第二章「回想の姫君」 第三話


 しきの全員がしずまった頃。

 ハインリーケのしんしつの、よろいがついた白い大窓が音もなく開いた。


「先手必勝じゃ」


 とっくにベッドに入っていなければならないはずの少女は、やみまぎれる暗めの色の外出着をまとっている。

 調査隊がけんされるのは朝。

 ならば、今夜中にベートをつかまえる、というのがハインリーケのもくみである。


「今夜のかつやくが『ハインリーケ・プリンツェシン・ツー・ザイン・ウィトゲンシュタインのぼうけんに満ちたれいかつだいなるしようがい』の序章をかざるのじゃ」


 すでに自伝のタイトルまで決めているハインリーケは、しゆりよう用のナイフをいた。

 一昨年おととしの誕生日に、母のもうれつな反対を押し切って買ってもらった物で、鹿しかの角の枝がついた高級品である。

 そのナイフでシーツをいて結び、ひも状にすると、一方のはしをベッドの支柱にわえつけ、窓から垂らした。

 シーツにぶら下がって窓をえたハインリーケは、部屋をだつしゆつする。

 ここまでは計算通りである。

 だが。


「……むう」


 垂らしたシーツの長さは、地上に無事に下りるには2メートルほど足らなかった。

 ハインリーケはちょうど、しよさいの窓の少しわきちゆうりになった形だ。

 ぎりぎりまで端をつかみ、タイツに包まれたつまさきばすが、ぜんぜん地面には届かない。

 そして、その書斎では父が何か書き物をしている。

 羽根ペンを使っているところをみると、公文書の作成だろう。

 ちょっと顔を上げれば、無様にぶら下がっている姿が丸見えである。

 見つかったら、まず外出禁止三日は固いところだ。


(い、いかん! このままでは志半ばにしてりよの身に!)


 志半ばどころか、じよばんの序盤である。


「ええい、ままよ!」


 ハインリーケは手をはなした。

 いつしゆん、無重力状態を経験した少女の体は、おしりからしばの上に着地する。


「い、いひゃい」


 何とか立ち上がったハインリーケは、れ上がっていないかかくにんするようにお尻をでた。

 物音に気がついた父が、窓の近くにやってくる。


「とととととっ!」


 ハインリーケはうようにして、あわてて窓のそばから離れた。


「……きつねか?」


 父はいったん窓を開けかけたが、かたをすくめてカーテンを閉める。

 ハインリーケはドキドキする胸を押さえながら、しのび足で芝生の上を正門の方へと向かった。

 庭を横断してしまうと、二階から下りるより門を脱出する方がハインリーケにとっては楽だった。

 まだおうとつのないハインリーケの体は、門の鉄ごうはばよりもせまかったのだ。


「通り抜けられてもあまりうれしくないのじゃ」


 つぶやきながら、とにかく屋敷からの脱出に成功したハインリーケは、まず狩猟小屋へと向かった。


「確か、ここに……」


 夏の狩猟シーズンにはよく使われるこの小屋の前に、森番がいつも村との往復に使う自転車を置いているのを知っていたのだ。

 ハインリーケは森番が寝ているのを確認してからちょっとび付いた自転車を拝借すると、昼間おとずれた村へと真っ暗な小径を急いだ。

 サドルに座るとペダルに足が届かないので立ち乗りである。

 街灯などあるべくもない道なので、ちゆう、三回ほどコケた。


 自転車をきしませながら村に着くと、穀物倉庫の前にはランタンを手にした見張りが立っていた。

 ベートをおそれ、おどおどしている見張りの若者は、りようじゆうを手に正面のとびらの前を往復している。

 ハインリーケは、周囲をわたせる広場のかたわらに身をかくし、ベートが現れるのを待つことにした。

 そして、さらに1時間が経過した頃。

 ベートが村に姿を現した。


    *   *   *


「うわ、ほんとにいたんだ、ベート!」


 那佳はなおおどろいた。


「いい人だね、黒田ちゆうって」


 イザベルが半分かんたん、半分あつにとられたようなみを那佳に向けた。


「ああ、同感だ」


 コーヒーカップを手にうなずいたのは、いつの間にか簡易きゆうけい室に入ってきていたアドリアーナである。


「え? 何で? かいぶつだよ、伝説のジェヴォーダンのベートだよ? ユニヴァーサルのモンスター映画のもとになった怪物なんだよ?」


 那佳は不思議そうに二人を見る。


「映画?」


 その那佳を、同じように不思議そうな目で見たのがハインリーケだ。


「あれ? 知りません? ロン・チェイニー・Jrの『おおかみ男』?」


「知らぬ」


 かい映画はハインリーケのしゆではない。

 ずいぶん前に、カールスラント表現主義のけつさくと言われた『カリガリ博士』を屋敷で上映したことがあり、父のひざに乗って見たことがあったが、最初から最後まで訳が分からなかった。

 以来、ゆうれい、怪物の出る映画はけることにしているのだ。


「人間が狼に変身して村人をおそう映画なんですよ〜」


 そう説明してひとみかがやかせる那佳は去年、もんの映画かんしよう会でベラ・ルゴシの『じんドラキュラ』との二本立てで『狼男』を見ていた。

 那佳はぐっすりだったが、いつしよに映画を鑑賞したウィッチたちのほとんどはその夜、きようのあまりに寝室でひとかたまりとなって、まんじりともせずに夜明けをむかえたらしい。


「とにかくじゃ。わらわが張り込んでいると、黒いきよだいな何かが現れ、見張りの若者に向かってとつしんした」


 ハインリーケは話を続けた。


    *   *   *


 ドガッ!

 黒い巨大なかげがぶつかると、見張りの青年はかべたたきつけられて気を失った。


(よし! 今こそ、我がえいゆう伝説の始まり!)


 ハインリーケが狩猟用ナイフを手に、飛び出そうとしたその時。


「……おい、見張りはたおしたか?」


「ああ」


 ベートが人間の声を発した。

 いや、正確に言うと、ベートらしき大きな黒い毛皮のかたまりから、人間の声が聞こえてきたのだ。それも、どうやら二人分の声だ。


「いい加減、この皮、がそうぜ。くさくてたまらねえ」


「そうだな」


 ベートの毛皮がズルリと地面にすべり落ちる。


「な、な、な、な、何じゃ、あれは!?」


 ハインリーケはずっこけた。

 ベートの正体。

 それは、大きなくまの毛皮をかぶせた荷車だった。

 中に隠れていた五、六人ほどの男が勢いよくその荷車を押して、見張りをはじき飛ばしたのだ。


ではないか!? 父上の言っていた通りじゃ!」


 思わずおうちになって声を張り上げるハインリーケ。


「がっかりじゃ! わらわはこんなにがっかりしたのは生まれて初めてじゃ!」


 すると、当然。


「ん?」


「親分、あそこに変なむすめっ子が?」


ぼけた村娘みたいですぜ」


「捕まえろ」


 男たちは気がついてハインリーケのところにけ寄ると、前後左右を囲んだ。


「何だ、このガキは?」


 親分と呼ばれたいかつい顔の男が、ハインリーケの首根っこを摑んで持ち上げると、手からナイフをうばった。


「放せ、無礼者! わらわをだれと心得る!? ハインリーケ・プリンツェシン・ツー・ザイン・ウィトゲンシュタインなるぞ! 放さぬとひどいぞ! 痛い目にわせてくれようぞ!」


「それはそれは」


 親分は、下半分が黒いひげおおわれた顔をハインリーケに近づけていんぎんに一礼すると、仲間をり返る。


「おい、このおチビちゃん、ご領主様の尊いひめぎみであられるそうだ」


 これを聞いてき出しそうになる男たち。


「おじようちゃん、うそはいけねえぞ?」


「どう見ても貴族ってつらじゃねえな」


「アホ丸出し」


「気品のかけらもねえ」


「こいつがひめ様なら、俺んちのババアはさしずめ女王陛下だぜ」


「じゃあ、俺はリベリオンの大統領〜!」


 村人たちを起こさないように声をひそめながらも、男たちは口々に言いたいことを並べ立てた。


「お、おにょれ〜!」


 くやしさにこめかみの血管がれつしそうになるハインリーケだが、宙ぶらりんになった体勢では何もできない。


「よくもわらわをアホ呼ばわりしおったな! 貴様の方がよっぽどアホ顔じゃ!」


 いかりに任せて手足を振り回しても、親分にはかすりもしなかった。


「どうしやす、親分? 見られちまいましたが?」


 部下のひとりが、親分にたずねる。


「ともかく、仕事を済ませるぜ。考えんのはそれからだ」


「よせ! さわるな、ふがっ!?」


 親分は部下に合図してから、ハインリーケにさるぐつわをかませてしばり上げ、地面に無造作に転がした。

 部下はき棒のようなもので穀物倉庫のじようこわし、さらに3本、扉につめで引っかいたようなあとをつける。


(こうやってベートのわざにしたのじゃな。村人がだまされる訳じゃ)


 いもむしのような格好で身をよじったハインリーケは、少し感心する。

 穀物倉庫の扉が開かれるまで、ほんの数分。

 なかなかぎわがいい連中である。

 保管されていた小麦やライ麦のふくろを次々と荷車に移すと、袋のいくつかはいて中身を地面にばらまいた。

 ベートが引きちぎったように見せるためだろう。


「よし。引き際だ」


 倉庫の食料品の三分の一ほどを荷車に積み終わったところで、親分が部下に引き上げるように手で合図をした。


「早いとことんずら、といきたいんですが……」


 部下のひとりが、地面でのたうつハインリーケに視線を落とす。


がしてやったら、村の連中にベートの仕業でねえことがバレますぜ?」


っちまうんですかい?」


 もうひとりが、ゴクリとつばみ込む。


「ひほほほほひへへひへひほうほうほうふへふは! はふへは、ひへひはへははふへふひへはほふほ!(ひもほどいて正々堂々勝負せぬか! さすれば、けいだけはかんべんしてやろうぞ!)」


 ハインリーケはわめくが、その言わんとするところは猿ぐつわのおかげで全く伝わらない。


「子供を殺すのはなあ」


「俺らもそれはやめた方がいいって思いますぜ?」


「なら、どうすんだ?」


 顔を見合わせ、考え込む部下たち。


「ははは、ほほへほひっへほほふひ!(だから、解けといっておろうに!)」


 ……やっぱり伝わらない。


めんどうくせえことになったな。だが、いつまでもここにいる訳にはいくめえ」


 親分は頭を搔いた。

 さっきの見張りの若者がいつ目を覚ますかも分からないし、交代の見張りが現れてもいいころだ。


「アジトに連れて帰りますか? このニセ姫をどうするかは、あっちで考えるってことで」


 やや年長で、子供がいそうな男が提案する。


「ああ、そうだな」


 親分は頷くと、ハインリーケをひょいとつかんで、荷車に乗せた。


「ほほほふははふはひ、はふほほふひふふほはっ!(このようなあつかい、断固こうするのじゃ!)」


 こうして。

 ハインリーケは人生で初めてのりよ体験をすることになったのである。


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