第8羽 剣闘士の草原 8

「で」

「何が」

「何がじゃねえだろ。それからどうしたんだよ」

「どうもこうもないよ。アオちゃんが小松菜食べ終わるのを待って」

「何分ぐらい」

「30分くらいかなあ」

「かーっ、マジか」


 五十雀巌いそがらいわおは信じられないといった顔で僕を見た。タクシーの後部座席。抗紫外線ガラスに囲まれた移動空間の中で、僕は乳液を数滴手に取ると、顔に伸ばす様に塗り付けた。


「何塗りたくってるんだよ」

「日焼け止めに決まってるだろ」

「おいマジか。マジかって何回言わせるんだよ」

「おまえのボキャブラリーが貧困な理由を僕に押し付けられても知らん」

「年頃の姉ちゃんじゃあるまいしよお」

「ジェンダー論を交わすつもりもない。皮膚ガンで死にたくはないからな」


 乳液を顔から首に伸ばし、次に両手から両腕に伸ばした。僕らはこれから、昨日巌が訪れたお爺さんの家に赴くのだ。空は曇ってはいるが、紫外線は目に見えないから油断がならないし、抗紫外線ガラスも、どこまで信用して良いやらわからない。できるだけの予防措置は講じておかなければ。運転手の居ないタクシーは静かに人気の無い街中を走り過ぎて行った。




 メゾネット、と言えば言えなくもない。2階建ての細長い家が5軒、一塊にくっついた集合住宅。関西では文化住宅と呼ばれるタイプの、古い木造建築。よくこんな建物が今の時代に残っていたものだと思う。しかも人が住んでいるというから驚きだ。


 だがドアは、それがドアであることをドアノブの存在によって辛うじて知らしめているだけの、ささくれ立ち、表面がめくれ上がった汚い合板であった。その汚い板を、巌がノックする。ドンドン、という音と共に、ワサワサ、という音がしている。インターホンは無い。このタイプの家なら、おそらく風呂も無いだろう。近所に銭湯でもあるのだろうか。ドアが開いた。蝶番ちょうつがいが錆びているのかキーキー音が鳴っている。ヒンジなどというこまっしゃくれた物は付いていない、そんなある意味いさぎよいドアだった。


 ドアの向こうには、笑顔の老人が立っていた。白い眉毛は長く、白い髪は頭の側面にしか残ってはいなかったが、歳の頃なら70前後、痩せてはいるものの健康そうな、とても最近まで寝たきりだったとは思えない、矍鑠かくしゃくたる姿であった。


「よう爺さん、生きてたか」

「ああ、何とか生きているよ。いらっしゃい」

 滑舌の良い、腹から出ている声だった。声だけ聴くと、とても老人とは思えない。


「あの、初めまして、僕は」

「彼の幼馴染だろう。よく来てくれたね」

 老人は初対面の僕の事を言い当てた。


「それも『友達』から聞いたんですか」

「そうとも。君は話が早いね。ささ、立っていないで入りなさい」


 中は思ったより広々としていた。間を仕切るふすまが全て取り払われているからだ。入ってすぐは板の間で狭い台所、隅にある扉はトイレか。台所の奥に4畳半の部屋があり、その更に奥に6畳の部屋がある。2階に上がる階段は6畳の部屋から、奥から手前に昇るようになっている。家具らしい家具も見当たらない。もしかしたら2階にはあるのだろうか。


 6畳の部屋には、真ん中に布団が敷いたままになっていた。

「寝ていなくて本当に大丈夫なんですか」

 僕の言葉に、老人はいたずら小僧のような笑顔を浮かべた。

「私がそんなに辛そうに見えるかい」

「いえ、全く見えませんが」


「実際そうだからね。ただ毎日1回、娘が様子を見に来るんだ。その時には布団に入っていなきゃならない。そうしないとまた来てくれなくなるから。病人の振りをするのも大変だよ」

 そう話す老人の声は弾んでいた。元来こういうたちなのだろうな。僕はそう思った。


「おいおめえらいつまで立ち話してんだ、早く座れよ」

 巌は4畳半の部屋の真ん中に胡坐あぐらをかいていた。

「おまえは馴染み過ぎなんだよ」

 僕は巌を一度にらむと、老人に軽く会釈し、畳に座った。

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