第二十九話 直轄者の切望

 ──誰かが言っている。

 おれが言っている。

 目を覚ませと。

 もう、あきらめるのかと。

 こんなところで立ち止まるな。

 まだ──復讐は終わっていなのに、と。


「──っ」


 はっと目を覚ました瞬間、俺は大きくむせた。

 むせかえるような腐臭──潮と魚が腐ったような臭気が、その空間には満ちていた。


「お目覚めですか、ご同輩?」


 聞こえてきたのは、くぐもった声。

 人ならざる者が、それでも人をまねて紡ぐ、異質な声音。

 ぴちゃり、ぴちゃりと雫の滴るそこは、巨大な神殿のような何かだった。

 だが、すべての支柱、すべての梁、すべての壁面が、非ユークリッド幾何学的に──つまりは3次元ではありえない角度へとひねくれ、それでなお均整を保っている。

 うすぼんやりとした明かりは、腐食した海の色だ。

 その中央、玉座のような祭壇に腰掛け、ひとりの男が笑っていた。

 波立つ髪に、白衣。

 ダルマのような、腹が突き出たずんぐりとした体。

 手袋も、マフラーも、いまはない。

 その異様に目が離れた顔の、その下にある首の部分では、ぱくり、ぱくりと、が蠢動していた。


「やはり……深き者か」

「やはりというなら、こちらもやはりです。あなたも【直轄者】というわけだ。どおりで同じ、臭いがする」

「ここへ転送した方法は……ニトクリスの鏡か」

「はい。ついでに言えば、この〝神殿〟はトゥルー金属で遮蔽しております。余分な念波がもれないように」

「…………」


 ゲボリと音を立てて、滋由所長だったものは、なにかを吐き出した。

 黄金色の液体。

 スペースミード。

 それを吐き出したことで、彼の姿はさらに変化する。

 二足歩行する、サカナとカエルの相の子。

 それを形容する言葉はひとつだ。

 おぞましき深きものどもディープ・ワンズ


「なんの目的でここにいる」

「なんの目的とは……私はこれでも、しがない雇われ人でして、人類のため、ガーデンと家畜と海底プラントの発展を──ああ、いや」


 俺のまなざしい何かを感じ取ってだろう、彼は、その醜悪な顔を、にやりとゆがめた。



 彼は。

 深き男は、言った。


「私には妻子がおりました。しかし、その命は失われてしまった。アグレッサーと、地球連合の戦いに巻き込まれたのです。かつてこの地は楽園でした。皆が楽しく生きていた……だけれどあの日、地獄がおりてきた。妻はね、戦闘に巻き込まれて死にました。私たちによくしてくれた人々も、皆死にました。それを悔いたんでしょう、息子は戦士になるといった。アグレッサーを殺す猟師になると」


 瞼のない瞳が、悲しげに細められて。

 そして、怒りに見開かれた。


「そして死んだ! セブンスなどという珍妙な兵器に乗せられて、戦わされて、あの子は死んだんだ! 失われた、楽園は、私の家族は、すべて失われてしまった! にくい……憎い、憎い、憎い──にくい! 妻を奪い、息子を戦いに駆り立てた、人類などというものが愚かしさの極致が憎くて仕方がなかった! セブンスなどなければ、そもそも戦う力などなければ、死に急ぐこともなかったのに──!」

「だから」


 だからと、俺は尋ねた。

 奥歯をかみしめながら、苦し紛れのように、問いかけた。


「だから……邪神に願ったのか。直轄者に、なったのか」

「然り! そうして、否!」


 彼は、吠える。


「邪神などではない! あれこそが私の救い主! 永久に坐したもう夢幻の神! に御身を封じられた禍々しき御柱たち……自由に動けぬ主らに代わって、主らをこの世界へと呼び戻さんと欲するもの……そのための権能を与えられたもの──それが直轄者! そのためのこの異形! ゆえに私は、世界を祝福する……!」


 彼は、滋由ジュウゴだったものは。

 底冷えする、深海のうねりのように低い声音で。

 怨嗟を吐き出した。


「今こそ刻限トキは極まれり……星辰はかりそめの位置に……この瞬間そろう……!」


 刹那、その空間が律動した。

 違う──これは、地鳴りアース・クエイクだ。

 地震によって神殿の構造物がゆがみ、ねじれ、壊れて。

 男の背後の岩壁が崩壊。

 その奥深くから、俺も知らない未知の機械──七型決戦兵器セブンスのフレームが現れる。


「やめろ、滋由ジュウゴ!」

「私と同じ直轄者が……復讐によって世界を呪ったものの言葉が、わずかでも誰かに届くとでも……?」


 俺の言葉は、彼には届かない。

 俺のような奴の言葉が、届くわけがない。

 唐突に、俺の腕部に取り付けられた通信機が鳴り響いた。

 発信者は──ステラ!?


「どうした?」

『アカリ? 話を聞いて、おかしいの!』

「落ち着け、何があった?」


 普段の彼女からは想像もできないほど取り乱した様子に面くらいながら、問いただせば、ステラは、こんなことを言った。


! どれだけ起こしても、揺さぶっても、殴っても、だれひとり目を覚まさないのよ! こんなの、普通じゃない……!』

!」


 俺は、深き男を見た。

 彼はにやりと笑い。

 高らかに声を上げた。


──……!」


 理解した。

 俺はすべてを理解した。

 この事件は、はじめから仕組まれたものだったのだ。

 つじつまが、ようやくそろう。

 この地の名前が、入栖口であったことも。

 眠り病なるものが蔓延していたことも。

 そのすべては、邪悪なるものの姦計。

 夢、幻想、偉大なるクトゥルフ。

 かの邪神の眷属には、クトーニアンというものが存在する。

 それは本来なら地を穿つ魔。地面の奥深くを掘り進み、地震を起こす大海魔。今回の事件とは何の関係もない。

 だが、その首魁は別だ。

 シャッド=メル。

 奴は夢を操る。

 この地域一帯が奴の支配権であり、奴は人類の意識を、魂を、大いなるクトゥルフ復活のいけにえのために収集していたのだ……!

 それが眠り病の正体!

 滋由ジュウゴはスペースミードを使い、そのくみ上げる精神量を調整していた──正しい位置に、星がそろうまで。

 最大の規模で、クトゥルフが目覚める瞬間まで!

 シアエガなど、物語の閲覧者玖星アカリをだますフェイクに過ぎなかったのだ。


「それが──おまえの計画か、直轄者!」

「然り! 然り! 然りッ! 偉大なるクトゥルフは、いまこそいけにえを欲しているうぅぅぅ! その腹をすかし、えさを求める!」


 彼の背後にある巨人が、セブンスが。

 滴り落ちる、緑色の闇へと包まれる。


「クトゥルフ!」


 絶対なる七帝、その一柱の神々しい禍ツ名を、俺は絶叫する。

 嫌悪を込めて、尊き御名を声の限り叫ぶ!


「同輩よ、同輩よ!」


 絶叫。

 狂うことの許されぬ男の絶叫が、響き渡った。


「今よりこの地は、人の地獄と化すぞ!」


 刹那、セブンスだったものが変容。

 巨大化し、無数の触腕を吐き出し、男を取り込んで海底神殿を破壊しつくす。

 狂気と狂気と狂気と狂気により、禍々しき海底より、その邪神は浮上した。


「ははははははははははあはははははははははははははははははははははあはは!!」


 流れ込む膨大な量の海水。

 それに押し流されながら、俺は、その忌まわしい笑い声を聞いた。

 絶望が、解き放たれようとしていた。

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