Episode6「旅立ち」
先程の店が見えてくると、店の前には数人の人だかりが出来ていた。しかし残念な事に商売が繁盛している訳ではないようで店に近付くにつれて男の怒号が耳に届いてくる。
「舐めてんじゃねぇぞコラ! いい加減に言うこと聞かないと潰しちまうぞ?」
「すまない…でも客は来ていないんだし君達に迷惑はかけていないじゃないか…」
男達の後ろから店内を覗いてみるとマスターが数人の男達に囲まれていた。会話の内容から察するに、奴らがマスターの言っていた蛇の首の連中なのだろう。店頭に群がる男達から放たれている殺気から、恐らくこいつらも蛇の首の団員だ。たった一つの店を潰すためにこれだけの人数を集めたとしたら随分と暇なマフィアである。
中々要求を呑まないマスターに業を煮やしたのか、男はマスターの胸倉を掴むと軽々と持ち上げた。
「ぐ…あぁ…!」
「もう一度だけ言う。俺達の言う酒を仕入れろや」
「だから…そうしたら…うちの儲けは…!」
「俺等の言う通りの値段でいいだろうが! いつまで訳の分からねぇこだわり持ってんだテメェは!」
今にも男はマスターを手に掛けそうだったが、その時店の奥から先程見かけた金髪の少女が飛び出してくると男とマスターの間に割って入る。
「お願いします、もうやめてください」
「お、エリスちゃんじゃねぇか。君からも言ってくれよ、この頑固マスターによ」
エリスと呼ばれた少女は相変わらず無表情のまま男に対して怯む事無く対峙する。思っていたより肝が据わっている娘さんのようだ。
「今月のお金は渡しました…。マスターが嫌がってます…だから…」
「だはははっ! エリスちゃん、マスターを説得出来なきゃ此処で殺されるんだけどよぉ…どうする?」
その言葉に初めてエリスの表情に僅かな変化が生まれた。
「殺すなんて…絶対に駄目です…」
それまで堂々たる態度だった彼女だがその目に映るのは確かな恐怖。心なしかしっかりと握られた手も微かに震えているが、それでも男から目を逸らす事なく真っ直ぐに見返す。
「じゃあマスターを説得してくれよ、俺達だって本当はそんな真似したくないんだよなぁ」
「だったら…このまま帰ってくれませんか…」
「今までは見逃してやってたんだが、今回はそういう訳にもいかないんだな」
「何でですか…?」
「ソドムの方で仲間がガキと女の二人に良い様にやられちまったみたいでね…大事な案件だったもんでボスがご立腹なんだ」
「そ、そんなの私達には関係ない…!」
まるで怯える自分を鼓舞するかの様に男をキッと睨むが、そんな彼女を見て男は笑い声を上げた。
「俺達だって命が惜しいんだよ。だからまぁ説得が無理だってんなら…」
男は掴んでいたマスターを放り投げると、エリスの頬に手をあて下卑た笑みを浮かべる。
「どうだ、お前が俺達の為に働くってならこの店は諦めてもいいぜ?」
「な、何を…言っているんだあんたら…!」
地面に叩き付けられ胸をぶつけたマスターは苦しそうに咳込みながら声を荒げるが、男はマスターの声を無視して構わずエリスの耳元で囁く。
「お前さんがこの店の変わりにその体で金稼いでくれるってなら文句はねぇ…。この店は見逃してやるよ」
「そんな…やめるんだっ…!」
「テメェは黙ってろ!」
別の男が倒れているマスターに容赦なく蹴りを入れる。それは一発では済まず、マスターは何度も何度も踏み付けられるように蹴られ続けた。
「助けたかったら…俺達と来い」
身を丸め蹴られ続けるマスターを見ていられなくなったのか、エリスは俯き震える手を強く握り締めると小さな声で絞り出すように吐き出した。
「…本当にもう二度と、マスターとこのお店に手は出さないと…約束してくれますか」
「あぁ、本当だとも。お前が頑張ればこの店には二度と手は出さないさ」
「…分かり…ました」
交渉が纏まったのか、男は仲間達に引き上げるよう伝えるとエリスの腕を掴んで店から出て行こうとする。マスターは既に意識がないのか、その場で
エリスは最後にマスターの方へ振り返ると、別れを告げるかのような意味深な視線を向けながら黙って男の後を付いて行く。
店頭にいた男達が道を開くと、店内から出てきた男がエリスを伴って俺の目の前に現れた。
「おい、邪魔だどけ」
だが俺はその場から一歩も動かない。
「…聞こえてんのかテメェ、どけって言ってんだよ」
「あぁ、聞こえてるさ」
そう答えると俺は微かに笑みを浮かべながら男の前に一歩足を進める。
まったく、俺は何をしているのだろうか。この煮え滾る様な気持ちも行動も、我ながら度し難く説明の仕様がない。ただ無性に腹が立っているのだけは確かだった。
「何だテメェ?」
「その娘を置いていけコラ」
その言葉で男達の空気が一瞬にして張り詰めるが構わず続ける。
「なぁあんた、此処はゴモラだったよな」
「あぁそうだ。そして俺達はゴモラ含めるD地区全域を支配している蛇の首だ」
「そうかい。で、ゴモラは暴力が支配する街だっけか」
「詳しいじゃないか。だから俺達蛇の首がこの街の支配者…分かるな?」
「あぁ、それじゃあ…下克上といこう」
現状を打破するのは簡単な事だ。暴力が支配する街だと言うのなら、俺が蛇の首だとかを潰して支配してしまえば全て解決する。
エリスを掴んでいる男の腕に掴み掛かると一気にその腕を握り潰す。その瞬間男の悲痛な叫び声が夜の街に響き、骨の飛び出した腕からは血が噴き出した。
「お前等を潰せば…俺が此処の支配者だよな」
何が起きたのか分かっていないのか、男は苦痛に歪み怯えた表情で俺を見詰めるが、それを冷たく見下しながら背中の剣を抜く。
「ま、待っ…」
返事を聞く事無く迷わず剣を振り下ろし、頭を叩き割ると勢い良く返り血が顔に飛散する。しかし俺は構わず右方向で呆然と立ち尽くしていた仲間達へ袈裟に剣を振り下ろすと纏めて斬り殺す。
背後から別の仲間が武器を持って襲い掛かってくるが俺はその手が届くよりも早く振り返り、剣を逆手で握るとエリスの頭の上を擦り抜けるようにして横へ薙ぎ払う。すると反対の左側にいた男達まで全員胴体から真っ二つに切り離された。
振り抜いた血塗れの剣を肩に乗せ、生き残っている二人に視線を移すと怯えた目でこちらを睨みつけてくる。
「さて、どっちが上か分かっただろう?」
「テ、テメェ…こんな事してタダで済むと思っ…」
言い終わる前に顎を蹴り上げると男の頭は粉砕し血飛沫を上げながら宙に舞う。だがそれと同時に俺の脇腹にナイフが突き刺さっているのに気が付いた。見れば残っていたもう一人の男が震えながらナイフを握り締めている。
「こ、殺してやるぅっ!」
男は脇腹に突き刺したままのナイフを反転させ傷口を抉ってくるが、俺はその攻撃を受けても微動だにしないまま男の頭を掴んで持ち上げた。
「な…何で…!」
「その程度で死ねたら俺も苦労しないんだけどな」
生憎とこの程度の攻撃じゃ俺は死なない。腕を切り落とされても適当にくっつけてたらいつの間にか元に戻ってるような体だ、ナイフで刺された程度じゃ痛みすら感じない。
男の頭をそのまま握り潰すと街に静寂が訪れ、何人かいたギャラリーはいつの間にやら退散し辺りに人気は無くなっていた。
剣にこびり付いた血を払い飛ばすと顔に付着した返り血をコートの袖で無造作に拭き取る。
「おい、大丈夫か?」
一瞬の出来事に放心していたエリスだったがようやく我に返ったようで生返事を返してくる。
「は…はい…」
店内に入るとマスターの容態を確認するが、どうやら気を失っているだけで命に別状はなさそうだ。
その後はエリスがすぐに店を閉じ、俺はマスターを奥の寝室に運び寝かせてやる。そして残された俺とエリスは無言でマスターが目を覚ますのを待っていたが、静寂を先に破ったのは意外にもエリスの方だった。
「…さっきはありがとうございます」
適当に相槌を打つとエリスが俺の前に見上げる形で立ちはだかる。お礼のキスでもされるのかと思ったが、何故か彼女の表情は険しかった。
「でも…何で殺したんですか」
「…ん?」
一瞬何を言っているのか分からず呆気に取られるがすぐに気を取り直す。
「殺さなきゃこっちが殺されてただろ」
「あなたなら殺さなくても、十分に追い返せたでしょう?」
正論だった。ムカつく事にこのガキは俺の実力をあの状況で冷静に分析していたらしい。しかし助けてやったのにこんないちゃもんをつけられるとは思いもしなかった。
「此処はゴモラだろ? 暴力で支配するのがルールじゃないのかよ」
「そうかもしれませんが、私は人殺しなんて認めません」
エリスの表情が更に険しくなり、その目は明らかに俺を非難している。このガキは何でこんな事で突っ掛かってくるんだ?
まさかゴモラと呼ばれている場所でこんな説教を受ける羽目になるとは予想だにしていなかった。
「お前が認めようが認めまいが知った事じゃない。現にマスターは助かった、それで良いだろ」
「だからって人の命を奪って良い理由にはなりません」
本当に何なんだこいつは。
怯む事無く真っ直ぐ見据えてくるその瞳に映るのは先程見た時と同じ確かな怒り。だが俺にはエリスが怒っている理由など皆目見当付かず、理不尽な物言いに段々と腹が立ってきた。
「殺さなきゃ殺される、その状況でお前は殺すぐらいなら殺されるのを選ぶってのか?」
「はい」
意地悪な質問をしたつもりだったがエリスは迷う事無く即答した。その表情からは確かな決意が見て取れ、俺はますますこのエリスという少女の思考が分からなくなる。
「じゃあ仮にマスターが反撃して男達を殺そうとしてたら、お前はそれを止めてマスターを死なせるのか?」
「いえ…」
一瞬エリスは目を閉じるが、再び見開かれた瞳には変わらず強い意志が宿っていた。
「最初から私がマスターの身代わりになります」
しかしその返答を聞いて俺は軽い頭痛を覚えた。
確かにまぁ此処はゴモラだ。入国する際に遭遇した
「…あなたを見ているとムカつくんです」
だが俺が頭を悩ませていると、そんなとんでもない言葉が耳に届いた。
「はぁ?」
「分からないんです…でも私はあなたが大嫌い…。あなたを見ていると頭が変になるんです」
いよいよ本格的に脳が腐っているらしい。残念ながらこいつは聖職者とかそんな大層なものではなく、ただの薬物中毒者に違いない。きっと違法薬物の摂取で脳が溶けて腐っているのだろう。
そうだと断定した瞬間、こいつの戯言に真面目に付き合っているのが馬鹿らしくなってきた。
「安心しろ、俺を見てなくてもお前の頭は最高に変だ。絶好調過ぎる」
「なっ…どういう意味ですか!」
その言葉にそれまでずっと無表情だったエリスが初めて怒りの感情を露にした。
「そのままの意味だ、薬は程々にしておけよ。これ以上マスターに心労かけるな」
「そんな物やってません! あなたこそ薬漬けで頭がおかしいんじゃないんですか!」
「悪いが俺は酒や女に溺れても薬に溺れた覚えはない」
「じゃあ女に変な病気でも移されて脳が腐ってるんじゃないんですかぁー?」
エリスの鉄火面は見事に崩れ去った訳だが、そのお陰で随分と饒舌になり憎たらしさに拍車が掛かる。最初は可憐な人形の様な少女とか思ったがとんでもない。こいつはただのガキだ、それも完全に頭の中がぶっ飛んでるクソガキだ。
「生憎ここ最近ご無沙汰でね、健康も健康超優良児だ。ナイフで刺されてももう回復するぐらい健康なんだよ」
そう言ってシャツを捲り先程刺された腹を見せつけるが、それを見てもエリスが驚く事はなかった。
「私だってそのぐらいの傷ならすぐ回復しちゃいますぅ!」
反論してきたエリスだが、その発言に俺の方が逆に驚かされてしまう。こいつ今何て言った?
「は…回復する? 傷が一瞬でか?」
「そーですよー、私の体は頑丈に出来てるんですー!」
無い胸を突き出して誇らしげな顔をする。
こいつの頭がおかしいのは間違いない。だがまさかこれ程とは思わなかった。
「はぁ…ただの人間が一瞬で傷を治せる訳ないだろうが」
どっしりと精神的な疲労が圧し掛かってきた。
何だって俺はこんな奴の相手をしてしまっているのだろうか。キ○ガイの相手なんて時間と労力の無駄であり、何の得もありはしない。
呆れた俺はそのまま部屋を後にしようと踵を返す。
「…人間じゃないですよ」
だがその声に足を止め振り返ると、そこには白く巨大な二枚の翼を生やしたエリスが立っていた。
「私はきっと…人間じゃないんです」
それは先程までの印象を覆す程の神々しい姿。本来人間にあるはずのない巨大な翼が、まるで彼女の体を包み込むようにして生えていた。
噂に聞くキメラのように人工的に翼を移植されたのではないかと思ったが、こんな翼を生やしている生き物なんて未だかつて見た事はない。あるとすればそれは絵本や聖書に現れる天使や女神などの神の眷属ぐらいだ。
だとしたら何だ、この街のマッドサイエンティスト共は天使でも捕まえてその翼をこいつに移植したとでも言うのか?
馬鹿な、そんな事があるはずない。あるとすれば、信じ難い事だがこの翼は生まれた時よりこの少女についていた物だ。
呆然とその姿に見入っていると、不意にマスターの声が耳に届いた。
「驚いた…かい…?」
「マスター…? 目が覚めて…!」
エリスは翼を隠そうともせず、すぐにベッドの横に膝を突きマスターの手を取る。
「だ、大丈夫なんですか…!?」
「はは…大丈夫だよ…。すまないね、実はちょっと前から目を覚ましていたんだ」
「盗み聞きかよ、趣味が悪いな」
「エリスが…こうして感情を露にした所を見たのは…初めてだったもんでね」
そう言ってマスターは微かに笑うとポツリポツリとエリスとの出会いについて話し始める。
今から数ヶ月前、店の裏で全裸で倒れていたエリスをマスターは発見し保護した。驚いた事に彼女の背中には翼が生えていたが、不思議と恐怖は覚えなかったという。
目を覚ましたエリスはどうやらただの空腹で行き倒れていたらしいが、妙な事に名前以外の記憶は失われており、それまで何をしていたのか、何故ゴモラにいたのかまるで分かっていなかった。だが此処でエリスを放り出し、街の連中に見つかれば翼の生えた人間など間違いなく格好の餌食となる。それを危惧したマスターはエリスをそのまま店に置いて保護し、以来彼女の存在を世間から隠し続けていた。
翼が生えてる点を除けば普通の少女に変わりないが、唯一気になるとすればエリスの表情には出会った頃から感情が無かったそうだ。
どうやら俺との会話で初めて感情を剥き出しにして様々な表情を見せたらしい。今も隣で話を聞いているエリスは恥ずかしそうに俯いており、どうやら鉄仮面は完全に崩れ去っているようだった。
話を聞き終えると俺はエリスを初めて見た時から感じていた引っ掛かりを本人にぶつけてみる。
「エリスだったか、お前も…記憶が無いのか」
その問いに彼女は俯いたまま頷く。俺が感じていた引っ掛かりはつまりそういう事だ。
こいつは何処か俺に似ている節がある。人間の姿をしていながら人間でない何かであり、記憶のないまま自分の存在を知る糸口すら見付からない。そして答えを探す事を止めてただ生き続けるだけの命。こいつの目からはそんな絶望の様な虚無感が感じ取れた。
それがはっきりと分かり妙な親近感を覚えると、お節介かもしれないが世界は楽しいって事を教えてやりたくなる。
俺も目が覚めてから長い間、こいつと同じような目をしていた時期がある。自分の存在に戸惑い、終わりの見えない永遠に続く様な命に恐怖し絶望していた。だけどそれだって色んな人との出会いを経ていつからか考える事を放棄し、ただ目の前に広がる世界を堪能しているうちにこんな日々も悪くないと思えるようになった。
だからこいつはまだ知らないだけだ、世界がこんなにも楽しいものだって事を。世界がこんなにも広く、色んな人間達が生きているって事を。
「…俺と来るか?」
気が付けば俺はそんな事を口走っていた。言ってから軽く後悔したが今更後には引けない。
突拍子のない提案に当然ながらエリスは目を丸くしている。
「な、何を言っているんですか?」
「気に食わないんだよ、その面」
この際にと俺は思っていた事を正直にぶちまける。
「私絶望してますぅみたいな目しやがって。世界はお前が思っているよりずっと広くてずっと楽しいもんなんだよ。そんな事も知らないでウダウダしてんじゃねぇ」
だがそんな事を言われて当然ながらエリスは再び怒りを露にして食って掛かってきた。
「そ、そんな目してません!」
「いーや、してるね。はっきり言って目障りなんだよ、ムカつくんだよバーカ」
「ぬぅぅ…ムキャー!」
怒りを爆発させたエリスが殴り掛かってくる。翼の生えている存在…下手をすれば俺並みの力を持っているかもしれない。
一瞬本気で身構えるが、ポカポカと激しい連打を繰り返すその拳から伝わる衝撃はほぼ皆無だった。ふざけているのかと思い凝視してみるが、本人は至って本気で殴っているようだ。
「…え、なに、そういうの可愛いとか思ってる?」
「はぁ…はぁ…何がですか! 絶対にもう許しませんからね! 今度は本気です!」
息切れしながら再び猛烈なパンチの嵐を繰り出してくるが、相変わらず痛みは無い。掛け声だけは勇ましいが、それと反比例するかのように攻撃そのものはおふざけのようなものだった。
「ぬぅぅぅぅー! はぁはぁ…たりゃぁぁぁー!」
「………はぁ」
面倒になり軽くエリスの額にデコピンを入れる。本人の話だと俺と同じ様に頑丈な体らしいし、この程度ではビクともしないだろう。
「びゃぁっ!?」
だが予想に反してエリスの体は勢い良く後ろに吹き飛び、ベッドで眠るマスターの上に勢い良く落下した。
「ぼほぉっ!」
いくらエリスが小柄で軽いと言っても、突然落ちてきた衝撃は相当なものだろう。マスターの体がベッドの上でVの字に折れ曲がり、バランスを崩したエリスはベッドの下に転げ落ちると額を抑えながら激しくもんどりうっていた。
「痛いー! 痛いー! あ、あ…い、いきなり何をするんですかあなたはぁっ!」
「いやだって…お前体は丈夫だって…」
「丈夫は丈夫でも痛いのは痛いんですよ!」
いや違う、俺が言ってるのはそういう事ではない。
どうやらこいつは翼が生えてる点を除けばその辺のガキと何ら変わらないようだ。床でもんどり打って涙目になっているエリスを見ていると、先程自分で言ってしまった提案を無かった事にしたくなってくる。
「凶暴過ぎます…! あなたみたいな人と一緒にいたら命がいくつあっても足りません!」
いやどうせ大抵の傷は回復するんだろと突っ込みたくなったが、これ以上話をややこしくしたくないため黙っておく。
「あぁ、それじゃ仕方ない。マスターと達者でな」
下手にこいつを刺激してしまう前にさっさと逃げ出そうとするが、そんな俺を苦しげな声でマスターが制した。
「…レヒトさん、頼まれてはくれないか?」
腹をさすりながらマスターはゆっくりと体を起こすと真っ直ぐ俺を見詰めてくる。
「エリスを…連れて行ってやってくれ」
その言葉に俺もエリスも驚きを隠せない。
「いきなりどうしたんだよ」
「さっきあんたが言ってたこと…何となく分かるんだ。この子にこの街は狭すぎる。もっと自由にその翼を広げられる場所が必要なんだ」
しまった、既にマスターは完全にその気のようだ。何か良い断り文句はないかと逡巡すると打ってつけの言い訳を思いつく。
「あー、いや、自分で言っておいてあれなんだが無理だ。俺はすぐにB地区に行かなきゃいけなくてな。審査が終わり次第すぐにC地区へ入る事になる」
先程の様子からすればエリスがその審査を通過するのは困難だ。何の身分証明も持たず倒れている所を発見された奴が一日もかけるような厳しい審査を潜れるとは到底思えない。恐らくゴモラまでは戦争の混乱に乗じて潜り込んだのだろうが、この先のC地区へ進む事は恐らく今後も不可能だろう。そうなると俺と一緒に行動するのは難しい。
それを聞いたマスターは残念そうな表情を浮かべながらも渋々納得した様子だった。
「マスターは…この人を信用しているんですか?」
「あぁ…そうだね。彼は君と何処か似ている気がするんだ…。だからエリス、君は此処にいるよりも彼の側にいた方が良いと思う」
誰と誰が似てるって?
冗談じゃないと遮りたくなったが、今下手に口を出すのは拙い。かと言って放っておいても何やら不穏な空気になりつつある。ただ仮にエリスが付いてくる気になったとしてもどの道俺と一緒に来るのは不可能だ。
それが分かっていた俺はあえて黙って二人の会話を静観する事にした。
「不思議なんです、あの人は凶暴で性格悪くて目付きも悪いし、平気で人も殺す極悪人で…大嫌いなんです」
…黙って聞こう、うん、我慢だ我慢。
「なのに…マスターの言う通り何故か信じられる気がするんです」
余計にエリスの考えが分からなくなった。
大嫌いだけど信じられる?
どうやら頭の中にも翼が生えているらしい、完全に思考が飛んでやがる。
「レヒト」
いきなり呼び捨てにされ一瞬腹が立つが、ここでキレるほど俺は子供じゃない。
「…何だよ?」
「私も…連れて行ってください」
オーノー、なんて事だ、恐れていた最悪の展開になってしまった。
「お前馬鹿か? お前じゃ審査に通らないから無理だっての」
「えっとー、要はC地区に行ければ良いんですよね?」
「あぁ、だからその為には審査を…」
「任せてください!」
今までとは打って変わってエリスは満面の笑みを浮かべる。
自信の根拠が何処にあるのか分からないが、それよりこいつの笑顔を初めて見た事に俺は妙な感慨を覚えてしまった。
「マスター、短い間だけど本当にお世話になりました」
エリスはマスターに向かって深々と頭を下げる。その姿を見て柔らかな笑みを浮かべるマスターはまるで娘を送り出す父のような暖かい目をしていた。
「元気でな。レヒトさん、よろしく頼むよ」
(…本気なのか?)
一体何故この短時間でエリスは考えがグルリと変わったのだろうか。あれだけ悪態をついていたにも関わらず付いてくる気になるとは…。
もしかするとこいつも案外俺の予想通り自分について思う所があったのかもしれないが、こいつの本性を知った今となっては完全に頭痛の種だ。
だが今更いくら悩んだ所で一度自分で提案した以上、もう引き下がる事は出来なかった。
「…分かったよ。ただしゲートを自力で潜って来れたらだ。お前の為に割くような時間は無いぞ」
その答えを聞いてさっきまで俺を大嫌いと言い放っていたエリスは期待に満ちた顔を向けてくる。
「よーし、それじゃ早速行きましょう! 善は急げですよ!」
「待て馬鹿。俺の審査結果が出るまでまだ時間がある」
「えー、いきなり足を引っ張ってるのはレヒトじゃないですかー」
「黙れクソ」
先程よりも加減してデコピンを食らわせると今度はエリスの頭が激しく後ろに吹き飛んだ。
「ふぎゃ! そ、それ反則です! 自分の力をもうちょっと自覚してください!」
「自覚してなきゃお前の頭なんざとっくに砕けてる」
「く…砕け…」
「ははは…どうだい、時間まで腹ごしらえでもしないか?」
丁度腹も減っていた為、俺は素直にその好意に甘える事にした。
食事中、期待に胸膨らませ明るく笑ってマスターと会話するエリスには出会った当初の暗い面影は見当たらない。この短時間でホントよくもまぁここまで変わるものだと思う。しかし案外エリスってのは元々はこんな奴だったのだろう。
「………」
ただ楽しい旅を夢見ている本人には悪いが、この先俺がやろうとしているのはこいつが大嫌いな人殺しだ。果たして俺の目的を知った時、こいつは一体どうするのだろうか。
今のうちに話しておいた方が良いような気もしたが、期待に目を輝かせているエリスを見るとどうにも気が進まない。
結局俺はこの旅の目的を話す事無く、食後に仮眠を取ると彼女を伴ってすっかり朝日の昇った街へと繰り出した。
店からしばらく歩くと昨日立ち寄ったゲートの前に辿り着く。
巨大な壁はC地区をぐるりと囲むように遥か先まで続いており、丈夫さも相当だろうが、高く聳え立つ壁は俺でも飛び上がって超えるのは不可能だ。つまりC地区へ行くには誰であろうと審査に通って正規の手段でゲートを潜るしか道はない。
「んじゃ俺は審査通ってたらそのままゲートを潜るからな」
ゲート前でエリスと打ち合わせをする。一体どうやってゲートを潜るつもりなのか分からないが、エリスは相変わらず自信に満ちた表情を浮かべていた。
「分かりました、それじゃC地区でまた会いましょう!」
そう言ってエリスは何処かへ走り去ってしまう。相変わらずあいつの行動は不可解だが、上手く行けば此処でエリスを撒けるかもしれない。C地区に入れたらエリスを待たずにそのまま先を急ごう。
そう決めると俺は審査が通っているよう祈りながら兵士達に声を掛ける。そして少し待たされた後、審査に通過している旨を伝えられると重々しい巨大な鉄扉がゆっくりと開かれた。
扉の先は何ら変哲のない通路が真っ直ぐ伸びており、扉を潜って数歩進むと背後の扉が閉ざされる。
光の届かない高い天井の通路の左右には点々と照明が置かれているお陰で視界は思ったよりも悪くない。外からの音は遮断され、通路内では微かな音さえよく響く。
自分の足音以外聞こえない通路を歩き続けると前方に入り口と同じような扉と二人の兵士が立っていた。どうやらあれがC地区のゲートのようだ。
C地区がどんなところなのか少しばかり期待に胸を膨らませながら扉の前まで辿り着くと、兵士がレバーを操作しC地区への扉は大きな音を立てながらゆっくりと開かれた。
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