1ー4

「命の危機……」

私は電話を切り、ぽつりと呟く。


思い当たる節などないのに、何故かその言葉の響きに引っかかりを感じた。


生まれてから今日まで、健康そのもの。大きな病気や怪我をした記憶もないし、そんな話を聞いたこともない。


あれこれ考えていたら、突然扉がノックされた。

「ヒロ……いる?」

兄の親友である中川さんだ。


「あ、うん、今開けるね」

“入っていいよ”と言いかけたが、さすがにそれはダメな気がした。


「あの、どこでやろうか……」

彼女がひそひそと問いかける。


様子がおかしかった私を心配し、話しかけてくれたのだ。秘密を明かした時も、親身になって話を聞いてくれた。

兄が彼女にとって大切な存在であることがよく分かる。


そんな彼女の存在が何よりも頼もしく、心強く思えた。


今日は授業がほとんど理解できない私のために、放課後の少ない自由時間を使って教えてくれるという。

私が頼んだわけではない。彼女のほうから提案してくれたのだ。

こういった気配りも嬉しかった。


「リビングじゃ…駄目かな?」

「私はいいけど、周りは怪しむかも。たくさんの人が行き来するし、先生も覗きにくるからね」

「そっか、でも、部屋じゃ流石にダメだし…」

「自習室使わせてもらおっか?」

「そんなの、あるんだ?」

「うん。リビングにロフトみたいなのがあってね、そこは自習室として使えるの。勉強会とかするとき意外はほとんど使われてないけど」

「それなら、そこにしよっか?」

「うん」と返事をすると案内してくれた。


「本当に入れ替わっちゃったんだね……」

歩いている最中、そんなことをぼそっと呟く。

その表情は寂しいような、悲しいような、複雑なものだった。


兄から彼女の事は聞いていたし、何度か見かけたことはあるが、どういう関係なのかは知らない。だけど、彼女が兄に向ける気持ちは何となく分かる。

私だって、好きな人ができれば、彼女と同じように助けたり、親切にしたり、したいと思うだろう。


「おっ、珍しいなお前たち、勉強か?というか、仲良いよな」

勉強をしていると、加藤先生が覗きにきた。歴史の教科担当で頻繁に寮生たちの様子を見にくる先生だという。

「幼なじみですから……」

彼女が受け答えをする。

「あぁ、そうなのか。じゃあ、イチャイチャしてる訳じゃないのか。…ん?こんな所を教えてるのか?」

おもむろに覗き込まれた。

初歩の初歩で、中学生が習う場所ともいうべき場所を復習しているため、先生は意外な顔をする。


「ちょっと復習をしているんですよ~。私、ここが苦手で…」

とっさに彼女が言い繕う。

「そうか。まぁ、どこを勉強していようが、勉強しないよりはマシだな。頑張るのはいいが、あんまり夜更かしするなよ。じゃあな~」と言って去っていった。

離れていってくれて、内心ほっとする。


「さすがに怪しまれたね……誰かと勉強することはあまり無いし、復習するような人じゃないから…」

「そ、そうなんですか?」

安心したのか丁寧語に戻ってしまった。怪しまれるからと丁寧語も禁止だと言われていたのだ。

「うん…」

「ご、こめん、なんかよそよそしく喋っちゃって……」

「いや、気にしないで。今は近くに誰もいないんだし、結さんの言葉で話してもいいよ。疲れるでしょ、誰かのふりをするのは」

「確かに疲れます。年上の方たちしかいないので、話しづらいです…」

「そうだよね。ところで、部活はどうするの?」と違う話題を切り出す。暗い話にならないよう気を遣ってくれている。

「兄から大会を棄権するように言われました。それで、部活には出るなって…」

それを聞いた彼女は少し切ない顔をした。


「まぁ、そう言うだろうね…」

「…なんでですかね?」

どんな理由かが分からず、訊くのが怖かった。でも、気になった。


少し考えてから、彼女は話し始めた。

「入学した時から期待されてて、陸上部の中にそれ良く思わない人たちもいるの…。あっ、別に嫌がらせをされてるとかじゃないよ。結さんを変なことに巻き込みたくないんだよ。きっと」

そういうことかと胸をなで下ろした。兄のことを羨んだり、妬んだりという話は中学生の頃からあった。

兄は大丈夫らしいが、私はそういうのが耐えられないたちなのだ。理由を聞いて納得した。


「……そうなんですか…でも、私、本当は出たいんです。期待されてる立場なのに急に休みがちになったら怪しむだろうし、大会のために練習してきた時間や努力を水の泡にしたくないんです。どうせなら出たい…いや、出てあげたいって思うんです…」

軽い気持ちで本音を話した。

本音とはいえ、堅い決心があるわけではない。


「それは…だめだよっ…」

少し強い口調に聞こえた。予想外の反応に戸惑う。

「え?」

「それは……あなたがヒロくんじゃなく、結さんだから…」

言葉を選びながらもストレートに言われた。ただ、それほどショックは受けたなかった。心のどこかでその言葉を覚悟していたのかもしれない。


「……偽者ですもんね…兄妹とはいえ、他人ですもん…それにそんなことしたら兄に合わせる…」

「い、いやっ、そういう意味で言ったわけじゃないのっ」

その言葉を全力で否定する。

でも、肯定してくれたほうが今は嬉しい。


「いいんです…私は所詮、できる兄の妹でしかないですから。兄のようにはいかないっていうのは分かってるんです」

つい、心の中にある本音が出てしまう。


「ぼろ負けして責められたら元も子もないですから、自分でも悩んでいたんですよ。中川さんにそう言っていただいて諦めがつきました」

できるだけ明るい表情で告げた。

「そう…」

彼女はどうしていいか分からず、言葉を詰まらせた。


気まずい空気をどうにかしようと話を戻した。

「さっ、勉強しなきゃ!次はここをお願いします」

「うん…」

こうして、ある程度の知識を詰め込んだ。まだ授業に追いつけるほどではない。彼女と別れた後も部屋に帰って勉強を続けた。


ひとりになると頭を巡る言葉がある。

「偽者…か」

無意識に呟く。


私は今、兄である「博」の姿をしている。しかし、間違いなく私は「結」。


これから、誰にも悟られることなく生活していかなければならない。

そのとてつもない違和感と不安感に、例えようのない感情が込み上げてきた。


「お兄ちゃん……」

本当の自分と早く再会したい。そんな気持ちが早くも芽生え始めていた。



ーーー



向こうは上手くやっているだろうか?

あれから一週間経つが、大きな問題はなく過ごせている。だが、入れ替わりを解消するための糸口は見つからないままだ。


僕たちがもし今、死に直面したとして、心残りは何かと言われれば、一つに絞れないくらい多い。

何気なく暮らしている毎日と、当たり前のようにあると思い込んでいる未来の中で、様々な取捨選択をして生きている。


やりたいもの。欲しいもの。望むもの。

僕にも、もちろん、彼女にもたくさんあるはずだ。


その中から一番の心残りを探すことは容易ではない。

とにかく、今はこの生活を問題なくやり過ごすことに集中しなければならない。


向こうは中川がサポートしてくれているらしい。こちらも叶に助けてもらいつつ、頑張っているが、いつかボロが出るのではとビクビクしている。


部活に参加するように言われているため、毎日部活動に勤しんでいる。

登下校は制服着用が決まりのため、学校で着替える必要があるのだが、これがいつまで経っても慣れない。

そして、特に親しい仲だという坂下さんは、何かとスキンシップを取ってくるため、あまり近づきたくない。


母校ではあるが、女子陸上部との接点は無かった。知り合いがいないのは辛い。特徴や性格は聞いているが、違和感なく受け答えができるかどうか不安になる。


「いよいよ、今日ね…」

着替えをしながら、坂下さんが話し掛ける。

今日は夏休みの最後に控える大会の出場者を決めるテストがあるのだ。


異性の肉体の扱い方を掴みつつあるが、まだ全力を出せるほどではない。

そんな暗中模索の中で分かったことがある。

それは、結なら絶対無理であろう運動量もこなせるということ。

だから、手を抜かない限りは、結の自己ベストを軽く更新してしまう。


ただ、身体そのものは女の子のため、無理をすればするほど身体に負荷がかかることにもなる。


体力的には余裕に思える練習でも、肉体的な疲労は想像以上に蓄積しているのだ。少しハードな練習をしようものなら、全身にわたる筋肉痛と激しい倦怠感を引き起こす。おかげで筋肉痛で学校を休むという失態を犯した。


かといって手を抜いてやると、先生から真面目にやれと言われるため、肉体の限界を見極めながらギリギリのラインを探ってはいるが、なかなか掴めずにいる。

とりあえず、結の平均的な記録は出せる。


大会に出れるかどうかも難しい位置にいるらしく、自己ベストを出そうものなら怪しまれかねない。


「次!」

前の人がスタートし、僕はスタートラインに立つ。

手を抜いていいと言われたが、たとえ外見が変わろうと陸上選手には変わりない。ここに立てば嫌でもスイッチが入ってしまう。


スタートの掛け声と共に走り始める。

100メートル先の白線に向けて全速力で走る。

「頑張れ~」と坂下さんが応援する。もちろん、他の部員たちも応援してくれる。その声につい、力が入る。


部活をしていて感じるのは、周りの人の温かさ。結がそれだけ愛されているということだろう。

これはクラス内でも同じことだ。


先のことなど考えず、ただ全力で100メートルを駆け抜けた。まるで、自分のテストであるかのように。

「おっ、お前どうした。すごいじゃないか。これは大会圏内だぞ!入れるんじゃないか?」

タイムを計測した顧問の先生がべた褒めする。


それもそのはず、自己ベスト更新どころか、大会への切符まで手に入るタイムだったのだ。

「中学最後だもんな~気合い入れてんだな!まぁ、兄ちゃんには負けられないもんな。高校でも頑張ってんだろ?あいつ」

とりあえず、怪しまれてはいないようで安心した。

「は、はい。それなりに頑張って…るみたいです」

自分のことを他人事のように答えなければならないのも複雑だ。


「それなら、お前も頑張らないとな!」と肩を叩かれた。


「大会出場者は明日発表するからな」

そう全体に告げてから、各自自由練習に移る。それと同時に人が集まってきた。

「すごいじゃん!急に調子上げたけど、秘密の特訓でもしてたの?」

「坂本さん、すごいね!私応援してるよ!」

「先輩!最後の大会頑張ってくださいね!」

誰もが祝福してくれる。振るわなかった選手が急に記録を伸ばせば、恨みつらみのひとつやふたつ、出てきてもおかしくないはずなのに。

それは、これが結にとって『最後の大会』となるから…とは思えないくらい雰囲気は温かい。


それは僕の周りのそれとは雲泥の差だった。


この夏休みで三年生は引退。

結にとってはこの夏休みは特別なものだったのかもしれない。そう思うと二つの考えが浮かんだ。


ひとつは、このまま大会に出場し、恥ずかしくない結果を残すこと。

もうひとつは、大会までに入れ替わり現象を終わらせること。しかし、これは賭けである。

たとえ問題を解決させたとしても、彼女の命が失われれば叶うことはない。それ以前に間に合う保証などどこにもない。


自分なら迷わず出る。そして、怪しまれない程度の成績を残す。だが、彼女は「出るな」と言う気がした。


でも、それは周りの部員たちの期待や応援に背くことになるのではないか…。

そんな考えも浮かび、考えれば考えるほどに悩みは増えていく。


周りを取り囲む部員たちの言葉に「まだ出れると決まったわけじゃないから」と謙虚に受け答えをしつつ、その日を乗り切った。


その夜、相談したほうがいいと思い、電話を掛けた。

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