街へ
空っぽの水筒が、指から離れる。与えられた力に導かれて、そのとおりに飛んで、飛びながら揺らいで、夜の空気をひき裂いて、地面へ落ちて、落ちて、落ちた。
それによっていくらかの衝撃を与えられて、けれど砂漠はびくともしなかった。表面の薄皮がいくらか剥がれて宙にさわいだ。それだけだ。人知れず、流動は少しも変わらない速度で進んでいる。誰の目にもみえない闇色の速度で、砂漠は広がる。
水筒を手放した、旅人の指は握りこまれ、ポケットへと戻る。数秒で随分冷えた。夜は冷たい。夜は黒い。立ち止まったまま体の輪郭がぼやけて、闇に溶けていくみたいだった。
彼が見ているのは光だった。ちいさな光。真っ黒い視界のなかからようやく探り当てた地平線のうえ、ぽつねんと転がるひとつの粒。六等星よりもやわい光を、ちろちろと発散する。
それは街だった。はるかな街の灯り、集積する家々、高い塔、連なる街燈にともる輝きがひとつに重なっているのだ。小さい。次のまばたきで見失ってしまいそうだ。けれど、それにさえ旅人の目は眩む。闇に慣れすぎていた。
網膜に光が、焼きつくのをじっと待っている。ここまでの道のりを思い返せば、ため息をつくのも煩わしくなった。やがて最後の砂が砂漠へかえって、旅人は帽子を深くかぶり直し、街の明かりをその鍔で覆い隠した。
そうしたら、また、なにも見えなくなった。けれど旅人は目を開いたままでいた。網膜に焼きついた光の残りかすを、消えるまでながめていた。眠りに落ちてしまうのが怖かった。冷え切った体は、瞼を閉じた瞬間に歩くことを忘れてもおかしくなかった。そしてそのまま、動かなくなっても。
動かなくなったら?
旅人は弱々しく頭をふった。諦めるように、ゆっくりと脚を踏みだす。水筒を跨ぐ。
右、左、右、左、繰り返す。それすら無意識に任せてしまえないほどに、彼は憔悴している。こんなにも寒いのに、額には汗がにじむ。風にふれないうちにいそいで手の甲で拭って舐めたら、かすかな塩の味と潤いに舌と喉は喜んだけれど、それで楽になれるわけではないのだ。渇きはむしろさらに強まる。足はまだ重くなる。どうしようもなく歩幅は縮み、剥きだしの顔がつめたさに痛んで、歯が音を立てる。舌を噛んでしまうのが怖い。
諦めるように、その靴は踏み出される。踏みしめる地面は、もし水をふくんでいたらすべて凍りついてしまっているだろう。そうだったらよかった。砂漠の斜面はかたちを留めない。踏むそばからずるずると崩れ落ちていく砂に、足を取られる。
どこまで歩けば終るのだろう。寒さに固まる体は、外側から少しずつ自分のものでなくなっていくみたいだった。縮む意識はリュックサックへ。明日まで保つかさえ不安な食料、読んでもしかたのない地図、あと一本しかない水筒。軽すぎる荷物は、ほかのさまざまな不安と同じ重みで肩にのしかかる。
憔悴と疲労が混ざり合って、浮かぶひとつの予感が旅人のそば、まっ黒の影としてひっそりと横たわる。それが足にまとわりついたら、旅人はため息を吐こうとして、やめる。ただそっと、自分の足音にじっと耳を澄ませた。いっそなにもかも忘れてしまえるように。自分が歩いていることだけはおぼえていられるように。
靴底が砂に沈む音を、そうしてできた窪みに周囲の砂が落ちる音を、そのひとつひとつを、旅人は記憶に繋ぎとめていく。ぼやけた意識は受けつけようとしない。ぼろぼろ剥がれ落ちる。けれど、関係はなかった。どうせ、歩くかぎり繰りかえされるのだ。
ずぶ、ずぶ、ずぶ。
さら、さら、さら。
砂が、旅人の靴に蹴られて舞い上がり、背後で数秒を宙に踊る。そのひと粒ひと粒に、光が宿る。跳ねる。まぶしい銀の光。それはどこから来たのだろう。
それはどこから来たのだろう。星ではない。街の灯りでもない。あらゆる光のいちばん上で、まだ遠い次の朝の来るまで、零時の輝きを保ちつづけるもの。砂漠に絶え間なく少しの光を与え続け、知らず知らずのうちに旅人の目を焼くもの。
夜に諍う。
月。それはきれいな三日月だ。からだを影に蝕まれている。今にもつかめそうなほど細い。つかめば崩れそうに、青白く病人じみている。けれど砂漠のはるか上、それはつかんではいけない美しさで、輪郭はなによりもはっきりとして、発散する光に、たしかに星たちは凍り、この地平は包まれて、砂の波紋がぼんやりと浮かび上がり、闇は濁るのだ。濁った闇は紺の色彩に変わる。静けさの色。砂漠を染め上げる。
そこからはじき出されたのは、もう旅人だけだ。彼だけがまだ音にとらわれて、横たわる場所もなく、歩きつづけ、立ち止まれないでいる。とかげもねずみももういない。住処で縮こまっているだろう。いくらかの淋しい植物も、とっくのとうに動きはしない。風はもう止んだ。砂紋はそれで硬直した。蹴りあげられた砂も、彼のうしろでまた砂漠のひと粒に戻っては沈黙に囲われる。とおく、街でさえ、眠るべきものはすべて眠ってしまった。残った灯りは朝の来るまで消えないまま、揺らぐことさえもない。
旅人は歩いている。一歩、また一歩、踏み出す足が祈りに似ている。やがて街になる光の残滓が、網膜から消えてしまうたび彼はまた首をもちあげた。途方に暮れるほどに、砂漠は広がる。
うしろで、空っぽの水筒は沈む。砂のうごめきに絡めとられ、消えていこうとしている。その金属のからだに、日が昇ればきっと暁が宿る。旅人には見えないだろう。
汽車とピアノ はしかわ @Hashikawa119
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