美術館

 その建物は、街のさなかにぼうっと立っていた。絵も、彫刻も、なにも飾られはしなかったが、それは美術館だった。内部は、いまもまったくの暗闇だ。

 だからほそく開いたドアの隙間からさしこむ、向こうの切れかけの街燈さえもひどく目立って見えた。その光が白い床を、じっと照らして動かない。そんな状態がしばらく続いた。そのうち終った。ドアからの光を遮る、ひとつの影が現れたからだ。

 輪郭のぼんやりした光のなかで、それだけがはっきりとしたかたちをもっていた。影はすこしずつ、大きくなっていった。近づいてきているのだ。この美術館に、ゆっくり向かってきているのだ。ちいさくてまるいからだ。だらりとした長い耳。それは兎だった。

 兎はひどく憔悴しているようだったが、懸命に美術館のドアへ、その奥のくろいくろい闇へ、歩いてくる。おぼつかない足取り。濁る瞳。不規則な呼吸。白い毛はじくじくと、赤く染まって、ところどころ乾いて、固まっていた。胸のあたりはいまだに乾き切らずに、ぬらりと重たく濡れている。そこが傷口なのだろう。

 歩く、兎はひどく苦しいものを背負っていた。夜空だ。街もまたそれを背負って、ひどくぐったりとしていた。けだるい、夜の静けさの圧力で、空気は液状化してしまいそうだった。泥だらけの高速道路。車の流れは絶えた。ネオン看板も消えた。ビル風。月はない。空には雲と闇だけがあった。

 兎の足取りは、眼に見えて遅くなっていく。右後ろ脚はもう動かなかった。濡れそぼった毛皮はもうこれ以上血を吸わなくなった。胸から雫が、ぼつ、ぼつ、毀れていく。そして点々と刻まれていく赤色が、兎の轍になった。けれど、黒いアスファルトの上では目立たないのだ。

 建物のまわりには、高いビルがどこまでも立ち並んでいる。どこかでラジオ放送が終わる。ころがるプラスチックのごみ、磨かれたガラス窓、コンクリートのひび割れから生える一本の草。零時がすぐそこに来ていた。時計塔のそば、水たまりのなかで、数日前の新聞がにじんでいる。ビル風、連れてくる、遠い海のにおい。それを兎は嗅いでいたが、何のにおいだか、わからなかった。兎の鼻はもう、自分を取り巻くにおいしか感じ取れないのだ。それからのがれるために、歩いているのだ。

 兎は歩いた。きっとずっとその建物をさがしていたのだろう。その闇をもとめていたのだろう。どこからも遠ざけられた場所、なにからも閉ざされた場所。それがもうすぐのところにあるのだった。動かない足を引きずった。眼を見開いて、鼻の穴を広げた。なけなしの息を荒げて、おぼつかないけれどはっきりとした足取りで、ドアを、ドアを、ドアをめざした。街はもうまるで寝静まっていた。街に、もう動いているものは兎しかいなかった。頭上で雲が薄くなる。背後で街燈が消えて、ついに辺りは真っ暗になった。まだ兎は歩けた。

 ぎい、と。ドアがもう少しだけ開く。それを兎はたしかに肌で感じていた。もうすぐそばまで来ているのだ。闇を引き寄せるように進んだ。一歩。二歩。三歩。四歩、そこで足に伝わる感触はあきらかに変わった。のっぺりとした感じがしていた。届いた。

 もう何歩か、ためすように踏み出すと、そこはもう美術館だった。闇ばかりが充満している。夜が街に強制した、あの重苦しくてごちゃごちゃとしたものよりも、ずっと純粋で、ひややかで、漠然としていて、閉塞したこの建物のなかにあって、どこまでも続いていた。滴の落ちる音。ひかえめな反響。

 からだを包む空気に、兎は体を震わせた。恐れたのでも、喜んだのでもなかった。安心したのだった。もう自分自身にまとわりついた、鉄や、砂や、海や、薄気味悪い沈黙のにおいに苦しまずにすむのだ。兎は横たわった。重力に任せて倒れたというふうにも、眠るためにそっとうずくまったというふうにも、そのしぐさは見えた。

 兎はそれから、動かなくなった。

 しばらくして、美術館のドアは、ゆっくりと閉まった。内部には、もうただ闇と、一匹の冷えたいきものとがあった。街がいま、零時に捕まる。信号機は次の朝を待ちながら、ただ通りを見下ろしていた。

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