二日目――其ノ五

                   ○




 私は唐突に目が覚めた。月明りがカーテンの隙間から薄っすらと差し込んでいる。壁にかかっているレトロな時計は午前三時を告げている。いつもと同じ時刻だ。喉の粘膜がカラカラとしている。私は息を吐きながら静かに体を起こした。

目の前がチカチカ光っている。めまいだ。私は深呼吸をして立ち上がった。そして、いつものように、部屋を出て水分補給をしてまた戻ってきた。

一度起きてしまうとなかなか寝付けない。この葛藤を毎晩続けている。私はとりあえず再びベッドに横たわりまぶたを閉じた。

一度起きた脳は驚くほど口巧者で、眠りを妨げようとする。そこで私は音楽を聴くことにした。曲を選曲しイヤホンを右耳に入れる。イヤホンから流れてくるのは、特徴的な女性の声。最近、話題のバンドだ。

「♪~~~

何度も聞き古した馴染みのメロディーが眠気を誘う。

私は知らない間に、起きているか起きていないか分からない夢うつつの状態になっていた。

「♪~~~

相変わらず音楽は流れ続けている。もう少しで眠りにつけそうになったそのときだった。

「♪~~~&%$#♪~~~

私は聴きなれた音とは違う何か別の音が混ざっていることに気付いた。半覚醒状態にあった体は氷が解ける様に眠りから覚めていった。

私はイヤホンを外した。

「&%$#“!&%$#”!

音はどこからともなく聞こえてくる。それは人の声のようだった。だれか起きているのだろうか? 音量は次第に大きくなってくる。

「&%$#“!&%$#”!

それは男の声の様に聞こえた。一? それともテレビ? 思案は広がっていく。音量はさらに大きくなりやがて言葉が聞き取れるようになってきた。

無眼界むげんかい 乃至ないし 無意識界むいしきかい 無無むむ明亦みょうやく 無無明尽むむみょうじん……

言葉は謎めいているがそのニュアンスから、それがお経である事が分かった。私はすぐさまその声の主が「謎の男」であると確信した。それと同時にさっき乃愛ちゃんが放った「おねえちゃんついてる。」という言葉を思い出した。もしかしてあれは、乃愛ちゃんには何かが見えていて私の後ろに何か憑りついているという意味だったのではないか? だとすればあの時だ。あの足音は「謎の男」のもので、その時、私に憑りついたのだろう。

能除のうじょ一切いっさい 真実しんじつ不虚ふこ 故説こせつ般若波はんにゃはみっ多呪たしゅ……

私はあの時安心しきっていた。音衣が目の前に現れたとき危険は去ったのだと勝手に思い込んでいた。でも実際は違った。魔の手は既に私を掴んでいたのである。私はまぶたに力を入れた。体を小さく丸めた。

即説そくせつしゅ 羯諦ぎゃてい 羯諦ぎゃてい 波羅羯諦はらぎゃてい 波羅僧羯諦はらそうぎゃてい……

声の音量はさらに大きくなり部屋中を楽器の様に響かせていた。何かが私の背後から忍び寄ってきて今にも襲い掛かろうとしているような感覚がする。この男は一体私に何をしようとしているのか。私はこのままどうなってしまうのだろうか。

菩提薩婆訶ぼじそわか……

 近づいてきたものは私のすぐ隣にいるかのようだ。その感覚はどんどん強くなり、遂に体が吸い込まれるような気がした。

「いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」

私の声に相殺されたかのようにその奇妙な声は突然途切れた。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る