消えない紫煙をなぞる

あおいあきな

消えない紫煙をなぞる

 彼は彼女に言った。

 そこにある灰皿をこっちによこしてくれ、と。

 彼女は彼に言った。

 あなたが立ち上がって歩いてくれば、自分で取れるじゃない、と。

 彼は彼女に言った。

 そんなの、面倒くさいじゃないか。

 君が灰皿を取ってくれれば済む話だ、と。

 彼女は彼に言った。

 面倒くさいのはこっちも同じ。

 あなたが面倒くさいのを我慢するのはいつの話になるのかしら、と。


 太陽もこれから登りはじめ、山に囲まれた小さな町の始まりを告げようとしている中、小暮詩帆は屋上でタバコを喫っていた。

 暁。屋上。タバコ。この三つの要素が、小暮詩帆という十八歳の少女を紹介する上で適する言葉として、これ以上は無いだろう。もちろん彼女は白昼に図書室で読書をする時もあるが、この物語の手前上、彼女という存在を紹介するには、夜明けに屋上でタバコを喫っているという一言で済む話である。

 とはいえ、彼女にも未来は未だないといえども過去はあるわけで、それを知ってもらうのが趣旨だと公言しても過言ではないのだが、それは自ずとページをめくっていくうちに節々で判明していくのでご了承願いたい。

 ともかく、今彼女は山の裏側から登りつつある太陽の光を今日も諦観気味の目でもって出迎えている。寂れたフェンスは彼女の背中を支え、彼女の指はタバコを挟み、タバコからは濃い紫煙が夜と朝の間の空へ登っていく。風はなく、音もなかった。セミが鳴く季節でもなく、雨が地面を濡らす天気でもない。セミやコオロギと言った夏を彩る虫たちは生涯を全うし、大空を漂う雲はとても潔い白さを保っている。

 彼女が三本目のタバコにジッポ・ライターで火を点けると、山の裏側から太陽の頭が眩い光を放ち始めた。今日もこうしてこの町は朝を迎え、人々はそれぞれの生活を再開する。それは彼女にとっても同じことで、小暮詩帆は喫いかけのタバコを携帯灰皿に突っ込むと、それをポケットにしまって屋上を降りた。

 彼女が去った後も、しばらくその屋上と空との境界では、紫煙が儚げにゆれていた。


 少し時間があるので、ここでひとつ、付け足しておこうと思う。小暮詩帆という少女を語る上でどうしても避けられない時代についてだ。

 彼女は十四歳から十六歳までの二年間、とある探偵の助手のようなことをしていた。

 助手のようなこと、と言わなければならないのは、その件の探偵は探偵らしさが――もしも探偵らしさという面持ちが存在するならばだが――欠けていたことと、小暮詩帆はその探偵と過ごす中で助手たるべき仕事をしたことがないからだ。

 探偵、と言っても、彼はただの興信所の所長であり、探偵という肩書は彼が自称していたに過ぎない。それと同じように、小暮詩帆にとっても、助手という肩書は自称していたに過ぎず、しかし彼らはお互いにそれはそれで良いと妙に納得しているかのように日々を過ごしていた。

 興信所はとても小さいもので、所員は小暮詩帆を含めても二人のみであった。

 所長は日中の殆どをコーヒーとタバコで過ごした。時折思い出したように食事をしているところを小暮詩帆は多々見ているが、所長の日々は大半がタバコで構成されていたように思える。これは彼女の自分勝手な解釈だが、それに対して反論する余地は今のところ見当たらない。

 小暮詩帆と所長は春も夏も秋も冬も、二人で興信所で過ごした。春は桜の花びらを窓から眺め、夏は窓を開け室内でそうめんを啜り、秋は互いに読書をし、冬は温かいコーヒーで体を暖めた。

 時には依頼人が現れ、二人は仕事を思い出したようにとりかかるが、依頼人が現れない限り、所長はタバコを喫い、少女は何もせずぼうっとし、時折彼に様々な質問を投げかけた。

「所長はなんで興信所なんてやってるの?」

「探偵って言って欲しいな」所長はタバコの煙を吐きながら言った。

「どっちでも同じようなものだよ」

「同義語だろうがなんだろうが、響きっていうのは大切にしなくちゃいけない要素のひとつだよ、詩帆くん」

「論点をズラさないで」

「まぁいいだろう。僕が探偵をやっているのは、人を探すことが出来るようになるためだ」

「人を探したいの?」

「どうだろうね」

「人を探せるようになったら、どうするの?」

「どうだろうね」

「探したい人がいるんだったら、もっと活動的になるべきだと思うな」

「僕が探そうと思っている人っていうのは、活動的になったからって見つかるような簡単な人じゃないんだよ」

「それってどんな人?」

「君にもすぐに分かるようになるさ」

「所長ははぐらかしてばかりだね」

「ただ教えるだけじゃ知識として身につかないって話をしているんだよ」

 所長が誰かを探しているということは、高校に上がりたての彼女にもなんとなくだがわかった。

 しかし、その誰かというのが、輪郭さえも、どのような人間なのかもわからなかった。

「所長はどうしてタバコをそんなに喫うの?」

 窓の外の紅葉を見ていた所長にそう訊くと。彼は椅子を鶏の断末魔のような音を響かせながら回転させ、ワイドデスクに置いてある年季の入った灰皿にタバコを押し付けた。

「そうだね……、こうしてタバコを喫っていると、あの頃を思い出すからかな」

「あの頃って?」

「僕がまだまだ子供だった頃のことさ」

「所長はもう大人なの?」

 そう小暮詩帆が言うと、所長は少しだけ、わかりにくく苦笑してみせた。

「僕は未だ子供なのかもしれない」そう言って次のタバコに火をつけた。「でも、あの時よりかは成長したつもりではいるんだよ」

「あの時ってどんな時?」

「ハンバーグも作れなかった時のことさ」

「所長がハンバーグ作ってるところ、見たことないよ」

「じゃあ、今度作ってあげよう。味の保証は出来ないけれどね。それはそうと詩帆くん、僕のことは所長じゃなくて探偵と――」

「それはそうと、もうそろそろ寒くなるからストーブ買おうよ」

 所長がタバコを喫っていることに時々疑問を抱く小暮詩帆は、幾度か彼に問いかけてみたが、いつもその問いははぐらかされるばかりだった。だけれど、彼女は彼がタバコを喫っているのが嫌いではなかった。

「冬にアイスを食べてこそ、季節にあった過ごし方だと僕は思うんだ」と所長は冷蔵庫から抹茶味のアイスを取り出して言った。

「こんなに寒いのに、なんで冷たいアイスなんか食べなきゃいけないの」小暮詩帆は窓の外で降り続ける雪を眺めながら言った。

「僕に言わせれば、逆にすぐに溶けてベタベタになってしまう夏にアイスを食べるのがわからないな」

「暑い時には冷たいものを食べたくなるじゃない」

「だからと言っても、緑茶は温かい方が美味しいし、うな重は土用の丑の日に食べるという習慣だって日本にはある」

「それってなんかこじつけじゃない?」

「こじつけが上手い人ほど、上手に有益な生活が送れるんだよ、詩帆くん」

「どうでもいいけどさ、やっぱりストーブ買おうよ」

「暑い時は裸になったって暑いけど、寒い時は服を着こめば寒くなくなるのさ」

 所長はいつでも、小暮詩帆の疑問に妙なこじつけを使ってはぐらかした。

「桜ってなんですぐに散っちゃうんだろうね」

「美しいもの程、寿命が短いものさ。逆に寿命が短いから、美しく感じる」

「それって誰の言葉?」

「忘れたけれど、僕の言葉ではないことは確かだね」

「夏に五月蝿いセミは寿命が短いけれど、美しいとは感じないよ」

「美しいの定義は人それぞれさ。冬に降る雪が綺麗だと思う人もいれば、邪魔で汚いだけだと思う人もいる」

「じゃあ、所長はどんなものを美しいと定義するのさ」

「そうだね、僕が美しいと思うのは、決まって思い出の中に残っていることに気付いた時だけだね」

「なんかまた論点ズレてない?」小暮詩帆が窓から振り向いて所長を見ると、彼はタバコを喫いながら「探偵」と書いてある三角錐を弄っていた。

 そして彼女が高校二年生になり、夏休みに入ると、所長は居なくなっていた。

 何故所長がいなくなったのか、小暮詩帆にはなんとなく察しがついた。

 人を探しに行ったのだろう。

 そして小暮詩帆は、所長のいなくなったこの町で、彼を待ち続けている。

 彼が残していったタバコを喫いながら、紫煙を眺め、思いを馳せながら、待ち続ける。

 そして物語は、その紫煙をきっかけに、途中からだが開始される。

 長い前置きになってしまって恐縮だが、小暮詩帆の物語にどうぞ今しばらく、付き合ってくれると幸いである。


――消えない紫煙をなぞる――


 十月も下旬に入ると流石に上着を羽織らなければ厳しい時期で、学校も放課後になると体育系の部活で体を強制的に暖めるか、ストーブの熱気が心地よく漂う図書室等でぬくぬくと読書をするかの殆ど二択を迫られる中、小暮詩帆はスパイクを履いてグラウンドを蹴るわけでも、眠気と対立しながらお気に入りの作家の文庫のページをめくるわけでもなく、ひとり早々と上履きからローファーに履き替え、校舎を出て制服のスカートのポケットに両手を突っ込み、横目で校庭を駆けまわる生徒たちを見るともなく流し見してから学校の敷地を出た。時折ポケットの中に入っている、ストラップも何もついていない冷たい鍵を指で弄りながら、歩行停止を促す赤い信号を待ち、青に変わると歩を進めた。

 彼女の放課後は基本的には独りだ。

 友達と一緒に下校するわけでもなく、部活動に入っているわけでもなく、ただ独りで自宅に直帰し、ベッドに寝転んで読書をする。彼女は読書をしながら、時折思考に耽る。彼女の頭の中には、考えなくてはいけないことや、悩まなくてはいけないことが多く存在し、食事中だろうが入浴中だろうが、読書中だろうが関係なく浜辺に打ち寄せる波の様に脳を浸す。そのため、比較的好きな読書も文章を解読する余裕がなくなり、やむなく栞を挟んで脳に意識を集中させ、思考の海原に歩いて行く。徐々に深い場所へと進む中、彼女が出来ることはタバコを吸うことくらいしかなかった。唯一タバコを吸っていると、小暮詩帆は思考に没頭することが出来た。ニコチンとタールの強い濃い煙を喉の奥へと吸い込み、肺を侵してまた口から吐き出す。その煙は自身を構成する中で邪魔となる成分も一緒に攫って行ってくれるような気がして、彼女はひたすら煙を吸い、ひたすら煙を吐く。それを思考の波がひいていくまで続ける行為は、彼女という存在を安定させる為の工程のひとつとして既に出来上がっていた。

 彼女が考える事は、大抵決まって過去のことで。

 彼女が悩む事は、大抵決まって未来のことだった。

 過去の事を考える時、思考の波の中を漂う小暮詩帆という存在は決まって十四歳から十六歳あたりの年齢に巻き戻る。逆に未来の事を悩む時は、決まって三十歳半ば、おおよそ人間として安定した生活を送っていなければいけない年齢まで成長する。

 過去の事を考える彼女はセンチメンタルな気分でノスタルジックな要素を織り交ぜた回想をして、未来を悩む彼女は厳しく現実的で堅実的なことばかりだった。

 自分が過去へ逃げたがる気持ちを自覚していないと言えば嘘になるが、悩むべき事と考えるべき事が五:五の割合でせめぎあっている時、彼女は無意識的に過去へと遡る道を選んでいるのも否定は出来なかった。

 思考の波に身を漂わせている時、睡魔がふっと浮かんでくると、彼女はそれに捕まり、流れに身を任せる。見る夢が悪夢だろうと吉夢だろうと関係なく、彼女の夢の最後には、いつでもあの時あの場所に一緒にいた所長が待っていた。

 所長は悪夢を否定し、吉夢を後押ししてくれた。

 彼女は所長に言う。

「タバコなんて喫っていたら、身体がすぐダメになっちゃうよ」

 所長は横目で彼女を見ながら返答する。

「身体がすぐにダメになろうと、それはそれで本来の寿命として受け入れるまでさ」

「それは嘘だよ」彼女は否定する。「タバコのせいで寿命が縮んでるんだって」

「だけど、タバコを喫わなかった場合の自分が想像できない僕にとって、タバコを吸わない自分っていうのは既に死んでいるようなものだ」

「今からだって禁煙しようと思えば出来るって」

「君だって、今からタバコを喫い始めることもできるぞ」

「あたしはタバコなんて喫わない」

「じゃあそろそろ目を覚ましてもらおう。現実へ帰る時間だ。行っておいで。僕はいつでもここに居るよ」

 所長はそう言って、時間をかけて煙を吐き出しながら、手を振った。

 小暮詩帆は目覚めるとメンソールのタバコを一本、気持ちだけ急いでフィルター際まで吸いきり、立ち上がって部屋を出た。

 夢で見たあの景色と、過去に見ていたあの景色を照らし合わせる作業を歩行と平行しながら道を進み、信号機に停止を促されては沈みゆく太陽を眺める。

 彼女はポケットの中の鍵の感触を、現実の物として実感したくて指でなぞる。

 しばらく彼女が歩を進めると、人気がなければ勿論活気だって無い通りに出た。成長を諦めたこの街は、彼女のあの頃の景色とそれほど変わりを見せず、思い出をなぞるにはうってつけでもあった。

 彼女はひとつの寂れたビルに入り、階段を上がる。ホコリと湿っぽい匂いが充満していて、少し咳き込むが、確実に、着実に脚は階段の一段一段を捉え、登る。

 そして小暮詩帆が辿り着いた先は、今はもう無人となってしまった興信所だった。

 ポケットから鍵を取り出し、味気のないドアノブにつけられた鍵穴に差し込み、回転させてドアを解錠する。ドアノブを掴んで開くと、むあっと、一段と濃いホコリと湿っぽい匂いが彼女を包んだ。

 打ちっぱなしのコンクリートを隠すように貼られた壁紙と、そこにかけられた三つの時間を刻まなくなったアナログ時計。どうやって運びこんだのか不思議なほどに大きな本棚。大の大人が両手を広げたくらいの幅がある、重厚感あふれる木製ワイドデスク。その上には、昔は意味不明な程に積まれた内容不明の書類の山があった。今でもその木製ワイドデスクに残っているのは、所長が愛用していた黒い磨りガラスの灰皿と、掠れた文字で「探偵」と書いてある三角錐だけだ。

 小暮詩帆はかつて所長がいつも腰掛けていた無駄に豪奢な紺色のビロード張りの椅子に座る。ずっぽりと身体が埋まってしまい、すぐに立ち上がるのは困難だった。彼女は腕を伸ばしてワイドデスクを掴み、自身を椅子ごとそちらに移動させる。そしてジッポ・ライターでタバコに火をつけて煙を吸い込んだ。

 そこで彼女は自分の一連の動作を自覚し、すこし小さく苦笑した。

 不思議とこの興信所で過ごす時間は、彼女から思考を奪い取ってくれ、ただただ煙を吸い込み吐き出す作業を丁寧かつゆったりと行うことが出来た。

 タバコをフィルター際までじっくりと喫い、空っぽの灰皿に押し付けて火を消すと、彼女はゆっくりと立ち上がって室内を歩きまわった。

 あの頃もこうして暇な時は事務所内を歩きまわったが、今では若干だが室内を一周するペースが早くなっていることに気づき、それはつまりあの頃よりも自分の歩幅が広くなっていることに気付いた。その事実を客観的に受け止めようとしたが失敗し、おとなしく実感する。そこでふと本棚の前で足を止めた。

 本棚は横幅も広いが、その高さは彼女の身長を軽く追い越し、手を伸ばしても一番上に届くことはなかった。

 だが、彼女はあの頃に届かなかった位置に手を伸ばすことが出来た。そうして一冊の本を本棚から引き出し、手にとって見た。見たこともない作家の小説のようだった。彼女はそれに付いたホコリを叩きながら先程まで座っていた椅子まで引き返し、ワイドデスクの上にその本を置いた。

 小暮詩帆はポケットの中からタバコを取り出し、一本咥えてジッポ・ライターで火をつけ、一度煙を細く吐き出してから、その本に向けて手を伸ばしてみた。彼女の右手は本の表紙を撫で、人差し指と中指で挟んだタバコから静かに紫煙が立ち上る。そのゆらゆらと揺れながら昇りゆく紫煙を指でなぞるように追いかける。

 彼女の手は、あの頃よりかも高いところまで届き、紫煙を触ることが出来た。

 小暮詩帆は望んでいた。あのなんでもない、なにも起こらないただ過ぎゆく時間に身を任せるのが、季節を過ごすのが楽しかった頃に戻れる日が来ることを。

 窓からは沈みかけの太陽が発する紅い光が室内を照らし、ワイドデスクの真ん中に置かれたその本も等しく照らされた。

 彼女はもう一度椅子に沈む様に座り、タバコを一本だけ喫い、本を手に取ってページをめくり始めた。

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