自分の足で歩く最後の一日(ver1.4)

浜崎ユウマ

自分の足で歩く最後の一日


いつものようにわざわざ卸しておいた紙幣で代金を支払って、私のトレイをテーブルに運んだ。

トレイは一食分の重さ。レジから窓縁の席まで十三歩。

朝陽が当たるほうが朝食は美味しそうにみえる。スライストマトの断面が白金色に光っている。

どんなに精製食や栄養剤が進歩しても、私は生鮮品を手放せない。

指が汚れるトマト、かすかな鶏肉の臭み、刻まれたタマネギのソース。

焦げた胡麻の香りがこもったパンの隣、円盤状に切った茹で卵がひときれ、みずみずしく波打つ葉菜の貴婦人に、帽子のように乗っている。

彼女達のドレスは日によって若草色だったり、紫だったりして、トレイに彩りを添える。

この店はすこし高価だけれど、おかげで食べすぎなくてよい。

オーナーが入院したきり目覚めなくなって何十年も経つせいで、今どき現金払いにも対応しているこの店を、ひそかに気に入ってすらいる。

いくらかの手数料を払って現金で決済するとき、映画の登場人物の気分になる。私だけの価値観に思いふければ、血の気のよどみがちな思考にも食後茶の温もりが通う。

細かい茶葉がたまった濃い萌黄色の水たまりを、カップに唇を当ててかたむける。

すでに熱を失っていくカップの白い肌から両手を離して、かわりに白くなったため息で窓ガラスが曇る。

つるつるの包装紙の内側にたまるパン屑を集めて、折り畳んでポケットにしまう。

塔のように高いカウンターチェアから墜落するように離席する。膝の関節の軟骨は、毎日ここで食事をする度すり減ってきたのだと思う。

今日までありがとう。あなたのおかげよ。

水平のすこし上まで手をかかげてトレイを取るとき、テーブルの裏から留まったネジの、半球状の頭に刻まれた十字の溝が見える。

今日は自分の足で歩く最後の一日。


景色をいちいちかみしめ、奥歯や軟骨をすり減らし、飲みほしてゆくのが人生。

だのに明日から、この存在感に満ちていた朝食も、生活保障クレジットで支給される。

もう食前に不衛生な貨幣に触れることも叶わない。貨幣、不潔な不正の象徴。不正をせず稼ぐことはきっと不可能だから。

私には誰かと違って、死ぬまで酔狂が続けられるような貯えは残せなかった。それが能力の違いか、偶然か、性別のためかは、三日前の朝食くらい分からない。

それでも私には大した不正なんてできないから、よくやってきたほうだと思う。なにが不正でなにが公正か分かるほど、世界の秘密と向き合ってきたわけでもないけれど。

いずれにせよ、数十年の孤独な努力をねぎらってくれる誰かは、私が生まれる前にこの世を去っていた。

身寄りの無い人生で、使いもしないクレジットを蓄えるのに、彼はどれだけの生き方をしてしまったのだろう。

生前婚で婚約した身寄りのない夫の唯一くれたものは、冷凍保存された精子と、育児に困らないだけの生活保障クレジットの申請権だった。

それ以上を押しつけるのはこわかったのか。会ったこともない相手に。

彼は受精卵から生検した私の遺伝子プロフィールに、環境条件を入力してシミュレーションした私の笑顔と、裸体と、サンプルボイスに求婚したのだ。

それがどんな意味を持つにせよ、誰かに名指しで求められた手応えに使命感を燃やし、出産し、育て、一人息子を送りだした。

しかし、養育費以外の生活保障クレジットは、ついに今日まで申請してこなかった。

物心ついて、見知らぬ男の寵愛を受けるべきか決めかねながら、権利時効を明日に控えたこの朝まで。


逞しく見目良い犬ですら、仲間と引き離されたところへ閉じこめておかれると、心に癒えない孤独の傷を負うらしい。

ずっと前から、私にはそのことがわかる気がする。

初めから一匹でいるのはなんともないのに、共に楽しく過ごせたはずの大切な誰かがここにいないのだと思うと、水を奪われたような渇いた孤独が泥のごとく湧いて、肺と肺のすきまを下から順に塞いでいく。それは乾くと日干しレンガのように固くこびりついて、次第に厚い壁となる。

体を清めることも、喉を潤すこともままならない沼地と砂漠を行ったりきたりしながら、それでもとにかくは、この足で歩いてきた。

運が良ければ、私とあなたは上品で幸福な伴侶になれたかもしれない。でもあらゆる可能性は、心臓の上に建てられた無限の城壁によって、予め失われていた。

私と彼は、他国から届く国政の話くらい実感の無いクレジットだけでつながっていて、結びつけられていて、ついに私はその事実を受け容れる。

玉座の横で敗戦の報を聞かされた老女王のように、残された最後の忠臣である使い古しの表情筋で、死の谷のような目尻に黒い稲妻めいた皺を集めながら。


ある年齢以上の市民にとって生体の足は贅沢品だ。

生活保障クレジット申請の規約が適用されれば、倫理についてあれこれ書かれた法令に基づいて、医療費のかからない義足に付け替えることを余儀なくされる。

平等な市民の為の不自由なき生活へ給付される標準の義足の規格は、今の足より20センチも高い。

それは窓際の席から返却テーブルまで十歩で歩けてしまうだろうし、推奨のランチメニューにストレスなく眼が運ばれ、エスカレーターの始まりと終わりをかすかな緊張も無くまたぐだろう。

わざと大またで歩いたにも関わらず、私の足はトレイを返却するのに十二歩の長旅を要した。ふと、つまさきと土ふまずを結ぶ筋肉は、床をふむときに固くなるのだと初めて思った。そして流れる床のタイル模様は、明日からすこし遠ざかるのだと。

それでも今日まで長く生きてきた孤独な魂は、殊更少女のようにぐずりだしたりはしない。私は視線を上げて、何十年も挨拶する相手のいない無人のレジを通りすぎた。そして肉や豆を加熱する匂いと最適化された環境音楽の流れる、自動調光機で節電された薄暗いカフェを後にした。


いつも朝に必ず通る自然保護公園。

通ると行っても、ぐるりと一周して入り口から出るだけ。

中心には市役所があるが、今日だってそこへ訪れることはない。

市民登録されているし公用語も読めるのに、窓口へ押しかける面倒は掛けられない。

上着の、パン屑が入ってないほうのポケットの、携帯端末のリマインダーの一番上から「同意」を順に3回押すだけ。

それでも、労働量に比例せず億劫なことはあるものだ。

誰か代わりに押してくれないかしら。指輪でも嵌めるような仕草で、そっと私の手を支えて。

そうなったら私は夢でも見ていることにして、薄目で見届けるだろうに。


常緑樹のさざめく木々の奥から、大型化した蝉のかすかな鳴き声が包んでくる。

蝉はこの数十年でとても静かになった。

外灯の明かりでよく飛ぶ蝉から軒並み死んで飛翔力を失い、音を鳴らす筋肉が退化したと俗説では広まっている。しかし原語の研究記事を読むと、単に人の可聴域から遠ざかっただけらしい。実は虫はみんな鳴いている。ただ自分の人生の端まで届く声しか持たないのだ。

人と蝉は、私達はいつからこんなにも遠ざかったのだろう。

地中で長い幼生期を過ごしてから姿を見せるので、食べすぎのペットみたいな成虫の姿に気付いた時には、十年も前から大型化は始まっていた。

しかし体の中身は変わらずほとんど共鳴室で、バイオリンをチェロに持ち替えたようにがらんと空洞。

地上でのロマンスの期間は延長されて、彼らの肌は日に焼けて抜け殻と変わらぬセピアになる。

そうなると彼らにとっても見分けがつかなくなるらしい。抜け殻と交尾している成虫を見たことがある。

私とあの人の時間も、空っぽのまま地下で大きくなりすぎたと思う。

先に進まなくては、という気持ちに駆られて、私は足を公園に踏みいれた。


遊歩道は茂った葉につつまれて涼しい。

優しくありたい風が逃げこんでくる感じ。

街路樹を抱く空っぽの蝉たちのそれぞれの独奏は、防音室の扉ごしに同じ楽章を練習する弦の旋律に似ている。

この公園は、窒息するほど舗装された都市の、折りたたまれ削ぎ落とされた最後の小部屋だ。だから室内楽に移った音楽家のように、彼らは音の大きさより美しさを気にかけるようになったのではないだろうか。

土壌汚染が原因という人もいるけれど、その大きくて美しさを気にかけない見解が本当なら、公園に通いつめた私の聴覚こそおかしくなっているに違いない。

それならそれで、私の人生だ。目に見えるもの、触れられるもの、聴こえるもの。そうでないものが多くなりすぎて、今や私の人生は、僅かな感触を拾い集めた卓上宝石箱のように小さくなった。

小川の上流へ向かう石段をヒールのついていない靴で踏みしめていく。石段のはしにつやつやのどんぐりが落ちていて、一番低い靴を履いてきてよかったと思う。

この公園は私の砂浜で、心の中の子供の部分が、貝殻を拾いたがってやってくるのだ。

段を登りきって一歩目の石畳に踏みだすとき、前に出ようとする自分の足を見て、まっすぐな骨に肉と皮膚と服を順に薄くなでつけた、山羊のような足だと思った。



足元の樹木の陰が揺れて、溶けだすように現れた灰色の水たまりが鳥の形になって、石畳を滑って移動した。

見上げると小さなカラスだった。カラスは蝉の逆で、見るたび小さくなっている。島嶼化(とうしょか)だ、と盛んに言われている。

島のように孤立した生態系では、大きい生き物は性成熟を早めたり代謝を減らすために小さくなっていく。小さい生き物は、捕食者が減って大きくなる。

都市ではしばしば餌の豊富さと環境の推移の速さのために世代交代が著しく進むので、たった数十年でこれほど島嶼化が進行したのだという。最後は均されてみな同じになるのだろうか。

ポケットの包装紙を開けて木陰へ息を吹くと、パンくずが舞って腐葉土に寝そべる。それをついばみに、隠れていたかわいい浮浪児たちが競ってあつまる。

ハトほども小さくなったカラス。ハトほども大きくなったスズメ。そして遂に空を飛ばなくなったハト。同じ大きさになった雑食の鳥達をけおとす筋と、より多く胸にたくわえる脂肪のおかげで、もう高所からふんを落とすこともない。新世界からオリーブの葉をくわえ、平和を告げに戻ることも。

苦しげにうめくハトと、ヒステリックに姿勢を低くするスズメがにらみあう。カラスが跳ねる。

なんて小さな世界の、弱い生態系だろう。墨が垂らされたミルクの白い色のようにあっけなく失われてしまうのだろう。

私は、しばらくそこから離れず、彼らを見守る。しかし人目が非難を浴びせに来る前に、自らきびすを返して遠ざかる。その小さな仕合わせの在り処から。


しばらく歩くと、知っていなければそれと分からない、か細い水音が聴き取れる。補聴器のおかげで、そこらの頓着しない若者より耳がいい。

まだ玩具ほどの大きさに見える四人掛けのベンチを曲がった先の、人工の渓流のせせらぎを聴くだけで、体温が少し下がった気がして心地良い。

親指をかざすと、一歩ずつ大きくなっていくベンチが、何歩目かでぴったり親指の幅と同じになる。太陽が透けて分かりにくいけれど、確かに同じ大きさ。

その白い筋の入った親指の爪に、小さな蝶が止まった。

ゆっくりとまたたく翅も爪の内におさまるほど小さな蝶で、上品な飴細工のように光沢の透ける下に黒と瑠璃色が行ったり来たり。こんなことは初めてだった。

今日はいい日かもしれない。頬がゆるんで楽な気持ちになる。指を木の枝と取り違えたのだとして、それも許してあげよう。

つむじ風のような思案ごとふわと舞って、一休みした蝶は渓流のほうへ飛んでいった。


コケタンポポにヒメレンゲ。

小さく上品な渓流植物たちが見渡す限り、川に寄り添って植えられている。

渓流は、酸欠というものがこの世にあることを忘れてしまうくらい酸素に満ちみちていて、それなのに窒息しそうなほど目まぐるしい水の流れに、太陽が無茶苦茶に乱反射する場所。黄金を砕くような水面に見蕩れている間にも岩肌が削りとられて、輪郭の変わっていく地形。

亜熱帯気候に推移して、にわか雨のよく降るようになったこの都市で、雨のたび溺れるほども変わる水位と、浴びるほどのしぶきに新芽の頃から浸かって、いつも柔らかく濡れている草花たちの井戸端。ここにはいつも、虫干しのために出てきた古書のような老人たちと、幼い子を育てている細い女たちが、亜麻色の傘を並べて憩っている。

亜麻色は流行りの生地だ。少なくとも都市の中流以上の人々は、密集のストレスを和らげるため、特に大きな生地に、ずっと昔から約束していたように亜麻色を好む。

私も亜麻色のパラソルを一本持っている。バスタオルとシーツとカーテンも。30代の頃から少しずつ買い求めたような気がする。どうしたって、わざとリネンの繊維がわかるようにあらく織られた仕立ては、指先の憧憬だ。

渓流植物は、乾いた土をかき分けた根で味わう水の美味しさなんて、前世の記憶に置いてきてしまう。一生に一度くらい、葉脈まで乾いた葉に伝わる朝露を飲みほしてみたいと憧れるが、私達の葉は小さく、細く縮こまって、それでも太ければ切れ込みすら入れる。毛は少なく、枝は硬く狭く、そして這うほどに小さく根を伸ばし、天気雲をうかがうように上目遣いのつぼみをそっと向けるだけ。

私たちは太陽へ向かって競い合って勇ましく伸びない。樹齢を刻む塔や、世界の果てまで旅する不尽の種子を育てない。

私たちは繁殖のため孤島へ行き着いた渡り鳥の群れのように、細く軽やかな体のまま分娩し、毛繕いをして巣を清め、少量の清潔な栄養を求める。

水面の眩しさを無視して見つめていると、透明な水の底に厚いコンクリートの灰色が揺れている。

公園ができたばかりで、市民がこの川にじかに触れてもよかったころ、幼い息子と並んで素足を水面におろし、踏みしめた水底だ。吸いつくようなしっとりした新しいコンクリートは、微かにあたたかかった。

ここは家だ。滅多に襲われず、滅多に逃げられぬ、つながれた魂の散歩道。かつて魂は草原をなでる一陣の春風よりまっすぐ自由だったのに、ここでは生きるのにもうその力がいらない。

島の生物相の鳥や昆虫のように、順に飛べるものは生きられる世界の外へ消えていって、飛行しない遺伝子は地層のように幾重も薄く心にかぶさっていく。

清流で振るいにかけた砂の、軽やかなものが霧散して、重い均一な粒だけが残る。

水のたわむれる音の激しさが、笑顔で談笑しているはずの人々の声をばらばらに分解し、時折子供のかん高い声だけが、木洩れ日を縫った陽差しのように耳に射しこむ。


出口が近い。

塗りたてのエナメルのように光る黒や白の墓碑が並ぶ、公営墓地。

特に水をかけられた墓碑は、灯台のように輝いて私の視線を呼び寄せる。

やがて低い柵一つ隔てた砂利道までたどり着いて、柵沿いに歩きながら横目に見わたせば、高層ビル街のように、どの墓も私よりずっと上背が高い。

分かっているから、そんなに威圧しないでほしい。私もいつかそちらへ行くから。

生はどこへも逃げたりなんかしない。稲妻のように明瞭な死か、浜辺のように曖昧な死を選べるだけ。私は砂浜を選んだ。

私がエナメルの石になった時、外国の息子は水をかけに来てくれるかしら。

やがて砂利道は柵を離れ、再び街路樹の木陰の中へ合流していった。


暗がりに、冬用の子供の手袋が落ちていた。

だから公園の出口の手前で立ち止まって、ふり返ってもう一度見た。

帽子は寝そべった猫だった。

しかし確かに、冬用の子供の手袋の大きさだった。

野生動物だけではない。都市では飼い犬や飼い猫も、今やこわいほど小さい。

品種改良された彼らを見ると、複雑な気持ちになる。特に、外で見かけると。

クマネズミよりやっと一回り大きい猫は、大人びた顔立ちをしていた。

猫は期待は込めないまま、一応懇願するように、浅く口を開いて閉じた。

無意識にポケットで弄んでいた、パン屑を入れていた包装紙を取り出した。皺だらけのビニールの裏側に、白い鶏肉の欠片がこびりついていた。

猫に視線を戻すと、四つの足で立ち上がって体重を前に掛けていた。

差し出された前足は、まっすぐな骨に肉と毛皮が順に薄くなでつけた、山羊のような足だった。そう、この街はどこを踏みしめてもいちいち硬すぎるから。

手を猫のほうへ遣ると、上天からの木洩れ日が地面に落ちきらず、ちらちらと手の平で踊った。肌の染みと混ざり合って、羊皮紙に印刷された世界地図のようになった。

そこに猫の頭が歩み寄って、耳を立てて屈んだ。手首の青い血管の浮いたところに三角形の影が二つできた。

猫がふしくれた指の指紋をひと舐めした。舌は私の肌よりざらざらしていた。そして許されたと信じて、鶏肉の欠片を次々に舌ですくった。

私も許されたと信じて、余した手で猫の背を毛なみに沿って撫でてみた。私の手は草原をなでる一陣の春風になった。

猫が顔を上げて、また浅く口を開いた。微かだったが、今度は空っぽの蝉達のバイオリンにまぎれず、聴きとれた。鳴き声だった。

ちゃんと生きているじゃないか。

猫の後ろ足が糧を探して世界地図に踏みいり、人差し指や中指の腹を踏んだ。

両手で地球儀の形に包みこみ、ゆっくりと惑星を目の高さまで抱きあげた。すると鳴き声がよく届いた。他の全ては伴奏になった。

私は乾いてはりついた唇を開いて、喉から曖昧な母音を発してみた。


<終>

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自分の足で歩く最後の一日(ver1.4) 浜崎ユウマ @yumahamasaqi

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