第五章 本多晴子

 藍は自分の胸にすがりついて泣く本多晴子を見た。

「とにかく、学園に戻りましょう。授業はまだ終わっていないんだから」

 藍は晴子をスッと押し戻し、顔を覗き込んだ。彼女は杉野森学園高等部の三年で、藍の日本史を選択している。歴史研究部に所属していて、藍とは普通の生徒達以上に接する機会が多く、何かと相談相手にもなって来た。受験でも悩んでいたので、できるアドバイスもした。そのせいか、晴子は藍に好意を抱いており、休日は時々小野神社にも来ていた。

 しかし、歴史研究部を退部し、受験に集中し始めたのか、六月以降はあまり藍に話しかけて来なくなった。しくも、藍が小野源斎と戦った頃から、晴子は藍から離れていったのだ。始めはそれを気にしていた藍だったが、授業ではいつもと同じく、積極的に質問をして来るし、廊下や校庭で顔を合わせれば挨拶をしてくれるので、

(考え過ぎね)

と割り切ったのだ。

「学園に戻るのが怖いんです。あそこに戻ると、変な男が現れて……。夢にまで出て来て……」

「変な男?」

 晴子の思ってもみない話に、藍は眉をひそめた。

「わかった。じゃあ、神社に行きましょう。学園には、私から連絡しておくから」

「はい」

 ようやく晴子は微笑んでくれた。藍はホッとして、晴子の肩を優しく抱くと、そのまま神社に向かって歩き出した。晴子が俯いて、ニヤリとしたのも気づかずに。更に、通りの角のブロック塀の陰から、目つきの鋭い角刈りで細身の背の高い男が二人を見ているのも、藍は気づいていなかった。晴子はふとその男を見ると、右手で合図する。男はそれに頷き、姿を消した。


 剣志郎は次の授業の準備をすませ、社会科教員室を出た。彼はまだ藍の事を気にしていた。

(何かあったのなら、以前は連絡してくれたのに)

 そう思い、落ち込む。本当は藍が剣志郎にそんな連絡をした事はない。心配で仕方がない剣志郎自身が、藍に連絡をとったのだ。それなのに、彼の記憶は都合の良いように書き換えられていた。

(事務長だったら、何か知っているかな)

 剣志郎は授業が終わったら、原田事務長に尋ねてみる事にした。そこまで藍の事が気になるなら、直接尋ねれば良いだろう、と事務長は言うかも知れない。しかし、それができない剣志郎である。

「ふう」

 剣志郎は大きなため息を吐き、廊下を進んだ。


 小野雅は、黄泉路古神道の移動手段である根の堅州国を通り、土御門晴信を追跡していた。

(やはり、無理か)

 雅は晴信の気を頼りに多摩山中まで来ていたが、それ以上は辿れなかった。

「結界を張っているのか」

 雅は山を見渡し、呟く。根の堅州国は異空間である。そこには、黄泉路古神道を修得した者しか入れない。しかし、同じ黄泉路古神道の術者でも、別の術者と同じ根の堅州国の場所には行けない。根の堅州国は一つの異空間であるが、術者一人一人に割り当てられた場所でもあるのだ。だから、例え同時に入ったとしても、同じ場所には出られない。同じ場所に出るには、身体を接触させている以外ないのだ。

(誰がどこにいるのか、その全てを把握しているのは、建内宿禰のみという事か)

 雅は舌打ちした。


 土御門晴信は、雅が近くまで来ているのを感じていた。

「身の程知らずが。相手にするまでもないが、邪魔するつもりなら、滅ぼすまで」

 晴信は新たに作った呪符を掲げ、

急急如律令きゅうきゅうにょりつりょう!」

と唱え、飛ばした。呪符は鳥のように飛翔し、雅を目指した。


 藍は晴子を社務所に連れて行き、椅子に座らせると、学園に連絡し、晴子を早退扱いにしてくれるように頼んだ。

「変な男って、どんな男なの?」

 藍は晴子の向かいに座り、尋ねた。晴子は涙をハンカチで拭いながら、

「背の大きい細身の男です。私をつけて来るんです」

「ストーカーなの?」

 藍はビクッとして声を低くした。晴子は首を横に振り、

「わかりません。何かされた事はないのですが、登校時も下校時も、通学路にいつも待ち伏せしていて……。それで怖くなって小野先生に相談に行ったら、もうお帰りになったって聞いたので」

「そう、なんだ」

 藍は苦笑いした。

(私がいなかったので、あんなところに来ていたの……)

 藍はその時気づくべきだったのだ。学園から小野神社に来るのであれば、社のある場所を通るはずがないという事に。

「途中で会わなかった?」

 藍は神妙な顔で尋ねる。晴子は藍を見て、

「いえ。この時間は、多分仕事なんだと思います。窓から外を見た時、通学路にいた事がありましたが、いつも下校時間の頃なんです。私の授業内容を把握しているみたいで、早く終わる時は早く来ていて、遅くなる時は、その時間近くになると現れるんです」

「……」

 藍はびっくりしていた。晴子は、大人しくてそれほど目立たないが、同級生の男子達には密かに憧れている者もいると聞いた事がある。美少女ではないが、愛らしい顔をしているし、性格も真面目で、成績も優秀、授業態度も良好。まさに絵に描いたような優等生なのだ。

「警察には相談したの?」

「はい。でも、何かされた訳ではないので、せいぜい注意をするくらいしかできないって言われました。只、それがきっかけで暴走する可能性もあるので、警察が乗り出すのは最終手段と考えてくれと」

 晴子は悲しそうに説明してくれた。藍は、

「そうね。確かにその恐れはあるわね」

と腕組みをして頷く。すると晴子が急に藍の手を握って、

「ですから、今度先生に一緒に帰ってもらって、その人と話をしてほしいんです」

「え? 私が?」

 藍は突然の申し出に仰天し、目を見開いた。

「はい。ご迷惑でしょうか?」

 晴子はすがるような目で藍を見つめている。藍は思わず後ずさりしそうになったが、

「わかった。私が話をしてみるわ。案外、本当はいい人かも知れないしね」

「ありがとうございます!」

 晴子は大喜びして、藍に抱きついた。

(この子、そういう子じゃないわよね?)

 一瞬、そんな事を考えてしまう藍だった。


 雅は、森から出ようとした時、唐突に感じられた晴信の気に驚いた。

「何だ、今のは?」

 何かが近づいて来るのがわかった。

(式神か?)

 雅は漆黒の剣である黄泉剣を出して下段に構えた。

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