二日目――其ノ三
そこに何かいるのだろうか。もしいるのだとすれば今すぐ逃げなければならない。行動を迫られている。そんな気がした。私は枝道から遠ざかるように、ゆっくりと後ずさりした。その間、枝道からは目線を離さなかった。なぜなら、そこから目を離すことに無性に不安を感じたからだ。
「がさ・がさ・がさ」
「ンゥ」
草が大きく揺れた。男の人のような低い声が聞こえた。明らかに何かいる。もしかすると「謎の男」かもしれない。恐怖で足が竦む。それでも懸命に足を動かした。一刻も早くその場から立ち去るために。枝道は少しずつ道の陰に隠れ見えなくなっていく。それでも尚、私は下がり続けた。みんなの声はもう聞こえない。すると、
「ぱた・ぱた・ぱた・ぱた」
足音だ。人が乾いたセメントの上を歩く足音がする。私は怖くなりさらに後ろへと下がり続けた。みんなとの距離はどんどん離れていく。
「ぱた・ぱた・ぱた・ぱた」
また音がした。
「もしかしてついてきてる?」思わず声が漏れた。
私は体を反転させ足を進めた。鉛のような肉体を何とか動かしながら。
「ぱた・ぱた・ぱた・ぱた」
やっぱりついてきている。私は足を速めた。
「ぱた・ぱた・ぱた・ぱた」
音の感覚は次第に短くなっていく。息遣いが荒くなる。目が乾く。私は怖くなって思わず振り返ってしまった。半ば、博打のように。しかし、そこには何もいなかった。少なくとも目の届く範囲には誰もいない。辺りが妙に静かに思える。
「なんだ。何もいないじゃん。ビックリした」
少し気が抜けた。全身を縛っていた糸が切れたように筋肉が緩んだ。そのとき
「からん・からん・からん」
木の棒のようなものが落ちる音がした。束の間の安寧が破れる音だ。それも割と近い。体がまた強張る。やつはすぐ後ろにいる。やばい。捕まる。私は一目散に走り出した。何も考えずに走った。今までの人生で一番の速さじゃないかと思うほど走った。
「やばい。やばい。やばい。やばい」
風が私の進行を妨げる様に吹き付ける。それでも必死に走り続けた。目的地からはどんどん遠ざかる。道は上り坂でかなりしんどい。
「無理ぃ。はぁ・はぁ。だれか。はぁ・はぁ」
しかし走り続けるしかない。逃げ続けるしかない。もしそうしなければ……
五分ほど走り続け私は止まった。
「はぁ・はぁ・はぁ」
呼吸が乱れている。汗で化粧が浮いてきている。どこまで来たのかわからない。それくらい遠くまで逃げてきた。音は聞こえない。後ろを振り向く。何もいない。幸い、なんとか難は逃れられたようだ。
私は足の回転を緩め息を整えた。目の前には見知らぬ風景が広がっている。窮地は脱した。しかし、ここから一体どうやって帰ればいいのだろう。「謎の男」がまだいるかもしれないから逆走はできない。行きしに通った山道も、もう通り過ぎてしまった。それ以外の帰途は分からない。音衣に連絡して迎えに来てもらおうか。いや、それだと彼女が「謎の男」に襲われてしまうかもしれない。それなら地図アプリならどうだろうか。そう思いアプリを開いた。しかし、そこには簡易的な地図しか乗っておらずあまり役には立ちそうになかった。途方に暮れた。今になって思う事だが、やつと対峙した瞬間に悲鳴を上げてればよかった。そうすればみんなの助けを得られたかもしれない。私はその判断ミスを心底後悔した。仕方なくそのまま進むことにした。道は川に沿って上流へと続いている。
「ジー・ジー・ジー」
「リン・リン・リン」
風情ある虫の声が耳に入る。蛙やフクロウも鳴いている。そんな純粋な天然の音が自然と耳に入ってくる。
「じー・じー・じー」
「リン・リン・リン」
「ゲコ・ゲコ・ゲコ」
「ホー・ホー・ホー」
時間は一刻一刻と刻まれている。呼吸は歩みを進めるごとに平常へと戻っていく。
「じー・じー・じー」
「リン・リン・リン」
「ゲコ・ゲコ・ゲコ」
「ホー・ホー・ホー」
うっすらとかかっている霧が肌を湿らせる。
「じー・じー・じー」
「リン・リン・リン」
「ゲコ・ゲコ・ゲコ」
「ホー・ホー・ホー」
「パタ・パタ・パタ」
「⁉」あの音だ。目に針を突き付けられているかのようなゾクゾク感が背筋を駆け抜けた。その足音は気付かぬうちにすぐそばまで迫っていたようだ。嘘だ。嘘であってほしい。
「パタ・パタ・パタ」
「いやぁ」
私はまた全力で逃げ出した。しかしすぐに異変を察知しその足を止めた。その異変とは足音の方向である。それは後ろから聞こえてくるはずだ。それなのに何故か前方から聞こえてきているように感じる。いつの間に抜かれた? いや、先回りされた? 頭は混乱に混乱を重ねる。どうすればいい。私はその状況に一瞬当惑しうろたえた。しかし、即座に振り返り走り出す。勢いよく。このままコテージまで走り続けよう。そうすればさっきみたいに逃げ切れるはず。しかしその考えは甘かった。
「パタ・パタ・パタ」
私はまたまた足を止めた。そして逃げることをあきらめた。逃げきれないと確信した。なぜなら足音が前方と後方の両方から聞こえてくることに気付いたからだ。挟まれている。どうしようもない。
片側の暗闇の中には人影がチラチラと見えている。おそらく「謎の男」だろう。もう片方の足跡は何なんだろう。そっちも「謎の男」だろうか。何にせよもうどうしようもない。私はその場にしゃがみこんだ。
「もう嫌。なんで。なんで。」
涙が頬をつたう。絶望感が心を這うように襲ってくる。
「パタ・パタ・パタ・パタ・パタ」
足音はどんどん近づいてくる。しゃくりが止まらない。どうして私がこんな目に。
「パタ・パタ・パタ・パタ・パタ」
私が何か悪いことをしただろうか? 怖い。悔しい。悲しい。
「パタ・パタ・パタ・パ」
足音は目の前で止まった。やばい。これは本当にやばい。体の表面は冷たく内部はすごく暑い。助けて助けて助けて助けて神様、仏さま何でもしますから助けてください。
トントンと肩をたたかれる。
「きゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」
意識が故障したかのように途切れていく。体の力が抜けていく。私、これで終わるんだ。
○
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます