承香殿女御藤原元子の青春

長居園子

序章

 序章


 古ぼけた網代車(あじろくるま)に乗り込んだ元子は、いつもそうしているように居住まいを正し、大臣家の大君にふさわしい品格を表そうとして思い止まった。否、今更何を上品ぶる必要があろう。私はもう、姫君でも女御でもないのだから。

 「あのぉ…、おひいさま。せめて置き手紙だけでも残して行かれれば良かったのでは…」

 車はすっかり暗くなった都大路をしずしずと進んでいた。その車内で讃岐は、さっきから一向にしゃべる気配のない養い君へ、おずおずとそう問いかけた。もう決して姫君とはいえない年頃になっているにも関わらず、いまだにこの乳母は自分を「おひいさま」と呼んで憚らない。かえって本当に若い頃は嫌だったが、近頃では苦笑するだけの余裕ができてきた。

 「何を言っているの、讃岐。誰が家出をするのに、居場所を教えていく者がおりますか」

 「それはそうですが…」

 なおも言い募ろうとする乳母の言葉に被せるように、それにと元子は言葉を続けた。

「たとえ私が忽然と消えたことが分かっても、多分お父さまはそれほど慌てないのではないかしら?何処へ行ったのか、すぐに検討はつけると思うわ。まぁだからといって、追っ手を差し向けるようなこともなさらないでしょうけれど」

 「そんな、お父君は誰よりもおひいさまの身を案じていらっしゃいますよ。現にあのご懐妊の折だって…、」

 そこまで言って讃岐は息を飲んだ。貴族の姫君には似つかわしくない鋭い眼光で、主が自分を睨みつけてきたからである。乗り越えた過去とはいえ、蒸し返されるのはあまり良い気分がしない。薄暗い車内に浮き上がった主の顔は、むしろ美しいとさえ感じる儚さが漂っていたが、それだけに頬へ散らばるあばたの痕が、一層惜しいように思われた。讃岐は養い君のこのあばたを見る度に、いつも彼女への同情心で胸が潰れるような気持ちになる。しかし反面、三十路の坂を越えながらなお美貌に磨きがかかっていく主を誇らしいとも感じていた。

 (むしろ入内した頃より、いまの方が花の盛りといったご様子だわ…。これも全て愛の力が故なのかしら?)

 本当に不思議なお方だ。あの頃の主は今よりずっと若く、顔は陶磁器のようにすべらかで、髪も身の丈をはるかに余る申し分のない姫君だったのに、歳を取って童のような振り分け髪にされた上に、頬のあばたが目につく現在の姿の方がきれいだと感じるのだから。いっそ訝しい気持ちが高じてそれが表情に現れた乳母を見た元子は、彼女が自分を責めているのだと勘違いし、ついつっけんどうな物言いになった。

 「どうかしら?売り言葉に買い言葉とはいえ、お父さまは確かに私に、「何処へなりとも行ってしまえ!!」とおっしゃったわ。もうお父さまにお会いすることは、二度とないかもしれないわね」

 「そんなことにはなりませんよ、きっと。お父君とて、今はいっときの怒りにまかせて我を忘れてしまっていらっしゃいますが、もとはおひいさまを目に入れても痛くない程溺愛しておいでだったのですもの。そういった親子の情というものは、なかなか打ち消したくともできないといった類のものなのですよ」

 いかにも己の経験から確信をもって語る乳母の言葉に、元子は返す言葉が見つからず、首の辺りまでしかない髪を手ぐしで梳いた。そういうものなのだろうか。人の親に成り損ねてしまった自分には、分かりたくとも分からない心境だ。しかし実際のところ、このような状況下になってさえ、彼女は父を憎み抜くことができなかった。いや、むしろ感謝しているといっていい。人生最初で最後のあの壮絶な父子喧嘩のなかで、怒りにまかせた父が自分の黒髪を切ってくれなかったら、今のこの大胆な決断はできなかったかもしれないのだから。

 (あぁ、お父さま!)

 そう思うと、元子は父がたまらなく憐れになり、心の中で叫ばずにはおれなかった。位人臣を極めるという野心は、藤原北家の流れを汲む家に生まれた男である以上、なかば宿命のように抱かなくてはならぬ夢だけれども、それにしても我が父藤原顕光にとっては、身に余るそれであったことよ。せめて同じ藤原でも、もっと本流から外れた家系に生まれていれば気楽な人生を過ごすことができただろうに。それが何の間違いか、摂関家の嫡男として生を受けてしまったがために、若い頃から絶えず無能者の烙印を押され続けてきたのだ。家に帰れば、母や子どもたちにとってはこの上なくやさしい大黒柱であったのに…。

 (けれど、我が家が今のように落ちぶれてしまったのは、一概にお父さまの才覚だけの問題ではないわ)

 藤原道長。あの男と同じ時代を生きる羽目になったことで、どれだけ多くの人々の運命が変わってしまったことだろう。兼家の五男が、朝政を掌握する立場に成り上がることなど、誰が予想できたことだろう。だが今思えば、ずっと以前からあの男は機会を窺っていたのだ。自らの奸智と子女たちを以て、実質的にこの国の王者になれる機会を。そしてそのためには、同じ家門に連なる我が家を利用することも厭わなかった。いや、むしろ無能者と定評のある父が率いる我が家など、物の数ではないと踏んだに違いない。だからこそ、事によるといずれは自分の強力な政敵になるかもしれない我が家へ、しきりに娘の一人を入内させるよう勧めることができたのだ。あの中関白家(なかのかんぱくけ)を追いつめるべく。

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