第三十四話 傲慢な神様

『──玖星アカリ! 応答してください、玖星アカリ! 何があったのですか、状況を、リベリオスの無断使用はいったい──』


 右手の通信端末が、先ほどからがなりたてている。

 きっと顔色を真っ青にしたリリスが、いまにも泣きだしそうな顔で叫んでいるのだろう。

 あのあと、知恵の火の対極に位置する拒絶の火を行使した影響で、チクタクマンから強制排出された俺は、圦洲口のどこかにある廃棄された小屋へと転送された。

 役目を終えたチクタクマンは闇を狩り立てるものへと戻り、いまは流星学園のある位相──ドリームランドに収容されている。

 その真っ暗な小屋の中に、悲痛な叫びが響いていた。


!』


 ……ああ、久しぶりに、おまえにそう呼ばれたな。

 俺は通信を切り、ポケットから取り出した試験用のスペース・ミードを呷った。

 人体を活性化するこの蜂蜜酒には、もう一つの効果がある。

 それは、人体を人体たらしめるというものだ。

 これを大量に服用することで、人外の異形も、わずかにひととしての形を保つことができる。

 精神を維持できる。

 例えば、滋由ジュウゴのように。

 額が燃えるように熱い。

 触れれば、硬質な感覚が返ってきた。

 赤い宝玉。

 それが、砕けるようにして、俺の肉体に吸収されていく。

 それでもきっと、この両の眼は、いまだ赤いままで。

 総身は、玖星アカリのものではない。

 いまの俺は、邪神の一柱、這いよる混沌ナイアルラトホテップの一側面。

 この本来の名を──ハエク・ヴィブルニアという。

 されど、太古の昔に交わした盟約が、玖星アカリの名が、この身の邪悪を縛り付ける。

 そして、それだけが。

 俺の中でいまにも消えてしまいそうな大十字ナコトを。

 生徒会長を、存続させていた。

 もともと、俺はなぜ彼を求めたのだったか。

 それは、彼の憎悪を、何より人を救おうとする意志を欲したため。

 玖星アカリ──ハエク・ヴィブルニアは、ある理由をもって、邪神と敵対している。

 この宇宙を生み出したすべての王。

 そして、その子供たちである六柱の神。

 絶大なる七帝。

 

 ひとを、生命を守るために、俺はそんな不毛な戦いを始めて。

 そして、いつしか折れた。

 俺という直刃の剣は錆びて朽ち、半ばからへし折れたのだ。

 あの日、あの南極が消えた日に。

 人が人を裏切った日に。

 俺は、人間というものがわからなくなったのだ。

 だから、求めた。

 邪神を心の底から憎悪し、同時に人間を愛する人間を──英雄を。

 そして、大十字ナコトは選ばれ、直轄者となり果て。


「……ダメだ」


 やはり、まだ、この誇り高き男を消してはいけない。

 俺はそう思う。

 混沌浸食率666%を超えた弊害で、俺はいま、人間であることがひどく危うくなっている。

 感情機関の停止。

 思考システムの一部断裂。

 心情構造の瓦解。

 言語回路断絶。

 魂保持線停滞。

 冗談ではないほど、俺は自分を維持できない。

 だから、彼を喪ってはいけない。

 クトゥルフの分御霊を完全に消し飛ばし、この宇宙から拒絶した〝ディーの火〟。

 もしあれを、俺が怒りのまま制御できず、完全に解き放っていれば、この世界は均衡を失い消滅していたことだろう。

 すべてが、無為に帰していたことだろう。

 そんなことは許されない。

 俺は、ハエク・ヴィブルニアであってはいけないのだ。

 だというのに。。


『玖星アカリ』


 その男は、言うのだ。


『我は──俺は、もういい』


 もう、ここまででいいと。


『おまえは優しすぎる。。俺のすべてを、おまえに譲る。だから』


 だから。


『必ず、人を救ってくれ。命を、守ってくれ。もし俺を、おまえが戦友だと思ってくれるのなら、どうかこの願いを──心からの願いを、聞き届けてほしい。玖星アカリ』


 おまえは、善き神になれ。


 男はそういって。

 そうして、俺の中に溶けて、消えた。

 すべての直轄者がそうであるように。

 命を失って。

 偽命すらなくして。

 混沌の根源に戻ることすらなく、ほどけて消えた。

 俺は。

 玖星アカリは。


「俺は……やさしくなんかない」


 だって、俺は。


「こうなることがわかって、あなたを直轄者に選んだ──傲慢な、神なのだから」


 人殺しで、神殺しなのだから。


◎◎


 通信機がまた騒ぎ出す。

 位置情報を、俺は送信する。

 すぐに、職員が俺のところに来るだろう。

 それまでに果たして俺は。

 俺は玖星アカリに、戻れるだろうか?

 彼から託されたものを、受け入れて──


「──アカリ!」


 音を立てて、小屋の扉が開いた。

 勢い良く、蹴破られるような強さで。

 射しこむ輝きは、星辰の煌き。

 そこにいたのは、俺の良く見知った少女。


「……迎えに、きたわよ?」


 優しく微笑む少女。

 肩で息をつき、汗を流す赤い顔の。

 織守ステラが、そこにいた。

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