第2話 傷み
やっと⋯⋯やっと、この世界から離れられると思った。
これで、楽になれるんだと思った。
だから、どんな衝撃がきてどんなに痛くても我慢できると思った。
だってその痛みさえ去ればこの傷みに満ちた世界から逃れることができるんだから。
だけどその痛みは思っていたものとはずっと違った。
鼻が思い切り曲がってズキズキと痛む。それ以外に痛みはなくすぐにあたたかな人の温もりに包まれた。
死ってこんなにあっけなく柔らかなものなのだろうか。
ここは天界、なのだろうか。
けれど自ら命を絶とうとした者が天界に行くことなんてできるはずないのに……。
体に先程よりは小さいドスンッという衝撃が伝わってくる。
恐る恐るといった感じでゆっくりと瞳をあけていくと目の前には一人の少女の心配そうな顔があった。
頬に広がるそばかすが印象的なその少女はスタルイトのような鮮やかなオレンジ色のボサボサ髪を一つにしばっていてライトグリーンのタレ目をした優しそうなおっとりとした雰囲気の女の子だった。
もしかして⋯⋯。いや、もしかしなくても!
「僕⋯⋯生きてる⋯⋯のか?」
「うん、生きてるよ」
目の前の少女が無邪気に微笑む。
ああ⋯⋯最悪だ。
覚悟を決めて、遺書まで書いてきたのに⋯⋯。
悔しい。哀しい。苦しい。僕はまだ生きなきゃならないのか。
「実はね、落ちてく君を魔法のじゅうたんに乗って助けにいったんだけど魔法のじゅうたんに落とされちゃって⋯⋯。大丈夫?痛くない?」
そうか。こいつが僕を⋯⋯。
「傷いよ」
「あっ、そうだよね。痛いよね。どこらへんが痛い?塗り薬は常備してあるよ」
少女が胸元のポケットから取り出したのは小さな半透明の入れ物。蓋をあけると思わず鼻をおさえたくなるような匂いが漂ってくる。
「はやくそれをしまってくれ。僕の傷みはそんなものでは治らない」
「え、そうなの?でも私傷に効くような薬は手持ちのアペルチアしか持ってなくて⋯⋯。あ、そうだ!」
おっとりしているようで案外人に話す隙を与えない少女。
「痛いの痛いのこっちへこーい」
「⋯⋯⋯⋯なんだよそれ」
「今ので痛いのが私の方へ来たんだよ。うちの父さんがよくやってくれてね」
そういってあたたかな笑みを浮かべる少女に彼女は自分とは全く正反対の人間なのだと確信する。
「⋯⋯僕を助けてくれてどうもありがとう」
心からの皮肉を込めてそういうも彼女から返ってきたのは優しくあたたかな声音の
「どういたしまして」
だった。
僕はひとつ大きなため息をつくと立ち上がって歩き出した。
どこへ行こう。
もう遺書は読まれてるだろうしあの親のことだ。今頃は聖警備騎士隊が出動して僕を捜索していることだろう。家に連れ帰られればもう二度と外には出さないなどと言われるかもしれない。そんなの絶対に嫌だ。
僕にはやっぱり逃げ道などない。
最初から、ないのだ。
神様は賢いな。弱い僕がすぐに逃げ出すことを見越しているのだろう。
「待って、君」
振り返ればあの少女がトタトタとこちらへ駆けよってきた。
「なにか用?」
下がってきたメガネをクイッと押し上げながら少し厳しい声音でそうたずねる。
「ルミナス69番地の⋯⋯なんだっけ⋯⋯波の月⋯⋯月見なんとかってとこ、わかる?」
申し訳なさそうな顔で少し大きめな袋を両手に抱えたその人は懇願するようにこちらを見つめてくる。
土のにおいがしてくる簡素な服装や全体的な雰囲気からこの娘は田舎っ娘なのだろうなと推測していたが本当にそうらしい。
土地感のなさ、というか、土地の名前がうろ覚えな時点で丸わかりだ。
「69番地波の目横丁月の見える丘、じゃない?」
「あ、そうそう!すごい!」
ライトグリーンのタレ目を目いっぱいにひらいて拍手してくる少女。
生まれてこの方ルミナスで過ごしてきた。ややこしくて面倒臭い土地の名前を覚えるのにはもう慣れたし、観光客に道を聞かれることも多かったから僅かな情報でその場所を導き出すのも結構得意だ。
「で、波の目横丁って全部で8つの目があるんだけど、どこの目かわかる?」
「あー⋯⋯」
ポカンと口をあけて困り果てた様子になるとボサボサのスタルイト頭をもっとボサボサにして
「よくわからないかも⋯⋯」
なんていう少女。
こういうしっかりしてないマイペースでおっとりしてる奴が僕は大嫌いなのだが……。
だからと言って困っている人を見放しておくこともできない。
「なにか覚えてることは他にないの?」
「あっ、白いサイボーグって言ってたかも!」
「それ絶対違うだろ」
あまりにも呆れすぎて自分がこの先どうしようかとか一切忘れていた。
「んー、じゃ、白い祭壇かな?なんかそんなニュアンスだったんだよねー」
しまいには悪びれもなくそういうものだからため息すらでてこなくなる。
しかし、ニュアンス⋯⋯。ニュアンスでいうならさいぼーぐ⋯⋯さいだん⋯⋯白い⋯⋯。
「とにかくね、建物なんだよね。お家!これを届けるんだけどさ。」
建物⋯⋯。建物で白い⋯⋯。
「もしかして、"帰らずの館"じゃない?」
「うん?」
それが正解なのかよくわからないような表情を見せる少女にひとつため息をつくと説明をはじめる。
「"帰らずの館"っていうのはルミナス69番地波の目横丁5の目月の見える丘最奥の白い館なんだ」
「あ、そうそう!そこだよ!"最奥"の白い館だ!」
嬉しそうに拍手をする少女。
それにしたって"最奥"を"サイボーグ"やら"祭壇"やらと勘違いするなんてどうかしている。
「よかったらそこに連れてってもらえないかなあ?⋯⋯。乗ってたじゅうたんが暴走してどこか行っちゃったから⋯⋯」
えへへ、と笑いながらそういってくるその娘にまた大きくため息をつくと
「別に構わないよ」
といった。
どうせ帰る場所もないんだ。
"帰らずの館"は訪れた者が一人も帰ってきたことがないという謎の館で、聖警備騎士隊ですら手をださないような場所。
少なくともそこへ行けば両親の元へ突っ返されることはないはずだ。
送っていくぐらい構わないだろう。
ついでに館の中を覗いてこう。
僕はポケットから小さくおりたんだハンカチ、もとい魔法のじゅうたんを取り出した。
「君も魔法のじゅうたん持ってるんだね!」
興奮したようにそういってくる少女にボソリと
「一応魔法学校の生徒だから、ね」
とつぶやく。
しかし少女は僕が呪文を唱えて広げたじゅうたんに夢中になっていて、小さな独り言なんて聞いていなかったようだ。
別に聞いて欲しかった訳ではないがなんだか腹が立つ。
僕と彼女は性格的に合わないだろう。というのも、会って間もない今ですら彼女とは正反対だと思えるから。
「そういえば、君の名前はなんていうの?」
ちょうど二人は乗れそうな大きさの長方形型に広がった魔法のじゅうたんに乗り彼女が乗るのを待っていると無邪気な声音でそんなことをたずねられる。
「⋯⋯タグ」
タグなんて変な名前言いたくはなかった。
だが、"帰らずの館"までの仲なのだ。
特段害はないだろう。
「そうなんだね!私はベジっていうんだ。よろしくね」
なんていいながら僕の後ろに乗るベジ。
「⋯⋯そう」
ベジ。彼女には変な温かさがある。
僕が生まれてきてこのかた感じたことのないような……
いや、感じたことがないから温かいと感じるのだろうか?⋯⋯。まあ、そんなことどうでもいいのだが。
「"帰らずの館"まで頼む」
そういうとじゅうたんはゆっくりと浮上していき、やがて69番地波の目横丁の方角へと進み出した。
「それにしても"帰らずの館"なんておかしな名前だね。」
「そう?別に普通じゃない」
多くの人が飛び交う空の通りを飛んでいるとこの世界から消えられなかったことに対するひどい虚無感のようなものが溢れでてきてまともに思考が働かなくなった。
ぼんやりと空を見つめながらベジから話しかけられたことに受け答えする。
「なっ!?」
「あ、ごめんね。とんがってるから変わってるなって思って」
唐突に耳に触れられビクッと肩を震わした僕に彼女は悪びれもなく答える。
そういうところが僕からするとひどく甚だしいが今はその怒りのおかげでぼんやりとした不安定な思考から抜け出せた。
ある意味感謝すべきかな。
「僕はエルフだから」
「エルフ?エルフってあのエルフ!?」
「あー、はいはい。そのエルフだよ」
興奮しているベジに対して冷めた声音で答える。
「昔よく父さんが読んでくれた絵本にエルフのお姫様が出てきたんだけどね、すっごく綺麗で私もこんなふうになりたいなあって思ってたの」
そこまでいうと苦笑して
「っていっても大きくなった今はそんなの無理だってちゃんとわかってるんだけどね」
「⋯⋯そう」
「エルフの国ってあるの?」
「⋯⋯どこかに、ね」
「そうなんだあ。いつか行ってみたいなあ」
どうして彼女はどんなに冷たい声音で受け答えされてもその温かさが消えないのだろう。
⋯⋯きっと僕とは何もかもが正反対だから、だよな。
じゅうたんが少しずつ下降をはじめる。
見えてきたのはバックに大きな満月を称えた白い大きな館。あたりを漆黒の闇が覆っていて白い館と月が目に痛いくらいだ。手前の波の目横丁はいつ見てもおかしな感じ。
常に波のように緩やかに形を変えているこの横丁で歩いて目的地に向かうことはかなり難しい。
"帰らずの館"手前で魔法のじゅうたんから降りると僕は改めてその館を見つめた。
可笑しいな。この世界から消えたいと思っていたくせにこの"帰らずの館"を前にして僕は怖がっているのか?
訪れた者の誰もが、あの聖警備騎士隊までもが帰ってこなかったというこの館に。
「いやー、ありがとう、タグ。あの、言いにくいんだけどね⋯⋯」
そこまでいうと体をもじもじさせ不自然な動きをするベジ。
小さくなったじゅうたんをハンカチのごとく折り畳みながらそんな彼女の次の一言を待つ。
「良かったらこの届けものが終わったら家まで送ってってくれない?」
「⋯⋯⋯⋯」
「お礼にスタルイトのパイあげるから!うちの母さんのは絶品なんだよ」
そういってから悲しそうな顔でボソリと「ほんとは私への報酬なんだけど」という。
そんなベジという少女に僕は気づかぬまに笑い声をあげていた。自分のことなのにひどく驚いた。僕はこんなにも普通に笑えるのか。
「じゃあ、行こう?」
少し悲しそうにそういって荷物を抱え館へ歩き出すベジ。
僕はふと我に変えるとそんなベジに続いて歩き出す。
「パイはいらないよ」
そんなたった一言の言葉に一気に表情を変えるベジには飽きがこない。
大きな大きな白い館を前にしても不思議と先ほどのような恐怖は湧いてこなかった。
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