第3話

 いい距離を保つこと、それが人間関係良好の秘訣。僕が今勤めているのは工場だ。もちろん人に左右されることもあるし、理不尽なこともある。だけど作業を分担し1つの作業に熱中して、より早く正確に担当やノルマをこなす。そうして1つのものをみんなで作り上げていくのは僕にとってすごくやりがいがあった。僕もその一部になれていることが実感できる。そのわりには距離を保ちやすい。まただめなのもわかりやすい。商品にならないものがなのだ。ヒトがぶつかってきたが謝らない。前はいろいろとぐちゃぐちゃしたものが頭の中をめぐっていたが、今はそれほどは感じない。商品と違って僕はぶつかったくらいじゃだめにならない。だめにならないんだ。今の僕は。



「高橋さん、待ちましたか?」


「待ったよ」


「すいません、今日お客さん多くて」


「謝らなくて大丈夫、僕も仕事帰りだったけど休憩できたから。どこかゆっくりできるところ探そう。佐藤さんの息を整えよう」


「ありがとうございます」







 そして今僕らは2年目の春の終わり、夏の初め。



「こういう季節の変わり目は出会った頃を思い出しますね」


「あ、あの衣装」


「ああ、あれですね。綺麗に畳んでとっておいてあります」


「あれ、寒くないの?」


「ライブ中は暑いんですよ?そのあとは本当はガウンを羽織るんです」


「寒かったんだね」


「急いでしまったから」



 忘れてきてしまいました、と呟く彼女は笑顔で、悲しいほどに隙のない笑顔だった。



「あ、あれ見てください!」


「おー、思っていたよりずっと…」


「「綺麗だ」」


 僕たちが今来ているのは桜がライトアップされるところで春と秋にヒトゴミが生まれる。今は葉桜が少なめのライトで照らされているため、ヒトはまばらだ。



「今日が桜のライトアップ最終日なんです」


「秋が深まったらまた来よう」


「はい!」


「佐藤さん、あそこ見て」


「あら、私たちと同じこと考えてる人たちですね」



 最終日で平日でそして桜が散っている。だれもいないと思ってきたが、甘かったようだ。イチャイチャしている姿を少しはうらやましいと思う。そして同時に佐藤さんの気持ちが気になってしまう。ああ君も同じ気持ちだったらいいのに。それを確かめる術を僕は知らない。なんてただの臆病な僕は手を繋ごうとする。やめておくか、今日はこのあと少し高いレストランで食事をする予定だ。手をつなぐタイミングなんてものはいくらでもある。そうなのだ。僕には小さいながはも余裕というとのが芽生え始めていた。彼女は僕を裏切らないし、彼女から感じる暖かさを僕は何の疑いもなく信じていた。



「美味しかったです」


「割り勘でよかったの?」


「あ、はい。奢られるの嫌いなんです。それが友だちでも親でも」


「そうか。確かに貸し借りをつくる、最も面倒なものだしな」


「あげたり奪ったり、押し付けたり、搾り取ったり」


「そうだなあ、死んでお金が動くのも虚しいよな」


「え?」


「遺産相続とかさ」



 彼女の手から財布が落ちる。慌てて拾って渡す。私、遺産なんて言いましたか?と問われ雑談の延長のつもりだと伝える。



「すいません、私勘違いを」


「何を?」


「…聞かないでくれますか?」


「嫌だ」


「聞かれたくないです」


「僕らにそれをいうのか?」


「あは、そうでしたね」



 隙だらけのその顔は僕を嫌いだと思った顔だ。僕は彼女の手を引いて外に出る。生ぬるい夜風が頬を撫でる。



「わかっちゃいましたか?」



 とても暗い笑顔の彼女に僕は言った。



「言葉に出して言ってくれ、もっと態度で示してくれ」



 それでも彼女は話さない。繋がった手のあたたかさも離さない。彼女は恋人つなぎにして僕のからだに寄り添う。



「私だって最初は自分も相手も同じ想いだったらいいなってずっと思ってたんです、だけど人の気持ちなんて、ヒトの気持ちは変わるから、コロコロ変わっていくから、だから変わらないあなたが…嫌いじゃない。ねぇお願い、何も言わないで、言わせないで」



 僕は佐藤さんの言いたいことがすごくよく分かった。小悪魔の彼女は気持ちがわかってしまうことにしたいのだ。そのままでこの付かず離れずの距離を守ってほしい。僕が嘘をついているように彼女にも嘘があって僕らはそれを黙っているしか方法がないんだ。



「分かった。僕からは君のことはなにも聞かない。だけど1つだけ、僕も君のこと嫌いじゃない」



 ちゅっとだけキスをして、手を離した。佐藤さんの手は僕の肩に来てまたキスをする。そして佐藤さんはいつもの笑顔でホテルに行こうと僕を誘う。僕はなにも言わずに彼女についていく。僕は彼女を信じきっているのだ、なに1つ疑ってはいない。だけど夢中になって体を重ねるこの行為も決して距離を縮めるものではなくて。僕は、たぶん彼女もはっきりとそれを肌で感じていた。ホテルからの帰り道の電車の中佐藤さんは僕に言った。



「高橋さんは私のこと好きですか?」


「好きだと言ったら?」


「もし私があなたのこと好きだと言ったら?」


「そうだね、僕はもう、君の言いなりだ」


「ふふ、私はまだあなたの言いなりにはなりません」



 いつにも増して可愛く言った彼女は俺に抱きついた。高橋さん、いつきさん、俺の名前を呼びながらぎゅうぎゅうしてくる。



「あ、いつきさんはやめて」


「いつき!…いつきくんで」


「じゃあしおりちゃん、このヒトの中でよくこんな恥ずかしいことできるね」


「相手がいつきくんですから」


「俺は無理」



 べりっと彼女を剥がして土曜の午前中という朝練の学生その他大勢がいる中でイチャイチャカップルを演じるのだ。あ、そうだ。



「ねえ、付き合うってなにをすればいいのかな?」


「ふふ、付き合ってきたじゃないですか今さっき」


「佐藤さん、」


「…いつきくんけっこう下ネタ嫌い?」


「…僕らは付き合ってるってことでいいんだよね?」


「うん!私はいつきくんの彼女で私の彼氏はいつきくん」


「うん、今度誰かに聞かれたら堂々と言うね」


「うん、私が誰にも狙われないようにね」


「これは君を守るよ、とか言えばいいの?」



 甘い甘い、甘すぎて言えないから。そう言ってお砂糖のような頭のしおりちゃんと話す。僕はもう迷わない、たとえこの間みたいに彼女の何かに触れてしまっても僕は踏み込まない。たとえ気持ちが漏れて来ても僕はそれを盗まない。彼女はがそれでいいなら僕もそれでいい。なにがあっても別にいい。この距離が保てるのなら、この人がそばにいるのなら。守ることはできないかもしれない。腕力ないし、ひょろひょろだし筋トレでもしようかな、さっきも息上がってしまった。



「えーいつきくん、筋トレしなくていいよ?ちょっとひょろっとしてるくらいがいいですよ」


「へ?ああ、うん。そーかなあ」



 隣同士の密着しながら2人で座っているとふと佐藤さんに言われる。でもなあ、



「でもさあ、いくらなんでも体力不足かなってさ、この間一緒に走ったときも息上がっちゃって」



 男としては普通に悔しいんだよな。



「いつきくんでも悔しいんだね、けっこう負けず嫌いだよね?」


「うん、こう見えてね」



 僕は彼女と話している。それは実は彼女と僕を離していることなのかもしれない。人間関係良好の秘訣はいい距離を保つこと、僕は忘れてしまっていた。だけどそのうち自分が何を話して何を黙っているのか、彼女に何を伝えて何を隠しているのか、僕と彼女の距離とはそもそも何なのかわからなくなっていった。その電車での不思議な会話をひしひしと感じながら僕は考えるのをやめた。彼女はもしかしたら本当に超能力者かもしれないとか、宇宙人かもしれないとか、僕は思ったことを全部話すようになったのかもしれないとか、これも全部夢かもしれないとか。僕は一旦それらを捨てた。



「眠いんですか?」



 隣の肩にもたれるとそう聞かれる。察してくれ。また僕は言ったのかな、言わなかったのかな。



「おやすみなさい」



 がたんごとん。揺れる車内で眠ったことなど一度もなかったのに、隣の体温を感じながら目を閉じた。隣にあるこのあたたかさを、あたたかさがすぐ隣にあるこの距離を、いつかの僕は知らなかった。



 桜が散るとあの有名な薄桃色から少し赤みがかって、葉桜になる。そのうちに青々とした葉っぱになって、僕みたいな人間には桜の木なのか区別がつかない。桜はピンクの花の木だという認識しかないのだ。それでも毎年まるで義務のように春になるとその花を咲かせるものだから、葉っぱであってもこれが桜の木だとわかるんだ。この木は桜。今はまだ咲かなくても春には必ずあの色になる。

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