汽車とピアノ
はしかわ
汽車とピアノ
汽笛がきこえていた。
鳥の歌、草のざわめき、車輪のきしむ音まで呑みこんで、どこまでも響いていた。汽車は地平線を乗りこえて、やがておおきな姿をあらわした。黒いからだ、白い蒸気と、灰色の加速度で近づく。汽車の進むさき、ひろがる草原を太陽が力強く照らす。それをはね返して、レールは、いちめんの緑のなかに二本の銀色の線を刻みこんでいる。
そのうえに、汽車の軌道上にピアノはあった。黒くて小さな、アップライトピアノ。その演奏。だれが弾いているわけでもないけれど、ずっとずっとつづいているようだった。そうやって、汽車が来るのを待ちかまえていたのだろうか。規則正しくならんだ黒鍵と白鍵が、ここにはない楽譜にしたがって、ひとりでに頭を下げる。
それは何のためでもないだろう。聴衆のいたことさえないだろう。ありきたりの和音が一定の周期をもって、ぽつぽつ連なる。そのどれも聞えはしない。汽車が、まだその傲慢でさわがしい叫び声をとめようとしないから。それが、ひろく、ひろく、風の手もかりずに響きわたっては、ピアノの音階を片端から残らずうち落とすから。
汽笛は悲しみ泣き叫んでいるようにきこえる。喜びに喚いているようにきこえる。でも、それはひどく無感動な音だった。興奮も落胆も、理由も一切もたないで、同じ高さ、同じ大きさで、それはひたすらにそこにあって、草原をまためぐるだけのものだった。
独奏はつづいていく。もしそこにみえないピアノ弾きが座っているのなら、彼はずいぶん不器用なふうにみえる。指づかいは神経質なくらい丁寧なのにひどくたどたどしくて、鍵盤をたたく強さもばらばら。リズムだけはゆったりとして、一定に保たれているようだけれど。
止まる鍵盤。透明な指がふと動きを止めて、曲目がひとつ終る。一呼吸ののちまた次の曲が始まる。誰の指もふれたことのないぴかぴかの鍵盤が紡ぐ。ハンマーが弦を鞭うつ。弦は嘶く、どこにも響けない音のために。
ピアノはつややかに黒く光っている、光を反射して、そこにある景色を地平線までくっきりと映しこんでいる。まるでピアノのなかにもうひとつ夜の草原がひろがっているみたいだ。名まえのない草の、風に揺れる鋭い葉の一枚一枚。足の間からまっすぐに伸びるレール、つぶつぶの錆。敷石のかたち。近づいてくるおおきな機械。外装にまで這う蛇のような配線。まぬけなほど短い煙突から、飛び出しては風に曝されてふらふら消えていく煙。テコやポンプ、クランク、連結棒と車輪。からまり合ってまわる。音は汽笛にかき消されてもレールを通じてピアノに伝わるその駆動。大きくなる。大きくなる。ピアノまでがたがた震えはじめた。汽車。ぬらぬらの黒色。それがピアノに映る風景をすべて覆い隠す。
汽笛がきこえている。風はない。いちめんの緑色のなかの黒色が、たったひとつになっていく。夜の草原にひびができる。割れる。なにもかもいっしょくたに、ピアノは無数の木片にかわろうとしている。内部から素っ頓狂な悲鳴があがる。汽笛に打ち勝ったそのいのちは、一瞬草原にひろがって、絶えた。鍵盤がくだけて列を乱す。こまかな機構が破綻をはじめる。うそみたいに空中で回転する折れた脚。おどりでる切れた弦。
飛び散る、汽車が与えた加速度と、重力の糸にひかれて。レール上にとり残されていく風のせいで、かけらたちの落ちつく先は不規則だ。草のうえに落ちる。敷石にまざる。レールにぶつかってころげて、止まる。動かなくなる。
日が傾いた。レールが輝きを失った。草は不気味に揺れている。汽笛はもうどこにもきこえない。あれから、汽車はいくつの地平線を超えただろうか。
草原にはピアノがない。ただおおきな沈黙がのしかかっている。いちめん、なにもかも踏み固められてしまったようだ。大気は誰のものでもない耳鳴りで満ちている。
ひとつ、強い風がある。
それにさそわれて、ピアノのひとかけが、草のあいだからおどりでた。鮮やかすぎる緑のさなかから、線路のうえへ逃げだした。たったひとつ壊されずに残った、完全な黒鍵。
灰色の敷石のうえ、ぽつねんと黒い。
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