第十六章 黒い妖気
姫巫女流古神道小野宗家現当主である小野仁斎は、東京の霊的破壊を防ぐため、鬼門を守る神社の一つにタクシーで向かっていた。
(土御門晴信が目論むのは、明治の世に宮司を殺害した神社の完全滅失。だとすれば、ここだ)
仁斎が訪れたのは、小野神社から数十キロメートル離れたところにある江戸時代から続く神社である。今では、お参りする者もほとんどいないくらい寂れており、宮司もいない。他の神社の宮司が兼任している状態である。何故そんな事になっているのかというと、晴信の伝承があるからなのだ。
「代を継ぐ者は、死ぬるなり」
誰が言い始めたのかは、今となってはわからないが、そんな迷信のような話があり、跡継ぎがいなくなってしまった。明治期には、何かと政府が目をかけてくれたのだが、やがて戦争の影が日本全体を脅かすようになると、見捨てられ、朽ちるに任せるほどになってしまったのだ。それでも、小野宗家最大の功労者である小野楓が存命の間は、
「土御門晴信の社を封ずる
と言い、小野宗家の次の当主となった亮斎にその神社の守護を命じたので、完全に消失する事はなかった。関東大震災の時も、東京大空襲の折りも、火災を免れたのである。楓は、昭和初期まで存命したが、死の間際まで、遠く出雲の地から、東京の行く末を案じていたという。
(ここにはまだ何も仕掛けてはいないようだな)
仁斎は、神社に異変を感じなかったので、ホッとした。
「泉進、何としても止めてくれよ」
仁斎は南西の方角を見上げ、呟いた。
遠野泉進と竜神剣志郎は境内を進み、拝殿に近づいた。
「誰もいないんですね?」
剣志郎は辺りを見回しながら言う。泉進は拝殿を見上げて、
「ここはかつて土御門晴信が焼き打ちをかけた神社。そして、東京の霊的安定に寄与している場所だ」
「そう、ですか」
剣志郎も拝殿を見上げる。すると、
「わあ、もう来たんだ。さっすが、遠野泉進のお爺ちゃんね」
と、本多晴子の声が聞こえた。
「本多か? バカな真似はよせ。出て来い」
剣志郎が怒鳴った。
「竜神先生、私、先生の事、嫌いなの」
「はあ?」
そんな事を何故言い出す、と思いながらも、生徒に「嫌い」と言われて、剣志郎はちょっとだけショックを受けた。
「先生ったら、小野先生の事が好きなくせに、武光先生と付き合ったりして、優柔不断なんだもん」
「え?」
晴子からそんな事を言われるとは思っていなかったので、剣志郎は仰天した。嫌な汗が噴き出す。
「何だ、お前、藍ちゃんを振ったのか?」
泉進までそんな事を言い出す。
「違いますよ!」
剣志郎はもうここから逃げ出したくなった。
「でも、その方がいい。竜神先生には、小野先生に近づいて欲しくないから」
晴子は拝殿の裏から姿を現した。
「どうしてだ?」
泉進はわかっていながら敢えて尋ねた。晴子はニヤッとして、
「だって、竜神先生の竜の気、邪魔なんだもん」
「やはりそういう事か」
泉進は素早く早九字を切る。
「臨兵闘者皆陣列在前!」
泉進の渾身の気の塊が、晴子に向かった。
「まあ、怖い」
晴子は呪符を制服のポケットから取り出し、投げ上げた。
「急急如律令!」
晴子の呪文に乗るかのように呪符が泉進の放った気の塊に向かい、式神に変化した。
「ぐおおお!」
式神は気の塊と激突し、それを止めた。
「やるな、小娘。しかし、そんな事で止められはしないぞ」
泉進はニヤリとした。すると気の塊が膨張し、式神を飲み込んでしまった。
「何!?」
それは晴子には予想外だったらしく、彼女はバッと身を翻すと、駆け出した。
「もう逃がさんぞ、小娘!」
泉進はフッと息を吐き出した。その息はいくつかの小さな塊になり、晴子を追った。
「きゃっ!」
晴子はその気の塊に足をすくわれ、倒れてしまった。
「あ……」
剣志郎は、その時、見るつもりはなかったが、晴子のスカートの中を見てしまった。
「何を喜んでいるのだ、助平教師が!」
泉進にそう言われて、剣志郎は赤面した。
「エッチ!」
晴子はそう捨て台詞を吐き、更に逃げようと立ち上がったが、
「かあっ!」
泉進の壮絶な気合いと共に放たれた金縛りの術で動けなくなった。
「くう!」
晴子はとても学園一の才女とは思えないような形相で術を解こうともがいた。
「無駄だ。お前如き小娘に解けるほど、我が術は軟弱ではない」
悔しそうに自分を睨みつける晴子に近づきながら、泉進は、
「この娘を縛るぞ。手伝ってくれ」
と剣志郎に声をかけた。しかし、何の応答もない。
「返事くらいせんか!」
ムッとして泉進が振り返ると、地面に倒れている剣志郎とそれをニヤッとして見下ろしている楢久保美好がいた。その右手には木刀が握られている。
「貴様、どうして?」
晴子の術を全部断ち切ったはずなのに、美好はまだ彼女のために動いている。泉進には理解ができない。
「甘いのよ、お爺ちゃん。楢久保さんは、心の奥底まで、私の
晴子の声がする。泉進がもう一度晴子を見た時、彼女は術を抜け出していた。
「邪魔しないでね、お爺ちゃん」
泉進の頭に木刀が振り下ろされた。
「ぐう……」
泉進は地面に倒れ、気を失った。晴子はそれを見て見やりとし、
「バカねえ。私は晴信様のために動いているのではないのよ。本当はあの方のために動いているの」
晴子は口からどす黒い妖気を吐き出し、同じく口から妖気を吐き出している美好を従えて、拝殿の裏に消えた。
小野藍は、小野雅の隣に降り立った。
「土御門晴信、貴方の事、許さない!」
藍は飛翔しながら、姫巫女流の究極奥義である姫巫女二人合わせ身をなしていた。
「ぬ……」
晴信は藍の背後に二人の倭の女王を見てまた身じろいでしまう。
(この娘自身の力は、楓には遠く及ばぬ。恐るる事はなし)
晴信は袂から呪符を取り出し、自分の頭の中から楓に対する恐怖心を追い出す。
「自分の子孫を巻き込み、百四十年も経ってこの世に甦るなんて……」
藍は両手に持つ神剣を重ね合わせる。
「姫巫女の剣!」
二つの神剣が重なり、より強く輝く。
(あのような術、見た事がない。やはり……)
しかし、否定する。
「ほざくな! 勝つのは私だ!」
雄叫びを上げ、晴信は呪符を藍に投げつけた。たくさんの式神が現れ、襲いかかる。
「斬!」
藍が姫巫女の剣を一振りすると、その剣先から光が放たれ、式神を一瞬にして消し去った。
「無駄だ、土御門晴信。藍の究極の剣の前では、式神など只の紙切れ」
雅が言った。
「それはどうかな?」
晴信はフッと笑い、後退る。
「逃がさない!」
藍が間合いを詰めようとするが、それに合わせるように晴信は下がった。
(何だ?)
雅は晴信の動きを不審に思った。
(何か企んでいるのか?)
彼は晴信を睨んだ。
「はあ!」
晴信はまた呪符を投げ、式神を出した。
「無駄よ!」
藍はそれをあっさりと斬り捨てた。
(おかしい……。奴は退いているが、あの余裕のある顔は何だ?)
雅は、晴信の笑みが虚勢ではないのが気にかかった。
「む?」
しかも、晴信の身体から、黒い妖気が漂い始めている。
(やはり、あいつが出て来ようとしているのか? しかし、どうやって?)
小野宗家の宿敵であった建内宿禰が、死の国である根の堅州国から出て来られないのは、誰よりも雅がわかっている。
(だが、この妖気の増え方はどうだ? 一体何が起ころうとしているんだ?)
雅の額を汗が伝わった。
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