3-5 テスト勉強会3



 久しぶりに弾いたピアノは思いのほか楽しくて、勉強の合間の息抜きとしてまた始めようかな、という気になって来た。僕が弾いたのは、ベートーベンのピアノソナタ第8番、悲愴。一度弾いたことがある曲で、こいずみの家に譜面があったので少し練習させてもらって記憶を呼び覚ましてから通して弾いた。

 何年も弾いていなくても、手は覚えているものだ。もちろんところどころ間違えたけれど、ブランクがあったのだから仕方ないし許容範囲だ。

 弾き終わった後、パチパチと三人は拍手をした。特にしんはかなり大げさに手を叩いている。


「本当に何年もやってなかったのかよ、すげーじゃん」

いとしくんってすごいねー!」

「そうだよ! 愛くんはすごいんだ!」


 小さなころから、ピアノを弾くことはとても好きだった。自分が一つの音を作って壮大な音楽を紡いでいると思うと、鍵盤には無限の可能性がある気がした止めなくてもいいなら、いつまでも習い続けていたかもしれない。


「意外な才能を見たな」

「結構いろんなことできるんだね、愛くんって。やっぱりすごいなあ……」


 僕は確実に彼女きくもとよりもできないことの方が多いのは明らかなのに、彼女は僕の考えとは真逆のことを言った。やっぱり彼女の見方はどこか変だ。


「ねえねえ愛くん、あれ弾いてよ! 俺が好きなやつ!」


 心の問いかけに、僕は黙って頷いた。頭の中で譜面を呼び起こす。確かこうだった、あそこのコードはこれで……と少し確認して、僕はまた鍵盤に指を乗せた。


「あ、これあの映画の音楽?」

「あれか、魔法使いが出てくるやつ」

「そう。俺が小さいころによくせがんで弾いてもらったんだ」


 僕と心が小さかった頃、僕も心もこの映画が大好きで、何度も何度も繰り返して飽きもせずに見ていた。その映画の音楽を弾いてみたいな、と思い練習して心に披露したら大喜びしてくれた。そして事あるごとに心は僕に「弾いて!」と言ってきたので、よく弾いていたのだ。


「すごーい」


 さっきの悲愴と比べると短いこのテーマを弾き終えると、またパチパチと拍手が鳴った。


「……俺も弾く!」


 彼女の羨望の眼差しが僕に向いていることが嫌なのか、彼は僕への忘れていた闘志をまた燃やし始めたので、僕は大人しく椅子を彼に返した。




***




「お邪魔しました」


 ピアノの腕を披露した後も僕たちは2時間ほど粘って勉強会を続け、これ以上いたら彼の家に迷惑だろうということで解散になった。彼の両親は終始出かけているようで顔を見ることは出来なかったけれど、彼の家にはお手伝いさんがいた。その人とは廊下ですれ違ったのでみんなで軽く挨拶をした。


「じゃあ、また学校でな」

「またねー」

「ありがとうございました」


 もうすっかり空は黄金色に変わっている。

 挨拶の代わりにお辞儀をすると、彼は僕をじっと見た。


「和田、ありがとな」


 そして、彼は僕にそう言って微笑んだ。僕にイライラばかりぶつけてくる、いつもは眉間にしわを刻み込んでいる彼。今日は終始柔らかな表情で僕と接していたことが、今はなんだか奇跡のように思える。また学校では、きっと仏頂面で僕と話すのだ。まるで今日の事なんてなかったように。


「じゃ」


 心がそう言ったのを合図に、僕と彼女と心は彼に背を向けて歩き出した。


「今日楽しかったなあー。ね、愛くん」

「有意義だったとは思うよ」


 彼女の言葉に、僕はそう返した。

 人に何かを教えるというのは、自分が教えることを完璧に理解できないていないとできないと思っている。それに、教えるということで理解が深まることもある。その分自分の時間は取られるけれど、復習にもなるし、結果として今日という日は僕にとって有意義だったと思う。


 暫くそのまま歩いて、僕たちは駅に到着した。そこで別の方向へと帰る彼女と別れて、僕は心と二人で家路を辿る。交わす言葉もなく歩いていると、僕の顔を見ている心の目線にふと気が付いて、僕は心にスマートフォンの画面を向けた。


「なに?」

「……なんか愛くん、ちょっと変わったね」


 どこがだろうと疑問に思って首を傾げると、心は前を向いて言った。


「なんだろう、前は俺と母さんしか輪の中に入れなかったのに、今では小泉先輩も菊本先輩も中に入れてる気がするんだ」

「そんなことないと思うけど」


 僕としては、彼も彼女も“友達”ではない。休日にテスト勉強会をする関係、だ。その関係に名前を付けることは難しい。彼は彼、彼女は彼女、心は弟。そして僕は僕だ。


「そうだと、いいんだけどね。……俺は心配だよ、愛くんが」

「わかってる」


 まるで自分に言い聞かせるように、僕は心に文字をぶつけた。心と話していると、思い出す。友達なんてロクなものではないことを。友達なんて薄っぺらいものだということを。友達なんてこの世で一番信用ならないものだってことも。


「そっか……」


 心が一言そう呟いた後、僕たちはなにも話さずにひたすら家までの道を歩いた。



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