若女将になるのです!

 ガタン……ガタン……。

 青山心路(こころ)は一両編成の列車に揺られて、田んぼばかりの車窓を見ていた。

 田んぼに植えられた稲はたわわに実り、こうべを深く垂れている。あとは刈り取りを待つだけといったところだろう。

 そうかと思えば、轟音と共に車窓は真っ暗になってしまった。山間部に入り、トンネルが増えたのだ。

 心路はため息をついて窓から目を離すと、鞄から去年買ったばかりのスマホを取り出した。高校入学の記念として買って貰ったものだ。思いがけず、これが両親の形見となってしまった。

 スマホの画面をつけるも、右上にはアンテナは立っておらず、その代わりに「圏外」という文字が四角形に囲われて表示されていた。

 ――私はここでやっていけるんだろうか。

 目的地に着くよりも先に、心路は言いようのない不安に襲われた。

「次は目陸田(めくがた)~目陸田です。お降りの際は進行方向一番前のドアからお降り下さい。切符、運賃は乗務員へお見せ下さい」

 中年のおばさんのような声でアナウンスがかかる。運転席の後ろに付いている運賃表を見ると「790」とオレンジ色の文字で表示されていた。

 ここではSuicaは使えない。心路は財布から、緑色の切符を取り出した。切符なんて使うのは生まれて初めてのことだ。

「じゃあ切符を回収しますね~」

 白髪混じりの眼鏡を掛けた運転手のおじさんに切符を渡す。

 これでいいのかな……?

 勝手が分からずにまごまごしていると、運転手のおじさんが「降りていいよ」と言ってくれた。

 降り立ったのは、コンクリートの短いホームと、トタンでできた一面の壁とちょっと線路側にせり出している屋根、プラスチックの小さいベンチが一つあるだけの、無人駅だ。

 トタンの壁には時刻表があり、上下合わせ4本しか止まらないと表記されている。ちなみに、今乗ってきたのが最終列車で、現在午後三時である。

 横浜から新幹線と特急、そしてローカル線を乗り継いで約七時間。やっとこさ辿り着いた目陸田駅は目の前に車一台通れるか通れないかの道と、タクシーが一台しかない「目陸田中央交通」の営業所があるだけだ。

 ベージュのショルダーバッグから渡された地図を取り出した。目の前の道を右に進み、大通りに出たら山の方へしばらく歩いて、右側の急な坂道を登っていけば目的地に着くらしい。大体4kmくらいだろうか。

 持ってきた水筒のお茶を少し飲んでから、駅前の狭い道を歩き始めた。

 道の右側は線路、左側はすぐ急な斜面になっていて、高い木々が生い茂っている。

 線路の方はフェンスどころか電柱すらなく、入ろうと思えば簡単に入れてしまう。危なくはないのだろうか。

 斜面は土砂崩れ防止のためか、途中までコンクリートで固められていて、殺風景だ。

 そこから、誰とも会うことはなく、「大通り」へと出た。しかし、住んでいた横浜の大通りとは違い、歩道もなければ道幅も狭く、真ん中にオレンジの線が引いてあるものの、大型トラックが二台並べないくらいの広さだろう。

 しかも、道の端を歩いていても容赦なく車やトラックが通るのでとてつもなく引かれそうで怖い。

 しばらく左は谷(崖)、右は山(崖)な道路をひたすら歩くこと40分程。両脇が背の高い木で何も見えなかったのが、突然一カ所開けた場所があった。

 谷の方を見ると、悠々と流れる川とその周りに茂る緑、そして申し訳程度にかかっている先のローカル線の鉄橋が望めた。

 ここで少し足を止め、ガードレールに寄っかかって一休みをした。

 休んでる間にも数分に一回、中型トラックがごうごうと音を立てて目の前を通過していった。

 休憩を終え、再び歩き出すとすぐに道路の右側の六角形の「県道301」と書かれた青い道路標識の隣にあるでっかい茶色い看板を見つけた。

 看板には「温泉旅館めくがた」と達筆で大きく書かれており、その下に赤い字で「右折300m」と書かれていた。

 見れば、看板の通り、山の中に分けいっていくような急な坂がそこにあった。この坂を登れば目的地のはずだ。近所に温泉旅館があるなんて聞いていなかったが、だからどうということもなく、心路は大人しく坂をえっちらおっちら登り始めた。

 坂は急過ぎて丸い溝が秩序正しく掘られている。また、少し地盤が緩いのか、道の端が歪んで歩き辛くなっている。

 300mの道のりを15分かけて登ると、そこに「旅館めくがた」が確かに存在した。三十台くらい止められそうな駐車場には「旅館めくがた」と書かれた旅館の車以外一台も止まっておらず、建物は建物でコンクリートむき出しの四階建てで横に広い建物で、旅館というよりどこかの役所みたいである。

 その旅館を横目に道をさらに登...ろうとしたのだが、道は旅館の駐車場で打ち止めになっていて、辺りにはどこにも民家はない。

「確かにここだと思うんだけどなあ...」

 つい不安が言葉に出てしまう。

 分からないのでは仕方がないので、どこかで道を聞きたいのだが、正直この旅館が営業しているとは思えない。

 ――事務所に顔を出してみるしかないかな……。

 心路は重い足を引きずって旅館の建物の方へ歩いて行ってみる。

 すると、さっきは気付かなかったが、30代くらいのおじさん(お兄さん?)が浮かぬ顔をして、竹箒で玄関の掃除をしていた。

「すみません……」

 心路は勇気を振り絞って彼に話し掛ける。

 彼は心路に気付いた途端、目を輝かせて飛び跳ねんばかりに驚いた。

「えっ!?えっ!?すごいよ!女将さあん!!大変だよ!!お客さんだよ!!」

 そして、急に宿の方に向かって大声で叫び始めた。

 お客さんということは営業中なのか、なんて考えてしまったが、今はそれどころではない。

「ち、違うんです!私、ただ道を聞きに来ただけなんです!!」

 心路が慌てて言うと、彼は再び顔を曇らせ、「どこに行きたいんだい?」と聞いてきてくれた。

「この辺りに桶石さんというお宅はないですか?」

 「桶石」と聞いた瞬間、再び彼は目を輝かせた。

「じゃあやっぱりうちのお客さんなんだね!?桶石はうちの旅館の女将の苗字だよ!!女将さあん!!」

 彼は早とちりをして、そんなことを大声で叫んでいる。

「あ、あの違うんです……だから……」

 必死に弁明しようとしたのだが、束の間旅館の玄関から女将と思しき、かなりお年を召した着物の女性が出てきた。

「金光(かねみつ)、一体なんの騒ぎですの」

 女将は彼――金光さんを一瞥する。

「それが女将、お客さんですよ!!お客さん!!」

 女将は金光さんの言葉を受けて、ゆっくりとした動作で心路の方を向く。

「おやまあ」

 舐めるように心路を見て、第一声がそれだった。

「もしかして、青山さんかしら?」

「え、あ、そうです、けど」

 突然自分の名前を当てられて、少し心臓の鼓動が早まる。

「それじゃ、早く中へお入りなさい。うちの若女将さん」

「……は?」

 心路の頭が追いつく前に、女将はさっさと奥へ引っ込んでしまった。

 ――私が……若女将……??


 話が全く見えないまま、心路は旅館の中へと通された。

 流石は旅館のロビー、落ち着いた赤を基調としたデザインで、二階まで吹き抜けの天井の真ん中には立派なシャンデリアが飾ってある。

 そのままロビーを抜け、廊下の奥にある「槐の間」というところに入るよう、誘導された。

 学校の教室の半分くらいの広さで、カーペットが敷いてあり、会議に使うような椅子がいくつか置いてあった。

 そのうちの一つに腰かけ、歩いてきた足を労わる。

 暫く足をマッサージしていると、先ほどの女将が入ってきて、椅子を一つ心路の向かいに置いて座った。

「改めて、旅館めくがたの女将を務めている、桶石だよ」

 女将が深々と礼をするので、心路も釣られて軽く礼をした。

 桶石さんは心路のお父さんのお母さん、つまり父方の祖母の姉妹なのだそうだ。大叔母様とでも言えばいいのか。確かによく見ると、その童顔ののっぺりとしたかんじは私に似ているかもしれない。

 しかし、どうも納得がいかない。

「桶石さんということは私の受け入れ先なんですよね?」

「その通りだよ」

「受け取り先が旅館だったなんて聞いてないです」

 心路が必死で訴えるが、女将は身じろぎひとつしない。

「おや、言ってなかったかねえ。それとも何さ、不満があるのかい?」

「そういうことでは……」

 ここで断られてしまうと、本当に身の置き場がなくなってしまう。ここの人との関係を悪化させるのは極力防がねばならない。

「それで、ここに住まう条件なんだけどね」

「条件……ですか?」

 心路は思わず戸惑いの声を漏らしてしまう。桶石さんもとい女将さんを紹介してくれた叔父さんからは、いかにも「待遇がいい」といったような話を聞かされていたからだ。

「若女将になってほしいんだよ」

 改めて言われて心路は固まる。さっきの会話でなんとなく予想はしていたが、心のどこかでそれを全否定していた。

「わ、若女将って言ったって、そんなの私に務まらないです……」

 正直、心路は何をとってもあまり秀でていない。接客もまともにできないだろうし、計算や料理なんて以ての外だ。若女将など務められたものではない。

「見てわかる通り、うちには主人も跡取りもいなくてねえ、あんたに継いでもらないとこの宿は終わっちゃうんだよ」

 そう言われても....。

 でもこの様子だと断れそうにないようだ。後で泣く羽目になるかもしれないが、今はとりあえず了承する他に道がなかった。

「よし。じゃあこれからは私のことは大女将と呼んでちょうだいよ」

「は、はい。了解です」

「じゃあ早速今夜から女将修行をするから、夜の八時にそこの廊下の奥にある厨房まできてちょうだいよ。そいで、今日からあんたの部屋は二階の一番奥から二番目、244号室だよ。大きい荷物はないようだけど、その部屋はあんたの好きに使っていいよ」

 大きい荷物は明日宅急便で届くのだが、そうは言っても衣類くらいのものだ。軽く部屋に入るだろう。

「ありがたいです」

「じゃあ、今から案内するよ」

 大女将が立ち上がったので、遅れまいと心路も立ち上がり、大女将の後をついていく。そして、さっきのロビーのところにあるエレベータに乗り込み、二階へ向かう。

 二階はエレベータから出るとずらっと客室が並んでおり、両側にドアが並ぶ廊下の一番奥から二番目、右側が「244」号室だ。

「ここが部屋、鍵はこれだよ」

 大女将は鍵を入れ、回して鍵を開けると、そのでかく細長い部屋番号のついた四角い物体のついた鍵を心路に渡した。

「お風呂は大浴場を使ってよ。大浴場は一階に降りて厨房の方に進むと途中で右の方に廊下が分かれるから、その奥だよ」

「ご丁寧に、ありがとうございますです」

 心路が軽く礼をしたのを見ると、大女将は満足そうに頷き、元来た廊下をしなやかな動きで戻っていった。

 心路がまず部屋に入って、部屋を見て回った。

 部屋は旅館では一般的な和風の客室で、八畳の部屋の真ん中には濃い茶色をした低いテーブルと、4つの座椅子が置いてある。

 部屋の奥には二畳分の縁側があり、2つのソファとガラスの小さいテーブルが置いてある。

 トイレと洗面台は玄関の横にあったし、ポットやテレビは和室の玄関側、冷蔵庫は縁側の隅に置いてあった。

 本当に、ごくごく普通の客室である。

 とりあえず、する事もないので座椅子を一個引っ張り出して座り、足を延ばす。

 ――心路の両親が死んだのは去年の秋、三人で渋谷に行ったときのことだった。その日は秋晴れで空気が澄んでおり、出掛けるにはピッタリの天気だった。

 埼玉に住んでいた心路は渋谷の人の多さ、店の多さに圧巻された。

 通りを歩いているだけでも楽しかったが、ふと目の前にクレープ屋さんを見つけた。クレープなんてお祭りの時におじさんが作ってくれるのしか食べたことがなくて、なんだか無性に食べたくなった。

 お母さんに言うと、「お母さんたちはいいから、一人で買ってきなさい」と1000円を渡してくれた。

 心路が飛び上がるような気持ちを抑えてお店に行くと、そこには壁一面に種類が書いてあって、それも心路の胸を踊らせた。

 心路はたまたま目に入った「プリン・ア・ラ・モード」を注文し、握りしめていた1000円をお店のお姉さんに渡した。

 お化粧の濃いお姉さんはテキパキと用意して、一人で食べきれるか心配な大きさのクレープを心路に渡した。

 受け取った心路は目の前のキラキラしたクレープをすぐにでも両親に見せたくて、後ろを振り返ると、いつの間にかそこは騒然として、さっきよりも人の密度が高くなっていた。人が多すぎて両親が見つけられない。

 持っているクレープを落とさないように、人の壁を掻き分け掻き分け進むと、いつの間にか円状に集まってる人の中へ飛び出した。

 そこには歩道に倒れてるたくさんの人、その人たちに声を掛けている数人の人たち、そしてガラス張りのビルに突き刺さった赤い車があった。赤い車の側では数人の男の人が大声で叫んでいる男の人を必死の形相で抑えていた。

 訳も分からずその様子を見ていると、遠くで倒れた人に話しかけていたうちの一人のおばさんが心路のことを指差して、何かを叫んだ。そうかと思えば、同じく倒れた人に話しかけていたおじさんと共に、心路の元へ走ってきてこう言った。

「あなた、チェックのシャツで、ジーパンの男の人と、ピンクのストール羽織った白い帽子の女の人と、一緒にいた子よね?」

 早口でそう言われ、心路の心臓は壊れそうだった。

「ち、父と母です……」

 心路がそう答えると、二人は顔を見合わせて首を横に振った。すると、今度はおじさんの方が口を開いた。

「落ち着いて聞いてくれ。君のお父さんとお母さんがさっき車に跳ねられた」

 おじさんの言葉が鐘の音のように頭にグァングァンと響いた。いつの間にか、手の力が抜け、買ったばかりのクレープはアスファルトに逆さまに落ちて、ゴミと化した。膝が笑って立っていられないほどだった。そして、鼻の奥がつんとして、目から一筋の涙が頬を伝って落ちた。

 その様子を見たおばさんが私を抱きしめて「きっと、きっと大丈夫だから、心配しなくていいんだよ」

 とまるで自分のことのように泣いてくれた。

 ひとしきり泣いたあと、おじさんに付き添われて轢かれた両親を見に行った。

 お父さんは頭から出血して、その血がアスファルトにとくとくと広がっていた。がたいのいいお兄さんが汗をたらたらとこぼしながら、必死で心臓マッサージをしてくれている。

 お母さんは血は出ていなかったが、脈がなく、これまた知らないおじさんが心臓マッサージをしていた。

 その様子はまるでドラマか何かみたいで、自分に降り注ぐ事実だとはすぐには認められなかった。

 心路が悲しむより先に救急車とパトカーが到着し、警察と救命士の人たちが降りてきた。

 警察は野次馬を追い払い、赤い車の傍で取り押さえられていた男を逮捕した。そして、あまった警官は救命活動の手伝いをした。

 救急車はまだ二台しか到着しておらず、負傷状況の激しい被害者から運ばれることになった。怒号が飛び、心臓マッサージをしていたお兄さんやおじさんが容体を一人一人説明していく。その間にもパトカーや救急車、そして消防車が追加で到着し、救命活動は急加速した。

 遂に両親の番になり、心路はお母さんの収容された救急車に乗り込んだ。点滴や、電子機器を取り付けられたお母さんは、痛々しくてとても直視できなかった。

 結論から言って、二人は亡くなった。

 お母さんは臓器破裂、お父さんは出血多量が原因だったそうだ。

 両親が死んだ次の日には通夜が開かれ、その次の日には葬式が開かれた。そして遺体はさっさと燃やされ、悲しむ暇はなかった。

 そうして、未成年だった心路は横浜に住んでいた叔父さんの家にお世話になることになった。叔父さんの家はIT企業の社宅で、心路の住んでいた家よりも狭かったが、文句は一つも言わなかった。

 叔父さんに迷惑を掛けるといけないので、高校は中退、昼間中バイトをして、給料は全部食費に入れて貰った。叔父さん叔母さんの言うことは何でも聞いた。その家のルールで動いた。叔父さんの3つになる息子さんともよく遊んであげた。

 叔父さんからは「そんなに気にしなくてもいいんだよ」と度々言われたが、他人の家に居候して気にしないわけがない。

 そして、今年に入って叔父さんが今回の話を持ってきた。なんでも、子どもがいないから養子に来てくれれば好待遇してくれるうちがあるというのだ。そこへ行けばうちへいるより心路ちゃんも幸せだよ、と。

 完全なたらい回しだ、と心路は悟った。もちろん、叔父さんの決定に文句を言えるはずもなく、私は切符を渡され、地図を渡され、半ば追い出される形でここまでやってきた。

 それがいきなりどうして若女将をやれなんて話に……。

 ――テーブルの上に置いてあった茶菓子を一つ開け、口の中に放り込んだ。抹茶クリームの挟まったラングドシャは疲れた身体によく染みる。

 ――そしてふと、お風呂に入りたくなった。普段はすっかり日が落ちてからお風呂に入るが、こういう旅館に来ると早めにお風呂に行ってみたくなる。

 テレビの隣の襖を開けると、室内用の着物と、帯が出てきた。

 ここまで着てきた白いワンピースを脱いで、着物を羽織る。着物は紺の無地のものだ。そしてお腹を帯で締め、着替えは完了だ。

 ポニーテールからヘアゴムを取り、黒い髪の毛を下ろす。タオルや石鹸は浴室にあるだろう、と特に何も持たず、部屋の鍵だけ持って廊下へ出た。

 相変わらず誰もいない廊下。こんなのでよく潰れないものだ。

 エレベータで下り、廊下を進んで右へ逸れる。そこは本館とは違い、別棟のような形で建てられているようだ。

 突き当たりまで行くと、右に男湯、左が女湯だった。間違えないように赤い暖簾をくぐって脱衣場へ入る。

 時間が早いからか、またはいつもなのか人はおらず、この空間には心路一人だけだ。

 床は竹を敷き詰めたようになっていて、棚には服を入れるための竹編みカゴが置いてある。

 帯をしゅるっと解いて、着物を脱いでカゴに入れる。そして、下着と靴下もよろけながら脱いで、カゴの下の方に押し込む。

 浴室の入り口の横にタオルの積まれた棚を見つけ、ハンドタオルを一つ取って頭の上に乗せる。

 ――温泉っぽい。

 自分でやって自分で恥ずかしくなり、すぐ頭のタオルを下ろし、何の躊躇いもなく浴室の扉を開けた――。

 ……心路は暫く目の前の光景が理解できなかった。

 お湯の湧き出し口からはパンツがぼとぼとと音を立てて湯船に流れ落ち、そして湯船の中では(どうなってるのか分からないが)パンツがもぞもぞと動き回り、そして手前からは溢れ出たパンツが側溝へと吸い込まれている。

 しかもパンツはよりどりみどり、セクシーなものから男性もののトランクスまであるではないか。

 目の前で繰り広げられるパンツ掛け流しに、心路の顔はみるみる赤くなっていく。

「きゃぁああああっっっ!!??!?!」

「どうした!?何かあったか!?」

 心路の悲鳴に、何故か金光がすっ飛んでくる。この時、心路は一糸纏わぬ姿である。当然、その顔は羞恥心で更に赤くなり、恥ずかしさで涙まで溢れている。

「な、泣いてるじゃないか、何かあったのか??」

 心路が裸なのも関係なしに近付いてくる金光にとうとう心路は気が動転して、傍にあった風呂用のイスを金光目掛けて思いっきり投げつけた。

 イスは金光の顔にクリーンヒットし、金光は後ろから派手な音を立ててぶっ倒れて動かなくなった――。


 結局、お風呂での騒ぎのせいで、言われていた時間よりも遥かに早い五時半には厨房に職員全員――と言っても心路合わせて五人が集合していた。厨房の横には客室一部屋分くらいの茶の間があり、その畳の上に円状になって座っていた。

「一体全体、あれはどういうことなんですか!?訳わかんないですよ!!」

 全員が集まって早々、心路はさっき見た光景についてすごい剣幕で問いただし始めた。

「なんでぱ....パンツが湧いて湯船を埋め尽くしてるんですか!!」

 「パンツ」の部分だけちょっと恥ずかしさで委縮したが、勢いそのままに心路が叫ぶ。

「そりゃ、ここは『パンツ温泉』だもの」

 と、目の前のおばさん従業員が答える。

「意味分かんないでしょう!?だいたい温泉って地面から湧いたもののことを言うんですよね!?」

「ちゃあんと地中から湧いてるよ」

「はい!??」

 おばさんは「よっこらしょ」と立ち上がったかと思うと茶の間の箪笥の引き出しを開け、数枚の写真を持ってきた。

「ほれ」

 見ると、その写真には地面に刺さった掘削機の開けた穴から、大量のパンツが噴き出して空を舞っているのと、それを見て驚いている周りの人が写っていた。二枚目は、噴き出して地面に落ちた無数のパンツの写真、三枚目にはパンツを持って不思議な顔で並ぶ、掘削責任者と思しきおじさん二人が写っていた。

「これ、ただパンツの生産ラインに穴を開けちゃっただけじゃないんですか??」

 心路が訊ねると、今度は金光が答えた。

「俺も最初はそう思ってたんだけど、よく考えたらこの辺にはパンツ工場どころか工場なんかなんもねえんだよなあ笑」

 笑いながら随分と悲しいことを言ってくれるが、だとしたらこの噴き上がっている無数のパンツたちはどこから来たのか。

「まさか天然のパンツなんてあるわけないし……」

「そのまさかなのよ」

 今度はおばさん従業員が話に加わってきた。変わり番こに忙しい人たちだ。

「専門家に依頼して、えっと、ドーピング検査だったかしら」

「しげさん、違うよ、ボーリング検査。ドーピングじゃオリンピックに出られなかったあの国になっちまうじゃねえか」

「あ、そうそう、ボーリング検査をしたんですって」

 おばさんは金光のフォローを受けつつ、話を進める。

「そしたらやっぱり途中にパンツがあってね、専門家の人も『パンツの地層があるんじゃないか』って」

 一体全体意味が分からない。仮に地中に埋まってたからってパンツは地面じゃなく生地だし、例え穴が開いたところで噴き出してくる原理が分からない。水の場合、温まれば上に上る性質があるが、生地はいくら熱したって生地である。百歩譲ってなんらかの圧力で上へ押されたとしても、岩盤むき出しの地中をひっかからずに地上まで出てくるなんて物理的にありえないではないか。

 心路はツッコミたいことが山ほどあったが、専門家の言うことに四の五の言うのはお門違いなのでここはぐっと我慢した。

「わかりましたです!!パンツは仮に天然だったとしますです!!でもっ、湧いたからってわざわざ温泉みたいにする必要ありますか!?」

「いや~湧いてるからいいかと思って」

「あれ、入ったとして『いい湯だ~』とはならないですよね!?まず見た目きもいですし!!ただ布に埋もれてるだけですよ!!どっちかっていうと布団じゃないですか!!服脱ぐ意味あるんですか!?いや、しかもTシャツでもズボンでもなくパンツ!?ただのスケベ宿じゃないですか!!なんでもっとパンツ直売しようとかって発想にならないんですか!?なんでわざわざ変な方向に持っていったんですか!?」

 心路がここぞとばかりに畳みかける。その場にいる全員はぽかーんとして荒れ狂う心路を見つめた。

 すると、隣に座っていた大女将がおもむろに何やら紙を心路の前に置いた。

「何ですかこれ」

「何って、養子縁組の書類だよ。ここにサインして……」

「いやいや、今の私の話聞いてました!?さっきの写真相当新しいですよね!?ていうことはこの旅館も代々続いてるものとかってわけでもないですよね!?跡取りがどうかとかどうでもいいじゃないですか!!やっていけないですよこんな旅館!!」

「じゃあ帰るのかい?」

「それは……」

 答えはNOだ。なぜなら、心路にもう帰る場所はないからである。わがままを言えた立場ではないのは心路自身が一番分かっている。だからこそここが最後の望みであったのに……。

 心路は悔しさで泣きたくなるのを奥歯を噛んでこらえ、目の前の書類に大人しくサインした。

「よし、これであんたは正式にうちの若女将だよ。明日からきっちり絞るから、そのつもりでいなさいよ。朝は五時半に起きて六時に厨房。いいね?」

 大女将は顔を変える事はなくそう言って立ち上がった。そして「自己紹介だけしておきなよ」と言って厨房を出ていってしまった。

 心路はさっき怒鳴り散らしたせいで生まれた不穏な空気の中、自己紹介せねばいけないことになった。

「あ、あの....さっきはこの旅館の悪口とか言ったりしてすみませんでした。……傷つきました……よね?」

「いいのいいの。あれが本心だったんだろ?確かによくよく考えてみればおかしいよね。ま、これからは若女将のあんたが考えて変えていっておくれ」

 よくよく考えなくてもそうだろう、とは口が裂けても言えず、心路は「すみません」を繰り返した。

「謝るのはいいからさ、自己紹介しようよ、な?」

 さっき女湯に堂々と入ってきた金光がそう言うので、心路は改めて自己紹介をすることにした。

「私は青山心路です。……いや、今はもう桶石ですが。何かと足りないところがありますが、どうぞよろしくおねがいしますです」

 心路が自己紹介を終えると、先ほどよく喋っていたおばさんが自己紹介しだした。

「こちらこそ。あたしは卜部茂美っていうの。基本的には客室の掃除と布団の出し入れをしてるわ。246号室に寝泊まりしてるから、なんかあったらおいで」

「はい、ありがとうございます」

 おばさんの次は金光だ。

「俺も改めて。加賀金光って名前で一応ここのオーナーってことになってる」

「頼りないオーナーだけどね」

「うっせ」

 茂美に茶々を入れられて金光が「イー」と歯をむき出して威嚇する。

「まあ、食材を仕入れに行ったり、外を掃き掃除したり、便利屋みたいに使われてるよ。なんなら町に行きたいときは乗せてってもいいぜ。さあ、次はしずちゃんの番だ」

 金光がそう言うと金光とおばさんの間に座っていた、ここまで一言も喋っていなかった若い女の人が、にこっと接客スマイルをして話し始める。

「初めまして。私は加々美静です。主にロビーの受付嬢をしています。この旅館のことでなにか分からないことがあったらなんでも聞いてくださいね」

 まるで接客してるかのような態度でそう言うと、刹那真顔に戻り、再び何も喋らなくなった。

 ――オンオフの激しい人だなあ……。

 全員が紹介し終わると茂美が手を叩いて「そろそろご飯にしましょっか」と立ち上がって調理スペースへと向かった。

 茂美の調理している間、茶の間に残された三人は何も話すこともないままぼーっとしていた。


 茂美の作った夕食を食べ終わった心路は、すぐに部屋に戻ってきていた。

 夕食のメニューは山菜の天ぷらと魚のお刺身、そしてお吸い物だ。確かに美味しかった、美味しかったのだが、「美味しい家庭料理」の域を出ない。普通の旅館で出るような豪華さがないのだ。もちろん、まかないだからということもあるだろうが、それにしてもだ。

 部屋に着いてすぐ、右側の押し入れから布団を引っ張り出し、敷いた。そしてその上に寝っ転がり、鞄の中から昔家族で撮った写真を取り出した。

「お父さん、お母さん、私ここでやっていけるかな」

 誰にも聞こえないような声で、心路はそう呟いた。不安に押しつぶされそうで、心もとなくて、心路は掛布団を頭から被った。

 そして、電気を消すのも忘れたまま、その中で寝息を立て始めるのだった。

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