三日目――其ノ一
薄暗くなった村に琥珀のような夕陽がわずかながら差し込んでいる。側道にそびえる電灯は光を得て周囲を照らし始めていた。
「おいしかったねぇ。おいしすぎて私ついつい飲みすぎちゃったよぉ」
頬を桃色に染めた音衣が普段よりもふわふわとした声でそう言った。
「うん。すごくおいしかった。特にあの天ぷら。あんなの初めて食べたよ」
「そうだよねぇ。あのお店、結構有名で、新宮村はもちろんだけどそれ以外でも結構遠くからお客さんがわざわざこの山奥まで来たりするんだよ。私、昔この村に住んでたから、あのお店の店長さんとは顔見知りなんだぁ」
彼女は非常に満たされた表情をしている。
「シーズーはどうだった? 何か気に入ったのあった?」
「私は焼き茄子かな」
「シーズー、なかなか渋いチョイスだねぇ」
「よく言われる。というか音衣、ふらつき過ぎ」
音衣の足取りは倒れそうとまではいかないまでも、それでもたまによろよろとふらついていた。そういう私も百メートルほど前を歩いている一と乃愛ちゃんの姿が、二つに割れるくらい意識がもうろうとしている。
「あはは。ほんとだねぇ。千鳥足だぁ」
彼女は何故かうれしそうだ。
「ハルハル。シーズー。二人とも千鳥ってみたことある?」
「見た事ない」
「無いわ」
私と静子が同時に声を上げる。
「えぇ。無いの? すっごく可愛いんだよ。よちよち歩いてね、ピーピー鳴くんだよ。それはもう儚げに。私ね、この鳥を見るといつも思うの。こんなに朧(おぼろ)げな命でも懸命に生きてるんだから私も頑張ろうって」
西の空は淡く色づいているが、天頂付近はカラスのように黒々とした分厚い雲が覆い始めていた。
「雨、降ってきそうだね」
湿っぽい匂いが漂っている。遠方からはゴロゴロと嵐を疑わせる音が聞こえてくる。私たちは少し急ぎ足で道を辿った。
「静子も結構お酒飲んでたけど普段と全然変わらないね」
「私こう見えて割と強いから。お酒」
彼女はいつもどおりのクールで淡々とした口調でそう答えた。
「へぇ。じゃあ日常的に飲んでたりするの?」
「いや。普段はあまり飲まない。でも、飲もうと思えば他の子よりはかなり飲めると思う。親がお酒好きで毎日飲んでるから。多分、遺伝」
彼女の表情は凛としていて、動くたびに長い黒髪は艶やかになびく。その雰囲気はまさに大人の女性だ。学生時代、多くの女子から羨望の眼差しを向けられていたその姿に、私は少し見入ってしまった。
「コホォコホォ」
静子がかすれたような咳をした。
「そういや、静子、昨日体調悪かったんだって? 大丈夫?」
「うん。大丈夫。昨日は苦しかったけど今日はだいぶまし」
「でもまだ咳出てるし、まだしんどい?。」
「さっきまでは何ともなかったけど、今、少しぶり返してきたみたい」
「本当に大丈夫?」
「うん。平気だから。気にしないで」
彼女は昔から弱みを見せない癖がある。初日の痣の件もそうだ。どんなことがあっても「大丈夫」「平気」「何でもない」と言って強がる。それが彼女のいい所でもあるが、だからこそ私はそんな彼女のことが心配になってしまう。
「それ、何だろうね。風邪かな? 昨日はやっぱり寝込んでたの?」
「いや。私スピーカー持ってるんだけど」
「スピーカー?」
「そう。ワイヤレスで電子機器に繋げられるやつ。それでいろいろ流してそれを聞いて気を紛らわしてた。そうしてないと胸が潰れそうなほど苦しかったから。」
「そんなにしんどかったの?」
「うん。でも大したことないから」
「いや、それは大したことあるでしょ」
「大丈夫よ。だって私あなたより強いから」
彼女は右口角を上げ冗談交じりにそう言った。
「ふふ。何それ」
私は普段そんなことをあまり言わない静子の言葉に少し吹き出してしまった。
「音衣。静子が変な事言ってる」
「……」
「あれっ。音衣?」
「……」
反応がない。私は周囲を見渡した。地上の作り出す影が充満している。しかしそこに彼女の姿は無かった。
「音衣~~~~」
私は声を張り上げ彼女の名前を呼んだ。しかし返ってくるのは、山に絶えず響き続ける野生の音だけだった。
そのとき私は、昨日乃愛ちゃんが放った「ついてる」と言う言葉をまた思い出した。なぜならその言葉は、私と同様に彼女にも向けられていたからだ。何か悪いものが彼女にも憑りついているとしたら。そしてその影響で彼女がいなくなったのだとしたら。巨大な虫に体を吸われているかのように血の気が引いていく。それと同時に罪悪感が私を襲った。
彼女は昨日私のために、道を引き返して来てくれた。おそらくそのときに、彼女に何か良くないものがくっついてしまったのだろう。だとしたら、彼女を巻き込んだのは私だ。そんな後ろめたい気持ちが心にまとわりつく。
彼女の身に何も無ければ良いのだが危険な状況に置かれている可能性も大いに考えられた。それならせめて彼女のために何かしてあげたかった。彼女が昨日、私を恐怖の谷まで迎えに来てくれたように、今度は私が彼女に手を差し伸べる番だ。自分にできることは何だろう。明確な答えは浮かばない。でも、今できることは一つだけだった。
「静子。引き返そう。音衣を探しに」
「うん。分かったわ」
私たちは歩いてきた道をそのまま辿った。
「音衣~~~~。いる~~~~」
声は無情にも自分たちの物だけが響き渡る。
しばらくして私の顔を何かが触った。
「雨?」
勢いはみるみるうちに増していき数秒のうちにそれは豪雨へと昇華した。その凄まじさは想像を絶するもので、まさに、たたきつけるような雨といった印象だ。
「この雨、凄すぎ。私、傘持ってないよ」
「いったん、避難しましょ」
「避難っていってもどこに?」
「あそこ。鳥居が見えるでしょ。たぶんあの奥に神社があるはずだから。そこなら雨も、しのげると思う」
それは赤い色をしたあの不気味な鳥居だった。鳥居の先には天にまで昇るように思われる長い階段が続いている。しかし考えている暇はなかった。それほどまでに雨は猛烈なものだった。私たちは神社へと向かって必死に走った。手で雨を防ぎながら。びしょびしょになるほど水を吸った服や髪の毛が体にへばり付く。五感を刺激するものは水一色だった。一瞬光が周辺を覆った。そして誰かの怒号のような雷鳴が鋭く轟いた。嵐はさらに激しさを増したようだった。
階段を駆け上がったところにもう一つ小さな鳥居があった。私たちはそれを潜り抜け、ようやく境内に到着した。
「びちびちびちびち」
屋根に溜まった水が勢いよく流れ落ちてきている。建物を形作る木材は腐食が進んでいるのか黒ずんでいて、所々穴が開いている。私は話しながら振り返った。
「静子……」
そこには誰もいなかった。
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