第1幕 ラブコメじゃない純愛だ
今、巷では、『時と永久にキミヲ』通称『トキトワ』と言う恋愛小説がベストセラーになり、すでに映画化と月曜9時からのドラマ化が決定している旨を私は彼女から教えてもらった。故に、私の手元に劇場板トキトワのパンフレットがあるわけだが、序盤を読み終え、なんとも『月が兎に恋をして』臭を感じ得なかったのはきっと、パンフレットを手にした誰もが感じたことであろうと思う。
『月が兎に恋をして』の大ファンである彼女は大層喜んでいることだろう。何せ、この『月兎』を撮った製作スタッフこそがトキトワの製作をしているからである。
「へーあなたもラブコメ映画とかって見るんですね」
オフィスで仕事の合間にふと手にとっていたトキトワのパンフを覗き込んで後輩の古平がいやらしい笑みを浮かべながら言った。
「ラブコメじゃない。純愛だ」
「どっちだっていいですよ」
相変わらず、へらへらしている奴である。
「良くない」
私は鞄の中にパンフをしまいながら、古平に小さな声で言う。
「来週の金曜の夜空いてますよね?」
「いや、この映画を見に行く予定がすでに入ってるから俺は忙しい」
そうなのである。「来週の金曜にレイトショーで先行上映されるそうですよ!」と嬉しそうに言った彼女……結子さんと私はこのトキトワを見に行く約束をしている。このパンフも前売り券特典で付いてきた特装版のパンフで、一緒に買いに行った時など、このパンフを宝物のように抱きしめて結子さんは「楽しみですね」と微笑んでいた。
私はと言うと、トキトワ以前にそんな結子さんと映画に行けることがとても楽しみで仕方がなかった。
「それじゃあ、先輩はそのジュンアイ映画とシャンティOLとの合コンとどっちを取るって言うんですか?」
ますます、いやらしく頬をつり上げて得意げに言う古平は「一人欠員がでましてねー」とわざとらしく、じらすように続けて言う。だが、
「断る」私の意志は固いのであった。それはもう石などとは比べものにならないくらいに硬かったのである。
「あなたは本当に馬鹿だなぁ」
やれやれと大袈裟にジャスチャーをしてみせた古平はその後、シャンティの女子社員との合コンセッティングがいかに難しかったと言うことを、仕事をせず私にこんこんと説いていたが、等の私はと言うと他部署へのメール連絡やら今日中にしておきたい仕事に勤しみ、古平の戯れ言など一字一句頭に入ることなどなかったのである。
結子さんと映画を観賞できる。それ以上に楽しいことなど今の私にあろうはずがあるまい。
〇
私にはスプラッター映画は受け付けないようでした。折角、智さんがチケットを用意してくれたと言うのに……私は目を閉じてばかりでストーリーすら把握できませんでした。映画終わりにフードコートで智さんにあらすじをお話いただく始末でとても申し訳ない気持ちでした。
けれど私は、今とても気持ちがウキウキとしているのです。来週末に見に行きます『時と永久に~』と言う映画のパンフレットを見ながら私はやはり楽しみですね。そう思うのでした。
この映画は純愛小説が原作になっていてそのタイトルは『時と永久にキミヲ』で、今度、封切られる映画では『時と永久に~花と鳥のように僕は~』とタイトルが替えられているのです。もちろん原作はすでに読み終えていますし、それを言ってしまうと予め物語りを知っていることになるのですが、文字の世界と映像の世界とは違いますから、私はどんな世界が描かれるのでしょう。と何度でも胸を高鳴らせてしまうのです。
そして呟くのです「愛せるかぎり 愛するでしょう」と。
「緑野さん。トキトワ見に行くんですか?」
仕事の合間に私がトキトワの広告パンフレットを眺めていると、同僚の小春日さんが広告パンフレットを覗き込みながらそう言いました。
「はい。来週末に先行上映のレイトショーを見に行くんです」私は広告パンフレットを引き出しに片付けながらそう答えました。
「来週末ですか……そうですかあ」
私の言葉を聞いて小春日さんは途端に少し困った表情を浮かべます。なので、「どうかしたのですか?」と私は聞きました。
すると……
「いえ、来週末にベルラインの方と合コンをすることになっていて、瑞穂先輩が緑野さんも誘ってって言われてたものだから」
「合コンですか……」
私は映画に行く予定が入っていてほっとしました。なぜなら、合コンに行かなくて済むからの他に理由はありません。
合コンだなんて……私は何を話して良いのかわかりませんし。瑞穂先輩のことだから、きっと、無理矢理に私を男性とくっつけたがるに違いありませんから。
そんな話しをしていると、不意に良い香りが私の鼻腔をくすぐりました。
「あら、結ちゃん駄目なの?!それは残念だわ。ベルさん達の方は気合い入ってるのに」
映画よりこっちにいらっしゃいな。ウインクをしながらそう言う瑞穂先輩に私は「大切な約束なので」と俯きながら答えるしかできませんでした。
「おしいなぁ」
瑞穂先輩は強引ですが、決して無理強いはしませんから、私の『大切な約束』と言う部分にも触れることなく、先輩は艶めかしいロングヘヤーをふわふわとさせながら、オフィスを出て行くのでした。
同性の私でも羨ましいと思えるスマートでグラマラスな体躯、それでいて知的な気品を醸す瑞穂先輩は、私が入社する以前から女性ばかりのこのシャンティでマドンナなのでした。
女性から憧れられる瑞穂先輩なのですから、きっと男性からはもっと憧れの的になるのでしょう。そう私は思うのですが、先輩は決まって合コンを企画しては男性との出会いに乏しい同僚の女の子達を連れて行くのでした。
もちろん、私も毎回誘われていますけれど、残業や空想の約束を理由に今まで断り続けてきているのです。
「先輩またブラウス新しくしてたね。新作かなあ」優雅に廊下へと遠のいて行く先輩の後ろ姿を視線で追いかけながら小春日さんが呟くように言います。
「「見せる相手がいない」ので残念ですね」
私は先輩の口癖をマネしながらそう言います。すると、小春日さんは大きく頷いて
「そうね」と口元を押さえるので、私も釣られて口元を押さえて笑いをこらえるのでした。
◇
シャンティのOLと聞くだけで美人揃いであることは容易に想像できてしまう。加えて、あの古平があれほど興奮して言うのであるからして、今回の合コンのメンバーは想像を絶する良目揃いなのだろう。
私は少し考えたあげくに、やはりこの誘いは断ろうと思った。結子さんとはその……まだそう言った間柄ではない。ただの映画好きな友人と言ってしかるべきである。だが、気が付いたことがある。
結子さんはまるで桜のように不意に良い香りがするのだ。並んで歩いているときの、首を傾げたとき、そよ風が吹いたとき。微かではあるが、さわやかでいてとても心地よい香りが私の鼻腔を包み込む。香りとはこんなにも誰かを幸せにするものなのだろうか。そう思った私は、少し早い目に退社をして香水を買いに駅前のショッピングモールへと出掛けたのであった。
翌朝より、購入した香水を。その名も「桜香」と言う香水を首周りにつけて出社してみた。さすがに同僚からはなんの反応こそなかったが、それは元々の予定通りであり、思い出したように微かにかがう「桜香」の香りを私は私一人で楽しんでいたのだった。
さすがは京都の練り香水のことはある。時折鼻腔に届く香の華は確かに香りつつ、品があり、それでいてさりげない存在感はまさに京美人を思わせる趣がある。後半はは私独自の想像であることは言うまでもない。きっと嬉しかったのだろう。ショッピングモール内での香水店では若々しい店員にあれやこれやと、鼻に押し付けられたあげくに、頭痛を催して情けなくも早々に店を出る羽目となり、「浪漫堂」と言う看板に惹かれて入ってみれば、初老の店主のあまりにもきつすぎる香水の香りに、これはもはや匂いの暴力である!と腹を煮え繰り返してこれまたさっさと店を出てしまった。「さりげない香りのを……」と頼んだ私に、「あなたにはこれがお似合いだわ」と埃をかぶったポマードを強引に進められたのにも腹が立った。
今時、どこの世にポマードを塗りたくったサラリーマンがいると言うのだ。
出会うべく出会いにて、お気に入りの一本と出会い、意気揚々と家路につく未来を思い浮かべては、密かにその瞬間とプロセスを楽しみにしていた私であるからして、余計に腹が立ったわけである。私が悪いと言えば期待のしすぎなのかもしれない。
香水を吟味しに出掛け、心中をささくれさせただけ私を救ってくれたのが、京都に本店を持つと言う「桃香堂」であった。店の看板と言わんばかりにウィンドーの中には大きな伽羅が展示されてあった。もちろん、だからと言うわけではなかったが、とりあえず、店内に入ったのは決して暖簾越しに見えた店員のお姉さんが美形であったからではない。
ちなみに記しておくと、細めの眼鏡が上品によく似合う、さりげない京美人だった。
店内にはお客はおらず、とりあえずうろうろとしていると、店員さんが声をかけてくれ、「香水をはじめての方はこちらがよろしいかと思います」と比較的安価はコーナーへ案内してくれた。
「最初は、自分にあった香りを見つけてから、少し良い品をお求めになられた方が良いと思います」と微笑みを下さり続けて「私もそうでしたから」と小さな小瓶に納められた練り香水を見せてくれた。
決して、その店員さんにならって練り香水を購入したわけではない、あくまでも「練り香水」なるものが珍しかったがゆえのチョイスであった。『桜』と言う種類が店員さんのものと同一であったのは、偶然であると弁明しておきたい。
◇
トキトワの前哨戦とも言うべき結子さんと映画をご一緒する前日。
練り香水の入った小瓶を蛍光灯に透かしたみたりして、私は等々準備が整ったと臍を固めていた。準備と言えども、用意したものと言えばハンカチにチリ紙にこの練り香水くらいなもので、後は胸の内に住まうおどおどとした私の覚悟だけなのである。これが一番厄介であると言える。
私は決まって意中の乙女とお近づきになるや、臆病になって自分から尻尾を巻いて逃げ出す癖があった。正直な話し、それは意中に居る乙女に好かれる為に背伸びをし、またはつま先立ちで歩調を合わせ続けた結果であると断言できる。結局、無理は無理として祟るのである。
故に私はそんな私であるからこそ、恋に焦がれようとも私自身たらんと佇ずまう決心をし、最後の失恋から今の今まで、女性の生態と己の鍛錬に勤しんできたわけである。「今度映画をご一緒しませんか」の一言はその賜であると共に、忘れかけていた私の私による私の為の青春のカムバックを意味していた。
「あほらしい」
そんなc級映画の宣伝よろしく、仰々しくもがなり立てた自分に呆れてついそう呟いてしまった。
青春のカムバックなど、どうでもよい。すでに青春と言うにはタケ過ぎているし、結子さんとはそんな風に身構えて映画に行く間柄でもない。けれど、決して恋人やそれに準ずる睦まじい関係でないことも記しておきたいと思う。
そうなのである。彼女とは肩肘を張る必要もない映画好きのお友達という間柄で、明日封切られる『ダイヤモンドの幸せを』と言う映画を見に行く約束をしていたのだった。結子さんはとてもふんわりとした女性であって、まるで私を異性として認知していないがごとく、朗らかによく微笑みかけてくれる。平気でホットドックのケチャップをスカートに落とすし、袖口から入ったポップコーンに大騒ぎをするし……まだ一度しか映画を一緒したことがないのだが、思い返せば思い返すほどに、私は男性としては意識されていないのだ。と項垂れてしまう。
古平に言わせれば、それは私にも落ち度があるのだと言う。私が彼女を女性として意識しないから彼女も私のことを異性として認識しないのだと言うのだ。確かに、私も彼女と初めて映画を一緒すると言うのに、会社帰りにかっこつけて、取り立てて身だしなみに気を遣うことはしなかった。古平の弁を肯定するのは実に気に喰わないのだが、それとて一理あるのかもしれないと考慮した結果の練り香水だったりするのだ。 明日も、前回同様に仕事帰り、スカラ座前で待ち合わせをしている。目立ってお洒落をするのではなく、さりげないお洒落にこそ紳士道と心得る私であるから、やはりふんわりと良い香りで彼女の気を引きたいと思うわけだ。これ見よがしに気合いをいれてしまっては、転じてそれが下心と勘違いされかねない。もちろん、下心がないと言えば男子が廃るわけだが、表だって下心をさらけ出しては品がない。
下心とはひた隠さなければならないのである。
〇
『トキトワ』を来週末に控え、私は智さんと明日『ダイヤモンドの幸せを』と言う映画をご一緒する約束をしています。
そうなのです。スプラッター映画をご一緒した帰り、立ち寄ったフードコートにてスカートにケチャップをこぼしてしまい、落ち込んでしまっていた私に智さんが、そっとパンフレットを差し出して「よろしければ次ぎはこれを観ませんか」とお誘いくださったのでした。
私はとても嬉しく思いましたので二つ返事で「是非!」とお答えしました。
もちろん、血で血を洗うスプラッター映画ではありません。あらすじを少しお話いたしますと、夢も希望も粉雪のように舞い降りては消えてしまう、そんな世界に生まれたセラとセルの双子の兄弟が父親にもらった金剛丸と言う船にのって、踏んづけても叩いても壊れない幸せを探すたびに出る。っと言ったファンタジー長編に仕上がっている作品なのです。
私はスカートにケチャップをこぼしてしまいましたし、折角の映画も内容が内容だけにほとんど目を閉じていて、上映が終わってからストーリーを智さんに教えてもらうと言う有様でしたので、お誘い頂けたことが一層に嬉しく思えたのでした。
大の大人であると言うのに、私と言えば、ポップコーンが袖口から転がり入ってきたことに大層驚いてしまう性分なので内心では智さんに呆れて仕舞われたのでは……と落ち込んでいた私なのです。
智さんは、ローマの休日に登場します、ジョー・ブラッドレーに似ているように思います。未だ指折り数えるほどしかお会いしていませんけれど、どことなく、常に紳士たろう。そんな雰囲気が漂っているのです。少し控えめな性格の私ですから、半歩ほど前を歩いてくれる、そんな距離感がとても有り難いですし、私がしでかしてしまう子供のような姿を大きな目で受け止めてくださるのです。そうですね、お父さんのような眼差しと言えばわかりやすいかと思います………思いますが、私としてはそれは不本意だと思います。その、なんと言えばいいのでしょうか。智さんは男性であって私の父ではありませんし、ましてや私は子供ではありませんもの!
智さんからして私はどう写っているのでしょう。手のかかる妹……ただの友達……映画好きのお仲間……恋人……恋人……ではないのでしょうね。
私は窓に映る自分の顔を見て思い切り首を振りました。恋人だなんて。恋人だなんてっ!智さんは私の事をまだ良くご存じありませんし、私だって智さんのことを少ししか知りません。恋人とはやはりもっともっとお互いのことを知り合って尚、お互いの恋心を確かめ合ってこそはじめて『恋人』になれるのですもの。
〈 映画が好き 〉
ただその一片だけしか知らない私は、到底そのような関係にはなることはできません。良く良く言い得て……『映画好き仲間』と言うことろでしょう。
ガラスに写る自分はとても残念のような,酸っぱい何かを食べたかのように口をとがらせています。そして小さくため息をつくのでした。
「どうしたの?ため息なんてついて」
私がもう一度小さくため息をついて、仕事の続きをしようとボールペンを持ち直したところで、お気に入りのマイマグカップを片手に携えた瑞穂先輩が私の顔を覗き込むようにしてそう言うので私は咄嗟に「なんでもありません」と慌てて言って仕舞いました。
「なんでも無いのに、ため息つくかなぁ」悪戯な笑みを浮かべながらそう言った瑞穂先輩はピーチティーを一口飲んでから「幸せ逃げちゃうぞお」と続けます。
「少し仕事が立て込んでるだけです」私は嘘をつきました。
「うむ。映画も良い。けどね仕事のストレスは飲んで吹き飛ばすのが一番!今週末の合コンに来たらもっとリフレッシュできるよっ!」
真面目に励ましてくれるのかと思って損をしてしまった面持ちです。そんな私を尻目に先輩はますますニカニカと笑みを浮かべながら「ねっ、後1人席が空いてるのよ、どう?どうよ?」と強引に迫ってきますので私は凛とした声で「善処します」とだけ伝えておきました。
「期待してるわ」苦笑しながら、私の元から離れてゆく瑞穂先輩を横目に見ながら私はふっと、『恋人』と『変人』は似ていますね。そんなくだらないことを思ったのでした。
◇
最近、特に思うところがある。我ながら映画の趣向が変わったと言うことである。数年前までは、派手な銃撃戦やSFもののみが私の琴線を大いに振るわせてくれたのものだが、近年では、とかく物静かにおいて感性をじわじわと温める。そう行った物語ものを好むようになった。意識しはじめたのは『月が兎に恋をして』を見てからだろうか……かといって、アクション映画が嫌いになったわけではなく、たまには。と思うのだが、なんだ、その、結子さんと映画に行くようになってから、どちらかと言えば鑑賞する作品を結子さんの趣向に寄っている傾向から、先日などついに恋愛ものまでみてしまっている。
今まで見ることなどないだろうと思っていた恋愛ものすら、隣に結子さんがいると思えば、それなりに楽しめるで、本当のお楽しみは映画の後にあったりする。っと言うことを照れ隠し程度に話しておこうと思う。
今夜見た『ダイヤモンドの幸せを』と言う作品はファンタジーと情緒ものの、丁度間に位置する内容で、もちろん、ラストはハッピーエンドであった。エンドロールを見ながら胸の奥が微かに温かくなる。そんな繊細微妙な余韻を感じられる良作であったと私は思った。退席が目立つようになって来てはじめて、私は右隣に座る彼女に視線を向けた。
結子さんは上映途中から用意していたハンカチを両手に胸の所でしっかりと握ったまま未だにスクリーンに釘付けとなっていて、今まさに余韻の真っ直中にいる彼女に声をかける事など私には到底できず、彼女に習い私もエンドロールが終わり、明るくなるまで再び余韻に浸りながら、この後、フードコートで彼女と何を話そうか、今回はコーヒーではなくカフェラテを飲んでみようか、などと温かな余韻と煌々と瞬く気持ちを一つの胸の中に抱えてどうにもこうにも幸というやつを噛み締めている私であった。
「すみませんつい長居をしてしまいました」結子さんはそう言いながら私に軽く頭を下げると急いで荷物を抱え階段を降りて行くのであった。
「急がなくても、フードコートは空いてますよ」と一言言ってみたのがだ、やはり、どこか気を遣っているようで、結子さんが歩みを早める姿に私は少し寂しさを覚えつつ、入って来た清掃員とぶつかりそうになり、何度も頭を下げている姿を見るに、それ以上に愛らしさを愛でる感情がわき上がってしまってどうしようもない。
私たちは閑散としたグッズ販売コーナーでパンフレットを購入してから、いつも通りフードコートに行き、彼女はホットドッグを買い、私はコーヒーを買い求めた。
そして、いつものテーブルについてから話す最初の会話である。
「私は「輝く星でもかすかな星でも、それはキミだけを照らす君だけの星」が良かったです」
「ずるいです。先に言ってしまわれたら、私は違う台詞を言わなければいけないように気持ちになってしまうじゃないですか」彼女はホットドッグにケチャップを慎重に掛けながら、少し膨れたものいいでそう言い。続けて「私も同じその台詞にどきっとしてしまいました」と視線を上向かせながら目元に恍惚の色を浮かべるのあった。
見ようによってはケチャップを上手くかけることができたことに恍惚としているように見えてしまうだろう。そんな事を気にもしていない無邪気さを見ると、上映中、ハンカチを出そうとして鞄の口に指を引っかけ膝に置いていたポップコーンを少しこぼして静かに狼狽していた彼女を思い出してしまう、つい口元を緩めてしまった。
「何かついていますか?」
彼女の顔を見入って、回想にて微笑みを浮かべてしまっていた私に彼女はそう言いながら首をかしげる。「いいえ、何もついてませんよ」私は努めて冷静にそう言いながら誤魔化しのコーヒーを口元へ運ぶのであった。
〇
探して探して見つからず、とうとう疲れ果てて草原に寝転がった二人が見上げた夜空を偶然に駆ける箒星。そして、ルネがルナの手にそっと手を重ねて言うのです
『輝く星でも微かな星でも、それはキミだけを照らすキミだけの星だよ』っと。
上映前の評判は今ひとつ良くない『ダイヤモンドの幸せを』でしたが、想像以上に感情移入のできる良作であったと私は思いました。
何せ本編終了後、エンドロール丸々をつかってその余韻に浸ってしまっていたのですから。私一人で鑑賞に来ていたのであれば、それでも良かったのですが、今夜は智さんとご一緒していましたので、私の為に随分とお待たせしてしまい、申し訳ないばかりです。
そして、私は心配でした。私としたことが、ハンカチの準備をしていませんでしたので、涙腺が緩んでしまった時には慌てて鞄からハンカチを出したのです。あまりに急いでいましたので、弾みで膝の上に置いていたポップコーンを少しこぼしてしまいました。
智さんには見られていないとは思いつつ、もしも、見られてしまったのであれば、お恥ずかしいばかりか、マナーの悪さに幻滅されてしまったかもしれません。
ですが、いつものフードコートでお話をしていると、智さんはとても楽しそうでしたので内心ほっとしました。
けれど、おっちょこちょいな私ですから、ここでも気を抜くわけにはいきませ。また、ケチャップをこぼしてしまっては恥の上塗りですから、私はいつも以上に緊張を
して慎重にホットドックにケチャップを掛けていました。すると智さんが、
「私は「輝く星でもかすかな星でも、それはキミだけを照らす君だけの星」が良かったです」と言ってしまうではありません!
「ずるいです。先に言ってしまわれたら、私は違う台詞を言わなければいけないように気持ちになってしまうじゃないですか」私はケチャップの手を止めて、慌ててそう言います。
『お気に入りの台詞』を最初にお互いに言い合うことは恒例になりつつあると想います。まだ数えるほどしか映画をご一緒していませんけれど慣例なのです。
いつもは、同時に言うのですが、今夜に限って智さんは先に言ってしまうので、私は、智さんと同じ台詞なのに、違った台詞を言わなければならない面持ちとなってしまいました。
ケチャップを掛け終わり、ホットドッグの一口目を小さめの口で頂くと、映画の余韻スパイスと相まってまさに至福の一時です。そんな至福の一時を噛み締めていますと、智さんが私の顔を見ていることに気が付きます。それを危惧しての小口だったのですが、もしかして口元にケチャップなどついてしまっているのでは……と思った私はつい、「何かついていますか?」と聞いてしまいます。
智さんが私の顔を見つめているなんて、言ってしまった後から、早合点だったのかもしれない。そう思いましたけれど、もう言ってしまったので仕方がありません。とんだ自意識過剰な私なのでした。
ですが、智さんは嫌な顔一つせず穏やかに「いいえ、何もついてませんよ」と短く言うとまだ湯気が煌々と立つカップを口へとやるのでした。
購入したパンフレットを開きながら一通り感想など、談笑をした後、私たちはフードコートの端にある、新作映画のインフォメーションへ行きます。インフォメーションと言っても新作映画のA4版の広告が並べられているだけなのですが、今も昔も私は鑑賞の折は必ずここに立ち寄ることにしている
「トキトワ、いよいよですね」
上段中央に並べられた『トキトワ』の広告を手に取りながら智さんが言います。「はい。待ちに待っていたので、もう楽しみで楽しみで」私はもう何枚も広告を持ち帰ってしまっていましたので、智さんが手にとって広告を見ながらそう言いました。
そうなのです、私は原作本を数年前に読んでいて、すっかりトキトワのファンになってしまっていました。ですから、一年前程前に映画化されると知った時は、思わず「わぁ」と感嘆の声を上げてしまう程で、それ以来ずっとずっと封切られる日を心待ちにしていたのです。
長く待ちました。これだけ長く待ったのですから後一週間くらいどうと言うことはありません。そればかりは、トキトワを見終わった私の胸は一日千秋と待った万感の感動に溢れていることに間違いなく、これ以上ない悦楽の境地にて、またこのインフォメーションの前に立っていることでしょう!
◇
インフォメーションの前でトキトワの話しをしてから、私たちはスカラ座を出て、まだまだ宵の口である街へ歩き出した。次ぎに向かう店を探す人、家路を急ぐ人。男女二人で仲睦まじく食事へ向かう人々。部屋の明かりの数だけそこにドラマがあると言うが、街中を歩く人の数だけやはりドラマがあるのだろうと私は思った。
言うに私も結子さんと連れだって歩いているのだから、周りからすれば、うらやましがられる部類に入るのかもしれない。端からみれば……であって、核なす二人の距離たるやひっつきもしなければ、また離れ過ぎることもなく。まるで波に揺られるままに大海原を彷徨う海藻のような私である。
今のままでは綱渡りである。映画を一緒した後に次の約束を取り付ける。そしてまた、次ぎの時も次の約束をして、やっとまた次ぎに繋げられるのである。まさに、まったなしの一本勝負。もしも、この機会に次の約束をできなければ、そこで、結子さんとの至福の時間はあっけなく終演を迎えてしまうのだ。内心では『トキトワ』を見終わるまでは、首が繋がっていると安堵しているものの、その後のことに考え及べば、やはりいつ落ちるか終わるかわからない綱渡りでしかないのだ……トキトワを恍惚と語る彼女に私は恍惚としてしまった。たまに見せる無邪気加減が、飾らない彼女を見ているようで、それは私にとっての特別な彼女の素顔であると信じて疑いたくなかった。だからこそ、余計に駅で手を振り合って別れる瞬間が虚しくて恐ろしくて仕方がない。
結子さんはそこのところをどんな風に考えているのだろうか……いいや、そんな下世話な心配など露ほどもしていないのだろう。
正直なところ、まだ大人の時間すれば宵の口。「(これから食事にでも)」とお誘いすることの方が極自然的であろうと私は思う。けれど、先に記した通り、そこで何がどうして悪い方向へ少しでも均衡が傾けば、即、結子さんと映画を楽しむと言う至福は終わりを告げるのである。
脆すぎるの縁の糸よ。と嘆くのは感嘆だが、それは一昔前に遡ってから嘆けばいい。今では携帯電話と言う便利かつ大胆不敵な連絡手段があるのだ。故に私は今宵も食事に誘うことは二の次として、まずは結子さんの連絡先を聞き出すことを第一としなければならない。これを橋頭堡としてその次ぎにようやく、お食事など~と前進を試みることができるのである。
そうだとも。私には明確な下心がある。金塊や年末ジャンボの一等当選クジよりも、彼女の連絡先が欲しい! アドレスだけではなく、電話番号も知りたいのだっ!
久々に私は下心を煮えたぎらせていた。
そんなことを知るよしもない結子さんは、駅舎に入っても改札を通る時も、電車を待っている時も、そして電車に乗り込んでもずっとトキトワの話しをしていた。なんでも、トキトワの原作は数年前に出版されベストセラーになるわけでもなく、かといって無視できないほどには話題になったらしく、結子さんは原作小説の世界がどのように描かれて行くのかを想像するとそれだけで楽しくて仕方がなく、終始笑みをたたえて私に話してくれた。話してくれたのが、原作を読んだことがない私には今ひとつイメージできず、残念ながら終始聞き役に徹するしか術がなかった。ただ、嬉々として話しをする彼女をずっと見ていられたのは幸せであったと言いたい。
一駅一駅と車輪が進むたびに私は私に急かされているように、彼女の話をも上の空となりつつあった。本来であるならば、すでに次の待ち合わせの話題に持ち込まない限りは、到底私の下心が達成される見込みは薄らいで行く。極々当たり前にして、私は昨晩より現在に至るまで、彼女に連絡先の交換を持ち出すシュミレーションを何度となく思慮し、シュミレートしてきた。全ての結末においてBADエンドであることを除けばあらゆるパターンは経験済みと言う訳なのだが……このままではシュミレーション通りのBADエンドであろうと思う。急かされる私の背中では誰かが「トキトワを1人で見に行くのかもよ」とニヤニヤモノがささやきかけるようで、ますます私は彼女の話を聞くに表情に色を失って行く。
こんな不器用な私は私が一番大嫌いだ。
ふと、視線を上げると、そこにはトキトワの中吊り広告が静かに揺れていた。彼女のこれを教えたなら、きっと喜ぶのだろうし、ようやく私から話題を振ることもできると言うものだ………だが、今の私にはそれができなかった。それをしてしまうと、絶望的に自信の願望を自ら打ち砕くことになるからだ。
下心とはかくも嘆かわしいものだ。どうしてこうも真綿で首をしているように居心地が悪いのだろう。もしかしたら、結子さんの前では紳士たらんと姿勢を正そうとする自我がまだ残っているのかもしれない。けれど、そんな紳士風を吹かせていたって、連絡先を聞き出すこともできなければ、結子さんとの距離を縮めることなど到底叶わない。
そんなことでは、全ては後手後手だ! 外堀を一所懸命に埋めて埋めて、彼女から手をさし述べられるのをただ待っているだけではないか。それは唾棄すべき意気地なしであって紳士などではありもしない。どうせ後悔するのであれば、自ら開拓精神でもって未開の園への扉を開きにかかるべきだろう。それならば途端に、劫火に焼屠られようとも本望であると言える。
相変わらずの仰々しい思考にて自分自身をい鼓舞した私はついに、自身の下心を吐露することにしたのであった。
「あの……」
彼女の話に割って入るように、私は口を開いた。もう少しタイミングと言うものを考えた方が良かったと後々に後悔することになるだろうが、今はそんな悠長なことを考えて居る場合ではない。
「はい……」彼女は、私の眼差しに吃驚した表情を浮かべながら辛うじて返事をした様子であった。
「すみません……私ったら、つい自分ばかり話してしまって……」
次ぎに驚いたのは私であった。今まで天真爛漫に話していた、彼女が突然俯いたかと思うと、声を細めてそう言ったからである。
「えっ、いえそんなことありませんよ、そんなこと。ありません」
私はバカだ。私は私の下心を伝えたいが為、その為の言葉のみを頭の中に巡らせるあまり、彼女に対してそんなありふれた言葉しか返すことができなかった。これにこそ自己嫌悪だ。どうして、咄嗟であっても気の利いた一言が口から出てこないのだろうか。
「それなら良かったです。私ったら話し過ぎてしまいました」
「気持ちはわかりますよ。私もトキトワを楽しみにしてますから。ただ、その……待ち合わせとかをどうしようかと思いまして」
仄かに安心した彼女の表情を見ながら私は遠回しに話題を切り出した。触りとしては上々だろうと思う。
「えっと、今回もスカラ座のチケット売り場の前にしますか……?」人差し指を口元にやり、まるで待ち合わせ場所を想像しているかのように彼女は視線を上向かせて言い。「そう言えば、まだ待ち合わせをしていませんでした」と続けたのだった。
ここが正念場だろう。前回も前々回もこの流れのままに私は「そうですね。そうしましょう」と同意のみをして、その時をやりすごし次へ次ぎへと先延ばしにしてきた。次ぎに彼女と相まみえる自分頼みとして…………
それでは駄目だと思い続けて……思い続けて……
「その……えっと」この瞬間に今まで蓄積してきたありとあらゆるシュミレーションが全て吹き飛んだ。真っ白である。
「はい。なんでしょう?」
瞬きをする彼女は首を斜めに傾けて私を見上げている。きっと、思い切り唾の塊を飲み込んだ様子も見られてしまっているのだろう。いいや、この期に及んでそんなことはどうでもよい。
「最近、仕事が忙しくて急な残業とかが入るかもしれないので、その、私の連絡先をと思うのですが」
顔が熱い。高熱にうなされるが如く顔中が熱く、そして動悸が激しい……きっと私の顔は今溶岩のように真っ赤だろうと思う。なんだ。この羞恥心にも似た逃げ出したい衝動は。
私は再び大きな唾の塊を飲み込んだ。
「そう言えば、まだ私の連絡先も教えていませんでした」結子さんは鞄の中に手をやりながら静かにそう言うのだった。
私の緊張の糸がほぐれる前に、車内アナウンスが結子さんの降りる駅名を告げた。
◇
「ええっと、どうしましょう……」
携帯電話を取り出したところで、結子さんの降りるホームへ電車が滑り込んで行く。
「それではまた次の機会にしましょうか」といつもの私なら言うところであったが、ようやく事の成就を前にして、引き下がるは愚の骨頂! 私は視線を彷徨わせる結子さんを先導するように「とりあえず降りましょう」と私はいたって冷静にホームへ降りた。
都会の喧騒から解き放たれたホームの上を秋の名残を漂わせる風が吹き抜けてゆく。
もう晩秋だ。
「すみません。私がぐずぐずしているから」と携帯を握りしめ、続いて降りた結子がそう言う。「いえ、言い出したのは私ですから」何かを続けて言おうとした結子さよりも先に私はそう言った。
結子さんはと言えば、小さな口を少しだけ開けて、続けようとした言葉を表情に浮かべたまま小さくうなずくのだった。
かくして、その日の帰り道はとても気が重く、それに従順してやはり足取りとて、鉛のようであった。
家に入るなり鞄を放りだし、湯船に湯を注ぐボタンを押し、それが完了するまで私は為す術もなくただ、ぼおっとしていた。唯一ネクタイを緩めた事だけを覚えているが、それ以外にはほとんど何もせずに二人駆けのソファに腰を埋めて天井を仰ぎ見ていたのだ。
やがて、湯はりの完了が告げられ私はやっと動き始める。風呂とはこんな時ほど心体いとわず温めてくれる唯一の方法であろうと私は思うばかりだ。
私はその日に限って珍しく、風呂上がりに缶ビールを大凡煽った。いつ冷蔵庫に入れたのかが忘却の彼方であったことには一抹の不安を覚えたものの、今日ほど酒を煽らずにいつ煽るというのかっ!私は大凡煽ったビールの缶をシンクの中に乱暴に置くと、ただ酔いもせず気分だけは酔いしれて玄関へ鞄を取りに向かったのだった。
気は重い。気が重いと思いこみたい……それでも私の心中では快哉の抑揚頓挫がとどまるところを知らず、携帯を取り出すや、口元はだらしなくもニヤニヤとして仕方がない。
「私もあまり赤外線通信を使わないので」結子さんは少し恥ずかしそうに言うと、「どれを押せばいいのでしょう」と高機能携帯電話。俗に言うスマホを私の差し出したのであった。
使い慣れない他人のスマホを操作するのには、少しの時間を費やしたが、基本機能フォルダを開くとそこにショートカット作成以前の元アプリケーションがあり、それを見つけた私は迷わずにそこから、結子さんの赤外線通信アプリを起動した。
そして携帯電話を付き合わせながら、微笑ましい連絡先交換タイムを経て、私はついに我が意中の乙女たる結子さんの連絡先を手に入れてしまったのである。
「これで、いつでもどこでも連絡がとれますね」何気なくそう言う結子さんである。
そんな結子さんはとても罪な人であろうと私は言いたい。そんな事を言われてしまえば、そんな事を言われてしまったなら!
好きになってしまうじゃないか……
「そうですね。いつでもどこでも、便利な世の中になったものです」私は「四六時中連絡します」と喉まででかかった変態的妄言を飲み込み、努めて冷静を装い、ついでに女性1人分の連絡先が増えたところで特別嬉しいこともない。と言う素振りをし、
「それでは、こちらから連絡しますね」平静を装って言えた精一杯の言葉だった。
今にして思えば、「こちらから~」などという余計な付け足しはいらなかったのではなかろうかと思うばかりだ。いいや、すでに後悔の範疇にあると言っても過言ではなく、彼女からの連絡を待った方が私にとっては色々とのんびりと構えていられたのでは無かろうかと苦悶するばかりである。
全くもって私のへたれ加減と言ったら………我ながら情けない。
へたれはへたれてまでも、やはり男子たるはとはたと思うところであるからして、私はメール製作画面とそうとう睨めっこに興じることにした。文字を打っては「戻る」に触れて白紙に戻す。そんな作業が好みなわけではなかったが、そうせざる得ないのは私に文才とそれに準ずる色々な経験が不足しているからであろう。
誤魔化したくも現実は認めなければなるまい。
「うわっ」
今夜も更けた。と明日の朝にでも……そう思った矢先、スマホの画面に突如としてレター表示が明滅したかと思うと、聞き慣れない着信音がけたたましくなった。タイミングがタイミングだけに、私は「うわっ」と言うと、その惰性のままスマホを床の上に落としてしまったのであった。
[
夜分遅くに失礼します。
明日の方が良いかと思ったのですが、今日の事は今日の内にと思い、メールしてしまいました。
本日の映画もとても楽しかったです。また、ご一緒できたらと思います。
それでは、おやすみなさい
]
「……ぉぉ」私は恐る恐るメッセージに目を走らせると、喉の奥からそんな声にならない呻きをひねり出して、顔中が火照るのを感じていたのであった。
それは深夜と言うにはまだ早い時分のことであった。
〇
私はつい、自分ばかりが話してしまう癖があるみたいです。会社などでは気をつけているのですが、実家などでは爆発させてしまうのです。三つ子の魂百までと言いますから、きっとこの先も治ることがないのでしょうね……
「失敗でした」自宅へ帰る道すがら私は呟きます。
あれは遠足の日でした、家に帰ってきてから私は両親に1日の出来事を永遠と話しました。お夕飯の時もお風呂の時も寝る前も、そしてお布団に入ってからも……怒られるまでずっと……
私の話をずっと飽きずに聞いて居てくれるのは、お婆ちゃんと猫のグレだけでした。
「ふぅ」私はため息をつきました。麗月を見上げて「ふぅ」とため息をもう一つ。
後悔しつつも、智さんは私の話をずっと聞いていてくれた事を思い出しました。思い出すと、少し嬉しくなるのです。反省しなければいけないと言うのに。
やはり私のこの性格は治りそうにありません。
それにしても、未だに連絡先を交換していなかったのは自分自身でも驚きました。もう何度も映画をご一緒していると言うのに。そう考えてみれば、今まで良く無事に待ち合わせて映画を見られたものです。加えて、まだ、トキトワ鑑賞の待ち合わせもしていなかったなんて……私は暫時嬉しくなってしまって、ため息を微笑みに変えて俯きます。丁度、ジョガーさんとすれ違うタイミングでしたので、私は俯いたのです。突然ニヤケ顔をつくるなんて、やはり薄気味悪いと思うからでした。
部屋着に着替えてもまだ、私はあれやこれやと考えを巡らせてニヤリニヤリとしていましたから、すっかり、お風呂に入る時刻も遅くなってしました。
湯船に浸かって、一日の疲れを癒すと共に、再び智さんと合流してからの事を思い出します。なんだか恥ずかしくなってしまうので、日頃は智さんの表情などは思い出さないようにしているのですが、今日はそうもできなくなってしまいました。
「そう言えば……」私は湯気の立ちこめる天井を見上げて呟きました。
そう言えば、智さんは今日、妙に落ち着きがなかったように思います。なんと言いましょうか、何かを急いでいた……そんな雰囲気があったような。
もしかしたら、帰宅を急いでいたのかも……仮にそうではなかったとしても、きっと、それには理由があるはずなのです。
私と言えば、すっかり舞い上がってしまって、斟酌するに居たらず、いつも通りで通してしまいました。本来なら、私の間合いで話しなどせずに歩みを早めれば、インフォーメーションの前でぐずぐずしていなければ、いくらか早い電車に乗れたのです。
そんな風に考えてあたってしまうと、忽ち私は微笑むことができなくなってしまいます。
もしかしたら私の意図しないところで智さんに不快な思いをさせてしまっていたのかもしれないのですから……
性分なのでしょうね。私はもしかしたら……と考え出すと、ずっとそればかりを考えていまっていました。今頃、智さんの身心はどこにあるのでしょうか……と……不意にスマートフォンが見あたるとどうしても、ご機嫌伺いのメールの一つでもしてして仕舞いそうで堪らなくなります。
けれど、私からメールを送ることに少し抵抗があるのです。時代錯誤と瑞穂先輩などには良く言われてしまうのですが、やはり私の方から男性の方にメールをすると言うのは……まして初めてのメールをするなんて……
湯舟にあまり浸かることができず、なまじ温い体を炬燵に滑り込ませると首を軽く振ってからテレビを付け、読みかけの文庫本を開いたのでした。
◇
まさにそれは青天の霹靂であった。まさか、先に彼女の方からメールが送られてくるなどと言う事象を私は万に一つとして予期していなかったからである。
へたれた私と私がメールの送信の有無で押し問答をしている刹那の思わぬ受信に私は一切の訴訟を瞬く間に和解するでもなく切り上げると、へたれた私と共闘してなおメールのお返事を執筆するに奮闘しはじめたのであった。
「私には文才がない!」叫ばないながらも、私はドラマよろしくそのような台詞を吐きながら、何度も点滅するカーソルを行ったり来たりさせながら、想像以上に時間が早く流れている現実に幻滅をした。
手紙よりも簡略化された電子メールであっても、そこにはやはり、気の利いた面白みもあれば、一転させた知的な一言、そして何より思い遣りの籠もった文章を彼女にこそ届けなければならない。決して軽佻浮薄な文章であってはならないし、かといって懇切丁寧に全てを盛り込んだ長文にしてもならない。故に私は私による『縛り込み』にて雁字搦めに溺れ、ついには指さえも空をきることをやめてしまったのだった。
最初のメールと言うのは非常に厄介だ。
それでも堂々巡りを経て、差し障りのない文章をやっとのこと書き上げた私は、送信段階への最終シークエンスを前にまさに万感の面持ちであった。あったのだが、スマホに表示されている小さなデジタル時計はすでに深夜を遅く表示いているではないか。電話を掛けるには憚られる時刻である。もちろん、電話でないのだから憚る必要はないのだが、何せ物事とは最初が肝心であるからして、やはりメールを送信することは差し控えた良いのだろう。私は泣く泣く、送信を明日の朝に持ち越すこととしたのであった。
翌朝、私は出社の後自分のデスクについてから苦虫を噛み潰した顔をしてスマホを睨み付けて居た。あれだけの時間を費やして作成したメールを保存していなかった事実に気が付いたからに他ならない。
最終的に差し障りのない文章に落ち着けたことが幸いしてか、翌日であるために文章自体は覚えていたから、文章作成には事に時間を費やすことはなかったが、なんだかかんだか、出鼻をくじかれたようで縁起が悪いようで、送信をした後もしばらくはすっきりとしなかった。
とは言え、私事に付き合ってくれるほど仕事は甘くなく、擡げた頭を上げると私は昨日エラー報告が上がってきたアプリケーションの修正作業に取りかかることにしたのだった。
「ワンエラーリバース千回チェックっておかしいと思いませんか?」
「今更何言ってんだ。いつもの事だろうが」
青白い顔を引っ提げて古平がフードフロアへやって来たのは昼休みを半分過ぎたころだった。話しから察するに、開発中のソフトにエラーが出てしまったらしい。修正をもっぱらの業務とする私と違い、プロジェクトチームに属する古平は一度エラーが確認されてしまえば、プロジェクト部署は総出で不夜城と化す。その分動く金額も桁違いだが、費やす労働力を考えれば対価としては妥当と言えないだろう。
「今週末また合コンするんだろ。それに目掛けてがんばれよ」我ながらダイレクトな励ましだと思った。
「もちろんですよ。仕事は投げても合コンには行きますとも」さも当然と言い切ってから古平はエナジードリンクの瓶を片手に不夜城へ帰って行った。
流行に乗った古平とそれを無視した私。思えば現在の境遇は入社以前から決まっていたのかもしれない。私が就職活動に邁進していた当時はSEと言う職業はIT革命と相まって花形な存在として世間でもてはやされていた。故に同期入社の多くはSEを夢みていたし、数年経てば夢と現実のギャップに耐えかねてその多くが会社を去った。
映画のようにうまくは行かない。夢と現実も同じようにミスマッチすることはあってもマッチすることは希のようだ。
だからこそ、映画のような出会いを果たした結子さんとの事に私は積極的になれないでいる。ある日、突然、夢のように泡のように結子さんが消えてしまうようで……あまりにも私の理想的な出会い方であったし、結子さんと言う女性を私はとても好みとしている。だからこそ、理想と現実という暗黙の壁にいつか突き当たってしまうのではないかと私は怯えているのだ。
恋に恋をしてがむしゃらに蒙昧して、彼女に焦がれて……それほど私も子供ではないのだ。
破れて覚めて、そこに結子さんという存在がいなくなってしまった現実を正面から受け止められる自信はないし何よりそれが恐い。私は臆病者なのだ。
メランコリー メランコリーと鐘を鳴らして、その日は滞りなく終わり、不夜城組をよそに私はさっさと帰宅の途についたのであった。
会社からして最寄り駅。その前には横断歩道を一つ挟んだ角地に書店があった。その名を啓林堂と言う。私もちょくちょく電車の待ち時間を計算しては店内に出入りしている、書店であった。
店内は可もなく不可もなく、居たって普通の装いであり、文庫に漫画、雑誌から傘まで満遍なく品が揃えられてある。品のバランスと良い品揃えと言い、店舗面積からして良く考えて仕入れ・陳列をしていると思う。店内の時計を見やるに電車の時刻まで約4分ほどだ。速攻で本を手に取り、レジに滑り込めばなんとか支払いを済ませても電車に間に合うのだが……生憎、今の私は欲しい本もなければ、レジを見るに数名が支払い待ちをしている。これでは支払いを済ませる前に電車が来てしまうだろう。故に私は、書店の入り口付近に陳列された最新の文庫本をすらっと目配せをしてささっと書店を後にした。
踵を返すと、丁度、遮断機が降りはじめたところだった。
電車の時間まで4分。そして、すでにレジに列んで居る数名の客。
私は電車の中でほんの数ヶ月前のことを思い出した。
その日、私は今日と同じように会社の帰りに啓林堂へ寄った。今日と違ったのは面白そうな文庫本を2冊手に取ってレジへ向かったことであった。電車の時刻まで4分を残して2人私の前のお客の姿がある。そのうち最前列いた女性は私が列ぶと同時に支払いを終えて出て行ってしまったから、実質は待ち人数は1人だけと言う事になる。
その人は艶やかな黒髪を肩まで伸ばした女性であり、歳の頃で言えば私と同じくらいか少しばかり下かもしれない。頭一つ慎重が低いその人は肩に掛けたバッグにヘイマーケットチェック柄の定期入れをぶら下げていた。
「ポイントカードはよろしいですか?」と店員に聞かれると「持っていません」と言いながら財布を持つ右手を小さく、しかしながら何度も左右に振っていた。その後、もう一度「カバーも入りません」と言いながら同じように手を左右に振っていた。その仕草がどことなく林檎を食べるリスのようで向日葵の種を食べるハムスターのようで愛らしかった。
小さな偶然が重なると、人間はそれは運命だと思いこみたくなってしまう。かく言う私もそんな人間の一員であるから、ホームで彼女の後ろ姿を見かけ、同じ電車に乗り込むところも見。加えて、下車する駅までも同じであり、決定的であったのは彼女とて迷うことなく南海スカラ座へ入っていったことであった。これは果たして運命と言うやつではあるまいか。と、一度でも思ってしまうと、どうしても彼女の素顔を一目見たくなってしまった。
一目だけ。遠目からちらりと一目だけ…………
こうして男子はストーカーの一線を越えて行くのだろう。そんな一線を跨ごうとしている自分に気が付いたこともあそうであったが、スクリーンフロアへと遠ざかって行く後ろ姿を見ていると、なぜか不思議と素顔は見ない方が良い。頭から冷や水を被せられたかのょうに、私は至って冷静に彼女の後ろ姿を飲み瞳に焼き付けたのだった。
仮にチラリとでも見てしまおうものならば、私は四百四病の他、往々にして効薬のない病を患うことになってしまっていたであろう。男子のたるの嵯峨であろうとは重々承知しつつも、こればかりはいかんともしがたい。故に私は私自身を守ることを最優先にした言っても過言ではなかったのである。
〇
通勤途中、通り過ぎるだけの駅前に啓林堂と言う書店があります。入社してより、気になっていたのですが、通り過ぎるだけの駅ですから、切っ掛けが希薄で……もとより、早くスカラ座へ行きたい気持ちが上回ってしまって、わざわざ途中下車できずに居ました。けれど、一度だけ行くことができたのです。それは、書店近くの百貨店の店内装飾のお仕事で出張した帰りのことでした。行きは会社より車を出して頂いたのですが、帰りは直帰でしたので、百貨店で同僚と別れて1人書店へと向かったのでした。
その書店は角地にある為か想像以上に店内かこぢんまりとしていましたが、それでも列んだ書籍の品揃えはなかなかのものだと思いました。つまり、私の好みの本が数多く列んで居たということです。
私は、定員さんとのやりとりが苦手で、相手が男性だと余計に少し慌ててしまう節があります。なので、レジに列ぶ時には予め、店員さんとのやりとりを用意しておきます。そうすれば慌てることもなくスムーズにお会計を済ませることができますからけれど、店員さんが女性でしたので私は気を緩めてしまっていました。そのせいで、店員さんとの受け答えに言葉だけでなく大袈裟な手振りまでしてしまったのでした。 店員さんは意に介さずとお会計をして下さいましたが、当の私は恥ずかしくて恥ずかしくて、その後スカラ座に到着するまでずっと足早になってしまいました。
それ以来、あの本屋さんへは行っていません。トラウマと言うよりも出掛ける機会が無いだけなので、また折りがあれば立ち寄ってみるつもりです。
私はそんな事を思い出しながら今日も帰宅の途につきました。今日は朝から色々とあって気疲れがどうしても酷いのですが、それでも、智さんかメールの返信があって良かった。それだけはそっと胸をなで下ろすことができました。
朝一番に私は昨日送ったメールの返信が無いことに首を傾げながら、送信済みフォルダを操作していました。もしかしたら、送信エラーだったのかもしれない。そう思ったからです。けれど、送信は完了している様子だったので、また首を傾げてしまった私でした。
すると
「もしかして、その文面で送信しちゃった?とか」私の肩越しに瑞穂先輩がそう呟きました。
「え。先輩おはようございます……」と近い瑞穂先輩の頬の辺りを見ながら私は挨拶をしてから「はい。昨晩メールを送りました」と言います。
「わーそれじゃ、返信しにくいでしょうね。返信まだないでしょ?」
「はいまだ返信はありませんがけれど……」
「そんな社交辞令みたいなのだったら、私だって返さないわよ。「昨日は楽しかったです。また一緒に飲みに行きましょう」みたいな感じで」ため息混じりにそう言うと続けて「はいは~い。パタンッ。って」そう言いながら、先輩は携帯電話を閉じる仕草をしてみせるのでした。
「そんなつもりはありません。けれど、初めてのメールなのでいきなり長文と言うのもどうかな。と思って……」私は語るにつれ声が小さくなって行くのがわかりました。社交辞令だなんて……そんなつもりはなかったのに……と。
「男に初メール結ちゃんから送っちゃったの?!」
「先輩、声が大きいです!」
突然先輩が大きな声を出すものですから、周りの視線が一瞬にして私たちに集まってしまいます。まして、女性ばかりの部署で[男]なんて言葉が絡むと周りは一様に興味津々なのですから……
「えっ、緑野さん彼氏できたの?!」
「えっ嘘っ!」
「だから、この前の合コンにも来なかったんだー」
「英子は彼氏居ても合コン行くくせに」
「まぁねぇ」
「っで、彼氏って得意先の人?それとも同級生とか?」
例のごとく私を取り囲んで面白おかしい談笑がはじまってしまいました。こんな時にかぎって瑞穂先輩は助けてくれませんし、私1人で対処できるはずもなく……私は、引きつった笑顔を浮かべながら、始業のチャイムがなるまでの数分を何とか凌いだのでした。
瑞穂先輩のばかぁ
〇
お昼休み前。仕事が一段落した頃、瑞穂先輩からメールが届いていました。「お昼一緒しよ」でした。
私は携帯をポケットに入れてから、瑞穂先輩のところへ行くと先輩が何かを言う前に「お昼ご馳走様です」とぷりぷりして言うのでした。
「ほんっとにごめん。つい声が大きくなっちゃって」
シャンティの女子社員行きつけのGreens & Peppersへお昼に出掛けた私と先輩は、同僚に見つかりにくい角の席に腰掛けて、フレッシュバジルのカルボナーラとムール貝のナポリタンをそれぞれ注文をして待っていました。
「男だなんて!先輩のせいで本当に困ったんですからね」私は頬を膨らませてさらにぷりぷりして見せました。なにせ、午前中は本当に大変だったのですから!
隣のデスクの同僚はずっと「ねぇ、それでいつできたの?」なんてずっと聞いてきますし、お手洗いに立つとわざわざ数名が付いてきては、「彼氏の友達とかって紹介してもらないかな」と話しかけてくるのですから。
「ここは私が奢るから、それで許して下さい」両手を合わせてそう言う先輩に私は「今回だけですからね」と言い。運ばれて来たカルボナーラに目を輝かせるのでした。
濃厚なチーズの味わいとそれを引き立てるフレッシュバジルの苦みがなんとも言えません。このお店はパスタそれ自体にも大変こだわっていて、独自に混合した小麦粉を使い、店内で製麺しているようで、パスタ自体も香ばしくも張りがある独特の味わいがあります。私は濃厚なカルボナーラソースを舌の上で転がしながら、至福の時を過ごしました。ほっぺが落ちると言うのはこのことですね。
「それで、男じゃないの?」
「へっ?」
「いや、「男だなんて」って」
「それは……その……男の人ですけど」私は耳の先が熱くなるのを感じました。
「なんだぁ、やっぱり男なんじゃな~い」水を得た魚と、先輩はまた声を大きくします。
「先輩!声が大きいです!」なのでつい私も声が大きくなってしまいました。
「もうメールのことはいいんですよ。いいんです」私はそう言いながら、恐る恐る周りを窺っていました。
「どういうことかしら?」先輩は、よほど気になるのか、口元に口紅の他にナポリタンソースをつけてそう聞いてきましたけれど、私は「もういいんです」その一点張りでそれ以上、先輩とメールの件は話したりはしませんでした。
なぜなら、本当にもういいのです。だって、智さんから返事が来たのですから!
それは10時を少し回った時の事でした。
「メール有り難うございました。
昨日中にお返事をしようと思ったのですが、何分慣れていないもので、あれやこれと考えていると、すっかり遅くなってしまったので、次の日にお返しすることにしました。お仕事中のお返事になってしまってすみません。」
明後日はついにトキトワですね。私も楽しみにしていますよ!
それではこの辺で。」
「遅くても良かったのに」と私は小さく呟きました。何せ、昨日中にお返事が頂けるものと思って、結局、日付が変わる時分まで起きていましたから。
[慣れていない]だなんて……
素直な人ですね。私も素直にそう思ってしまったのでした。
「何よ、ニヤニヤしちゃって。怪しいなぁ」瑞穂先輩はランチタイム中ずっと、根掘り葉掘りと聞きたい様子でしたけれど、私は「宝くじが当たりそうです」とか「今朝、黒猫を見たんですよ」などと、とりつく島も無いの話題でもって全てを全て華麗に牽制したのでした。
そもそも会話が成り立っていませんよね。
○
「あの緑野さんが……」会社に戻ってみると、あっという間に私の噂が他部署にまで広まっているようでした。けれど、皆さん一様に口を開けば「あの緑野さんが……」と口を揃えるのはどういうことなんですか!
入社以来浮いた話しの一つもなかった私ですけれど、年頃の女子なのですから男性とお付き合い……お付き合いでなくとも映画にご一緒するくらいは嗜みと言うものです。
なのにっ……なのにっ!
「えぇ、あの緑野さんが?信じられない……大人しそうに見えてやることはやってんのね」
「やだ、ちょっと声が大きいわよ、聞こえちゃうでしょ」
大丈夫です。もう聞こえていますから。メールの一通もらっただけでこの騒ぎなのですから、もしも、智さんとご一緒しているところを見られでもしたなら、どんなことになるのやら……私はボールペンをくるくる回しながら、「非常事態になりますね」と項垂れては飛び交ううわさ話に気が散ってしまって一向に仕事が片づかないのでした。
私が男性と連絡を取り合っていると言うことが余程、想像できなかったのでしょうか。他部署を巻き込みデスクを付き合わせた[島々]で盛り上がり続けるうわさ話はさすがに瑞穂先輩の想定を凌駕してしまっていたようで、終業定時頃近くまで先輩は収拾作業に駆け回ることになっていたようでした。
けれど、自業自得だと私は思いました。
「人の噂も75日って言うけど、さすがにこれはきついわ」パーテーションで区切った隣の部署から肩を落として帰ったきた先輩は額の汗を拭う仕草をしながら私の背中に寄りかかってきます。
「先輩の撒いた種ではありませんか。それに、私にはどうにもできないと思います」
こう言う噂話と言う物は火中の人物が何かを言えば言うほどに、燃え上がるものですから私が何を言おうと逆効果なのです。
「一つだけ、決定的且つ明快に解決する方法があります」
「なんですか?」
「合コンに参加すればいいのよ」
「えっ!なんでそうなるんですかっ!」先輩のあまりにも突拍子もない提案に私はつい大きな声を出してしまいました。
「だって、合コンに参加するってことはめぼしい男がいないってことじゃん?」先輩は人差し指を立ててそう言うと「あんに私今フリーです。ってサインじゃない」続けてそう言い、まるで革命的な一言を言い放ったかのように得意になるのでした。
「それって、ただ、私を合コンに連れていきたいだけで、口実なだけじゃないんですか……」
私はあまりにもわかりやすい先輩の誘い文句にデスクに力無く突っ伏してしまいました。
少し真面目に話しを聞いて損をした気分です。
◇
人の不幸とは見方によって2通りあると思う。
合コン当日である今夜に至るギリギリまでも不夜城での攻防に掛かりっきりとなっている古平を見やるに「ざまあみろ」とまでは言わないながらも、決して同情の余地は皆無であって、完全なる傍観の第三者である私は、同情もしなければ傾き加減によっては総合技術部に配属されなくて良かった。などと安堵の色さえも浮かべてしまうのである。
一方、見やるに心痛と何もしないながらも我が事の様に心痛を覚える他人の不幸もある。それは唐突に訪れた、私は結子さんと『トキトワ』を鑑賞するため、南海スカラ座の最寄り駅で下車をして改札口へと歩いていた。目下改装途中である駅舎はホームは真新しくも改札やその周辺は未だにどこかレトロで汚らしいままであった。
その若者は季節にはまだ早いニット帽にヘッドフォンをしていた。今時の若者風の若者は改札近くの自動販売機で飲料を買っていた。どこにでもある風景であったと思う。
今時のスマートフォンは携帯電話とは言えないほど大きく、彼のスマホも例によって大きく、ヘッドフォンから伸びたジャックが刺さったスマホはジャンパーのポケットから大きくはみ出していた。
そして、彼が取り出し口から缶コーヒーを取り出すために屈んだ次の瞬間、押し出されるようにポケットから滑り落ちたスマホは伸びきったケーブルに一度その身を空中で跳ねさせ、次いでその衝撃からかジャックがスマホから抜け、吸い込まれるように排水溝の溝蓋のをすり抜けて落ちて行ってしまったのだった。
その一連の事件はため息もつけないほど偶発的に起こってしまったわけだが、その一部始終を見ていた私は、缶コーヒーを片手にその事実に愕然と……呆然とする彼の青ざめた表情が私の心中をいたく締め付けた。それと言うのも、もしも、自分がそうなったなら……彼の背中に視線を移しながら、私は想像をしてしまったからなのだ。
けれど、幸いにしてここのところ青天に恵まれている関係上、水没などの致命的な損傷はないだろう。本体への傷の一つや二つは我慢しなければならないだろうが……
液晶画面が割れていないことだけを祈りつつ、私はスカラ座へ向かった。
◇
スカラ座の入っているビルは一階が飲食店で2階にチケット販売フロアやフードコートがあった。私はバロック建築調のアーチをくぐりビルへ入る数段の階段を上ると、すぐ右手にあるエレベーターに向かう。数歩歩くと丁度、エレベーターのドアが開く所であった。正面階段を登っても2階フロアへは行くことはできるがフロアの端に出るため、私はフロア中央に出るエレベーターを日々使っている。
『待ち合わせはスカラ座のチケット販売フロア前に20時頃でいかがでしょう』と結子さんからメールが来ていた。約束の時刻よりも半時ほど早くついた私はチケット販売フロアの前で結子を待つことにした。
華の金曜日と言う事もあって、フロアには家族連れからカップルまでそれなりの混み具合を見せていた。上映される映画の種類にもよるが、一番混み合うのは夏休みの昼間だろうか。夏休みに合わせて封切られるアニメ映画が大量に放映されるからである。
私は大理石を思わせる装飾の柱に背を預けると、財布の中に前売りチケットの姿を確認して、鞄の中から文庫本を取り出し読み始める。わざわざこの本のために購入した真新しいブックカバーがまだ手に馴染んでいない。家には書店でつけてくれるペーパーカバーがあったのだが、そんな粗末なものをかけるわけにはいかない明確な理由があったのだ。
この本は私の本ではないからだ。
今週のはじめ、結子さんと映画見た帰り、トキトワの話しになった。そして、トキトワの原作本の話題となり、それを読んでいないと私が言うと、次に会った時に「私のお古ですけど」と原作本を貸してくれた。読書の習慣がない私はついに、今夜に至るまでに読破するに及ばず、後半の後半を残して映画を見ることになるだろう。折角貸してくれた結子さんには申し訳ない。
もちろん読了した体で今夜返すつもりだ。
だが、ここまで読んだなら劇中のストーリーと原作との違いなどは多少なりとも見えてくるだろうと思う、故に鑑賞の後、フードコートにて結子さんと語らう時間が待ち遠しい。
そう、その瞬間が待ち遠しくて仕方がなかったのだ。
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