第9羽 剣闘士の草原 9
「それで、今日の動きは」
前回の戦いから丸1週間、動きがあるとするなら今日だ、と言われて本日やって来たのだが。
「今の所、まるで無い」
恵海老人は困ったように首を振った。
「友達も現れないんですか」
「君たちが来る事を伝えに現れたよ。だがそれだけで消えてしまった」
「この部屋には居るんですよね」
「そのはずなんだけどなあ」
そう話す老人の顔は、
「ああ、あれかい」
恵海老人は立ち上がると部屋の隅に行き、右手でペットボトルを掴んだ。飲み口の部分に小指と薬指をかけ握った。そしてゆっくりと振り上げる。
「こう使うのさ」
ブン。音を立ててペットボトルは振り下ろされた。そんな勢いで振ったら飛んで行ってしまうだろうと思ったが、そうはならず、ペットボトルは恵海老人の手の中に収まっていた。
「少し物足りないが、まあまあ良い鍛錬にはなるよ」
次に恵海老人は空にXの字を書く様に、滑らかにペットボトルを振った。
「本当は木刀が使いたいのだがね、この狭い部屋の中ではそうも行かない」
そう言って笑う、この老人には一体どのくらい握力があるのだろう。僕は半ば呆れ返った。だがその肉体が鍛え上げられたものである事は間違いない様だ。剣道云々も全くの嘘ではないと思える。統合失調症、ミヨシの言葉が思い出される。虚言でないとするならば、草原での一騎打ちがどうこうは妄想か幻覚ではなかったのか。『友達』も、ただの幻聴だったのだろう。僕がそう思った時、頭の中にリリイの声が響き渡った。
【緊急!緊急!】
僕の頭の中には小さな小さな通信機が埋め込まれている。それを通じて届いた音声は、他の人には聞こえないけれど、まるで鼓膜を破らんかの如き苛烈さで、僕の脳を震わせた。
【注意してください、空間がねじれています】
「注意って、どうするんだよ」
思わずつぶやいた僕の顔を、巌がのぞき込む。
「どうした、腹でも痛いのか」
「いや、どっちかと言えば頭が」
【何か来ます!】
「何か来る」
僕が声を上げると同時に、部屋の中に一陣の風が吹いた。耳元で蜂が羽ばたく様な音がした。壁が消えた。天井が消えた。見上げれば、今にも降り出さんばかりの曇り空。そして、ザワザワザワ、風の渡る音。視線を下ろせば見渡す限りの草の海。
「へえ、こりゃ驚いた。爺さんの言ってた通りじゃないか」
言葉とは裏腹に、巌の声は落ち着き払っていた。こいつは糞度胸だけはあるのだ。一方の僕はと言えば動揺してしまい、周りが見えなくなっていた。
「こ、ここ、ここ、ここここここ」
「ニワトリかおめえは」
「こここは
「んな事あ俺は知らねえよ。爺さんの友達にでも聞くしかないんじゃねえの」
「そうだ、恵海さん」
僕は恵海老人を探した。周りを見回した。だが居ない。どういう事だ。
「爺さんなら、あそこだろ」
巌はそう言うと、果て無く広がる草原の一角を、顎で指し示した。そこには、赤い日本式の甲冑を身にまとった鎧武者が居た。僕たちが近付こうとしたとき、鎧武者の口から、空を裂かんばかりの気合いを込めて、その言葉が放たれた。
「一騎打ちだ!」
天から落ちる稲妻一閃、草原の只中に立った雷光の柱の中から現れ出でたのは、輝く馬、そして騎士。僕はこれまで馬という生き物を間近で見た経験が殆ど無い。辛うじて小学校の遠足で訪れた動物園でシマウマを見たくらいである。それでもわかる。デカい。おそらく普通の馬よりも二回りはデカいであろうその黒い馬は、顔を金属板の面で覆い、首から身体にかけては小判型の金属プレートを重ねて覆っていた。
「何だ、あの馬」
「何って馬鎧だろ」
「うま、よろい?」
「重装騎兵だよ」
巌が何を言っているのか、僕には理解できなかった。ただ一つの事を除いては。
「つまり恵海さんが不利って事か」
「不利なんてもんじゃねえ。軽めに見積もっても大ピンチだ」
恵海老人は太刀を正眼に構えた。重装の騎士は走り出す。その右手には2メートル程もある長い槍が握られていた。馬はぐんぐん加速する。それがトップスピードに達したとき。
【出ます】
リリイの声が脳内に響いたかと思うと乾いた貫通音が響いた。重装騎兵の槍の先に、赤い兜が突き刺さっている。恵海老人は、と探すと、さっきまでの立ち位置から5メートルほど離れた場所で片膝をついていた。額から一筋流れる赤い血。
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