第13羽 幽谷の浴場 3

 白萩原絵里しろはぎわらえりさんは、ある会社でプロダクトマネージャーをしています。入社して10年以上頑張って、ようやく就いた責任者の立場です。思い入れもひとしおでした。ですから、多少の体調不良などでは休めませんでした。彼女には身寄りがありません。文鳥のモナカはただ一人の家族でした。日々ストレスと闘いながら、モナカと過ごす時間だけが、彼女にとって安らげる瞬間でした。


 そんな生活が数年続き、あるときみぞおちの辺りに違和感があるのに気づきました。なのに彼女は病院には行きませんでした。仕事を休めと言われることを恐れたのです。やがて違和感は痛みへと変わりました。それでも彼女は病院へは行きません。どうせ原因はストレスだろう、ストレスならモナカと遊べば消えてなくなる。そう思っていたのです。


 しかしある日、仕事中に彼女は吐血し、うちの病院へと運ばれてきました。そのときにはもう手遅れでした。胃に張り付いたガンは巨大になり、あちこちに転移していました。手の施しようがありません。そう医師から告げられたとき、彼女が最初に考えたのが、モナカの行く末です。そしてあちらこちらを調べ、たどり着いたのが、この『小鳥ホテル いただき』でした。モナカをここに託そう、彼女はそう決め、普通の客を装い、モナカをここに預けました。


 これでもう思い残すことはない、そう思った彼女はそのまま、車で山へと向かいました。ご存知かと思いますが、この辺りの山には小さな温泉街があり、かつては修験道の修行場がありました。切り立った断崖もあります。残されたわずかな時間を痛みと苦しみに埋め尽くされるくらいなら、いっそひと思いに。白萩原さんはそう考えていました。けれどそう簡単には行きませんでした。道に迷ってしまったのです。


 普通ならあり得ないことです。なぜなら温泉街へは、まっすぐ一本道なのですから。でも彼女は迷ってしまいました。そして何時間も山の中を走り回った挙句、ようやく一軒の古びた旅館の前にたどり着きました。旅館の前には老婆が立っていたといいます。「泊まっていかんかね。良い温泉があるよ」老婆のその言葉に誘われるように、彼女はその旅館に入って行きました。


 通された部屋は6畳ほどの、何の変哲もない部屋だったそうです。「温泉に入っておいで。食事の支度をしておくからね」老婆にそう言われ、彼女は大浴場に向かいました。そして驚きました。大浴場の広いこと広いこと。充満する湯気のせいもあるとはいえ、入り口から向こうの端が見えないほどに広いのです。その広い浴場に、幾つもの小さな浴槽が並んでいました。


 よく見ると、その浴槽には1つずつ、別々の効能書きがありました。つまり、「リウマチに効く湯」「風邪に効く湯」「腰痛に効く湯」と銘板に書かれているのです。面白いものだな、彼女はそう思い、並ぶ浴槽の銘板を見て行きました。すると、そこにあったのです。「ガンに効く湯」が。彼女は目を疑いました。そしてもう一度銘板を見て、笑ったそうです。温泉に入ってガンが治るなど、あるはずがない。自分がガンで死ぬ最後の旅路の宿で、こんなものに出くわすとは、何の因果だろう。そうは思いましたが、それでもちょっと気になります。まあいい、1度だけ試してみようか。彼女はその浴槽に浸かりました。


 10分ほど浸かっていたでしょうか。彼女は気づきました。みぞおちの痛みが消えていることに。お風呂からあがって部屋に戻ると、食事の用意がしてありました。食事といっても、焼き魚に豆腐の味噌汁にご飯だけ、質素というか素朴と言うか、とにかくお世辞にも華やかな食事ではありませんでしたが、恐ろしいほどに美味しかったといいます。吐き気もありませんでした。白萩原さんは薬を持ってきていませんでしたが、彼女の身体が痛むことはありませんでした。その夜は久しぶりに熟睡したそうです。


 そして翌朝目が覚めると、彼女は車の中にいました。そこは温泉街のコインパーキング。彼女の泊まったはずの旅館など、どこにもありませんでした。でも夢や幻ではないはずです。なぜなら彼女の身体からは痛みがすっかり消え去っていたのですから。彼女は帰宅し、うちの病院に再検査を依頼しました。その結果が出たのが昨日。ガンは完治していました。そして彼女は迷った挙句、今日モナカを引き取りに来たのです。

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