第九章 時を超えた執念

 小野藍は、人生始まって以来の危機を迎えていた。

「く……」

 迫り来る炎と黒煙。呼吸もままならなくなり、目もまともに開けていられない。

(このままじゃ、本当に死んでしまう……)

 藍は床を這いずるようにして窓際に向かった。するとそれを見ているかのように、

「先生、そこは三階よ。窓から飛び降りたら、只じゃすまないわ」

 狂気を含んだ本多晴子の甲高い声が響く。藍は煙を堪えて天井を見渡す。その一角に小さな監視カメラが据え付けられているのが見えた。

(あれで私の様子を見ているのね)

 藍は更に窓に接近する。

「まさか、煙を吸い込み過ぎておかしくなってしまったの、先生?」

 晴子の嘲笑が聞こえるが、藍は構わずに窓に辿り着く。

「くう!」

 窓を開こうとしたが、どれもしっかり目張りされていて、ビクともしない。

「無駄よ。飛び降りて死なれたらつまらないから、窓は塞いであるの」

 藍は思い切りガラスを叩いた。

「それも無理よ、先生。ガラスには防犯用のシールを貼ってあるから、女の人が殴ったくらいじゃヒビも入らないわ」

 晴子のけたたましい笑い声が聞こえる。そして、炎の勢いが増し、煙が立ち込めて来る。

「ならば!」

 藍はハンカチを放り出し、柏手を打った。

大綿津見神おおわたつみのかみよ、炎を消し去りたまえ!」

 しかし、何も起こらなかった。

「ダメよ、先生、そんな力に頼っちゃ。その部屋は、私が貼ったお札で結界を作ってあるの。だから、外からの術は使えないわ」

 藍は晴子のその言葉に歯軋りした。

「それなら!」

 藍は気を高める。

「今度は何をするつもりかしら、小野先生?」

 晴子がバカにしたように尋ねた。藍はそれには反応せず、気を高め続ける。炎がすぐそばまで燃え広がり、煙で喉が焼け付きそうだ。

「はあ!」

 藍は高めた気をガラス窓にぶつけた。するとガラスが防犯シールごと吹き飛び、そこから外の空気が一気に流れ込む。

(しまった!)

 藍は自分のした事を後悔した。部屋の中は酸欠寸前だ。そこに外から大量の空気が流れ込む。

(バックドラフト!?)

 一酸化炭素と酸素が急激に化学反応を起こし、爆発が起こったのだ。

「きゃああ!」

 藍は爆風で吹き飛ばされ、外に投げ出された。

「高天原に神留ります、天の鳥船神に申したまわく!」

 藍は落下しながらも冷静さを保ち、祝詞を唱えた。彼女の身体は光に包まれ、落下を止めると、一気に浮上した。

「そんな!」

 ビルの反対側の路地でその様子を見ていた晴子は仰天した。藍は晴子を見つけると、目の前に降り立った。晴子はすぐさま逃げ出そうとしたが、藍に捕まってしまった。

「本多さん、どういう事か、説明してもらうわよ」

 藍は顔を背ける晴子の両肩を掴んで言った。そして携帯電話を取り出すと、消防署に通報した。


 雅は、土御門晴信が式神を放ったのに気づいていた。

(こっちに目を向けてくれたのは作戦通りだが、さてどうしたものか?)

 雅自身、晴信に対抗する手段が思い浮かばない。

(陰陽道と黄泉路古神道の融合は厄介だな)

 現世では危険だと判断し、雅はもう一度、根の堅州国に入った。

(奴の式神には俺の黄泉醜女が通用しない。ならば、採るべき道はあれしかないか)

 彼の編み出した奥義である「黄泉比良坂返し」を使うしかないが、その術は、長く使えないし、何度も繰り返せるものではない。

(奴の妖気と能力から考えて、俺の方が手詰まりになるか)

 その時彼は、今は亡き小野椿の声が聞こえた気がした。

「何?」

 幻聴だと思った。しかし、確かに聞こえたのだ。

(そうか、神魔しんまつるぎか)

 かつて雅も一度だけ出した事がある、清濁合わせ持つ剣だ。

「やってみるか」

 雅は意を決して現世に戻った。そこは広々とした河原だった。そして、

「黄泉剣」

と漆黒の魔剣を右手に出す。そして、

「神剣、草薙剣!」

と左手に姫巫女流の剣を出した。

(本来なら、藍が出す姫巫女の剣の方が確実だが)

 今はそんな時間はないのだ。

「神魔の剣!」

 雅は二つの剣を合わせる。剣から、凄まじい気が放出された。


 雅の発する気を感じ、晴信は進むのを止めた。

「何事ぞ?」

 彼は眉をひそめた。

(これはもしや、陰陽の剣か? なるほど)

 晴信はニヤリとした。

(愚か者め。その剣でこの私を仕留めるつもりか、小野雅。浅はかな事よ)

 彼は再び雅に向かい始めた。


 藍はビルの火事が収まるのを見届けてから、晴子を引き摺るようにして神社に向かい始めた。

「放してよ!」

「大人しくしなさい」

 藍は嫌がる晴子を強引に歩かせる。傍から見れば、藍が悪人に見えるだろうが、幸い付近に人はいない。皆火事を見に行っているのだ。

「貴女がした事は、本来なら警察沙汰になる事なのよ、本多さん」

 藍は晴子を見据えて言った。

「だったら、警察に突き出せばいいでしょう?」

 晴子は開き直ったようにうそぶく。藍はカチンと来て、

「それじゃあ、私の気がすまないから、そんな事はしない。小野神社の人間を怒らせたらどうなるか、思い知ってもらうわ」

と晴子を睨みつけた。その迫力に晴子はギョッとした。

「さあ」

 藍が角を曲がり、小野神社への道を歩き始めた時だった。

「おらあ!」

 いきなり背後から何者かが現れ、藍を突き飛ばした。

「え?」

 藍はバランスを失って倒れかけたが、何とか踏み止まり、彼女を突き飛ばした犯人を見た。

「晴子を放せ!」

 そこにいたのは、ギラギラとした目で藍を睨む楢久保美好だった。

「ありがとう、楢久保さん。助けに来てくれたのね」

 晴子は美好に抱きついた。そしてニヤリとして藍を見る。

「貴方は……?」

 藍には突然現れた美好が誰なのかわからない。

「俺は晴子の恋人の楢久保美好だ」

「何ですって?」

 美好の言葉で、藍は彼の素性を知った。

(この男が、本多さんのストーカー? そして、本多さんの協力者なの?)

 晴子と美好の間に漂う気は、二人が仲間なのを示している。

(どういう事なの、一体?)

 藍は混乱していた。


 雅は剣を正眼に構え、晴信を待ちかまえた。

(今度は不意打ちなどさせないぞ)

 彼は地中にも気を配っている。しかし、晴信は意外にも正面から現れた。

「陰陽の剣か? 考えたな」

 晴信は全く動じていない。雅は訝しそうに彼を見た。

(この剣を知っているのか? 何故だ?)

 すると晴信は雅の考えを見透かしたかのように、

「その剣は、本来は陰陽道のものだ。何を思ったか知らぬが、そんな鈍(なまく)らな刃で、私を斬れると思っているのか?」

「何!?」

 雅は晴信の言葉に驚愕した。

(陰陽道のものだと?)

 雅は、「陰陽の剣」というのは、光と闇を指し示すのだと思っていたのだ。

(まさに陰陽道の剣という意味だったのか?)

 彼の額に汗が流れた。

(勝てないのか、こいつには?)

 晴信はニヤリとし、

「さあ、どうする、小野雅?」

と余裕の表情を浮かべていた。

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