、寸前のところで後ろに飛び避ける。だが鎌は自ら意志を持っているかのように俺の首目掛けて襲い掛かってきた。
足を止めて軌道を見切ると鎌を叩き落し再び男の元へ飛び込む。そして今度はパンチではなく手刀を男の胸に突き出すと俺の手は簡単に男の胸を貫通した。しかし貫通した瞬間、いまいち手応えが感じられない。
「いひぃ…そのぐらいじゃ僕は殺せないよぉ…?」
一瞬戸惑ってしまった俺の隙を男は見逃さず、鎌が俺の背中に突き刺さると切っ先が胸を貫いた。
そのまま男は鎖を操り鎌が突き刺さったままの俺の体を上空に放り投げると一度地面に叩き付け、それから休む間もなく壊れた玩具のように四方八方、見えない結界の壁に叩き付け続けてくる。そしてトドメと言わんばかりに最後にもう一度勢い良く地面に叩き付け、俺が動かないのを確認すると男はゆっくりとこちらへ歩み寄ってきた。
「あはぁ…まだ息があるねぇ…サイッコーだぁ…。もっと…もっともっと
突き刺さったままの鎌を手にすると男はそれを抜き取り、倒れた俺の背中に何度も突き刺してくる。その攻撃を受けながら段々と俺は苛立っていた。
中々死なない体と言えど俺だって痛みがない訳じゃない。こいつの攻撃は正直言ってかなり痛い。それもムカつく事だが、何よりも既に俺に勝った気でいられるのが我慢ならない。
そろそろ本気でこいつを殺してしまおう。エリスが言っていた戯言なんてもう気にしていられない。
「レヒト!」
だが俺が動き出そうとしたその時、上空からエリスの声が聞こえてきた。首だけ回して見上げてみると部屋の窓からエリスが泣きそうな顔で叫んでいる。ついでに子犬も顔を出して必死に吠えていた。
「こ、これを…ぬぅ~! 使ってー!」
そう言いながら彼女の手に握られていたのは俺の愛剣だった。
エリスは鞘から抜かれた剣を震えながらも必死に握り締め、勢い良くこちら目掛けて落とすように投げ付けて来る。剣は男目掛けて勢い良く落ちて行くが、やり取りを見ていた男は難なくその攻撃を避け、俺の頭のすぐ横に剣は突き刺さった。
「…少しでもズレてたら俺が串刺しじゃないか」
思わずその場で愚痴ってしまうが、不思議と俺は笑みが零れた。
「死んじゃ駄目です! レヒトがいなくなったら私は…!」
「うるさいんだよ…。誰が死ぬかっての」
突き刺さった剣に手をかけて立ち上がる。
まったく、これじゃ俺がエリスに助けられたみたいでかっこ悪いじゃないか。
そう思われるのも癪なため先に釘を刺しておく事にする。
「言っておくけどこいつが無くても勝てるんだよ、その証拠に俺は全然元気だ。別に今のは全然ピンチじゃなかったんだからな」
「だったらさっさと倒してください!」
その言葉に俺は驚き、思わず素っ頓狂な声を上げてしまう。
「へ、それって殺してもいいって事か?」
「相手が悪魔なら話は別です! ぶちのめしちゃいましょう!」
…こいつ宿の中から俺達の会話が聞こえてたのか?
思わずお前の耳は地獄耳かと突っ込みたくなってしまう。これじゃどっちが悪魔なのか分からない。しかし相手が悪魔となるとエリスはまったくの無慈悲でいらっしゃるようだ。
「悪いなあんた、あいつは悪魔に対しては厳しいらしい」
剣を肩に乗せると俺は不敵な笑みを浮かべながら男を見据える。
「むひゃぁ…剣一本持っただけで余裕だねぇん。面白くなりそうだよぉ…イヒャヒャ!」
「じゃあしっかり目開いて見てるんだな」
相変わらず馬鹿みたいな笑い声を上げている男との距離を一瞬で詰めると剣を下から振り上げた。何が起きたのか理解出来ていないのか、男は不思議そうな顔をこちらへ向ける。
「俺が今まで本気でやってたとでも思ったか?」
「あれ…イヒィ…?」
続け様に袈裟から振り下ろし、切り返しで斜め下から横へ薙ぎ払い矢継ぎ早に連続で剣を振る。ほんの一瞬の出来事だが、最後の一撃を振り終わると俺は剣を肩に乗せた。
自分の身に何が起きたのか理解出来ていない表情の男だったが、その顔が突然ズルリと縦に割れる。
「あ…あぁぁ…? 僕…僕の顔が…」
「喧嘩売る相手を間違えたな」
直後男の体はバラバラに崩れて行き、血の代わりに黒い
静寂の訪れた街に俺と殺された蛇の首の団員達の死骸だけが残る。
「おいエリス、荷物全部持って降りて来い」
二階の窓からこちらの様子を伺っていたエリスに声をかけると、不思議そうな表情を向けてくる。
「犬も同伴出来る宿に移るぞ」
その言葉を聞いたエリスの表情がみるみると明るくなっていき、一緒に窓からこちらを覗いていた犬と顔を見合わせると、犬はこちらに向かってワンと一度吠えた。
二匹がすぐさま室内に戻ると、ここからでもバタバタと慌しい音が聞こえてきた。自分で自分の首を絞めているような気もしたが、こうなってしまっては仕方ない。
まぁ終わりの見えない長い人生において最も大切なのは刺激だ。刺激のない人生ほどつまらないものは無い。だから考え方を変えればこんな面倒事も楽しく思えるかもしれない。何事もポジティブだ、うん。
そこへ俺の服を持って剣の鞘を肩に掛けたエリスが現れた。…剣の鞘が引き摺られていた事はあえて気にしないでおこう。
服を受け取ると俺はその場で着替え、剣を鞘に収めて背中に背負う。
「さて、さっさと新しい宿を見つけて今日は寝るぞ」
「はい!」
「ワンッ!」
それからしばらく歩き無事に新しい宿を確保すると、俺達はすぐさま眠りに落ちていった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます