第四章 罠の始まり

 竜神剣志郎は一時限目の授業を終え、社会科教員室へ向かっていた。

「あれ、竜神先生はいるよ」

 そんな声がある教室の前で聞こえた。何だと思い、立ち止まると、歴史研究部の三人組の一人である水野祐子が教室のドアを少しだけ開けて剣志郎を見ていた。

「いちゃ悪いか?」

 剣志郎はすかさずドアを全開にして言った。

「ひ!」

 祐子はまさか剣志郎に聞こえていたとは思っていなかったのか、驚いて尻餅を突いてしまった。

「あはは、すみません、竜神先生。深い意味はないんです、気にしないで下さい」

 祐子を抱き起こしながら、三人組のリーダー気取りの古田由加が言い繕う。

(お前の言う事が一番信用できないんだよ)

 剣志郎は訝しそうに由加を見下ろし、

「どうでもいいが、人の悪口は聞こえないように言え」

と言うと、また歩き出した。しかし、急に、

「竜神先生はいるよ」

の言葉が気にかかり、歩を戻す。

「さっきの言葉、どういう意味だ?」

 剣志郎が戻って来るとは思わなかったのか、今度は祐子と由加が一緒に転けた。

「おい、大丈夫か?」

 剣志郎が声をかけると、

「竜神先生、何も知らないんですか?」

 三人組の最後の一人である江上波子が口を挟んだ。

「どういう事だ?」

 剣志郎はキョトンとして波子を見た。すると、波子はトレードマークの丸眼鏡をクイッと上げて、

「小野先生が早退したんですよ」

「え?」

 剣志郎はあまりにも意外な話にビックリした。

(藍が早退? 具合でも悪いのか?)

 そして、朝の「事故」を思い出し、赤面する。

「どうして赤くなるんですか、竜神先生?」

 波子がすかさず突っ込んだ。剣志郎はビクッとし、

「あ、赤くなんてなってないぞ」

と言うと、背を向けて逃げるように歩き出した。

 その様子を、廊下の端でジッと見ている女子生徒がいた。

「小野先生はもうすぐ大変な事になるわ、竜神先生」

 その女子生徒は、フッと笑うと、身を翻して廊下を歩いて行った。


 噂の人物である藍は、トラックが突っ込んだ社の前に戻っていた。近所の人達はまだ避難したままなので、周囲には人影はない。

(確かに、事故ではないわね。ブレーキを踏んだ形跡がないし、突っ込んだ時には人は乗っていなかった。これは一体?)

 藍は半ドアで閉じている運転席側のドアを開き、中を覗いた。

「これは……」

 運転席の足元には、アクセルペタルとブレーキペタルに呪符らしきものが張られていた。

(陰陽道のお札?)

 藍はそのうちの一枚を剥がしてみた。

「わ!」

 その途端、呪符はボウッと燃え上がり、消えてしまった。

「ここにも……」

 目を上げると、ハンドルの裏側にも呪符が張られているのが見えた。

(これで遠隔操作したというの? そんな事ができるの?)

 藍はトラックの突っ込んでいる部分を見るために運転席から離れ、前に回り込む。

「え?」

 トラックのバンパーから何かを感じた藍は、車体の下を覗き込んだ。

「ここにも……」

 バンパーの裏側にも、たくさんの呪符が張られていた。

(これで結界を破ったのね? でも一体誰が?)

 この社に封じられていた土御門晴信にできる事ではない。

「社の事を知っている人間でないと、こんな事はできない。誰ができるの?」

 藍が身体を起こして考え込んでいると、そこに戻って来た交番の警官が、

「藍さん」

と声をかけて来た。藍はハッとして振り返り、祖父である仁斎から言われていた事を思い出した。

「あ、おまわりさん、もう大丈夫です。ご近所の方に爆弾は処理したって伝えて下さい」

 すると警官はホッとした顔で、

「わかりました」

と敬礼した後、

「本当は何があったんですか?」

 小声で尋ねられ、藍は返事に窮したが、

「心配しなくて大丈夫ですよ」

と言って、会釈をするとその場を離れた。

「そうですか?」

 警官は口ではそう言いながらも、不安そうに立ち去る藍を見送った。


 藍は家に戻ると、見知った事を仁斎に伝えた。

「そうか。それは危険だな。やはり、あの陰陽師には、協力者がいるようだ」

 仁斎はゆっくりと起き上がりながら言った。

「大丈夫なの、お祖父ちゃん?」

 藍が慌てて手を貸しながら言う。仁斎はムッとした顔で藍を見て、

「人を病人扱いするな! ちょっと傷を負っただけだ」

「はい」

 藍はその剣幕に驚いて素直に返事をした。仁斎は腕組みをして、

「計画的なのが気にかかるな。それに何故あそこに奴が封じられているのを知っていたのか、そして、どうして結界を破れたのか。疑問点が多い」

「ええ。私ですら知らなかったのに、どうやって知ったのかしら?」

 藍が首を傾げて言うと、仁斎は藍を睨んで、

「さっきはうっかりしていたが、お前も知っていたはずだぞ。中学生になった時、社の事は教えたはずだ」

「え?」

 その言葉に藍はギョッとした。

(そう言えば、そんな事を聞かされたような……)

 苦笑いして誤摩化そうと思ったが、

「白々しい」

と仁斎に呆れられてしまった。頭を掻くしかない藍である。仁斎はフンと鼻を鳴らしてから、

「それから、奴自身、封印が解けるのを待っていた節があるのだ。奴は、『小野一門を滅するために甦った』と言いおった」

 藍は目を見開いた。

「まさか、土御門晴信の手引きで、協力者が結界を破ったと言うの?」

「その可能性はある」

 仁斎は眉間に皺を寄せて応じた。


 そして、その土御門晴信は、奥多摩の森にある洞窟で、新しい呪符を作っていた。

(あの娘、楓の生まれ変わりか? だとすれば、侮れぬ)

 晴信は、藍の力を警戒していた。

(いずれにせよ、小野楓は私が乗り越えねばならぬ存在。楓の生まれ変わりであるあの娘を討ち果たし、私は小野楓を乗り越えるのだ)

 晴信の目は血走っていた。そして、その呼気には、どす黒い妖気が含まれているのを、晴信自身、気づいていなかった。一度は心惹かれたはずの楓は、今では只の憎しみの対象でしかない。晴信は、自分では排除したと思っている建内宿禰にまだ支配されているのだ。


 剣志郎は、社会科教員室に戻ってからも、藍の早退が気になっていた。

(また何かあったのか、藍?)

 二か月前の辰野神教との戦いを思い出し、剣志郎は背筋がゾッとした。

「また何もできないんだな、俺は」

 彼は寂しそうに呟き、窓の外を見やった。


 やがて、警察の現場検証が始まった。大型トラックはキーは付けられたままだったので、警官が運転して移動した。

「無人のトラックがサイドブレーキがかけられていなかったために動き出して、社に突っ込んだ。署の方では、そう処理する事になりました」

 交番の警官が、検証作業を見守っていた藍に説明してくれた。

「それより、中とバンパーの裏に張られていたお札のようなもの、何なのでしょう?」

 警官が藍に回答を求めるように尋ねる。藍は苦笑いして、

「さあ、何なのでしょうね?」

ととぼけた。すると警官は、

「本当に何も知らないんですか?」

「ええ、もちろん」

(本当の事を言っても、調書に残せないんでしょ?)

 藍は心の中でそう思った。そして、家へと歩き出す。

「小野先生」

 誰かが藍を呼んだ。

「はい?」

 藍は誰だろうと思いながら、声のした方を見た。そこには、剣志郎を遠くから見ていた女子生徒が立っていた。

「あら、本多さん。どうしたの? 貴女、学校は?」

 まだ二時限目が終わった頃だ。藍は変に思って尋ねた。すると本多と呼ばれた女子生徒は、

「怖いんです!」

と言いながら、藍に抱きついて来た。

「どうしたの、本多さん?」

 藍はいきなり抱きつかれたので、混乱しながらも、本多に尋ねた。

「怖い夢を見るんです」

 本多は妙な事を言い、泣き出してしまった。

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