第1章 転機

 「喜べ元子!そなたの入内が決まったぞ!!」

 父顕光がその知らせを持ってきたのは、長徳元年(九九五)が明けてまもなくことだった。年末年始の慌ただしさがようやく落ち着てきた昼下がり、元子は一家が居をかまえる堀河院は北の対で、母に見守られながら妹延子と琴の合奏を楽しんでいた。そこへ衣冠束帯姿のままの父が、表袴(うえのはかま)の裾を蹴り上げんばかりに入り込んできたのだ。自分たち姉妹は無論のこと、まわりで演奏に聞き入っていた母や女房達も一斉に顔を上げ、父の方へ視線を向けた。ほんの一瞬、水を打ったように静まり返った室内は、しかし妹の一声ですぐにまたざわめき出した。

 「入内?すごいわ、お姉さま!」

 薄紅に花菱をあしらった打衣(うちぎぬ)に萌黄の匂の五つ衣を身に纏った妹は、明るく闊達が過ぎるところがあり、時折両親にたしなめられることがあるものの、その裏表のない人柄は皆から好かれていた。この時もすぐさま姉へにじり寄り、手を取って俄かな吉報を素直に喜んだ。すると妹の興奮で我に返ったのか、女房達も口々におめでとうございますと祝辞を述べて頭を垂れ出した。驚いて言葉も出ない元子は、周囲の歓声を一通り見回すと、真正面にいた母へ困惑の表情を向けた。母もまた袿の袖で目頭を押さえ、娘の縁談に喜びの涙を流していたが、元子の視線を受け止めると、それにしてもと父へ話しかけた。

 「随分急なお話ですこと。もしそのようなお心積もりでいらしたのなら、事前に私(わたくし)や元子におっしゃって下さっても良かったでしょうに」

 「いや、すまぬ。元子を入内させること自体は、前々から考えていない訳ではなかったのだが…。飛ぶ鳥を落とす勢いの中関白家を敵に回してまで嫁いでも、元子が宮中で肩身の狭い思いをするだけだと二の足を踏んでいたのだ。実際これまで、帝の定子さまへのご寵愛が厚いことに遠慮して、他の公卿たちも娘を入内させることに消極的だったからな」

 その話ならば、箱入り娘として育てられた元子でも知っていた。今上一条帝は、中関白家の家長にして藤原氏長者道隆の長女定子をこの上なく寵愛し、まるで市井の人々のように一夫一妻の夫婦生活をしていると。そして中宮定子の御前(おまえ)には、才媛の聞こえが高い貴族の娘たちが控え、さながら絵物語のような雅やかな世界が広がっていると。そのような噂話もあって、定子は都中の若い女人たちから羨望の眼差しを受けていた。元子・延子姉妹もまた、中関白家の栄華にいきり立つ父を尻目に、こっそりと宮中での定子の生活について、あれこれ夢想することを楽しんでいた。だが、父の反感はあながち世間ズレしたものではく、実際帝の定子への純愛は少女たちの格好の憧れにはなっても、宮中の権力闘争を泳ぐ男たちにとっては、迷惑極まりない話であった。

 もとより帝位ある者の務めは、第一に跡継ぎをもうけることである。それも、なるべくたくさん。もっとも遥か昔のおいでになったという嵯峨帝のように、大勢のキサキたちとの間に五十にあまる子女をつくり、宮中の財政を圧迫させるのはさすがに問題だが。しかし政(まつりごと)の安寧のため、帝はなるだけ複数の女人と関係を持ち、何人か跡継ぎになれそうな皇子を確保しておく必要があった。もちろん最終的に東宮に選ばれるのは、有力な家柄の出のキサキが産んだ皇子であることが常だったが、政というのは時折思いがけない番狂わせを生じさせることがある。例えば先程挙げた嵯峨帝の父君である桓武帝は、後の光仁帝白壁王の長子としてお生まれになったものの、母君が渡来系民族の出身だった関係から、はじめ帝位からは遠いものと思われ官僚として奉仕なさっていた。それが政争の末、藤原氏の後押しを受け四十を過ぎての即位となったのである。

 だから貴族の男子たるもの、ある程度の地位と財力があって娘もそこそこの器量なら、一度は娘の入内を検討するのは当然のことで、さらに娘が帝の寵愛を得て皇子を産み、自分が次期帝の後見役になることを夢みるのもまた当然のことだった。ところが、今上一条帝の後宮ではその夢がみられない。定子の父道隆の不興を買うことを恐れているということもあるが、何より定子が帝の心をとらえて他の追随を許さないのだ。まず皇子の祖父になることが、百官の頂点に立つ必須条件といってもいいくらいなのに、これでは面白いわけがない。そのため内心では、定子の実家である中関白家に不満を持っている者は多く、一見平和な一条の御代も、実際はいたる所に不穏分子がくすぶっていた。

 そしてそのような状況下での、元子の入内話なのである。元子本人ならずとも、戸惑うだけの理由はあった。本当のところは、諸手を挙げて喜ぶべきなのだと分かっていたが、思っていることと逆の表情ができる程、元子はまだ﨟たけてはいなかった。父顕光もまたそのような愛娘の心情を察したのだろう。座り込んで車座になると、ぐっと女三人の輪のなかへにじり寄り、笏を口元に当て一段と低い声でこうささやいた。

 「だが、それも風向きが変わってきた。ここだけの話だが、道隆殿の病状が最近いよいよ思わしくないらしい」

 「まぁ、関白さまが?疫病ですか?」

 つられて声を落とした母が、驚いたように父の方へ耳を寄せた。

 「いや、酒の飲み過ぎだ。以前から医者には注意するよう言われていたらしいが、止めように止められず、とうとうそれが命取りになったらしい。まったくあの一家は、酒に飲まれ過ぎだ。倅の伊周もどうやら酒乱の気があるようだし、本当に身につまされるよ」

 自分も無類の酒好きということもあり、父の言葉の最後には同情的な響きがあった。何だかんだ言っても、結局道隆とは従妹同士であるため、父も身内の不幸と思ってしまい非情にはなりきれないようである。しかし、いま父の教えてくれた話が確かならば、これから宮中には大きな嵐が起こるかもしれない。順当にいけば、道隆亡き後関白職を継ぐのは弟の道兼ということになるだろうが、果たして道隆の息子伊周がそれを黙っているかどうか。元子は内心悲しく愚かしいことだと思っているけれど、代替わりごとに兄弟や従妹・叔父と甥で関白職を争うことは、もはや藤原の伝統となってしまっている。だがそれにしても、道隆の具合が悪いなどという情報を父は何処から入手してきたのだろう?世事に疎く、もはや公然の秘密ともいえるようなことでさえ、一番最後に知って仰天するような人であるのに。というか、そもそもこの時期に入内を決めたこと自体が、いつもの父からすれば考えられない。確かに愚鈍なところはあるものの、相手が弱っているところにつけこみ、自分が有利になろうなどという卑怯な戦法を、これまでの父なら決して使うことはなかったのに。

 (それなのにどうしたのかしら?うちのお父さまは…?)

 しかし元子のこの疑問は、なおも続く両親の会話ですぐに解けた。

 「それで急に、元子を入内させようと決心なさったのですか?けれど関白さまはともかくとして、他の公卿方はどう思われましょう?そのような事情ならば、ご自身のご息女も入内させたいとお考えでしょうに。元子一人だけ入内させては、この子が宮中でいじめられはしないかと心配です」

 「ハハハッ、いじめるなどとは大袈裟な。そなたは姫たちと一緒に物語を読み過ぎたな。無用な心配じゃ。なにせこの入内話を最初に提案したのは儂ではない。道長殿なのだ」

 「道長さま?亡くなられた兼家さまのご子息の?」

 「あぁ。表向きはあくまで今上のご生母東三条院(ひがしさんじょういん)詮子さまのご意向を受けてという話だが、多分あの方個人の野心も絡んでのお誘いなのだろう」

 「あの方個人の野心?ですが道長さまは…」

 「そうだ。あの方は道隆殿の弟君、つまり本来の筋からいえば我が一家にとっては政敵ともいえるお人だ。だが、悲しいかな。やはり彼もまた藤原の男だったという訳だ」

 「とおっしゃいますと?」

 「いい加減、兄君たちの影でいることが嫌になってきたそうだ。まぁ無理もない。ただ指をくわえて順番を待っているだけでは、永遠に自分の出番はない。それが当世の政治というものだからな。」

 そう言うと父は、ウンウンと自分一人だけ納得して頷いた。しかし、父以外の人々はまずます首をひねるばかりである。この入内話が道長の入れ知恵だということは分かったが、だとしても何故彼が元子に白羽の矢を立てたのか、それがよく分からない。確かにもとを辿れば、道長も元子一家も同じ藤原一門に連なる家系だが、先ほど述べたように、ここ数十年の政権争いはむしろ藤原の身内同士で繰り広げられている。もしこのまま計画通り元子が入内し、今上の寵愛を得て皇子を生みまいらせてしまったら、道長はおろか兼家一族全体が政治的に不利な立場に追い込まれるのは目に見えているはずなのに…。

 (それなのに道長さまは、一体何を考えているの…?)

 急速に決定しつつある自分の運命への戸惑い、そして腹の底の知れない道長の野望に、元子はこれまでにない不安を覚えた。しかしどのような状況下のなかでも、周囲に飲まれず呑気に構えていられる人間はいるもので、女たちが各々頭の中で考えをめぐらしているなか、一人延子だけが「ねぇ、お父さま」と可愛らしい声で顕光に尋ねた。

 「おぉ、延子。何だね?」

 「どうして道長さまは、お姉さまの入内をお手伝いして下さるの?」

 「いや、だからそれはね。彼もまた藤原の男で…」

 「もぉー、だからそうではなくて。もしお姉さまが帝の御子を産んでしまったら、道長さまはお困りになるのではないかって言いたいの。だってさっきお父さまがおっしゃったように、道長さまと我が家は敵同士なのでしょう?それなのに、どうして道長さまは我が家にお味方して下さるの?」

 この場にいる者たち全ての疑問をずばりと代弁した妹は、やや咎めるような表情で父を見上げた。元子は時々、妹のこのように真っ直ぐな性質をうらやましく思うことがある。するとようやく自分の説明不足に気づいた父が、あぁそのことかとむしろ何でもないことのようにつけ加えた。

 「恐らく道長殿も、できれば自分の娘御を入内させたいのだろうが、生憎大君(おおいぎみ)の…彰子といったかな、あの子は?ともかくその娘御が、まだ裳着の式も迎えていない童女でな。さすがにまだ入内させるには幼な過ぎるそうだ。そこで我らが元子の出番というわけだ。元子が他の公卿の娘たちの先陣を切って入内し、定子さま以下中関白家勢力を牽制してくれることを道長殿はお望みなのだ」

 「つまり…、元子は道長さまのご息女が入内するまでの当て馬ということですか?まぁ道長さまも随分用意周到ですこと」

 こう言うと母は、ちらりと父を横目でねめつけた。口に出してはいないものの、母が道長はおろか彼の提案に乗った父までも非難していることは明らかだ。そんな母の様子に狼狽した父は、しっしかしッと慌てたように反論した。

 「そう悪いことばかりではないぞ、この話は。確かに道長殿の真のねらいは、次期帝の摂政関白となり宮中の実権を握ることなのだろうが、それとてまず娘御が成長し入内できる年齢にならなければ抱けぬ野望だ。その点元子は帝と年頃も近く、我が子ながら見目麗しい。恐らく入内すれば、たちまちのうちに帝も気に入られ、即懐妊という可能性だって充分にあるではないか。そうなれば一気に形勢逆転。再び我が一族が朝政を掌握できる日も夢ではないぞ!」

 「それはそうですが…」

どこか乗り気でない母をよそに、今の自分の演説に一気に興奮したのか、「さぁそうと決まればこうしてはおれん!」と父はバタバタと母屋を飛び出して行く。

 「あっ、あなた。お待ち下さいまし」

 母の制止する声も耳に入らないのか、父はあっという間に渡殿(わたどの)の向こうへと消えていき、後に残された女たちには微妙な空気が流れた。一度は喜んでみたものの、今の話からするに、どうも元子の入内には複数の人間の思惑が絡んでいるようだ。無論入内するということは、同時に宮中の権謀術数に身を投じることを意味していることは元子にもわかる。

 (けれど…)

 「元子、そなたはどうなのですか?」

 物思いに沈んでいると、急に母が声を掛けてきた。「はい?」

 「そなた自身は、今回の入内話についてどう思っているのかと尋ねているのです。本来大貴族の子女の結婚は、当人の意志で決められるものではないけれど、それでもやはり母としては、そなたが喜ぶような結婚をさせてやりたいのです」

 真っ直ぐに自分を見つめる母盛子の瞳には、村上帝の血を受け継いだ内親王としての誇りと強さが宿っていた。その表情から、娘の返答によっては夫と対立するようなことになっても致し方ない、と思い定めていることが察せられる。母の決意を感じた元子は、「私、私は…」と、とくに言うべきことも見当たらないまま声をあげた。がしかし、すぐにまた視線をそらすと、溜息をついてこう答えた。

 「…分からない。分からないわ、お母さま。何もかも、あまりにも急に決まり過ぎて。こんなこと初めてで、どう考えていいか分からないの、私…」


  「入内するんだって?」

 女房が敷いた円座(わろうだ)に坐るや否や、弾正大弼(だんじょうのだいひつ)源頼定は開口一番に元子に問うてきた。

 「まぁ、お耳がはやいこと。何処からお聞きになったの?」

 「知れたこと、君の兄重家殿からさ。それに今日は何時になくここの女房達も浮き足立っている様子だし、何かあったんじゃないかって誰だって思うよ」

 「そう、そうなんです。昼間父が入内の話を持ち出してこちら、皆その話題でもちきりで。あんまりにも話が過熱していて、何だか自分の話じゃないみたいな感じがするわ」

 「でも結局、君の問題だろ。で、どうなんだい?今の気持ちは?」

 今の気持ち。元子は頼定の言葉を反芻すると、首を横に振った。

 「母にも言ったけれど、どう考えていいか分からないんです。本当は喜ばなくちゃいけないと思っているのだけれど、どうしても不安な気持ちが先立ってしまうの。これっていけないことかしら?」

 「いや、自然ないことなんじゃないかな?私は男だから、女人の気持ちには詳しくないけれど、多分入内をする女(ひと)は皆最初不安なんじゃないかと思う」

 そう言うと頼定は、御簾越しにも関わらずしっかりと元子の瞳を捉えて苦笑した。紺青に金糸で三重襷(みえだすき)を織り込んだ直衣を颯爽と着こなすその容貌は、繊細さには欠けるものの精悍な印象を与え、黒く太い眉にきりりとした目元は意志の強い人柄をよく表していた。

 (確かにこれなら、女官たちが夢中になるのも肯けるわ)

 けれど、あくまでそれは〝密かな〟という条件がつく人気だった。村上帝の第四皇子為平親王の二男として生まれ、元子にとっては母方の従妹である彼は、むしろ尊い生まれといってもいい身分であったが、父宮が藤原氏の圧力を受け帝位につくことが叶わなかったため、自身は臣籍降下することを余儀なくされたのである。加えて最近では、東宮の尚侍(ないしのかみ)との仲が噂されており、宮中では微妙な立場にいると聞いている。元子自身は、その噂話の真意ついて頼定に問うたことはないが、もしそれが本当なら、内心では相当な葛藤があるのではないだろうか。出来ることなら元子は、従妹としてまた幼馴染として彼の良き相談相手になりたいと常々考えているのだが、そこが男女の友情の難しいところで、とくにお互いが成人の儀を迎えて以後は、双方の個人的な問題について干渉しないという暗黙の了解ができてしまっていた。けれど後になって考えれば、要するにあれはただ〝きっかけ″をつくってしまうことを、恐れていただけだったのかもしれない。

 「それにしても…」

 御簾越しにまじまじと男を観察していた元子は、急に話を再開した頼定にギクッとした。見ると彼は考え込むように顎に手を当て、目を伏せている。

 「どうなさったの、頼定さま?」

 「うん、実はさ…今回の君の入内話がすごく意外だったから驚いているんだ。だって君の父上はその…何というか、あまり政治とか出世とかに興味のない御仁だとばかり思っていたから。今のこの時期に君の入内を画策するなんて、顕光殿らしくないなぁって…。」

 「あぁ、そのことならあなたのお考えは正しいわ。だってこれは、父一人の思惑から始まったことではないもの」

 「?、どういう意味だい、それは?」

 「言ったままの意味よ。もともと私の入内を提案したのは、父ではなくて道長さまなの。何でもご自分の娘御を入内させる前に、他の姫君たちも入内させて定子さまの勢力を殺いでおきたいのですって。」

 「エッ?」

一瞬驚いたように目を見開いた頼定だったが、すぐにまた視線を横にそらすと、言葉を選ぶようにゆっくりと問うてきた。

 「これは驚いたな。それでその提案に君の父上は乗ったのかい?」

 「えぇ。私が道長さまのご息女が入内する前に皇子を産めば、それで万事解決すると思っているみたいで…」

 こうして父の計略を人に話してみると、多分にそれが希望的観測に依っていることを、元子は改めて実感した。だいたい皇子を産むと簡単に言っているが、そう上手くことが運ぶのであろうか。もはや入内して数年経ち、あれほど周囲から非難されながらも寵愛を受ける定子でさえ、まだ一人の皇子もあげていないというのに。無論そのようなことを恐れていては、娘を入内させることはできないという言い分もわかるが、どうも元子は父がこの入内話にからむリスクについて無頓着過ぎる気がしてならない。果たして藤原道長という男を、それほど簡単に信用して良いものなのだろうか。そう考えてしまうと元子は、重い責任と不安が一気に両肩へ載せられたような気がして、ひどく憂鬱な気持ちになった。

 「やっぱり母の忠告通り、この入内話は嫌だとはっきり父に言ってしまおうかしら」

 「母上は入内に反対なの?」

 「入内自体は悪い話ではないと思っているみたいだけれど、道長さまの後押しが気に入らないみたいで」

 「だろうな。何しろ道長殿は、頭の切れる野心家だ。君の母上が警戒する気持ちも分かるよ」

 「まぁ、そうなんですか?」

 元子は、話の流れが珍しい方向へ進んだこともあり、つい膝を乗り出して目を瞬かせた。裳着の式を終え、御簾越しで対面するようになったものの、成人して以後もこれまで何度か頼定とはいろいろな世間話をしてきたが、思えば今日のような政治向きの話をするのは初めてかもしれない。多分元子自身があまり興味を抱いていなかったということもあるが、一方の頼定もまた、女友達と談笑しているときまでそんなお固い話はしたくないと、話題に上げるのを無意識に避けていたのだろう。しかし今の自分が置かれた状況から判断すれば、彼に質問することが一番問題のないような気がする。筒井筒(つついづつ)の仲で遠慮がない上に、失礼ながら権力の中枢からはやや外れたところにいて、宮中の政治も客観的に観察できているようだから。

 「ねぇ、頼定さま」

 一瞬の沈黙を破り、元子は再び腕を組み沈思する男に声をかけた。

 「うん、何だい?」

 「野心家だとおっしゃるけど、実際のところ道長さまってどんなお方なんです?父にそんな提案を持ち出すところといい、あなたの今の反応といい、何やら私道長さまが恐ろしくなってきたわ」

 そう言うと元子は、自らの袴の裾をギュッと握って下を向いた。もしこのまま入内話が順調に進めば、近い将来この濃(こき)色の袴を着ることはもうなくなるだろう。未婚のしるしであるこの紫の袴を。摂関家の流れを汲む藤原の女として生まれた以上、いずれは政略結婚をさせられるものだと分かってはいたが、それはもっと栄えのある出来事に違いないと漠然と思い込んでいた。どうしてそんなふうに都合よく解釈していたのだろう。お世辞にも実力者とは言えない人を父に持ち、現にゆっくりとではあるが確実に没落している家で育ったというのに。

 (でもだからこそ、お父さまは今回の私の入内に全てをかけようとなさっているんだわ)

 太政大臣まで務めた祖父兼通のように、自分も天下の形勢を思うままにしたい。それが父積年の夢であった。もっとも正直なところ、あの人は娘の自分から見ても藤原氏長者の器ではないと思う。しかし、これまで深い愛情を以てかしずいてくれたことへの恩返しとして、自分は父の夢につきあうべきなのかもしれない。たとえそれが、束の間の夢であったとしても。だが、その前に自分がこれから身を置くことになる世界について、少しでも知っておかなければ。

 「ねぇ、どうなの?頼定さま。道長さまのお人柄について、何かご存じない?」

 顔をあげた元子は今にも御簾から飛び出さんばかりに、男に詰め寄った。常にはない従妹の性急さにいささか驚いた様子の頼定だったが、なにか彼なりに元子の思いを感じ取ったのか、すぐに真顔になってそうだなと意味深げに切り出した。

 「あまり親しいお付き合いはしていないが、面白いお方だよ。宴などでも常に冗談をおっしゃって場を和ませて下さるし、後輩や目下の者への面倒見もいい。神経質な兄君道兼殿に比べて余程摂関家の子息らしい闊達な方だよ」

 「じゃあ、良い方なのね」

 ホッとしたように元子は呟いた。しかし相変わらず渋い顔をしている頼定を見て、また急に不安になってきた。

 「違うの?」

 「いや、君の言う通り良い方には違いないよ。ただ…」

 「ただ?」

 「あまりにも如才なさ過ぎて、時々気味が悪くなるんだ。この方は何もかも全て計算した上でやっているのではないかって。それに今でこそ懐が深い人物として通っているけれど、お若い頃はなかなか血気盛んな方だったらしいし」

 「血気盛んって、どんな風に?」

 「英才の誉れ高い藤原公任殿に比べ、ご自分の子息たちの凡庸なるを嘆いた父兼家殿に向かって、「いつかあいつのツラを踏んづけてやりますよ」と言い返したとか、花山院がまだご在位中の折に戯れで行った肝試しでは、怖気づいて逃げ帰って来た兄君道隆殿・道兼殿を差し置いて、大極殿(だいごくでん)の柱を削り取った木片を持って一人ひょうひょうと帰って来られたとか、とにかくそういう豪胆な逸話に事欠かない方なんだ」

 「まぁ、本当にやんちゃな方だったのね」

 感心しながらも元子は、頭の中の道長像がますます不鮮明になっていくのを感じた。娘の入内のため、何年も前から根回しをする粘着質な野心を持つ道長。負けん気が強くて活発だが、何処か憎めない道長。相反する二つの道長像が、元子の頭のなかでクルクルと回っている。もしかしたら父は、とんでもない男と手を組んでしまったのかもしれない。

 (お父さまは、道長さまの恐ろしさを分かっていらっしゃるのかしら?)

 恐らくこの疑問を口にしたところで、あの父のことだから「何をませたことを言っているのだ、この子は」と呑気に笑い飛ばしてしまうかもしれない。やはり不安だ。紫檀に蒔絵のついた脇息にもたれ掛かり、一人悶々と考え込む元子を見て、頼定はつくづく首をかしげた。

 (それにしても、さっきから道長殿のことばかり聞いてくるけれど、肝心の夫となる今上帝については、あまり興味がなさそうだなぁ)

 いくら政略結婚とはいえ、普通嫁ぐ女性が一番気にするのは夫の人となりだと思っていたが、彼女はどうも違うらしい。それともこれほど名門の家に生まれると、女人も結婚に対して夢を抱かないものなのだろうか。恋愛における感情と理性の使い分けは、男と女では違うらしいということは知っていたが、従妹のこの反応は頼定という男に、ますます女人の奥深さを教えることとなった。

 (あるいは彼女に、真に男女が愛し合うというのはどういうことか、教えてあげるのも一興かもしれない)

 しかし、具体的に自分たちが愛をささやき合う姿まで想像したところで、頼定は我知らず苦笑した。

 (いやいや、何を考えているんだ、俺は。確かに元子は今頃美しく成長しているに違いないが、可愛い妹分だ。それに唯でさえ、あの方との一件でお上への心証が悪くなっているのに、この上入内前の姫君に手を出したらそれこそ俺は大宰府行きだな)

 別にそうなっても構わないと思う自分もいるが、頼定はもうこれ以上親愛する女性たちの評判を落とす気にはなれなかった。生家が没落し、出世を望めなくなった今、せめて大切な人への真心くらいは守らなくては。依然として悶々と悩んでいる従妹に視線を戻して、男は努めて明るい調子で話しかけた。

 「まぁ、そんなに思い煩うことはないんじゃないかな?確かに道長殿は油断のならない御仁だけど、君の父上の願望通り、君が帝の寵愛を受けて皇子を産みまいらせる可能性はゼロじゃない。それにとにかく権力というのは気まぐれな生き物なんだ。だからたとえ君が皇子をもうけなくて、君の父上が帝の外祖父になれなくても、それは道長殿の天下を約束するものではない。だって考えてもごらん。君の父上とどうこうという以前に、あの方にはまだ今一人の兄君道兼殿と甥の伊周殿という好敵手が控えている。彼らは道長殿のご息女の入内に良い顔はされないだろうし、だからこそ道長殿は本来政敵であるはずの君の父上と手を取り、まずは君の入内を画策しているのだと思うよ。つまり目下のところ、道長殿は政治的に不利な立場に立たされている訳さ。ってどうしたの、さっきからそんな黙りこくって?」

 「…いえ、ごめんなさい」戸惑った様子で謝罪した元子は、おずおずと思ったことを正直に話した。

 「だって普段あまり政の話をなさらない頼定さまが、急にそんな宮中の複雑な人間関係について解説なさるからびっくりして。いろいろ大変なんですね、殿方って」

 「あぁ、大変だよ。それは女人方には女人方の悩みもあるだろうけど、男の、取り分け貴族の男の悩みはいつも沽券が関わっているものなのさ。だから貴族の男は、どうしたら自分が立派にみえるか、どうしたら皆から尊敬を集められるか、いつもそればかり考えているんだ」

 「ふーん、そうなんですか…」

 半ば茫然としたように元子は相槌を打った。そうか、そうなのか。貴族の殿方にとって、沽券とはそれほど大事ものなのか。自分は男に生まれなくて本当に良かった。あぁでも、自分がこれから生きていこうとしている世界は、まさに男たちがその沽券を死守しようと躍起になっている巣窟なのだ。

 (やっていけるのかしら、私?)

 大きすぎて全容が知れない不安が、明らかに自分の前途を覆い始めたことを感じながら、元子の年始は過ぎていった。

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