農協おくりびと (25) 頭の痛い朝
翌朝。いつもの時間にちひろが目を覚ます。
元気よく起き上がろうとした瞬間。側頭部にチクリと鋭い痛みが走る。
(あ・・・)思い出した。昨日は調子に乗って呑み過ぎたんだ・・・
午後9時。田舎駅のホームから、奈良へ戻っていく光悦を見送る。
そのあとちひろは、もうひとりのちひろが待っている居酒屋へ戻った。
もうひとりのちひろも、「千の風」は大好きだという話になった。
「千の風」は2006年。秋川雅史が歌い、大ヒットした話題曲だ。
その年の紅白歌合戦の中で両手をひろげながら、朗々と歌い上げていた姿が、
今も記憶の中にあたらしい。
『そこに私はいません 眠ってなんかいません』と歌い上げるフレーズが
日本中に大きな話題を呼び、衝撃を生みだした。
亡くなった故人の魂は墓で眠ってなんかいない。千の風になって大空を吹き渡っている。
ズバリと歌い切ったこの部分が、多くの心に共感を呼んだ。
葬儀は質素でいい。だいいち、お寺へ収めるお布施の価格は、高すぎるだろう。
だれが儲けているのか知らないが、お墓の値段も庶民には高すぎる。
いまの時代に古臭い仏教なんか、いらないだろう・・・
そんな庶民感情に、「千の風」が反発の火をつけた。
訳の分からないお経を聞かされるより、この曲を葬儀で流してほしい。
お墓なんかいらないから、大空に自分の骨をまいてほしい。
事実。この年から数年間、おおくの斎場で「千の風」がBGMとして
ひんぱんに使われている。
最近の葬儀は、さらに凝っている。
BGMからさらに進化して、故人をしのぶため、生前のビデオが上映される。
ロビーの入り口には、故人が愛用した品々が思い出の品として展示されている。
葬儀というより、故人の最後のワンマンショーと言う趣が強くなってきた。
(あ・・・千の風に、板挟みにされる朝がやってきたんだ・・・)
ちひろが、自分の仕事を思い出す。
「千の風になって」が大好きな喪主と、「千の風になって」が大嫌いな頑固住職が
真正面からぶつかり合う日だ・・・。
(まいったなぁ)と、2日酔いの頭がさらに痛みを増してくる。
頭痛を抱えたまま、ちひろが着替えを始める。
気分の乗らない日は、新しい服に着替えることさえ鬱陶しい・・・
それでも今日の気分にあわせて、白の下着を選びだす。
上に羽織るものを、やっとの想いで決める。
最後に髪を整える。鏡の前で、化粧の出来映えを確認する。
毎朝の順番通りの段取りを踏みながら、ちひろが出勤のためのテンションを揚げていく。
だが、ふと難題を思い出した瞬間から、またずっしりと気分が重くなる。
(片頭痛だと言って、さぼっちゃおうかしら。今日の初出勤は・・・)
そんな考えが、ちらりとちひろの脳裏をかすめていく。
喪主は自身のカラオケの18番が、「千の風」だと言い切っているつわものだ。
一方、代理で葬儀を担当する住職は、「千の風」を敵視している超がつくほどの頑固者だ。
どちらも自分の言い分を、絶対に譲らないだろう・・・
言い分をめぐり、葬儀の席で激しく火花が散るのは、火を見るよりも明らかだ。
双方の間に入り、板挟みされたまま、立ち往生している自分が見える。
(解決策が見つからず、進退きわまったら、どうしましょう・・・)
双方に挟まれたまま、青ざめて、脂汗を流している自分が見える。
着任早々・・・いきなり、絶対絶命の大ピンチが天から降って来た・・・
髪をすいているちひろの手が、ついに停まる。
(いっそ、死んでしまえば気が楽になるというのに。ああ・・・
このまま、わたしの呼吸が、止まらないかしら)
そんなちひろの悲観的な気持ちを、母の元気な声が木っ端みじんに打ち砕く。
「ちひろ。早くしないと、初日から遅刻してしまうわよ~。
葬儀場とはいえ、あなたが望んだ職場でしょ。
お母さんがあなたのために、あなたの大好きな、お赤飯のお弁当を作りました。
あんたぁ、大好きでしょう、お母さんの炊いたお赤飯がぁ!」
(よりによって、母が炊いてくれたお赤飯のお弁当か・・・まいったなぁ)
行くしかないのかやっぱりと、ちひろが鏡の中の自分を見つめる。
(26)へつづく
農協おくりびと 21話から25話 落合順平 @vkd58788
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