五日目――其ノ一
視界もままならない朝方、僕は本殿の扉を開けるために、いつものように神社へと向かっていました。薄っすらとかかる霧が、ヒヤリと冷たく感じます。山道の右側には数メートルほどの段差があり、段差の下には小さな川が流れています。
すぐそばにある木には数十センチは下らない大きさのムカデが這っています。その隣の木では数匹のゴキブリが戯れています。
それは何の変りもない、普段の光景でした。
僕がそんな山道を歩き抜けていると、川を挟んで向かい側の崖が崩れるのを目撃しました。崩れた土砂は「ズズズ」と音を立てながら、真下の川へと滑り落ちました。そのせいで、川の一部は錆びついた金属のように茶色く濁り流れていきます。
僕はその土流の中に女性が浮かんでいるのを見つけました。女性は意識が無いらしく、ピクリとも動きません。
僕はそれを見るやいなや、身に着けていたTシャツを脱ぎ捨て、急いで川へと飛び込み、無事彼女を川岸まで連れ戻ることに成功しました。
彼女を助ける途中、履いていたズボンが流されてしまい、気がつけばパンツ一枚でした。
川の水は非常に冷たかったので、凍えそうなほど体は冷えました。
僕が川から助けた女性ですが、やはり意識は無く、ぐったりとしています。その姿は僕に白雪姫を連想させられました。
脈をとってみると正常な速さで動いているようでしたが、呼吸は浅いように思えました。
なので、僕はとりあえず人工呼吸をすることにしました。方法は何となくでしか知りませんでしたが、見よう見まねで女性の口から肺へと息を吹き込みました。
人工呼吸の合間には心臓マッサージを行い、心肺機能の蘇生を促しました。
それらを交互に幾度か繰り返した頃、その女性は「ゴホォゴホォ」と咳き込み、目を開きました。
僕は安堵感と達成感を同時に覚えました。
僕は充実した心情で彼女を見つめていました。何かしらのお礼の言葉などもかけられたりして……なんてことを考えながら。
しかし、僕の想像とは裏腹に、彼女は僕を突き飛ばし、不審そうにこちらを睨み付けてきました。
「なっ、何?」
向けられたその切れ長の目からは、苛立ちすら窺えます。
それで僕は何となく悟りました。何か勘違いをされていると。
僕は誤解を解こうと必死に口を開きましたが、ぼそぼそとした小さな声しか出てきません。これも引きこもり生活の弊害かもしれません。
悪いことをしたわけでは無いのですが、なぜか体は震え、心臓はバクンバクンとうごめきました。
真実を伝えられないことに焦りは募りました。
そうして高まってきた緊張感は遂に最高潮を迎えてしまい、仕舞いには一人大爆笑してしまっていました。
別に面白いことがあったわけではありません。ただ、その緊迫した状況に、自然と笑いが込み上げてきたんです。
当然、その女性は体勢を崩しそうになるほど必死に逃げて行きました。気がついた時に目の前にいた見知らぬ男性が、何も言わずいきなり笑いだしたら恐ろしいことこの上ないでしょう。仕方ありません。
しばらく一人奇妙に笑っていましたが、ふと我に返り女性が横たわっていた場所へと目をやると、そこには女性のものだと思われる通信機器が落ちていました。
僕は、慌ててそれを拾い女性を追いかけましたが、彼女は山道へと姿を眩ませたので、途中で追うのをあきらめました。
今回の一件で、僕は彼女を救ったつもりですが、その女性からしてみれば異常者に絡まれただけという認識でしょう。
また人を苦しめました。つくづく月影凛太朗という人間はダメな男です。
しかし、そんなこと僕は気にしないはずです。彼女を救ったという事実だけあればそれでいいはずです。自分はその宿命を受け入れているはずですから。
僕はそう自分に言い聞かせました。
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