幽谷の浴場

第11羽 幽谷の浴場 1

 長雨の時期には太陽が少し懐かしかったりもしたものだが、秋晴れが3日も続くともううんざりだ。駐車場を掃除するだけのために日焼け止めを塗るのが面倒臭い。


『小鳥ホテル いただき』の玄関の薄茶色いガラス扉はもちろん抗紫外線ガラスだが、どこまで信用して良いやらわからないので、なるべく光の当たる場所には近づかない。どうせ昼間は人通りもないのだからロールカーテンを下ろしていてもかまわない気もするのだけれど、誰か見てるかもしれない、誰か通りかかるかもしれない、そのとき暗いイメージを感じるたたずまいにはしたくない。ただの見栄かもしれないが、そんな思いが外の光を僕に拒ませない。


 合理的じゃないよなあ、と思いながら僕はガラス扉を内側から拭いた。その手元がふいに暗くなる。外に人影が立っていた。宇宙服のような紫外線低減スーツ。見慣れたその汎用デザインの人影は、遠慮がちにガラス扉を引くと、風除室に入ってきた。そしてヘルメットを取ると、ひとつ息をついた。


「ふう、暑い」

「なんだ、たきおんか」

「その呼び方やめて。いいかげん恥ずかしい」


 そう言うとたきおんは、いや、吉備滝緒きびたきおは口を尖らせた。切れ長の目が見つめている。なるほど、もう20代も半ばの大人の女である。『たきおん』は恥ずかしいかもしれない。しかし、口を尖らせてにらむ様子は、子供のころからまるで変わっていない。


「で、市役所の人が何か用なの」

「別に用はないわよ。ちょっと出先から帰る途中で前を通ったから、その、元気かな、って思っただけで」


 そう、世の中の大半の仕事が労働開始時間を夕方以降にシフトした現在にあっても、市役所は朝8時から夕方5時までの勤務なのだ。頑固というか融通がきかないというか。だが結果的には多くの利用者が仕事前に用事を済ませる事ができるようになって、市民からは好評だという。滝緒はそんな市役所の市民生活課の職員である。


「僕は元気だよ。いろいろと相変わらずだけどね」


 風除室のドアを開いて玄関ホールに滝緒を招き入れた。空調の効いたホールは空気がひんやりとしている。滝緒は後ろにまとめた髪をほどくと、またひとつ息をついた。そして目を閉じ、耳を澄ます。


「まだ鳥たくさん飼ってるんだね」

「うん、まあね」

「預かってるのもいるの」

「今は文鳥が一羽だけ」


「やっぱり儲かってないんだね」

「そういうのも含めて相変わらずだよ」


 僕の笑う顔を見て、滝緒もつられたように笑った。そのとき。風除室の扉が勢いよく開かれた。


「いやー悪いな、邪魔をするぞ」満面の笑みを浮かべた五十雀巌いそがらいわおが立っていた。だがその笑顔が一瞬で曇る。「……なんだ、たきおんかよ」

「たきおん言うな!」

 滝緒は怒鳴ると、僕をにらみつけた。


「あんた、まだこんなのと付き合ってるの」

「いや、それを僕に言われても」

「あーあ、菊弥が珍しく女連れ込んでると思ったから邪魔してやろうかと思ったら、よりにもよって、たきおんとは」

 巌は頭を振って嘆いて見せた。


「いや、おまえそれは性格悪すぎるだろ」

 けれど僕の言葉など、誰も聞いていない。


「巌、あんたまさか菊弥きくやに変なこと教えたりしてないでしょうね」

「変なことって何だよ。俺がそんなヒマそうに見えるのかね」

「見える」

「あーあ、可哀想に。人を見る目が無い奴だ」


 滝緒は僕に振り返った。

「菊弥、こいつ今何してるの」

「へっぽこ陰陽師」

「呪禁道士だ」

 巌は言い直したが、もちろん滝緒の耳には入らない。


「まだそんな事してんの。いい加減働きなさいよ」

「働いてはいる。金にならんだけだ」

「それは働いてるって言いません」


「成果主義なんてのは愚鈍な奴の考えることだぞ」

「あんたみたいなのを賢明って言うんなら愚鈍で結構です」

「うどんみたいな顔しやがって」

「あんかけそばに言われる筋合いはありません」


 滝緒は口が立つ。さしもの巌もやりにくそうだ。僕がそう思ったとき、ガラス扉の向こう、駐車場に車が1台入ってくるのが見えた。もちろん、まだ陽が高い。営業開始時間までは随分ある。誰だろう、車には見覚えがあるようなないような。僕は車にあまり興味がない。だから車種の違いなどよくわからないのだ。セダンかミニバンかワンボックスか程度はわかるが、あとは色の違いがせいぜいである。入ってきたのは白い車。駐車場に静かにバックで停まると、ドアが開いた。降りてきたのは。

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