1-4 心配性





 彼女きくもとが僕の元を離れた後、担任の平田ひらた先生がまさに丁度帰ろうとしていた僕のところへ来て言った。


和田わだ、さっきは文化祭実行委員引き受けてくれて助かった。ありがとな」


 僕のクラスの担任の先生、平田先生は一年生の時も僕の担任だったので、これで二年目の付き合いだ。先生は物理を教えている。


 年齢は確か四十歳前くらい、所謂アラフォーで、奥さんも高校教師だと一年の時に自慢していた記憶がある。二人の息子がいて、そして去年待望の長女が生まれたらしい。その子たちにやたらとメロメロで、子どもの話を生徒が授業中に振って、一時間授業がつぶれたという偉業を成し遂げた先生でもある。その噂が流れてから生徒はみんな先生を上手く誘導して子どもの話をさせて授業を潰そうと画策しているけれど、先生も懲りたのかまだ成功するに至ってはいない。



菊本きくもとはどんな生徒とも上手くやれるから、菊本となら大丈夫だと思ったんだ」



 そんな平田先生は熱い先生で、僕が一人でいるのをいつも気にかけてくれた。僕にとってはそんな必要はないのだけれど、悪気なんて一切なく本気で、一生懸命に僕という存在をなんとかクラスに馴染ませようと努力してくれるから、邪険に扱うことはできなかった。だからと言って先生の期待に沿うような行動はとれないわけだけれど。


 今回の先生の押しの一言も、僕をクラスに少しでも馴染ませようとした結果ということなのだろう。



 委員の仕事の中でも、花形の文化祭実行委員という仕事を本当に全うできる実力があるか、と言われれば今更ながら絶対ないと言い切れる。

 先が思いやられるばかりだ。クラスのうるさく騒いでいる奴らをまとめられる気はさらさらしない。



「嫌、だったか?」



 僕が特に反応することもなかったので、心配になったらしい平田先生は僕の顔を心底不安そうに覗き込んでそう言った。


 中学生の頃の担任は、僕のことを明らかに異様な存在として扱っていた。僕にむやみに触れようとも関わろうともしなかった。触らぬ神にたたりなし、といったところか。


 そんな前の担任たちと平田先生は、明らかに違う。でも、僕のように防備がなにもないに等しい生徒にとって、無条件に注がれる優しさは時に鋭い武器になることを、この先生は知らない。



「やりますよ」

「そうか。よかった」


 僕の反応を見ると、先生は安心したように目じりを下げて笑った。


「あ、菊本のことも助けてやってくれよ」

「はい」


 彼女には僕の助けなんてなくても一人でやっていけると思ったけれど、とりあえずそう返事を返すと、先生は満足そうな表情をして僕の元から去って行った。






*******







 その後、しんは部活なのでいつもどおり一人で帰路についた。


 母さんは仕事でまだ帰ってきていなかったので、部屋に荷物を置いて、丁度のどが渇いていたので何か飲もうとお湯を沸かして紅茶を入れた。


 一緒に何か食べようかとキッチンのお菓子が入っている棚を覗くと、丁度クッキーがあったので、その箱を掴んで紅茶の入ったマグカップを持って、リビングにある共用のデスクトップパソコンを起動する。そしてクッキーを食べながらいつものように動画サイトで面白い動画がないか漁っていると、ふと一つのことを思い出した。




 ――そう言えば、今日は本があるんだ。



 本の存在を思い出すと、どうしても今すぐ読みたい欲求に駆られて、僕はクッキーを食べ終えたタイミングでパソコンをスリープモードにして部屋に戻り、通学用鞄を開けた。


 そこにはさっきまで忘れられていた一冊の本が主張するように鞄の一番上に横たわっていた。




 読んでみるか。




 ベッドに座り、ページをめくる。

 そこからは本に意識が全て吸い込まれるように僕は読み続けた。他のことは何もせず、ただただページをめくった。


 本を読むことは好きだ。物語の主人公に自分を重ねて、まるで自分がまったく違う他の世界で生きているような感覚を覚えることが出来得るから。時には魔法が使える勇者で、時には宇宙で生きるスペースシップの敏腕パイロットで、時には一国の王になれる。

 本の中では、可能性は無限大だ。鎖のついた僕ではない。


 貪るように本を読んでいると、空いていたドアからいきなり心が顔を出した。




「ただいま、いとしくん。何読んでるの?」



 弟が帰って来たことも気づかないくらいに熱中していたらしい。窓の外はいつの間にか陽が沈みかかっていて、部屋も薄暗くなり始めていた。

 心は部屋の電気をつけると、僕の隣に腰掛けた。



「あ、それ僕も読みたかったやつ! いいな!」

「ごめんこれ借り物」

「図書館のじゃないの?」



 僕が首を振ると、心は驚いて目を見開いた。それはそうだ。心は僕に本を貸し借りするような友達はいないと知っているのだから。



「誰から借りたの?」

「クラスのやつ」

「へえ」



 大層面白くなさそうな顔をして返事をした。心は、僕に友達という陳腐なものができることを望んでいないように思わせることが幾度となくあった。


 ――心は知っているのだ、友達と言うのは、うまく立ち回れない僕を傷つけうる存在だと。


 相反して、心は友達たちとうまくやっているようだけれど、本当に信用できる友達がいるのかと聞かれると、それは僕にもわからない。いつも友達に囲まれてキラキラしているように見えるけれど、その中で心を許して全てを話している存在が本当にいるのかと尋ねられれば疑問だろう。




「そいつのせいで文化祭実行委員やることになった」

「え!? 愛くんが!? 大丈夫!?」

「たぶん」

「僕の愛くんを困らせるなんて、許せない」



 ぼそっと隣で小さな呟きが聞こえたけれど、やっかいなことになりそうなので気づかないフリをしておいた。


 言わなければよかったかもしれない。心は、ときどき僕が夢にも思わないような突飛な行動をすることがある。


 ……今となってはこう思うのも手遅れだ。







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