第二幕 スクランブル


 丸内百貨店の最上階、イベントフロアで夜野森 静香はベトナムからのホットラインを片手に頭の中が真っ白になって立ち尽くしていた。足下から眼鏡に至るまで黒で統一されたシックな出で立ちは鼻筋の通った小顔をやや強調的にし、肩までに切り揃えられた黒髪は余計にこれを小さく見せている。細身の体躯ではあったが強調されるにしっかり強調されたラインのせいか纏われたハーフジャケットが浮き上がって見える。少し小さめのタイトスカートは艶容さに磨きをかけていたが、たたき上げで精錬された威厳と仕事に対する情熱は男性社員からも一目置かれた存在であり、故に誰しもが静香に下心などを抱くことはない。


 静香の周りでは他のスタッフ達が明日の準備に追われている。そんな中……


「間に合わないって、明日からの目玉じゃないのっ!」イベントチーフである静香の声が響き渡った。


 シャンティ企画社と共同イベントの一ヶ月半前から入念な打ち合わせを繰り返してきた、静香にとってまたと無いチャンスであり、絶対に成功させなければいけない冬物コートの展示即売イベント……本当ならばすでに手元に搬入されてあるはずの目玉商品であるフレアレースコートが未だ製産地であるベトナムのタンソンニャット国際空港にある……

 静香は「ベトナム当局の急な検閲が入った」と片言で繰り返す現地職員の説明に頭を抱える他になかった。この際、賄賂でもなんでも渡して、早く飛行機に乗せて!力任せにそう言いそうになるのをなんとか我慢をして、「一刻も早くイベント会場に届けて」努めて冷静にそう言うと静香に電話を切った。


「チーフ、トラブルですか?」


 マネキンを抱えた、後輩が目を重く瞑る静香に話し掛けてくる。一文字に結ばれた静香の口元を見やると後輩はばつが悪そうに「すみません」と呟くのだった。


「春日さん、ちょっと来てくれるかしら」


「はい、今行きます」 


 シャンティ企画入社一年目の春日 絵美は、百貨店のスタッフに混じって雑用に奔走していた。今回のようなイベントが催される場合、元請けのシャンティ企画からも応援人員を出すのが慣例となっていて、もっと言えば、新入社員専用枠だった。

 赤い縁取り眼鏡に長い髪の毛をポニーでまとめ、サイズに合っていない大きめのリクルートスーツに身を包んだ絵美の姿は誰がどう見てもベテランには見えなかった。


「トラブルで明日の目玉商品を差し替えなくちゃいけなくなったから、一階の正面入り口の特設ディスプレイを変更してもらいたいの、差し替えの商品はこちらで用意するから、イメージ変更は任せるわね」静香はそう口早に言うと、すぐさま踵を返し他のスタッフに激を飛ばしにかかる。

 静香としても、元請け社員の意見に耳を貸すつもりはなかった。文句も泣き言も言っている暇も無ければ聞いている暇も無かったからだ。


 言葉さえも交わしたことのないイベントチーフから突然呼び出されたかと思えば急な変更を伝えられ、絵美はずり落ちた眼鏡を直すことも忘れて、きょとんとしているだけしかできなかった。

 絵美は急に虚無感に襲われた。イベントフロアで準備に奔走していたスタッフ一同の流れが変わったことに絵美はついていけなかった。まるで潮流に乗り遅れた魚のようにただ1人だけ大海原に取り残されてしまったような……いつも頼っている先輩はいなければ、指示をくれる人もいない……

 

「どうしよう……」



  


「瑞穂先輩、張り切ってましたね」


「私も彼氏とトキトワ見に行きたいなぁ」 


「もう、小春日さんたら彼氏じゃないですよ」


 私は嬉しそうに言う小春日さんにそう言いました。


「でも男の人と映画なんてデートだもん」小春日さんはますます嬉しそうに食い下がります。


「ちがうんですもん」私はなまじ得意になってそう言うのでした。


 更衣室で小春日さんと一緒になったのは、とても以外でした。何せ今夜、小春日さんは瑞穂先輩と一緒に合コンへ参加するのです。だから、すでに退社していたと思ったからなのです。

 

「ドレスアップはしないんですか?」


 これから、合コンだと言うのに、小春日さんはいつもと同じふんわりとした私服のままでした。私はてっきり、それなりにお洒落をしてで掛けるものと思っていたので、ついそう聞いてしまいました。


「私は人数合わせだから」小春日さんは苦笑しながらそう言うと続けて「彼氏もゲットする気なんてないからさ」と言いつつ明るい茶色に染めた髪の毛を手早くアップにするのでした。

 それでも、少し丈の長いフレアスカートはとてもフェミニンでしたし、桜色のフレアコートも色の白い小春日さんに良く栄えていました。

 「(コーデはこれで十分ですね)」そう思うのでした。


「緑野さんこそ、待ち合わせいいの?」

  

 ロッカーに備え付けられてある小さな鏡で髪の毛をチェックしながら、小春日さんが聞きます。


「はい。20時に映画館なのでまだ余裕があるんです」私は腕時計を見ながらそう言いました。約束の時間まで1時間はありますから、今から退社をしてゆっくりと歩いても15分前に到着できると思います。


「携帯忘れたの痛いよね。せっかくのデートなのにね」


「充電器に差さったまま家でぬくぬくお留守番してます……」


 そうなのです。こんな日に限って私は携帯電話を家に忘れて来てしまったのでした。会社の携帯電話は持っていますけれど、もちろん智さんの連絡先はメモリにありませんから、意味がないのです。

 今日に限って、いつもは使わない充電器に差すなんて……


「突拍子のないことはしない方がいいですよね」私は項垂れて呟くように言いました。


 映画館で智さんにお会いしたならまずはメールや電話を頂いたかその有無を確認しなければいけません。万が一頂いていたならば、理由を説明して謝らなければいけませんから。    




 絵美はまるでとりつく島のない夜野森 静香へのコンタクトは諦め、重い足取りで一階正面入り口へと向かった。一階へと向かうエレベーターの中で絵美は何度も頷きながら「大丈夫。なんとかなるしなんとかするし!」と自分自身を鼓舞してなんとか不安をぬぐい去ろうと努めた。

 本館から半円状にせり出すように作られた正面入り口には3器の回転扉が備え付けられてあり、それ以外を覆う壁には透明のポリカーボネートが用いられいる。イベントが開催される事に、この正面入り口の一画はイベントに合わせた小規模の展示、または今回のようなイミテーションを用いた宣伝ディスプレイが置かれている。

 年間を通して何かしらのイベントを催しているこの丸内百貨店では、正面入り口からこうした展示物が見られない日はなく、その展示物の装飾から演出までを、シャンティ企画社が一手に受注していた。故に、こうした緊急的なディスプレイの変更も過去に何度もあった。だが、その都度、無理を押し通す涙ぐましい努力の結果両者ともどもに納得をしてなんとか凌いで来た実績が、丸内百貨店とシャンティ企画社との繋がりを強固にしてきたと言っても過言ではない。だから夜野森 静香はたった一言で現場を絵美に任せたのであった……いいや、静香としてはシャンティ企画に任せたつもりだったのだ。

 

「すみません、こちらの手違いでまた無理をお願いしてしまって。私たちも手伝いますので指示をお願いします」   


 ネクタイを緩め、手に軍手をはめた百貨店従業員10名ほどがすでに展示の前に集まっており、その中の1人、絵美よりもずっと年上だろう頭髪の薄い男性がそう言いながら絵美の元へ駆け寄って来た。


「えっと……その……」


 男性の声にフロアに集まった全員が絵美の元へ集まって来る。絵美は集まりつつある百貨店側の応援人員の数にすっかり圧倒されてしまい、そう言った後はひたすら口をぱくぱくさせているしかできず。やがて頭頂から温度が失われるのを感じ始めていた。砂時計がどんどん落ちて無くなって行くかのように意識が固定されてぼやけてゆく……何も考えられない、私にはどうにもできない……仮初めの自信は突きつけられた現実の前にあまりにも無力で儚かった……


「大丈夫か?」


凍り付く絵美に協力的な表情を浮かべていた男性もみるみるその様相を変え、眉間にいくつか皺を作っては、あからさまに絵美に対する不安の色を呈した。


「おい!どこ行くんだ!」


 絵美は一歩退いたかと思うと、そのまま止められない衝動とともに、支えられなくなった体を翻し閉店後の百貨店の専門店フロアへ向かって駆け出してした。なんとか持ちこたえていたし、逃げたい衝動をこらえていたのに……一度崩れてしまえば綻んでしまえば崩壊は止められない。

 何もできない自分とどうしょうもない現状。絵美は女子トイレへ逃げ込むと個室の鍵を掛けて膝を抱えるようにして1人震えていた。やってしまった。逃げたって何もかわらないのに、一番してはいけないことだったのに……

 いつの間にか溢れた涙が頬を伝ってブラウスに染みを作り出す。エレベーターの中で自分を鼓舞したあの時、絵美には少なからず自信があった。まだ新入社員の域を脱していないながらも、半年以上現場に出ては先輩に指導してもらい、または共に作品をつくり上げてきた。だから、自分にだってできるかもしれない……と……

 だが、現場を目の当たりにした瞬間、それがただの張りぼての自信であったことに気が付かされた。何をしていいのかわからない。何からはじめたらいいのさえ……そうなのだ、絵美は指示をもらってはじめて動くことができるレベルでしかなく、自身でゼロから作品をイメージ構築する方法も術さえも知り得ていなかったのだった。だと言うのにまして、応援の従業員に指示を出すなんて夢のまた夢……

 

「このままここで朝まで居れば、なんとかなっているかな……」涙が再び溢れてくる。今夜だけをなんとか乗り切れば、明日にはなんとかなっているだろう。自分は怒られるだろう……始末書も書かなければならないかもしれない。それでも、現場で何もできないままで右往左往しているよりはましだろう。

 途方に暮れるとはまさに今の絵美の状態を言うのだろう。


「緑野先輩……」


 絵美は、スカートのポケットからスマホを取り出すと、迷わず一番現場を共にしている先輩の緑野 結子に電話を掛けた。入社式の日から、口酸っぱくいわれて来た新社会人の心得『ほうれんそう』。チーフからディスプレイの変更を伝えられた時にどうして、連絡をしなかったのかと自問をし、つい、なんでも自分1人でどうにかしようとする癖が出てしまったのだと自答した。

 自分にはどうしようもないことでも先輩ならどうにかできるはず。事態の打開へ向けて更け込んでゆく闇を一気に払拭するかのように絵美の中には希望が生まれていた。

 涙もすっかり乾き、呼び出し音を聞きながら個室の中を入ったり来たりを繰り返していた。


「「現在、電話にでることができません。留守番電話サービスに接続します」」


こんな時に限って!絵美は、電話を切ると再び電話を掛けた。もちろん、別の先輩に。


「なんで出ないのよっ!」こんな時に限って3人共電話に出ないなんて……憤りの中に再び不安の色が濃くなって行く、しかし、1人を除いて、後の2人は話し中だった。時間をおいて掛け直せば電話に出るはず。

 絵美はスマホの画面に出力されるデジタル時計を見ながら、時間が進むのを固唾を呑んで待った。こんなに一分が長いなんて……いつもなら気が付けば3分や5分が過ぎていて当たり前なのに……憤りはいつしか祈るような思いに変わっていた……


「!」絵美は危うくスマホを落としかけてしまった。


 急に画面が明るくなったかと思いきや、真っ暗闇の個室の中にスマホの着信音が鳴り響いた。


 



「はい……はい。今から会社を出ますから……はい。すぐに行きますよ。行きますって」


 更衣室でつい小春日さんと話し込んでしまっていました。すると、小春日さんの携帯に瑞穂先輩から早く来るようにと催促の電話が掛かったきたのでした。小春日さんは「行きます」を何度も繰り返し、私には困った表情を向けています。それはそうですよね。元々、乗り気ではないのですから。

 つられて私も困った顔を小春日さんに向けてしまいました。これからお楽しみの時間が待っている私からすれば、小春日さんには申し訳なく思ってしまったからです。


「まだ、ベルラインの人来てないのに、集合の催促って何でなのよね」


「瑞穂先輩、1人は寂しいんじゃないですか」


「あーなんか気が重たくなってきたよ」と思いっきりため息をついてから小春日さんは「あれ?春日ちゃんから電話入ってる」と着信履歴を私に見せてくれました。


「確か春日さんは、今日、丸内に行ってるはずです」


「うん」


 小春日さんは表情を正し頷きながらすぐに春日さんに電話をかけました。私も薄々その《意味》に気が付いていたのでその心づもりをすぐさま整えていたのです。


「とりあえず今の展示、台からおろしといて!」


 私が更衣室を出てから背中にそんあ小春日さんの言葉が聞こえてきました。


「丸内でトラブル」エントランスへ駆けて来がけに小春日さんは言い「泣きそうな声でSOSだったわよ」と苦笑してみせるのでした。


 私は臍を固めると共に、近くのタクシー会社への直通電話の受話器を置きながら「タクシー頼みましたから」と言いました。

 きっと、きっと心細かったに違いありません。私も経験がありますから痛いほどわかります。


「ありがと。しっかし金曜日の夜にかぁ、13日でないだけましかもね」

 

「徹夜明けでも翌日が休日なだけましって考えましょ」


 今日は長い夜になりそうです……





 私としては、やはり大団円が良かった。結子さんから借りたトキトワの原作本を読み終えたばかりの率直な感想である。それにしても、ソフトカバーとは言えなかなか読み応えのある厚さであった。物語事態の厚みもなるほど。映画化されるのもうなずける。

 久しぶりに文庫本を読了した達成感と余韻と……私はとても複雑な心境の中にいた。もちろん半時では到底読み終えることのできるぺージではなかったし、私は読み進めるのが遅い方であるから余計に無理だ。何度となく組み替えた足とて、些かの徒労感は否めないし、それどころか上映開始直後の閑散としたこのフロアのどこか寂しいような置いて行かれてしまったような気持ちは切ないと言うにふさわしかった。


 結子さんは来なかった……


 約束の時刻を一時間強経った現在も姿はなく、加えて何度電話をしてもメールをしても梨の礫。私は一抹の不安感と苛立ちと不安感とを交互させては、浅くため息をつきながらまるで音沙汰のない携帯に目配せをする。

 レイトショーであるが故に、トキトワは閉館まで何度でも上映される。だから私は

こうして永遠とも思える時間を待ち続けているわけなのだが。さすがに心が折れた。

待つだけ待った、と私は1度目のトキトワの放映が終わり、2度目の放映がはじまるまで待ち合わせ場所で待ち続け、再びフロアが閑散としたところで静かに柱から背を持ち上げると、フロアの端、グッズ販売コーナーの奥にある階段で一階へと下りたのだった。

 外に出ると雨が降っていた。時刻は深夜の刻限だが、華の金曜日はまるで街を眠らせない。今日の……今夜を生き甲斐に日々頑張っているサラリーマン達やこのまま夢のような時間を過ごすのであろうカップル達で眠る様子がなかった。

 実の所、結子さんへの憤りは無かった。ただ、結子さんに限って約束を無碍にすっぽかしたりはしないだろうし、来られないにしても連絡の一つもすると思う。

 きっと何かあったに違いない。それが私の中にある結論であった。

 けれど、そう思いたい反面、もしかしたなら故意にすっぽかされたのではないだろうかと言う想いが無きにしも沸々と湧いてきて困ってしまった。何せ、交際前の約束を破ると言うのは明確な〔拒絶〕であると私は考えてしまったからだ。しかし、連絡先を交換するまでは順調であったと言うのに、映画の直前でいきなり拒絶と言うのはどうにも腑に落ちない……


 結子さんに限っては……


 私は結子さんに「今日はどうかされましたか? とりあえず今夜は帰ります」とだけメールを入れておいた「トキトワはまた次の機会に」と言う一言を入れたかったのだが、もしも、拒絶されていたのであれば……と考えるとどうしても入れることができなかった。文言が簡素過ぎただろうか、素っ気なかっただろうか……約束をすっぽかされて尚、そんなことを気にする私は馬鹿者だ……スマートフォンの画面に増えて行く雨粒を意に介さず私はずっと送信完了の画面に視線を落としていた。

 

「あれ?1人映画の帰りですか」


 雨に濡れる虚しさを1人で味わっていた私に後ろから声を掛けられた。


「そう言うお前は合コン帰りか」


 後ろには古平が妖怪のようなグッドスマイルを浮かべて立っていた。安っぽい傘をさしているところにだけ妙な親近感を感じた。


「それがねぇ」

 

 いつもなら古平の話などに耳を傾けるほど暇な私ではないのだが、今夜に至っては傘も持って居なければ時間を持てましていたので、地下街へ二人して降りては手頃な居酒屋の席に収まったのである。

 不夜城明けの古平は顔色も悪く、とにかく眠そうな顔をしていた。同情などするつもりはない。ただ、そんな体調であっても合コンに行くと言う根性と下心にだけは賞賛を送りたいと思った私であった。うむ、まして妖怪っぽくなってる。


「シャンティでトラブルあったみたいで。はじまる前に終わっちゃいましてね」


「興ざめだな」素っ気なくそう言いながら『はじめる前に終わった』と言う古平の言葉がやけに私の胸に刺さった。


「ええ、やけくそになって野郎だけで90分飲みまくってやりましたけどね」


 ひょっとしたら、眠いのではなく酔っているだけなのかもしれない。古平は今まさに飲んできた宣言をしておいて、さっそく生ビールを注文し終えていた。とりあえず、私も生ビールを注文した。


「あなたの方こそ、なんで1人なんです?」


「誰かと行くと言った覚えはないぞ」確かに、映画に行くとは言ったような気はするが、決して「二人で行く」と言った覚えはない。


「トキトワでしょう。純恋愛もの男1人で見たんですか」古平は腹を抱えてひとしきり笑うと、「うける」と涙を拭った見せた。


「残念だが、トキトワは見ていない。1人で見るわけないだろうが」


 私は至って冷静にそう言った。何せ見ていないことは事実なのだからだ。


「次の合コン来ませんか。シャンティにもあなたに似て映画好きな子がいるらしんですよ。しかも結構可愛いらしいって話しなんで」 


「お前は合コンしか頭にないのかよ」そう一言ですませた私であったが、実のところ、この誘いには引力のようなものを感じてしまった。結子さんという女性を失ったと仮定している今、傷ついた私の心に『映画好きで可愛い』と言う二拍子は大いに興味をそそったのだ。そして、すぐまさその女性像を結子さんと重ねてしまって、とても気持ちが沈んでしまったことは言うまでもない。


「おっしいなぁ。今時、純朴女子なんて珍しいのに。他の奴に唾つけられてから後悔したって知りませんからね」


 私の動揺を窺い知ってから、古平が身を乗り出してそう告げる。私は思わず古平から目を背けてしまった……そしてその瞬間に負けを認めしまった自分がいた。


「保留にしとく」せめてもの抵抗だった……


 古平はとてもいやらしく笑うと運ばれてきたグラスを口に元にやりながら、「また連絡しますよ」と言うのだった。





 SOSの連絡をしてから、1時間程が経過しようとしていた。絵美の指示のもの丸内の従業員達が展示の撤収作業をしている。慣れないからだろうか少し時間がかかっているものの、撤収するだけでなのだから、すでにもう大方が片づき、手すきの者がちらほら見えるようになって来た。撤収が終わりに近づくにつれて鼓動と焦燥感がまた激しくなってくる。次の指示を仰がれたなら、絵美にはそれに答える術がなかったからだ。


「二階のあの段幕も降ろすんですよね?」


 急にそう声をかけられた、絵美は怯えたように両肩は一瞬だけ振るわせた。声の主が指す二階バルコニーから垂れ提げられた段幕の様な大きな広告には差し替える前の商品が大きくプリントされてあった。


「はい、お願いします」絵美はほっしながらそう答えた。


 現場の監督者は堂々としていなければいけない。そう新入社員研修で教わった。監督者が不安色を醸すと現場の誰もが不安になってしまう。だから、即断即決で的確な指示を出さなければいけない。気にもしていなかった研修での講義を絵美は反芻するように何度も思い出しては今の自分と比べて落ち込んでいるしかなかった。次ぎに出す指示を持たない絵美とってはこちらに向かってくれているだろう先輩の到着を固唾を飲ん待ちわびるしかできない……そんな自分が歯がゆかった。

 突然、エレベーターホールから甲高いヒールの音が廊下に木霊しはじめたかと思うと「作業はどうなってるの」威圧するような声が絵美を襲った。


「あなた新人よね。空間展示なんてできるわけないのに……私のばか……」


 静香は差し替えの品を手配し終えた時点で気が付いたのだが、結局、品が手元に届くまで手が離せなかった。イベント前夜の応援に来ているシャンティ企画の社員は新人。この慣習をシャンティ企画と長年仕事をしてきた静香が知らないわけがなかった。だと言うのに、降って湧いたような想定外のトラブルに狼狽したのか、よりにもよって右も左もわからない新入社員に展示フロアを任せるだなんて。ただでさえ苛ついていると言うに……静香は自分自身の不甲斐なさと情けなさに頭を掻きむしったほどだ。


「その……会社から……えっと先輩……じゃなくて応援がこちらに向かっています」


 絵美は静香の威圧感にすっかり小さくなってしまいつつも、言葉を選び選び繕ってなんとか声に発した、しかし、イベントチーフである夜野森 静香からは憤りを感じさせる不快なため息しか聞こえてこず、絵美はまたしても泣きたくなってしまった。


 展示フロアへの指示を与えてから1時間強、いいや2時間を過ぎているはず。それなのに、まだ展示フロアは展示台から旧ディスプレーを撤去しただけ……進行具合から言えば信じられないほど遅い。新入社員だと気が付いた時点で絶望的であったことを考えれば、善処したと評価できるのかもしれなかったが、それは昨日の時点であればの話しであって、イベント前夜にこれでは夜通し作業を行ってなお間に合うかどうか定かではない。

 

「いつ?誰が?何人?社会人なら必要事項を一言で具体的に伝達なさい」泣いていたのだろう。赤い縁取りの眼鏡の奥に除く充血した瞳を見ると、静香はついに我慢できなくなり春日 絵美の額に指を指してまくし立てるように言い放ったのだった。


「そ……それは……あの……」


 こんなことをしてどうするのだろう。ますます自己嫌悪だ。静香は何も言えず瞳に涙を浮かべ、口だけをぱくぱくとさせる春日 絵美から視線をはずして眉間を押さえながら天井を仰いだ。

 彼女には気が付いた時点で何も期待はしていないし、責任をどうこう言うつもりもなかった。元はと言えば、自分がすぐさま自社に応援を頼むように指示を出すべきだったのだから……それでも、それでも、静香に口走らせたのは一重にイベント成功させたい一心とそれが叶わないかもしれないと言う焦燥感と不安感からだった。

 八つ当たりをしたりして……自分は最低だ……


「それは……わかりません……」 


 これ以上私を苛つかせないで!静香はクールダウンを促した自身の神経を逆撫でられたのを全身で感じた。『わからない?』そんなことは重々承知しているのよ!それを加味したうえで話しをしているって言うのに、誰にでもわかるようなことを改めて言わないで!

 そして、静香はフロア中に聞こえるような露骨に大きなため息をついてみせた。

 

「(使えない人間はここにはいらないわ。あなたは帰りなさい)」今この瞬間を必死に耐えている新人社員に対して静香はそう言うだろう。すでに頭の中では怒鳴り声ではない冷淡で静かな口調で彼女に対して述べ伝えていたのだから……


 そうして、静香が口を開いたその瞬間、


「遅くなりました!シャンティ企画の者です!」と息を荒げた女性が二人、滑り込むように回転ドアから現れたのは。





 結局、日付が変わる頃まで古平に付き合ってしまった。私にしては珍しくそれなりに酒を酌み交わし、部署が違うにもかかわらず仕事の愚痴も聞いたし言った。シャンティ企画には可愛い子が揃っていると言う古平の持論も聞いた。酒が入るとつい気持ちが大きくなってしまうらしく、話しの流れて的には次の合コンに私は参加することになっているようだった。

 酒の上のことだから、休日明けにはお互いに忘れているかもしれないが、それでも、結子さんに約束をすっぽかされたと言う現実から逃避するに幾ばくか足しにはなったと思うのだ。


 所詮は映画好き知り合い程度の間柄であって、やはり映画のように恋に発展したするようなことはなく。待ちぼうけを喰わされると言う典型的な『お断り』で事の終演を迎えた訳だ。世の中、男の他には女しか居ない。だから、世界分の日本分の1人ででしかない彼女1人に固執する意味もないわけである。縁は異なものと言うから、今後ひょん過ぎる過程を辿って外国人と良い仲になるやもしれないし、彼女よりもずっと容姿端麗で知的な美女とお近づきになれるやもしれない。

 だから、私は彼女に固執する必要などありはしないのだ。


 酒の力とはかくも偉大なり。私は雨に濡れるも良しとし、駅の改札前で乱暴にジャケットのポケットから定期入れを取り出した。その時、定期入れを握った拳と一緒に何か飛び出したような気がしたから、一応足下を確認してもたのだが、そこには格子状の溝蓋しか見えもせず、その下は夜闇に煌々照る駅舎の照明の影になってしまっていてうかがい知ることができなかった。もとい、落ちたとしても、小銭程度だろう。酒の力を余すところ無く手に入れた今の私からすれ、小銭程度と取るに足るわけもなく、賽銭箱にくれてやったと思えば良いだけの話しだ。


「見れば見るほど似てるしな」 


 私は改札を通りながら、不敵に呟いた、格子状の溝蓋はまるで賽銭箱とうり二つに見えただから仕方がない。

 酒の力とは偉大なり。私は再びそう強く想うと早速ホームへ滑り込んで来た快速急行に乗り込んだ。


 酒の力とは人の意識を奪ってしまうほどに偉大だ。その後、どうやって家に……ベットまでたどり着いたのかについてまったく記憶がなく、翌朝は酷い頭痛と吐き気、倦怠感に悩まされ、結局、何もできないままに1日を潰すことになってしまったのだった。


 〇



「緑野さん。貴女がきてくれたら安心だわ」静香は絵美に目もくれず。到着したばかりの緑野 結子に向かって駆け寄ると、手短に要件だけを説明し、差し替えるコートを一着渡した。


「この種類なら、一昨年のスプリングフェスタの時に使ったイメージでいけそうですよね。ポップのデータも会社にありますし、お客様へのお知らせも配布広告を直して使いましょう」コートの仕様や生地を確かめてから結子は真剣な眼差しで返答を待っている静香に答えた。


 やはり話しが早い。静香は水を得た魚のように緑野 結子に対して追加の質問や要望をし、または提案と返事に何度も頷いた。

 緑野 結子とは何度か仕事を一緒にしたことがある。いいや、一緒に成長してきた言っても過言ではない。結子とは一年年上として現場で顔を合わせたが、イベントプレゼンターとしてはまだ素人同然だった静香にしてみれば、同じ新人であった。小空間ディスプレーから順にウィンドウディスプレイ、そして空間ディスプレイへと、一緒に任される仕事が大きくなっていった。何度も無理な要望を頼む事もあったが、彼女は文句を言わず、極力静香の要望に添う形で最善を尽くしてくれた。静香には共にやり遂げて来た仕事の数だけ結子に対して折重ねられた絶大な信頼があったのだった。

 結子の顔を見た瞬間に静香の中には安堵に似た希望が生まれた、これで明日の開店時間までに間に合う。そう思える希望が。

 

「ポップや広告は広告代理店に連絡を取ってみるわ。シャンティさんにはディスプレイに集中してもらいます。緑野さん、ここをお願いします」そう言いながら、すでに

静香はスマートフォンを取り出すと、広告代理店に問い合わせの電話を掛ける。


「わかりました。このまま従業員の方はお借りしますね」結子は遠ざかる静香の横顔に短く言うと、静香の頷く様を見てから、手をとめた従業員達に向き直り、「テイストは紅葉はやめて、雪景色で行きます」明確にそう宣言したのだった。


 方針が決定すれば、行動は容易だった。停滞した潮だまりが満潮を得て一気に流れ出すかのように現場は慌ただしく動き出す。まずは総出で、ディスプレイ保管用倉庫に赴き、必要な展示道具から白色電球を運び出し、同時進行で展示から降ろされた展示道具類を片づけた。


「緑野さん。マネキンの配置はどうすればいい?」


「今回は女性物なのでL型を右側展示で左側はL型とM型でお願いします」


「わかったわ」


 こんな時の主導権はその得意先の担当者が担う。これはシャンティ企画の暗黙のルールであった。理由らしい理由はないのだが、一つ言えることは担当者が一番その得意先との信頼関係がはっきりしていると言う点だろうか。無論、これは応援人員に年長者の有無が関わることのない絶対的なルールであり、ゆえに結子と同期である彩奈は自分の立ち位置を確認することもなく、結子に指示を仰いだ。


「春日さんは小春日さんの補助に回って」


「はいっ!」備品を運び終え、指示を仰ぎに向かった先でそう言われた絵美は覇気を込めた返事を結子に返すと、きびすを返してマネキンを運びにかかった彩奈の元へ駆けて行く。自分1人では何もできなかった……それが今の自分の実力なのだ。だからこそ、指示された事くらいは完璧にこなそう。結子に対して示した絵美の態度には溢れんばかりのその意志が込められたいた。

 

「緑野さん!」


 結子が即席のイメージコンテを書いて彩奈に説明をし始めた頃合いで、再びエレベーターホールが俄に慌ただしくなったかと想うと、静香が血相を変えて結子の元へ駆け寄ってきた。


「またトラブルですか?」冷静な結子。何事も慌てずに騒がずに、まずは冷静に受け止め、そしてかみ砕いて対処方法を考える。結子は新人の頃に教わったことを今で頭の中心に据えている。


「いつもお願いしてる広告代理店に連絡してみたんだけど、輪転機が予約印刷で一杯でどうにもならないらしいのよ。シャンティさんでなんとかならないかしら」


 静香は自分の口から出ている言葉がいかに無責任で不躾であるかを承知していた。何もかもうまくいかない……一つのトラブルを皮切りに狂いだした歯車を必死に直そうと必死にやっているのに、やることなすことが後手後手で何一つ段取りを確定できない。

 イベントに関係する全てのフロアを駆け回っている関係上、どうしても全体の把握がしきれない。だから円滑にまとめられない……完全なキャパシティフロー……そんなことはわかっているし、現在がまさに絵に書いたような悪循環であることは誰の目にも明らかとなってしまっている。

 志気盛んだった従業員の顔色にも曇りが見えはじめた。いいや、自分自身が周りを振り回しているからだろうか……ようやく、頼りになる結子が来てくれて、一つ懸案事項が片づいたも同然となったのに……「(こんなのって……)」静香はいつの間にか逃げ出したくなってしまった。うずくまって弱音も吐いて……泣いてしまいたい心境だった。


「夜野森さん。印刷物のことはこちらでなんとかしますから、安心してイベントフロアに集中して下さい」


 結子は静香の瞳の奥に何かを慮ったのか、努めて気丈にそう言うのだった。


「無理は承知だけれど、頼れる人がいなくて。お願いします」


 静香は、申し訳なさそうため息まじりにそう言うと、背筋を伸ばして結子に背を向けて歩きはじめる。それに続いて行くマネージャーの取り巻きはまるで救世主に縋る溺れる者のようだった。





「何よ、あの偉そうな態度。結子も嫌みの一つも言ってやれば良いのに」


 絵コンテの確認を装って結子の元へやってきた彩奈は唇をとがらせて夜野森 静香の背中に向かって言った。


「イベントチーフってあんな感じじゃなきゃ駄目なんですよ。私は元請け会社の社員だし、夜野森さん発注元だから」苦笑しながらそう言う結子に対して彩奈は「そう言うのわかってるけどさ。あれでしょ、発注元のチーフが元請けに頭さげたりなんてしてるの部下に見られたらねぇ……」諦めたようにそこまで言い、「格好付かないし、部下もついて来ないわよね」と結子に苦笑してみせたのだった。


「とりあえず、会社に連絡してみますね、もしかしたらまだ誰か残ってるかもしれないから」  


 そう言ってみる結子だったが……次の瞬間には「あ……」と間抜けな声を出さずにはいられなかった。連絡をしようにも何せ携帯電話は自宅の寝室でぬくぬくと充電中なのだから……


「はいどうぞ」


「すみません。お借りします」話しの流れで言ったものの、肝心な物を持っていない恥ずかしさあまって結子は顔を赤面させて、彩奈からスマートフォンを受け取った。

 

 早速、会社へ電話をかけてみる。しかし、呼び出し音が続くばかりで一向に誰も出る気配がない。金曜日の夜に残業する人間は少ない。加えてすでに0時近くでは無理もない……もう少し早く言ってくれさえすれば、誰か残っていたかもしれないのに……そう思う反面、電話に誰も出ないことは結子の中ではすでに折り込み済みだった。

最悪の選択ではあるが、自分か彩奈か、いずれかが会社に戻り輪転機を回すしかない。去年のスプリングフェスタで使用したデータが残っているからそれを使い回せば、後は印刷するだけですむ。けれど、懸案すべき事項もある。もしも余計な文字や今回のイベントのコンセプトにそぐわない装飾がされてあったなら、レイアウトを変更しなければならないからだった。

 結子は電話を切ると、足下を見つめながら唇をキュと噛み締めた。そうなのである、結子も彩奈もレイアウトの変更時に使用する、フォトショップと言うPCソフトを使えないのだ。


「とりあえず戻らないと」結子はスマートフォンを返すために彩奈の元へ向かい「小春日さん。私、一度会社に戻ります」とスマートフォンを彩奈に返したその刹那、スマートフォンがバイブレートをはじめ、慌ててディスプレーを見やると、そこには《瑞穂先輩》と緑色の文字が出力されてあるではないか。「もしもし先輩!」彩奈はつい大きな声で電話に出てしまった。


「えっ!今会社なんですか?嘘!ちょっちょっと待って下さい!今、トラブっちゃってて、丸内さんのところにスクランブルしてるんですよ。それでですね、あー緑野さんに代わりますから、切らないで下さいねっ!」


「小春日さん、私じゃなくて、夜野森さんに変わった方が話しが早いと思います」慌ててスマートフォンを突き出された結子は、スマートフォンに向かってそう言ってしまった。


「そうだよね。私、電話届けて来る!」スマートフォンを突き出したままエレベーターホールへと駆け出す彩奈「イベントフロアは最上階ですからっ!」その背中に慌てて結子もそう言うのだった。





 迎えたイベント初日開店1時間前。


 シャンティ企画の4人は従業員休憩室で缶コーヒーを飲みながら、やっと人心地をついていた。未だ丸内百貨店の従業員は最終確認に走り回っていることだろう。だが、この段階までやってきたなら、後は丸内百貨店内の業務であり、外野であるシャンティ企画の社員である4人には出る幕はないのである。


「瑞穂先輩ってば全部持っていきましたよねー」机に突っ伏したまま彩奈が恨めしく言い。「私達も結構頑張ったのにぃ」と続けた。


一方、「瑞穂先輩格好よかったです」その隣に腰掛ける絵美はそう言うと、恍惚として視線を瑞穂に向けている。


「瑞穂先輩。本当に助かりました。ありがとうございました」結子は改めて瑞穂に頭を下げ、それから「ふぅ」と安堵の息をついたのだった。


 早朝5時12分頃に、社用車のハイエースで丸内百貨店に乗り付けた瑞穂を結子や彩奈をはじめ丸内の従業員が総出で出迎えた。もちろん夜野森静香の姿もあったことは言うまでもない。

 

 徹夜をまるで思わせない笑顔で車を降りた瑞穂は、髪をかき上げるなどして余裕を醸しつつ、大きな後方ドアを開けると、台車を数台降ろし、手際よく組み立てると、タイトスカートを臀部に食い込ませながら、車内から次々と印刷物を降ろして台車に分けた。

 それらの作業を男性従業員が駆けつける前に全てこなしてから堂々と胸を張って言うのだった、


「さぁ、持っていったぁ!」と。


 起死回生とはこれまさに。静香は安堵のあまり膝から崩れてしまいそうになった。しかし、まだやることは山ほどある。静香はなんとか踏みとどまると、全速力で台車を押して駆ける男性従業員群の残り風に髪を揺らしながら、瑞穂の元へ集まるシャンティ企画の面々の元へ歩みよると。


「本当にありがとう。これでなんとか間に合いそうだわ。なんて言って感謝したらいいのかしらね……」頭こそ下げなかったが、すでに言葉では言い表せない感謝の心内をなんとか言葉にしようと試みたものの……すでにフル回転で疲労困憊の思考回路では、到底、伝えるにあまりある気持ちは伝えることが叶わなかった。


 そんな口ごもる静香に対して困惑の色を浮かべる3人はこちらもこちらで何か言わなければ、と指先や表情を忙しなくするものの、言葉にする事ができず、変わりに笑顔を崩さない瑞穂1人が「困った時はお互い様と言う事で、今後ともシャンティ企画をどうぞご贔屓によろしくお願いします」そう言いながら軽く会釈をして見せたのだった。

 

「ありがとう」


 静香は目を閉じて何度か頷くと、静香にそう言うと白々とし始めた空にそびえる白亜の城。丸内百貨店へ向かって歩き出す。しっかりとした足取りはイベント成功に燃えていた頃の自信をしっかりと取り戻していた。

 まるでモデルのような歩き方に、花を添えるようピンヒールの靴音が高く上品に鳴り響いていた。 





「絶対に眠いはずなのに、なんか逆に目が冴えるんですね。徹夜って」目元をぼおっとさせながら絵美が呟くように言う。「そう言えば、春日さん徹夜はじめてよね。ってか、新人に徹夜ってうちもブラックよね」彩奈が軽快な口調でそう言うものの、絵美は口角を痙攣させながら「そ……そうなんですかね……ブラック……」と冗談なのか本音なのか、理解に苦しんでいる様子だった。


「そう言えば瑞穂先輩、どうして会社に居たんですか?昨日って合コンでしたよね」


 以前もそうだったが、徹夜明けの彩奈はよく喋る。結子は少し苦めの珈琲を一口含みながら、瑞穂の謎解きを待った。実のところ結子自身も気になっていた、気になりはじめたのは日の出前あたりからだったが……


「もちろん合コンには行ったわ。男子待ちの暇つぶしに彩ちゃんに電話してたら春日ちゃんから電話掛かってきてさ」彩奈と絵美の顔を交互に見ながら、笑いを含んで瑞穂はそう言うと「合コンとりやめて来ちゃった」と続け、舌を少し出しながら「テヘッ」と付け加えた。


「いやいやいや、合コン中止はわかりますけど、肝心なところが抜けてますよ。理由ですよ。り・ゆ・う」


「女子を待たせる男子が悪いのよ。向こうには店の人に「怒って帰った」ってことにしてもらってるからさ。次の時は向こうの奢りになると思うのよね。ただ飯にただ酒よ!次は結ちゃんも絶対においでよねっ!」 


「いえ……そうではなくって、どうして、トラブルが起こったことを知っていたんですか?と言う意味での「理由」だと思いますけど」 


 瞳を輝かせてよもやスイッチの入りかけた瑞穂に水を差すように結子が静かにそう言った。


 すっかり出鼻をくじかれた瑞穂は「うぅ」とわかりやすく頭を垂れ、小さなため息のあとに頭を上げると、頼りになるいつもの先輩モードに表情を変化させて、「応援で出張ってる春日ちゃんが困って連絡するのはまず結ちゃんのはずでしょ?次は彩ちゃんだから、私に掛けてきてる時点で切羽詰まってるって言うのはわかったしね」


「結子先輩も小春日先輩にも掛けたんですけど、繋がらなくて……」


 なぜか視線を下げて言う絵美。「タイミング悪くてごめんよぉ」そんな絵美をつかさず抱きしめたのは彩奈だった。「ちょっと先輩」と困る絵美に「よしよし、心細かったよね。うん。だよね」彩奈は頭に回した両手を放すつもりはないらしかった。


「私ったら、携帯を家に忘れてきてしまって、心細い思いをさせてごめんね」


「緑野先輩……」


 彩奈のホールドをほどきながら、絵美は優しく声を掛ける結子の言葉に想うところがあるらしく、今にも泣き出しそうな声を出してはそれを踏ん張りこらえている様子だった。「ちょっ、結子だけずるい。私だって可愛い後輩ちゃんを労ってるのに」仏頂面でそう言うと彩奈は再び絵美を前にして両腕を広げる。戦慄する絵美だったが、


「推測でしかなかったけど、可愛い後輩達がスクランブルしてるのに、何もしないわけにはいかないわ。先輩の見栄にかけて」


 すくっと立ち上がり、ブラックコーヒの缶を高々と掲げて言い切った瑞穂のお陰で事なきを得たのだった。


 絵美はそして知った芽生えた気持ちは間違いない。常々、どうして瑞穂は社内でも後輩達からの絶大的な人気があり慕われているのか?と。今朝、その理由がわかった気がした。

 何せ今、が瑞穂に対して尊敬の念を抱く自分がいるのだから。

 




 生粋の下戸のくせに、酒などを煽るからこんなことになるのだ。


 古平と飲んだ次の日はとにかく頭痛と倦怠感が強く、1日中ベットから出られずに過ごすこととなってしまった。宵の口頃ようやく近くの薬局へ二日酔い対策のドリンク薬を手に入れ飲んでみたが、事前薬であるからして一向に症状が改善される兆しはなく、どうせなら頭痛薬を買い足しておけば良かったと後悔もした。

 こんなに頭痛薬を飲んだのもはじめてだった。


 日曜日の朝、ようやく頭痛から開放された私は、はじめて金曜日の夜の事を思い出し、通勤鞄の中をまさぐってスマートフォンを探した。もしかしたら結子さんから連絡が入っているかもしれないと思ったからだ。

  

「ん?ない」


 鞄の中。いつも入れている場所にスマートフォンはなく。その日に着ていたスーツのポケットを探してみても見あたらず、少し焦りだした私は家中を探し始めた。とりあえず、玄関で会社から支給されている携帯電話は発見できたが、ついに自分のスマートフォンを見つけることはできなかった。

 もちろん、ベターな方法だが、支給品の携帯から自分のスマートフォンに電話をかけてみたりしてみたが、結果は一緒だった。

「マジかよ」少しの間だリビングで立ち尽くした後、私は最悪のシナリオを頭中で描きながら、部屋着から外着へと着替えることにせざるえなかった。


 何分、酔っていた。酔ったいたから何をどこで落としていたりしていても不思議ではない。特に最寄り駅から自宅までの帰路の記憶もなければ、ベットに横になった記憶もない。そのくせ、ドアの施錠をしていたところは不思議で仕方がない。とにかく私は、スマートフォンを探す為に金曜日の夜通ったであろう道程をさがして歩くことにしたのだった。


「黒色のスマートフォンが届いてませんか」何度となく口にした台詞。


「いえ、届いていませんよ」何度も聞いた台詞。


 最寄り駅までの道程では犬の散歩しているご婦人に聞き、駅では駅員に尋ね。下車駅でも同じく。飲んだ居酒屋へも行き、だめ押しでスカラ座へ赴いてまで尋ねてみたが、返事は一様に同じであった。溺れる者は藁をもつかむと言うが、まさに今の私がそれだ。探す宛が全て潰れた私は困りに困って、スカラ座の最寄り駅前まで戻って社用携帯から古平に電話を掛けるに至ったのである。我ながら切羽詰まっているのだと実感した瞬間でもあった。


 微かな希望託していたにも関わらず「あなたの携帯?そんなの知りませんよ。酔ってたからどっかに落としたんじゃないんですか」と素っ気なく言われたあげくに一方的に切られてしまった。


 人でなしめ……私は持て余す憤りを危うく携帯に逆間接を決めることで発散しようとしてしまうところだった。

 絶望の一歩手前まで来た私は、もう一度、居酒屋から地下街辺りを探してみようと横断歩道の手前にある溝蓋の上に立った。


「ん……?」


 不意に見やった格子状の溝蓋から銀色の何かを見つけた。円形であるからして硬貨だろうと想像ができたのだが、


「えぇ!」私はそんな声を出すと、次の瞬間には手と膝を突いて側溝の中を覗き込んだ。吸い殻やよくわからないゴミ埋もれた中に見覚えのある黒いボディカラーのスマートフォンが見あたったのだ。厳密にはボディよりもレザー調のカバーケースの黒色の方が目立つのだが……

 私はすぐさま溝蓋を持ち上げようとしたのだが、図太いボルトで四つ角を固定するタイプの溝蓋であったがために、私にはどうしようもなく、考えもなしに半ば衝動的に駅の詰め所へと駆け込んで私であった。 

 事情を話すと、駅員はとりあえず側溝まではついて来てくれた。来てはくれたのだが、「駅構内ではないので、私ではどうにもできませんね」駅員は困った表情を浮かべるに終始し「わからないですけど、市役所に連絡してみたらどうですか?」と頼りないアドバイスをくれるのが関の山だった。





「後5m先だったら管轄が違うのでもっとややこしいことになってましたよ」土木課の加藤さんはそう言って、笑顔だった。


 それに関して私は不幸中の幸い!と喜べばよかったのだろうか……いや、昨晩からずっと水没していたスマートフォンが手元に戻ってきたとしても、結局は幸いではない。不幸中の不幸だと私は言いたい。

 

 ちなみに、銀玉はパチスロのコインだった。


 自宅に帰った私はスマートフォンからバッテリーを取り出すと、それぞれをタオルにくるんでから、ノートPCで水没携帯の復旧方法を検索した。しかしながら、どれもこれも、バックアップを推奨するものばかりで、ジャンプページには決まってバックアップソフトの広告が軒を連ねていた。

 唯一、それらしかったと言えば、ドライヤーを使って徹底的に乾燥させると言う方法だけで、仕方が無く私はドライヤーを洗面所から持ち出して来て、ひたすらスマートフォンの乾燥に徹することにしたのだった。

 

「こんなに熱くなって大丈夫なのか、これ」


 5分もすれば、温風に熱せられたスマートフォンが素手では持てないほどに熱くなり、さすがに、それはそれで故障になりかねないだろうと、少し冷やしたりしをして約30分以上は乾燥作業を行った。

 これ以上はドライヤーが持たないだろうと思い、乾燥作業をやめてバッテリーを装着したのち、電源を入れてみた。


「おぉ!」

 

 水没ショート説をもろともせず、スマートフォンのディスプレイには起動画面が出力され、私は安堵の息を漏らしつつ、そっと胸をなで下ろした。日頃の行いの賜だろうと操作画面になるのを心待ちにしていると、起動画面から操作画面に移行するまさにそのジリュと鈍い音がしたかと思うと、一瞬にして画面は暗黒に帰したのだった。その後、何をしようとスマートフォンの画面に色が灯ることは決してなかった。

水没ショート説はここに正しいことが証明されたのである。

 

 手に負えなくなった私は、駅前にある携帯ショップへ助けを求めることにした。私的にはショップならではの裏技的な何かで電話帳くらいのデータを抜き出し、または復元くらいはできるのでは?と淡い期待を抱いていたわけなのだ。


「水没の場合は電源を入れたりしないで、バッテリーをはずした状態で持って来てもらえれば、SDカードの本体バックアップは取り出せたんですけどね。お客様が電源を入れてしまった時に、ショートしたみたいでSDカード自体が壊れてしまってますね」と店員に軽く私の期待と願望を打ち砕かれてしまったのだった。


 なんでも、私のスマートフォンの場合は電話帳など基本的かつ軽いデータ量のものは自動的にSDカードにバックアップとして保存される仕様になっているらしく、電源を入れるにしてもSDカードを抜いていたなら、電話帳の復旧はできていたらしい。

そもそも、私が余計なことさえしなければ、電話帳は……結子さんの連絡先は無事だったのだ……悔やんでも悔やみきれない……

 店員にはその場で新しい機種を購入することを勧められたが、失意の内に沈んでいる私にはとてもそんなことをするだけの気力もなく、「近いうちにまた来ます」とだけ言い残して携帯ショップを後にした。


 結子さんから連絡はあったのだろうか……恨めしいほど晴れ渡った青空を見上げながら、私は何もかもの終縁を感じずにはいられなかった。


 まさか、こんな終わり方をするなど……誰が想像できただろうか…… 





 何も考えられないくらいに疲れたい。疲労感でこの気持ちを誤魔化したい。


 急いで自宅に帰った私は、今にも飛んで行ってしまいそうな意識の中でさっと、シャワーを浴びると、色々な誘惑を振り切って力尽きるようにベットに倒れ込みました。思っていた通り、充電スタンドに立ててあったスマートフォンには、何通かのメールと不在者着信が入っていました。もちろん、智さんからです。

 昨晩からどうにかして連絡をと思いつつ連絡もできず、罪悪感をひた隠しながら差し迫った現場を走り回っていました。ずっとずっと忙しければ、その分だけ私は許されるような気がして……いいえ。現実逃避をしていただけなのです。

 何の連絡もせず、約束を破ってしまうなんて。予期せぬ急な仕事でしたので、やむを得ないを言いたい気持ちは、なんて自分勝手な私なのでしょうか。智さんからすれば、そんなことは関係ありません。ただそこにある事実は、《約束を破った》それ以上でもそれ以下でもありません。


「怒ってるに決まってる」


 私はメールを開くこともできず、ただ気持ちを静めているだけしかできません。視線の先には早い目に出した炬燵の上に置いたままにしてあるトキトワの前売りチケット付き特装版パンフレットが見えました。


 あれだけ先行レイトショーに向けてはしゃいで、何度も智さんにトキトワの魅力についてお話をして。昨日に至るまでの日々が走馬燈のように私の頭の中を駆けめぐりました。どの私もとても楽しそうで、まさかこんな結末を迎えるなんて想像もしていない、物語の中の少女のようで……「まだでしたら、これを読んで見て下さい」差し出がましくも、トキトワの原作本まで智さんにお貸ししたのに……「原作本を読んでいると、映画をもっともっと楽しめると思います!」そう言った自分自身の言葉が胸に深く突き刺さります。 

 どうしてあんなことを言ってしまったのでしょうか……募る想いは後悔ばかりです。


 今すぐにでも電話をしたなら、智さんは許してくれるでしょうか。それとも、無神経で酷い人間と軽蔑されてしまうのでしょうか……それなら、私は恐くてとても電話をかけることなどできません。けれど、今この時に掛けなくては、遅くなればなるほど智さんの怒りも心頭に達するのだと思います。


 たとえ……許してもらえなくても……ごめんなさいの……一言…………だけでも………………伝え……たい………………





 丸内百貨店へ向かうため、いつもは通り過ぎるだけの駅で降りました。啓林堂書店のある駅です。

 土曜日の宵の口過ぎ、1日を有意義に過ごしたでしょうとても晴れやかな表情を浮かべた人達が家路に向かって歩いて行きます。


「はぁ」私はため息をつきました。


 今から丸内百貨店へ行き、20時頃から今朝方までかかって模様替えした装飾やディスプレイを元に戻す作業をするのです。きっと作業人数も減っていると思いますから完了は明朝になることでしょう。

 けれど、私は仕事のことでため息をついたのではありませんでした。

 智さんにメールをと思いながら、いつの間にか眠ってしまい、結局返信をできたのは夕方を過ぎた頃になってしまいました。今更、言い訳と捉えられても仕方がありませんけれど、急な仕事が入った旨もその仕事が翌朝までかかり、家に帰って眠ってしまった旨も、一切を素直に正直に記したつもりです。長文になってしまいましたけれど……それでも、それが私にできる誠意だと思いましたので、長文のメールを送りました。


「はぁ」佐保川と言う川を挟んだ先に丸内百貨店を見上げながら私はため息をもう一つ……目覚ましで飛び起きた私は、夕暮れに青ざめてから慌てて智さんに電話を掛けました

 本当はこんな要件ではじめての電話を掛けることはしたくありませんでしたけれど、そんな悠長なことを考えている暇もありませんでしたから……ですが、何度掛けても智さんが出ることはありませんでした……替わりに【お客様の都合によりこの番号にはお繋ぎすることができません】とガイダンスが流れるばかりで……


 それは明らかに《留守番電話サービス》のガイダンスではありませんでした。

 

 もしかした、携帯会社によってガイダンスの対応の仕方が違うのかも。と前向きにも考えてみました。けれど、それが私の希望的思考であることは明白です。


 【この番号にはお繋ぎすることができません】


 無機質なガイダンスを思い返すととても不安な気持ちとなってしまって、そのたびに気持ちが落ち込んでしまって……無意識の内にため息が出てしまいます。


「はぁ」と……

 

 


「あっ、緑野先輩。おはようございます」


「春日さん、おはよう。早いんですね」 


「はい。良く眠れなくって。あっ、でもちゃんと寝ましたから大丈夫です!」


「言ってることがバラバラ」私は思わず笑ってしまいました。


「あぁ……本当ですね。私ってば」春日さんも頬の辺りを指で掻きながら笑います。


 「POPと広告と出して並べておきますね」そう言うと春日さんは展示準備室へ走って行ってしまいました。

 実は今夜からの作業は私1人で行うつもりでした。3Dプリントの平面展示図もありますし、何より、丸内百貨店の従業員の方も装飾やディスプレイを施した売り場を見ていますので、円滑に作業が進むと思ったからです。瑞穂先輩も小春日さんも手伝いを申し出てくれましたけれど、お二人ともに次の週から他の得意先ではじまるイベントの担当をしていて、迷惑をかけることができませんでしたので、丁重にお断りをして丸内百貨店の担当者である私だけが今晩出勤するはずだったのです。ですが、春日さんだけはどうしても「勉強させてください」と頼み込まれてしまって、押し切られてしまいました。私は「休むのも仕事の一つだから」と言ってみたのですが、やはり駄目でした。

 

 『早く一人前になりたい』


 春日さんの語気には……いいえ、それ以上に瞳の映る光がそんな風に訴えかけているようで、私には強く申し出を断ることができなかったのです。私も入社をしてから約半年程経った頃、先輩方と一緒に仕事をしている内に、いつの間にか一人前になっているような錯覚に囚われてしまったことがあります。そんな頃、春日さん同様にトラブルに打ち当たり、それに対して自分1人では何一つとしてどうしようもなくて、いかに自分が非力であるか、思い込みと錯覚の中に居たのか、と言うことを身をもって思い知らされました。

 そして、私も強く思ったのです。早く本当の一人前になりたいと。

 だから、今の春日さんの気持ちは良くわかりますし、春日さんにとって大きく成長するチャンスだとも思いました。だから、その気持ちを無碍にできませんでした。


 百貨店自体の営業終了時間を幾ばくか残し、一足先に販売を終了したイベントフロアでは全スタッフが集合をして夜野森さんによる、今夜の作業手順の説明がありました。さすがに夜野森さんにも疲労の色は色濃く表れて居ましたけれど、それを感じさせない覇気をまとった声と立ち振る舞いに、私はさすがですね。そう思ってやまないのでした。


「緑野さん。正面入り口の展示フロアは全館閉店してからの作業になるから、それまではこのフロアの応援をお願いしたいのだけど良いかしら」


 全体への説明が終わり、作業にスタッフが散ってから夜野森さんが私の元へ足早にやってくると「昨日から続けて迷惑をかけます」と一言間を置いてからそう言います。

「わかっていますよ。POPや広告は展示準備室に春日さんが順に並べてくれていますから、粗方の展示が終わってから手すきのスタッフさんに取りに行ってもらって下さい」

 夜野森さんを前に私の後ろに隠れるようにして佇んでいる春日さんにも聞こえるように私は言いました。先ほど私も展示準備室へ確認をしに行きましたけれど、POPや広告をはじめ、小物類やショーケースなどもちゃんと磨かれてありました。これは春日さん努力なのです。

 

「そう。外注品はわかる人間が少ないから助かるわ。ありがとう」


 夜野森さんの声は春日さんに聞こえていたと思いますが、夜野森さんからすれば当然の範疇でしょうから、賞賛など望んではいけません。何せそれは先輩である私の役目なのです。だから、


「春日さんお疲れ様。これからもうひとがんばりしましょ」と俯いている春日さんに私はそう言うのでした。





「お疲れ様でした。さすがに2日連続で徹夜ってきついですね。なんか時差ぼけになってるみたいな、変な気分です」


 始発の電車に乗り二つ目の駅で降りた春日さんは、ドアが閉まるまでのわずかな時間でそう言うと、「お疲れ様。体調崩さないでね」と苦笑した私を頭を下げて見送ってくれました。


 後輩とは良いものですね。私はそう思いました。実は私も立て続けの昼夜逆転の上に変な時間に睡眠をとってしまったので、頭の中はとても鈍くなっているのに、妙に目が冴えてしまっていると言う、とても摩訶不思議な体調でした。

 家に帰ったらお風呂に入ってからベットに入りましょうか。日曜日の始発電車。一両丸々私1人で貸し切りです。座席に腰掛けて揺られていると、ふっと一緒に揺れている中吊り広告に目がとまりました。


「トキトワ……」私はぽつりとそう言いました。


 広告には《本日公開!》と大きな文字が踊っていて、その文字の上部には主演の俳優さん達が、小さなビー玉を見つめて微笑んでいるシーンが載っていました。映画の一幕なのでしょうね。もちろん、私はそのシーンを知っていました。なにせ原作を3度ほど読み返しましたから…………


「約束のビー玉」誰もいないことを良いことに、私は誰かに喋るように言います。そして、そっと、鞄の中から財布を取り出すと大切に入れてある前売りチケットを取り出しました。智さんと一緒に購入したチケットです……


 そのまま下車する駅まで私は何を考えるでもなくするでもなく、ただぼおっとしてその広告を見上げ続けていました。

 本当なら、今頃は映画の余韻に浸っていながら、パンフレットを何度も読み返しては興奮していたはずなのです。いつもは1人で見に行く映画も今回は智さんと二人で見に行くはずでした。2週間も前から約束をして、楽しみにして連絡先を交換して……なのに私は大切な日に携帯電話を家に忘れてしまって……電話帳を頼りにしていたので誰かに携帯を借りて電話することも、公衆電話から電話をすることもできないで…………

 きっと、智さんなら「それは仕方がないですよ」と言って許してくれるでしょう。そんな風に安易に考えていた私がいるはずなのです。私の甘えです。

 事実としてトラブルを是正するために、私は2夜続けて徹夜作業をしました。だったら十分な言い訳になると思うのです。そうでしょう?社会人なのだからプライベートだって時には犠牲にしなければいけない時だってあるはずですし、それは不可抗力であって避けられない事なのですから、やはり仕方がないのです。


「それはちがう……」 

 

 湯舟に浸かると、まるで肌が溶けて行くようにほんわかと温かく、全身に張りつめていた緊張の糸がほぐれて行くようでした。

 このまま眠ってしまいたい。そう思う私の中に漂ってくるのは、傍若無人と言うのにふさわしい自分勝手な私でした。どうにかして自分の非をひた隠そうと無茶なご託を並べるのです。言ってほしいのでしょうね。


『あなたは悪くない』っと……

 

 責任回避を第一と考えるようになってしまうのは、一種の社会人病だと思っています。いかに自分に責任がないように言い訳を理由を作り上げるか……いつの間にか罹患してしまう厄介な病です。


 すっかりリラックスした体を私はベットに持ってゆくことができず、炬燵の中に滑り込ませました。電気の入っていない炬燵はひんやりとしていて、私の足が湯たんぽのようで、コンセントを入れようか否か玉響考えましたけれど、腕を伸ばしても届かなかったので諦めました。半身を机の上に委ねた私は、重みに任せて瞼を閉じます。伸ばした指は微かに触れた感触にそれがトキトワのパンフレットであることを私は知っています。


 薄れて行く意識の中で私は素直に想います。


 このまま智さんと終わってしまうのは嫌です。自分勝手かもしれないけれど、言い訳でしかないけれど、私が決して悪意を持って約束を破ったのではないと知ってほしいです。

 トキトワを楽しみに、智と一緒に見に行くことを心待ちにしていた気持ちに嘘偽りはありません。

 できれば、許してほしい。「ご一緒しませんか」と言ってほしい。いいえ、今度は私から言わなければいけません。


 「映画をご一緒しませんか……」と……



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トキトワ ~時と永久にキミヲ~ 畑々 端子 @hasiko

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