第12羽 幽谷の浴場 2
「あ」
僕が漏らした声に、なぜかこのときだけは
白い車から降り立ったのは、サマーセーターにジーンズを履いた、30代半ばの女性。黒い日傘をさした。一瞬遅れて名前を思い出す。
「誰だ」
と巌。
「お客さん?」
と滝緒。
「うん、いま預かってる文鳥の飼い主さん。だけど」
だけど、なぜこんな時間に。いや、そもそも宿泊予定はあと2泊ある。迎えに来たとしても早すぎる。と思っていると、車の助手席が開いた。そこから降り立ったのは、青いワンピースの少女。見間違いではない。あのアオちゃんの飼い主、大峰さんである。大峰さんも青い日傘をさし、そして2人は玄関に向かってきた。
2人の女性は玄関前で傘を閉じ、扉を開け、風除室に入ると、白萩原さんがそこで僕に向かって深々と一礼をした。僕は風除室の扉を開け招いたが、白萩原さんは入りにくそうにしばらく
「このたびはご迷惑をおかけいたしまして、申し訳ございません」
沈痛な面持ちで詫びの言葉を口にする白萩原さんに、僕ら3人は顔を見合わせた。
「白萩原さん、どういう事でしょう」
自分はいま間抜けな顔してるんだろうなあ、と思いながら、僕は白萩原さんに
「はい、モナカを引き取りに参りました」
モナカとは、預かっているシナモン文鳥の名前である。
「でも、えっと」
「営業時間外なのは承知いたしております」
「それは別にいいんですけど、あと2泊残ってますよね、料金も頂いてますし」
「はい。ですが、矢も
随分と古い言い回しをするんだな、と一瞬思ったが、そんな事を突っ込んでいる場合ではない。
「わかりました。じゃモナカちゃん連れてきますね」
滝緒と巌を白萩原さんたちと一緒に残しておくのも気が引けたが、やむを得ない。ときとしてイレギュラーはあるものだ。僕は客室に入った。モナカのケージと、餌の入った紙袋、そしてレジから2泊分の料金3000円を取り出して、玄関ホールに戻った。
白萩原さんの顔に満面の笑みが浮かんだ、と思ったとたん、その両目からは大粒の涙があふれ出てきた。そして僕から奪うようにケージを受け取ると、ケージを抱きしめ、顔を押しつけた。
「ああ、モナカ。ごめんね。ごめんね。本当にごめんなさい」
ケージの中のモナカはきょとんとしている。でも久しぶりに飼い主に会えて嬉しそうだ。
「では、あの、これ3000円の返金です」
紙袋と一緒に差し出した1000円札3枚を、大峰さんの手が止めた。そして紙袋だけを受け取ると、
「それは迷惑料として受け取ってくださいとのことです」
そう言って微笑んだ。
「迷惑料って言われましても」
困惑している僕に向かって、白萩原さんはまた深く一礼した。
「本当に、本当にありがとうございました。この御恩は忘れません」
「御恩?」
何のことだ。お金を取って文鳥を預かった、それだけなのに。
「それでは今日のところはお家に戻って安静にされてください」
大峰さんから紙袋を受け取り、白萩原さんは深くうなずくと、ケージを大事そうに抱え、車へと向かった。それを見送る僕と滝緒と巌の顔。大峰さんはまるで楽しいことを話すかのように笑った。
「あの方は、ここに文鳥を捨てに来たのです」
一同の目が大峰さんに集まる。そして再び外へ向く。白い車が駐車場から出て行くのが見えた。
「何で、そんな事を」
責めるような僕の問いに、大峰さんは一度うなずいた。
「末期の胃ガンだったからです。里親を探す余裕すらないほどに」
その言葉に僕は愕然とした。しかし。
「いや、そりゃおかしいだろ」
それは巌。そう、確かにおかしい。
「末期の胃ガンだったから、助からないから、ここに文鳥を捨てに来たっていうのは、まあわからん話じゃない。けどな、だったら何で引き取りに来た。それにさっき見た限りじゃ、とても末期ガン患者には見えなかったぞ。多少やつれちゃいるが、健康そのものって感じだった」
「そうでしょうね」大峰さんは笑う。「だって治ってしまったのですから」
「治った?何が。まさか」
「はい、そのまさかです」
唖然とする巌を、滝緒を、そして僕を見まわしながら、大峰さんは平然と答えた。
「末期の胃ガンが治ってしまいました。彼女の命は救われたのです。だから文鳥を引き取りに来たのです。何もおかしな事ではありません」
「そんな。末期だったんでしょ」
思わず滝緒も口を出す。
「ええ、うちの病院で検査を受けたのですから間違いありません」大峰さんは微笑む。それはどこか
「それ誤診じゃねえのか」
到底受け入れられない、巌の顔はそう言っている。
「おっしゃりたい事はわかります。けれど、誤診ではありませんよ。そうですね、丁度いいですから、詳しい事をお話ししましょう」
いったい何が丁度いいのだろう。大峰さんの言葉に少し引っかかったが、話の続きを聞いた僕は、すぐにそんな事など忘れてしまった。
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