2ー18
買い物を終えて帰ってくると、不意に気配を感じた。
「どうかしら?何か分かった?」
こちらのことなど、お構いなしに話し掛けてくる。
「いや…特に…」と答えると興味ありげに僕の顔を覗き込みながら
「ふーん」と口に出して言った。
実態は無いが、目の前に居られると邪魔になる。
「何だよ?何で出てきた?」
「何よ?出てきちゃダメなの?」
「用事もないのに出てこないだろ」と念押ししてみる。
折れたのか、最初からそのつもりだったのか、よく分からないが、それを聞いて、意味ありげな表情をした。
「まぁ…ね…」
僕をすり抜けて、背後に回ると窓際に陣取った。
「何があったんだ?」
「そうね…何から話せばいいか分からないけど、単刀直入に言うと何かが動き始めている…」
予想外の言葉に思わず聞き返す。
「本当にささやかな変化よ。でも、何かが起こり始めている」
それは今、一番聞きたくない言葉だった。
「それ、どういうことだよ!」
「どういうことも何も、事象が進展しているのよ」
「それは解決に向かってるのか?」
「そうとも言うわね。でも、私にはそれが何を意味しているのかまで知ることはできないわ」
僕の反応とは裏腹に、彼女は淡々と冷静にそう説明した。
「何も変わってないし、変えてない。あいつに何かした覚えもない。なんで急に…まさか…」
そんなことは無いと思いたいのに、悪い想像ばかりが浮かぶ。
「とりあえず今は、良い方に考えなさい。事象が最悪な形で終わる時は前触れもなく突然来るもの。今の変化はそういうものではないから」
その言葉に胸を撫で下ろしながらも、焦りは隠せない。
「こ、怖いこと言うなよ…」
「私はあくまで、あなたの行く末を見守るだけ。これまでの行動を思い返して、あなたなりの答えを出しなさいな。用件は済んだから、私は行くわ」
「おいっ待てよ!」
反射的に伸ばした手は彼女をすり抜けていく。
引き留められるはずもなく、そのまま消え去った。
まだ落ち着けずに居るが、何度も深呼吸しつつ、彼女の助言通りにこれまでの自分を思い返してみる。
同じ高校に入るというのは思い残しじゃなかった。
では、何なのか。
入院していた頃の約束は絶対に一緒に居るというもの。
だが、進学に失敗して、その約束は果たせそうにない。
向こうが陸上部を辞め、その上で、自宅通学に変更する手もあるが、周りに違和感を持たれるため、現実的ではない。
中川さんのこともある。
迂闊に戻ってこいなんて言えるはずもない。
もし、それが心残りだとすると、僕たちは詰んでしまっていることになるが…。
そんな時、不意に思い出したのはこの間の本。
彼女が愛読していた本である。
何か引っ掛かるものを感じて、思い立つようにスマホを手に取った。
結はまだ寝ているだろうが、メッセージを送ってみた。
ーーー
足早に彼女が去った後、ずっと扉を見つめていた。
どんな言葉なら、彼女を追い詰めずに済んだのかな…。
賢い兄の頭をもってしても、良い答えは浮かばなかった。
好きな人を失うかもしれないという人の気持ちを私は正直、わからない。
そんなこと考えもしなかったから。
でも、自分が命を落とすよりも、残されるほうが嫌なのは確かだ。
目の前に居る兄が突然姿を消したら……。
それはすごく怖い。
前は家族として見ていても、特に気にも留めてなかったし、正直、兄のことなんてどうでもいいと思っていたのに。
改めて、自分のこれまでを振り返ってみる。
ひとつだけ、ずっと気にしていることがある。
入院した頃の話。
兄は自分の時間を割いてまで、私の面倒を見てくれた。
その上で、彼は約束をしてくれた。
別に約束にこだわりは無かった。でも、当時の私はその言葉が素直に嬉しかった。
でも、その約束がずっと続いていくものだと、当時の私は思い込んでしまっていた。
だから、退院後の生活でいつも通りに戻った彼に約束と違うじゃないか、なんてことを言ったこともある。
今の私からすれば、なんでそんなことを言ってしまったのか分からないが、その言葉が心の拠り所だったのかもしれない。
しかし、それが兄と険悪になった原因になってしまった。
素直になれないまま、こんなことになってしまった。
いや、こんなことになったからこそ、話せることもある。
本当は「ごめんね」の一言くらい言っておきたいけれど、やはりそれは難しい。
ベットに腰掛け、思い出したように下に隠してあった鞄から一冊の本を取り出す。
昔、好きだった少女漫画。
家に帰った時に何冊かの本を持って来ていた中のひとつ。
久しぶりに見る表紙は少し色褪せていたが、ストーリーは鮮明に思い出せる。
登場人物の一人、山下くんは好きな人に気持ちを伝えられずに居たのだが、その人が別の人と付き合うことを知り、後悔したくないと想いを告げた。
その想いは届かなかったが、告白して良かったと晴れやかな表情で主人公に語るシーンがある。
『告白して良かったよ。オレ、本当にあいつのこと好きなんだな、って改めて知れた。結局付き合えなかったけどさ、誰かを好きになるってやっぱいいなって』
当時は台詞を暗唱できるくらい読み込んでいた。
その言葉に感化され、主人公も気持ちを伝えようと決意する物語序盤の名場面。
何度読み返したか分からない。好きなシーンのはずなのに、初めて読んだかのように感じられるし、何一つ心に響かない。
中身は結だが、感性は兄のままだから仕方ない。
兄に貸したことがあったが、2日で読み終わり、「まぁまぁだった」と評された時はちゃんと読んだのか?と怪しんだことを思い出す。
当時はなんでわかんないんだと疑問に思っていたが、今なら分かる。
「全然違うんだね」
体力はもちろん、知力だって違う。
感性も当然のように違う。
そのことに今更ながら気付き、改めて自分と向き合おうと決心した。
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