診断レポート

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「おはよう、いとしくん」


 いつも通り診察室へ行くと、滝本たきもと先生はいつも通りの笑顔で僕を迎え入れた。いつもの看護師さんが、にっこりと微笑みかけてくれて僕を椅子に座らせた。

 おはようございます、と僕は口で話すかわりにスマートフォンの画面に文字を打って、いつものようにそれを先生に見せると、先生は優しく僕に微笑んだ。



 僕が言葉を放棄してから、早三年の時が経った。


 ――失言症。


 主に虐待やいじめを受けた子どもに多い病気だ。本来なら声を失った子どもたちは治療にこんな時間は掛からないのだけれど、僕のケースはかなり稀らしい。僕の消えた言葉たちが帰ってくる気はまだまだないらしい。きっとそれは、僕が話さなくても困らないからであり、声を取り戻すことを心から望んでいないからだと思う。

 僕の言葉は、ある日を境に消え失せた。それからずっと、精神科医の滝本先生にお世話になっている。最初は病院など来るのはとてつもなく嫌だった。けれど、行かなかったら母さんが心配する。可哀そうな母さんをこれ以上心配させたくないし、先生は僕の周りにはいない唯一無二の興味深い変な大人だから、別にいいかと思って通院している。

 それに先生は、僕に無理に言葉を話させようとはしない。ただ僕に会っていない日々の間に何があったかを尋ねて、先生も自分の話をする。あとは、毎回何か一つ楽しいことを見つけることが先生からの僕への課題だ。



「さてさて、最近は何かあったのかな?」

「体育祭がありました」


 スマートフォンを口の代用として使う時のいいところは、熟考して会話ができるところだった。前にも言ったように、口を使って話すと一度話してしまった言葉はもう、取り下げることができない。けれど、スマートフォンに打った文字は、打ってから消すことができるのだ。

 打つ時に時間が掛かることだけが難点といったところだけれど、一対一で話す場合は相手がせっかちでない限りそこまで問題ではない。


「お、今年は誰とペアダンスだったの? 去年は確か、弓道部の女の子じゃなかったっけ?」


 でも、僕のことをよく知っている人は、別に焦ることなく僕がスマートフォンを弄るのをじっと待っていてくれる。例えば、滝本先生や僕の家族、そして彼女のように。


「今年は彼女とでした」


 滝本先生は、大事なことは忘れてしまっても、別に覚えていなくても何ら支障はない些細なことの記憶力はよかったりする。


「……もしかして、この前話してた菊本きくもとさん!?」


 画面の文字を見て、先生は目をキラキラさせて僕の話に食いついてきた。首を縦に振ると、さらに質問を投げかけてくる。


「もしかしてもしかして、手を繋いだりハグしたり……キスまでしちゃったりして!?」

「そんな振りはないです」

「なんだ~」


 先生は、あからさまに僕の言葉を見てがっかりした。


 ――あるわけないだろ、そんなこと。

 僕たちは、友達でもないのに。


「デートとかしてないの~」


 嫌、あれはデートではない。ただ一緒に映画を見に行っただけだ。

 滝本先生は、僕がスマートフォンの画面を見て暫くかたまっていた様子を見て、何かを悟ったらしく、一層にやにやした表情で僕に言った。


「したんだね」

「映画に行っただけです」


 僕がそう返すと、先生は「えー、うわー、エッチー! 映画だってー。暗いところに男女二人っきりなんてー」とひとしきり騒いで、たまたま後ろの廊下を通りかかった馴染の看護師さんにうるさいと怒られていた。

 そもそも、趣味が合ったからファンタジー映画を見ただけだし、二人っきりでもましてやエッチでもない。


「楽しかった?」

「映画は悪くなかったです」

「へえ~~~」


 先生はますますにやにやと口角を上げた。どうやら自分でコントロールできないらしい。


「でもそのせいで変な奴に学校で絡まれて大変なんです」

「変な奴? 私と同じくらい変かい?」

「いや、そんな人はこの世には存在しません」

「そんなはずはないよ、ねえ?」


 また通りかかった看護師さんに不意に尋ねると「先生が今まで出会った中で一番変人です」と言われていた。よくわかっていらっしゃる。


「ま、まあいい。彼の名前は?」

小泉こいずみくんです」

「小泉くんがなんで愛くんに絡むの?」

「彼女のことが好きで、僕を勝手にライバルと言ってきて」

「ほう。十分面白いじゃないか。負けるな、愛くん。君ならどんなイケメンにだって勝てるって私は思っているよ」


 先生のメガネはガラクタなのだろうか……と思ってから、僕は先生のかけているメガネは女性にモテるためのアイテムだということを思いだした。


「で、彼はどんな子なの?」

「変だけど、きちんと筋は通す奴です」

「なんでそう思うの?」


 先生は真面目な顔で僕に尋ねてくる。


 僕は、体育祭の騎馬戦の時に起こったことを説明した。


「いい子がライバルになってくれてよかったよ」

「ライバルじゃないですけどね」



 滝本先生は、そう言って僕に微笑みかけた。


 僕は納得いかなくて、むすっとしながらスマートフォンの画面で反抗の言葉を述べた。




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