伏線
瀬田桂
伏線
夏。忌々しい夏。それも真っ盛りもいいところな夏。
山手線品川駅で降り、人の波に流れ流されるまま歩いていく。俺たちのこの姿を上から俯瞰すると、きっと黒い川のように見えていることだろう。
五分ほど人の濁流に耐えて、止めどなく滲み出る汗の濁流にも耐えて、すっと支流へそれると俺が働いている会社がある。
主にマイナーな分野の専門書を刷っている出版社で、吹けば飛ぶような零細企業だがこの分野では独占的なシェアを得ているため、路頭に迷う心配は今のところない。同じことの繰り返しで、工夫の余地がない仕事なためやりがいが皆無に等しいのがネックではあるが。
アフターファイブ(正確にはアフターシックスぐらい)の酒だけが生きる取り柄の、どこにでもいるダメサラリーマン。それが俺、野田秀雄を紹介するのに必要十分な文章だ。
『東京医法出版』と書かれたガラス張りの扉を押し開けると、ひんやりとした空気がどっと押し寄せてきた。クーラーの効き過ぎだ。
急激に汗が乾いていくのを感じながら自分の席へと向かう。鞄をデスクに置き、椅子に腰掛けようとした時だった。
「おい、野田君」
課長だ。いつものように高圧的な口調で俺を呼び出した。知っているのだ。高圧的なのは部下、しかもあまり出来の良くない俺のような部下に対するだけで、同じ立場の社員や上に目を掛けられている部下にはペコペコとまるで自分がそいつに雇われているかのような勢いでへりくだるのだ。
さぞかし世渡りが上手いのだろう……とこれだけの説明をすれば思い込んでしまう方もいるだろう。実際は真逆だ。へりくだり方が露骨すぎて、口だけだと誰にでもバレてしまい、嫌われる。それでいて自分だけは上手く上と付き合えていると思い込んでいる、自意識過剰で間抜けな男。それが俺の上司だった。
「なんでしょう」
俺はわざとノロノロと課長のデスクに向かった。どうせ面倒ごとを押しつけられるに違いない。
クーラーが効いているのにだらだらと汗を垂らし、それを汚そうなタオルで拭きながら課長は言った。
「実は水野君(注:同僚)が昨日の晩から入院してしまってるらしくてね。彼が担当している○○病院の○○医師を君に――(以下略)」
ほらね。
間もなくして俺は○○医師に挨拶するために再び電車に揺られていた。面倒くさいが、あの課長に監視されながらずっとデスクに座っているのもそれはそれで気が滅入る。まあ、どっちもどっちだな。
目の前に小学生ぐらいの子供が座っている。何やら落ち着きがなく、きょろきょろと辺りを見回している。膝の上にはリュックサック。周りに家族や友人らしき姿はなく、一人のようだ。
ひと夏の小冒険ってところかな。どこか地方から東京にやって来て、その人の多さや駅の巨大さにびびっちまってるんじゃないか。
ふと思い出す。十年前ぐらいか。
地方の大学に通っていた俺は、田舎のあまりの退屈さに辟易し、就職は東京の会社を目指すことに決めたのだった。
そして三年の夏。就活のため俺は初めて東京という街を訪れた。その時の衝撃は今でもその時、世界は滅びた。
十五万キロメートルという至近距離に超次元ワープによって八百絶対次元座標を飛び越えたゲ・ガガガナ(日本語に超翻訳)覇国の撃破挺が現れ、ゼロ点ゼロゼロゼロ一秒を越えない内に発射された全方位消滅砲が地球と星の存在を一瞬にして無へと帰したのである。
浸透圧によってグナ(あるいは暗黒物質)が無となった部分に流れ込み、そこに地球という青く美しい(自称)星が存在したという痕跡は完全に失われた。
元地球付近に今度はゲ・ガガガナ高貴挺が出現する。覇族にしか乗ることの許されない高貴挺は、戦闘目的の使い捨て船である撃破挺のおおよそ八十倍もの大きさを誇る覇国自慢の宇宙挺である。ちなみに撃破挺は太陽の二倍程度の規模だ。
高貴挺より扇状に透度の高いレーザーが放たれる。八万年前、ゲ・ガガガナとメンザが覇国の座を争って勃発した宇宙戦争。結果的にはすべての世界線を破壊されたメンザ人が、追い込まれて自殺するという形で終結したのだが、ゲ・ガガガナが戦争を優位にせしめたのはこのレーザー――万物創造波だった。
※※※
ゲ・ガガガナ本星周囲にあらかじめ万能創造波を放射しておくことによって、メンザの最終兵器である『世界樹の咆哮』で跡形もなく消し飛んだ自分たちを復活させる。まさに奇策だった。
メンザが慌てて『世界樹の咆哮』の再チャージを始めたところを、五千億回に一度しか起動に成功しないゲ・ガガガナの最終兵器『神の卵』がついに炸裂する。形而上形而下絶対神を三秒もの間宇宙空間に具現化せしめ、メンザ人のすべてに無限永劫の裁きを与え、実質的に種としての滅亡を引き起こすことに成功し、ゲ・ガガガナは全宇宙の覇者となったのである。
※※※
名前の通りすべてを創ることが可能な万能想像波は、どういうわけか一度消滅させたはずの地球を再び登場せしめた。ちょうど全方位消滅砲が放たれた直後ののif地球である。
ただし、地球人のみは復活させられなかった。とはいっても、ゲ・ガガガナ人がアダムによる原罪を信じたとか人間はあらゆる意味で地球にとっての害悪だとか、そんな下等国家でのささやかな言われを尊重したわけでは当然ない。確固たる現実的な理由があったのだ。
やがて、高貴挺のある部分に小さな穴が開き、まるでスポイトのように水滴が一粒地球へとぽとり落とされた。周りを光のオーラによって護られ、流れ星のように軌跡を描きながら飛んでゆく。
水滴は日本列島、東京に到達した。地表にぶつかった途端、ぐにゃぐにゃと形を変え周囲の環境に最も適した姿になる。それは、地球人の姿をしていた。
水滴の正体は度重なる進化を遂げ最適化したゲ・ガガガナ覇王の一人娘、グルタミン酸(超翻訳)姫だ。
そこに他の地球人が居れば、彼女のあまりの美しさに卒倒必至であっただろう。宝石のように形良く輝く瞳、細く慎ましげな鼻、純ピンクの三日月型をした唇。その他すべてのパーツが美的に最適な位置に散りばめられていた。もちろん、これも覇族により選別された血筋と進化の賜物である。
姫は一糸纏わぬ姿で、死んだスクランブル交差点の中心に立った。ゲ・ガガガナ人には服を着る必然性はとうに薄れていた。気温は肉体自身の調節機能によって問題とならないし、乳房や生殖器を見たり見られて恥を覚えたり興奮したりするような理性に反する観念は徹底的に排除されたのである。とはいっても、年中裸でいるわけではなく、お洒落、ファッションとしてや身分を表す役割として服を着るという習慣は残ってはいる。
進化を極めたゲ・ガガガナ人とはいえ、王女たる姫がまだ支配及ばぬ外星に単身で降り立つというのはかつてない異常な行為であった。高貴挺よりテレパス装置により王女へと言葉が届く。
(なお、これよりの会話は未知なる言語【ゲガナ語】によるものであり、原義に忠実な訳は不可能以上のなにものでもなかった。よって要らぬ誤解を防ぐために語尾に(という意味の言葉)をつけることとする。正確性の保証について筆者に問い合わせることは止めていただきたい)
『グルタミン酸姫、本当にいいんですか(という意味)』
「当たり前じゃ。わらわの決意は覇王たる父上でも動かせぬ。貴様等では言わずもがなだ(という意味)」
『……承知(という意味)』
そして再び万能創造波の光。先ほどの物に比べてかなり規模は小さい。グルタミン酸姫の前方、横断歩道を渡った先を静かに優しく照らし、止んだ後には一人の男が横たわっていた。こちらは裸でなくスーツ。消滅砲を受けた当時の格好である。
そう、秀雄であった。
彼はカタストロフの瞬間、山手線に揺られていたのであるが、消滅砲の衝撃を受け一瞬にしてここスクランブル交差点に吹き飛ばされたのち、消滅していた。
死んだようにそのままでいる秀雄にグルタミン酸姫は近づき、そして出来たばかりの手の平で彼のあまり綺麗でない(地球人基準)頬を軽くなでた。
ゆっくりと目を開く秀雄。意識は朦朧としていて、美女の裸にも気づかないようだった。
グルタミン酸姫は無表情で言った。いや、呟いた。
『なんということだろうか。わらわはおぬしを愛してしまった。それも、途方もないまでに強く、熱く。きっかけは、ここ地球を我が覇国の実験星とするためだった。下調べとして《無限眼》(注:倍率を無限段階で調節可能な望遠鏡)で観察していたところ、あの直方体の乗り物に乗るおぬしを見つけたのだ。なぜおぬしに眼が止まったのかは解らん。おぬしのどこに惹かれたのかも不明だ。
最初は必死で理由を探った。理性を神として崇めるゲ・ガガガナにとって根拠無き愛は重罪だ。すべては説明の付く現象で成り立っておらねばならぬ。だが、解明はできなかった。わらわはこう判断を下さざるには得なかった。愛は不治の病だ、と。ゲ・ガガガナが今まで滅ぼしてきた星で文明を持つものならどこでもこのような格言が遺されている。我々は本能を制御できぬ無能どもの戯言だと一笑に付してきた。しかし確信した。あの言葉は正しかったのだと。愛は不治の病だった。そして、わらわはその病に罹患したのだ。何の伏線もない愛だった。
不覚だった。でも、ほんの少しの間だけど、幸せだった。見ているだけだというのに。これが、本当の、幸せだったのだ、とわらわは思う。愛を拒んだゲ・ガガガナでは得られるはずのない幸せなのだ。
こうしておぬしと相まみえるために、わらわはおぬしをこうして生き返らせた。どうせ滅びる命だ。わらわの許されぬ愛を許してくれ――愛してる(という意味)』
言葉の最後に、秀雄の乾いた唇に唇を重ねる。異性の二人が愛を確かめ、強めるために行う儀式――グルタミン酸姫は文献研究の中でそれを発見していた。
残念ながらその行為はゲ・ガガガナ人には何の感情も引き起こさぬものだったが、地球人である秀雄はきっとわらわの愛を少しでも受け取ってくれたに違いない。グルタミン酸姫はそんな不合理な願いを胸に、今しかない胸に、抱きながら、じっと秀雄を見つめていた。
時を支配したゲ・ガガガナ人でも時間は過ぎゆく。グルタミン酸姫は『光あれ』とたどたどしい日本語で呟き、意を決したように空を見上げ、再び水滴に変身し高貴挺へと帰っていった。
宇宙最大の愛は、そこで完全なる終幕を迎えた。
やがて目覚めた秀雄は、誰も居なくなった東京を彷徨い続け、適当な店で胃袋を満たしていたが、日が経つに連れて食べられる物が減って行き、一年もしない内に腐った物の食べ過ぎで死亡した。
グルタミン酸姫が強いた、『突然自分がが世界最後の人間となったらどのような行動を取るか?』という最高に無駄な人体実験は、無意味な結果に終わる。
地球は再び放たれた消滅砲によって秀雄と同じく二度目の死を迎えることになる。二度と復活することはない。
これが、伏線無き地球滅亡の一部始終である。
伏線 瀬田桂 @setaK
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