1ー6
「結~居るんでしょ~。結~」
母が遠くから呼んでいた。そして、俺よりも感度の良い耳が微かな足音を捉えたため、余計に慌てる。
会話を聞かれたら大変だ。
話を終わらせて、電話を切った。そして、妹モードに切り替える。
いつも女性らしい仕草を心がけてはいるが、一人の時は気を抜いている。こうでもしないと肩が凝って仕方がないのだ。
次第に声と音が大きくなり、ついにドアをノックされる。
「結~、買い物行ってきてくれない?」
勝手にドアを開け、顔だけ覗かせて用件を言う。
「…うん。分かった…な、何、買えばいいの?」
「珍しく行く気になってるのね。それじゃ、玉子と牛乳ひとつずつ買ってきてちょうだい。あと、いつものやつもね」
少し怪しまれる。いつもは面倒がるらしい。
そういえば、喜んで引き受けるような性格ではなかった。
「……いつものやつって?」
「あんたの好きなやつ、買ってきていいわよ。でも、お母さんにもちょうだいね?」
「いつもの」が分からないため訊いたのだが、具体的な品名を教えてくれない。
「わ、わかったよ」
これ以上の追及は怪しまれる。とりあえず、了承した。
明らかにぎこちない返答になっていたのに普通の反応だったため安心した。
しかし、“いつもの”というものが何か分からない。ヒントは、結の好きなものであり、母が分けてほしいと頼むようなもの。
どれだけ考えても、思い浮かばない。
仕方なく結に電話を掛けるが、どれだけ待っても出なかった。まだ夕食の時間ではないはずなのだが……。
もやもやを抱えながら家を出る。
スーパーに着いても、妹に電話が繋がらなかったため、仕方なく母に確認の電話をした。不審がられるというより、面倒がられた。
どうやら、小分けにされたスナック菓子だったようだ。思いつくはずがない。
頼まれた品物を買い、すぐに帰宅する。
女の子なので女性の服装で出かけても、問題ないのだが、どうも女装をして出かけているような感覚になってしまう。だから、できるだけ外を出歩きたくない。
菓子を一袋頂いてから自室に戻り、妹と話したことを思い返す。
これは彼女の人生。
だから、自分の考えや思い込みで動くのではなく、彼女の言葉を何よりも尊重したいと思っている。
でも、本当にそれでいいのか、何か引っかかるものを感じた。
「どうかしら?」
突如として背後に感じる気配。
「いつから……そこに居た?」
「基本的にあなたの行動はずっと見張っているわ。もちろん、あっちもね」
人ならぬ者とは思えないほど、自然に会話をする。
「なら、今あいつ何してるんだ?電話に出ないんだが……」
「さぁ?私はあなたの担当だから、さっぱり分からないわ。とりあえず、命に関わる事態じゃないことは確かね。あなたが息をしてるから」
「縁起でもないこと言うなよ……」
「そんなことより、解決の手だてを探しなさいよ。入れ替わりライフを楽しむのはいいけど、あなたの置かれた状況分かってる?いつその時が来てもおかしくないのよ?」
その言葉に、何も感じないわけではない。しかし、彼女に探りを入れたりなどという余裕はない。
「今はそれどころじゃない。互いの予定が立て込んでてな…」
「そう……まぁ、いいわ」
何か言いたげだったが、それをやめた。
「…それを忠告するために出てきたのか?」
「さぁね……ただ、暇だったから、とでも答えておくわ」
なぜ突然、姿を現したのか。その目的が分からず、なんとも不気味だった。
「なんだよそれ……」
とにかく冷静に振る舞う。
風呂に入って頭の中を整理しようと思い立ち、無視して着替えを準備し始めた。
「用がないなら帰ってくれ。今から風呂入るからな」
そう話しかけたが、既にその姿は無かった。
ため息を吐きながら、部屋を出ようとした矢先に携帯が鳴った。
ようやく掛かってきた、妹からの折り返しの電話。
何してたんだよ?と問い詰めようとしたが、電話越しにただならぬ異変を感じた。
「お兄ちゃん……ごめん……」
苦しそうな声で謝る結に驚き、すぐに何があったのか訊いた。
ーーーー
「お兄ちゃん…ごめん…」
身体の節々が痛い。身体はそんなに傷ついていないはずだが、痛覚が敏感なのかもしれない。
「ど、どうした!?何があった?」
電話の向こうから、事情を聞いてくる。
なんで、こんなことになってしまったのだろう-
それは数分前のこと。
ドアがノックされ、返事を待つことなく開き、入ってくる。
「よう、怪我はどうだ?期待のエースさんよ?」
山本だ。
無駄に大きい態度でやってくる。何とも不愉快な見舞い客だ。
「まだ……か、掛かりそうです。万全じゃないと大会には出たくないので…」
「はぁ?そうも言ってられないだろ……お前のせいで出れない奴もいるんだ。そいつらに示しがつかねぇだろ?」
その言葉に、先ほどの話が思い浮かぶ。
「それは…そうですけど…」
「とりあえず、大会に出ようが棄権しようが、パシりの話はなくならねえぞ。それは覚悟しとけよ」
大会に出ようが出まいが、成績がどうだったとしても、彼にとっては関係のないことなのだろう。単にパシりになるという契約をしたいだけなのだ。
「えっ、えー、それは、ちょっと……」
「あっ?なんだその態度。今日はやけに調子が良さそうだな。あまり調子に乗ってると、痛い目見るぞ…。まっ、パシりになりゃ嫌でも分かるけどな!そん時が楽しみだ」と不敵な笑みを浮かべた。
「そ、そういうの…」
怖いながらも口を出さずにはいられなかった。だが、すぐに遮られた。
「誰に口きいてんだ?あぁ?突然休んだかと思えば、急に強気になりやがって。ふざけんなよ!」
前触れもなく、ブシッと重たい一発が飛んでくる。
思わず身構えるものの、思ったより痛くない。いくら体格の良い野郎であっても兄の体であれば、それほど怖くない。
陸上をやる前は空手を兄妹揃って習わされた過去がある。兄の体も私の精神力もそこそこ強い。
「手を出していいと思ってるんですか?」
火に油だとは思いつつ、少し強気に言ってみる。
「お前みたいな生意気な奴には鉄拳でも食らわせなきゃ、わかんねぇだろ?」
その時、スマホが震えて着信を知らせる。兄からだ。しかし、タイミングが悪い。
「どうした?手も足も出ねぇってか、そりゃそうだよな。お前は期待された陸上部の“エース”だもんな~。優等生ぶってんじゃねぇぞ!」
また一撃が飛んでくる。
「なんか言えよ!ほら、やめてくださいって泣き叫べよ!」
思い切り胸ぐらを掴まれて揺さぶられる。本格的にスイッチを入れてしまったようだ。
止めてほしいと言おうとしたが、女の子の口調が出てしまった。
「や、やめて!こんなことして何の得があるの」
「おまえ、本性はオカマかよ…キモ…」
不気味がってくれたおかげで、掴んでいた手から逃れられた。
「つい…じゃなく、混乱して変になったんだ!」
「ま、そんなのどうでもいい。それより、刃向かったことを謝れ」と、話を戻された。
「なんで謝らなきゃいけないのよ!」
また女の口調が出てしまった。
「女々しい口調やめろや!キモいんだよ!」
手加減など知らない一撃が飛んでくる。流石に受け止められずに飛ばされ、尻餅をつく。
痛いとか、止めてほしいという気持ちよりも、こんなにも理不尽な奴がいるだろうかという腹立たしさが勝る。
「おいおい、電話が来てるぞ。ユイちゃんっていう、可愛い女の子からだってよ。お前の代わりに出てやるよ。みっともない姿を晒してやるよ」と、からかうように言う。
そこでカチンと来た。私の怖さを思い知らせてやるっと少年は立ち上がった。
普段は大人しい私だが、こういうことになると、それはそれは手が付けられないほど怒りが爆発する。兄を何度も困らせているほどだ。
それを知っているからこそ、これまで私を陸上部から遠ざけてきたのだと思う。
「それは妹だよ!あぁ、もう鬱陶しい!黙って聞いてりゃ、意味の分からないことばかり言いやがって!ふざけてんのはお前だろ!このクズ野郎!とっとと出てけ!」
力ずくで部屋から押し出そうとするが、閉じられた戸が邪魔をする。
「本性、表しやがったな。ほら、喧嘩しようぜ!俺に腹立ってんだろ?このオカマ野郎!」
「ふっ、殴る価値もないね!」
殴りたい気持ちを抑えて言う。
しかし、言葉を選ぶ冷静さを欠いているため、どちらにしても平和的な解決は無理だろう。
それを分かっていても、暴言を口に出してしまう。
「そろそろ、その生意気な口直さねぇと本気で殴るぞ」
「いいよ!殴れよ!お前が停学になってくれたら伸び伸びと陸上ができるからな!」
「陸上できなきゃ、意味ないだろ?お前バカかよ?お望み通りやってやるよっ」と言いつつ足を狙って蹴ってくる。なんとか回避はできた。
「…俺は真面目に陸上に集中してぇんだよっ!いちいち突っかかってくんな!」
それは私の意志で発した言葉ではなかった。もしかしたら、兄の本心なのかもしれない。
その言葉が彼の拳を動かしてしまった。
「くっ、黙れ!黙れ!黙れ!」
加減を知らないパンチが何度も体に打ち込まれる。その一発がみぞおちに入り、その場にうずくまった。すごく痛い。
「うぅっ痛っ!」
流石に涙が滲んできた。
そこで殴るのを止めた。そして、冷静になった彼が言う。
「誰にも言うなよ。誰かに言ったら、ただじゃおかねぇぞ。パシりどころじゃなくなるからなっ」
「言わなくたって、バレると思うけど…?」
「そうだな。なら、その前に、お前がオカマだってことバラしてやるよ。あと、中川とは別に女がいるってこともな。明日には学校中に広がるぜ」
そう吐き捨てて、出て行った。
一人どうすることもできず、うずくまっている。口元から血が出ていることに気づき、事態の深刻さを思い知る。大事にならなければいいが…。
ちょっと痣ができるくらいかと思っていたが、最悪の結果になってしまった。
これではごまかしも効かない。
這いつくばってスマホを取り、急いでかけ直す。
「お兄ちゃん……ごめん……調子に乗りすぎた…」
「ど、どうした!?何があった?」
「陸上部のヤンキーが部屋に来て、いちゃもんをつけてきて……喧嘩になっちゃった。でも、私は手を出してないから……安心して」
「安心できるか!寮長のオヤジをすぐに呼べ!」
いつになく真剣な口調で、頼もしくさえ思える。
「ちょっと今、動けなくて……」
「おい、大丈夫なのか!?」
「お兄ちゃんの体、傷つけちゃった……ごめん」と素直に謝る。
「俺の体なんて……って今はお前の体だけど、とりあえず、俺の体のことは気にしなくていいから、それよりお前のことが心配だ!」
そんなことを言われると照れくさい。
「ふふ、そんなこと言われるとは思わなかった…」
「とりあえず、俺が寮に電話して、お前を呼ぶから、ちゃんと説明しろよ」
「うん…」
それからすぐに寮長が駆けつけてくれた。
「陸上部の先輩に殴られて……」
「山本か……。あいつのことは任せろ。すまんな、あいつがお前の部屋に入って行ったのは見たんだ。その時に部屋に行ってやれば防げただろうに…。立てるか?」
「腹、痛くて……治まるまでは動けないかと……」
「妹さんには伝えておくから、少し寝ておくといい。おい、中川看といてやれ。この様子じゃ、変なことはしねぇだろ」
野次馬で見に来ていた中川さんが指名される。
「心配しなくても、しませんって……」
そのあと、担任の先生と教頭先生が保健室の先生を連れてやってきて、詳しく事情を訊かれた。
自分が何をしたのかをしつこく訊いてきた。
彼の手が出たということは自分にも非がある。
そう先生は思ったのだろうと、その時は気にもしなかった。
でも、違和感を感じる出来事が続いた。
先生たちが帰る時、中川さんは先生と何かを話していた。その後も彼女は部屋に居続けてくれたものの、距離を置かれているような気がした。
あんなに責任を感じていた管理人さんも、よそよそしい態度になっていた。
「……その、まぁ、嘘はいけねぇと思うぞ。もちろんあいつは恨まれても文句なんて言えない立場にいるけどな……」
「な、何のことですか…?さっきからなんか変ですよ……。何なんですか?嘘って……?」
私はその違和感の訳を知りたくて訊いた。
「本当は……手を出したんだろ?」
その一言に寮長の腑に落ちない気持ちが感じ取れた。同時に中川さんも静かに俯いた。
唐突なその質問に私は、ただただ戸惑った。
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