Chapter.5

第32頁目

 ベネトナッシュ魔導司書学院の女性教官――アリシアが見たものは絶望に包まれた見慣れた街の姿だった。

「これでよしっと」

 アリシアは魔導獣に警戒しながら、傷を負った魔導司書に対して魔導書を用いた治療に追われていた。アリシアだけではない。司書生も可能な範囲で治療を行っていた。

 路上に倒れていた一般人は魔導局が管轄する医療施設に運ばれているが、その代わりに路上にはこの異常事態で駆り出された魔導司書で溢れていた。今もなお、突如出現した未知の魔導獣に対し急遽編成された部隊によって攻撃が行われているが、負傷者が増えるだけで状況は平行線を辿っていた。

「三人とも無事だといいけど……」

 なによりアリシアが気にかかっているのが、ハルライト、シャノン、ユーファミアの三名の安否だ。無論、尽力してくれている魔導司書や意識不明の一般人も心配ではあるが、それでも知り合いの安否となればその何倍も気になるのは仕方ないことだろう。

「あの……」

「あ、ごめんなさい」

 知らないうちに手元が止まっていたことを治療をしていた者から指摘される。三人のことは心配ではあるが、だからといって自分のやるべきことを疎かにしていい理由にはならない。きっと彼らは彼らで己の戦いに命を賭けて挑んでいるのだ。戦っていないからこそ、彼ら以上にサポートに注力する必要がある。それが前線に出ていない者の使命だ。

「私も頑張らないと」

 気持ちを奮い起こすために頬を両手で叩く。気持ちで負けていては助けられる命も助けられない。アリシアが次の負傷者の手当てに向かう――そのときだった。

「キュアアアアアアアアアン!」

 もう聞き飽きた化け物の咆哮が鳴り響く。それから数秒後に闇夜すら明るく照らす白銀の熱線が上空を突き抜けていく。直後にとてつもない破壊音とともにはるか上空からなにかが落ちてきた。一瞬、警戒すべき魔導獣かと思ったが、落ちてくるものは魔導獣ではあるものの、その背中には人間が乗っていた。どうやら魔導獣の翼をやられてコントロールを失っているようだ。そして、その背中に乗っている人物に見覚えがあった。

「どうして三人が……!? ――〝シルフ〟!」

 募る疑問は色々あるが、今はそんなことを言っている場合ではない。風の精霊である〝シルフ〟を顕現化させ、落下地点周辺に風による衝撃緩和材を形成させる。

「三人とも大丈夫っ!?」

 アリシアは慌てて三人の元に駆け寄っていく。いくら風によって衝撃を和らげたとはいえ、かなりの高所からの落下だ。負傷をしていてもおかしくない。

「アリシアか……助かった」

 最初に言葉を発したのはユーファミアだ。見たところ目立った外傷はない。それは彼女の後ろにいる司書生――シャノンも同様だ。ほっと胸を撫で下ろそうとしたとき、視界に入ったものを見て背筋に冷たいものが走るのを感じだ。

「ど、どうしてこんな怪我を……!」

 ふたりと比べて明らかに負傷している司書生――ハルライトの姿がアリシアの視線を釘付けにした。幸い息はあるようだ。

「ハルライトがこの未曾有の危機を引き起こした首謀者と戦っていたんだ。私とシャノンが駆けつけたときにはすでに抵抗する力もなくて、危ないところだった」

 淡々と事実を口にするユーファミアにアリシアが食ってかかる。

「ユーファ! あなたがついていながら、どうして……!」

「……それに関しては弁解の余地もない」

 怒気を含んだ今にも張り裂けそうな声に込められているのは、自分の生徒を大切に思う担当教官としてのただ純粋な想い。それを分かっているからこそ、ユーファミアも言い訳をすることなく、その想いを真っ直ぐに受け止める。

「ユーファミアさんも魔導獣と戦っていたんです」

 険悪な雰囲気が漂うふたりの間にシャノンが割って入る。

「え?」

「私がユーファミアの元に行ったとき、複数の魔導獣を一度に相手にしていました」

 シャノンにそう言われ、改めためてユーファミアを見やる。そうして気がついた。確かに目立った外傷はなかった。だが、よく見れば服に細かい切り傷がそこかしこにあった。ユーファミアという実力者だからこそ、その程度で済んでいたのだ。そして、それはそんな彼女でさえ、無数の傷を負うほど長時間の戦闘をしていた証左だった。

「アリシア先生。ユーファミアさんを責めないでください。ハルの側にいなかったという意味では私も同じです」

 シャノンはこの魔導祭において自分が警備に参加しなかったことを打ち明けた。その話を聞いて、シャノンを咎めようとする者はこの場にはおらず、ユーファミアも黙って聞いていた。

 形は違えど、みなそれぞれに立ち向かうべき戦いがあり、それを乗り越えて今ここに集結しているのだ。

「ユーファ、ごめん……。私、感情だけで話してた。ユーファのことを考えもしないで」

「気にするな。生徒のこととなると、途端にむきになるのは昔からだからな」

「もう、なにそれ」

 ふっと張り詰めていた糸が切れたように互いに笑い合う。少しだけ日常に戻れた気がした。

 いつものふたりの関係に戻ってシャノンはほっとする。

「う……」

 そのときハルライトからわずかではあるが、声が発せられた。

「ハル?」

 一番近くにいたシャノンが反応し、ハルライトの顔を覗き込む。

「どうした?」

「ハルが目を覚ました!」

 三人の視線が一斉にハルライトに向く。

 最初はまどろみをさまよっていた両目は次第に開いていき、その目に今の状況を認識させる。見慣れた三人の視線が自分に向いていたことに少し驚いた顔で順番に三人を見ていく。

「目を覚ましたようだな」

「俺……眠ってんですか?」

「ああ、シャノンの〝グリフォン〟に乗せて脱出する頃にはな」

 記憶では抵抗する力もなく横たわり、ブライアンに殺されそうになったところでふたりが助けに来てくれたことまで覚えている。そのときすでに意識は朦朧としており、眠ってしまうのも無理のない話だ。

 と、ここまで記憶を回顧したところで、ふとユーファミアの言葉で引っかかるものがあった。

「脱出というのは? それにブライアンは……?」

「そこから記憶がないか。ブライアン、奴はもうこの世にはいない」

「じゃあ……!」

「助かった――と言いたいところだが、状況はそれどころじゃない。あれを見ればわざわざ説明しなくても分かるだろう」

 ユーファミアがおもむろに指差す先。目を疑う光景があった。記憶の中ではついさきほどまでいた第一アリーナのステージが超高熱で溶かされたように跡形もなく消し飛んでいた。

「〝バハムート〟の放った熱線によって消し飛んだんだ。ブライアンはそれに巻き込まれて――いや自らの命もろとも私たちを消そうした。離脱に遅れていたら……奴と同じ未来を辿っていただろうな」

 ユーファミアの話を聞き、状況はなにひとつ好転していないだと気づかされる。いや、首謀者であるブライアンがいなくなってもなお、状況が変わっていないのなら、それはむしろ悪化しているといっても過言ではない。

「今、ベネトナッシュ中の魔導司書が総出で事に当たっているが……」

 ユーファミアがその先を言うことはなかった。結果は誰の目にも明らかだからだ。重たい沈黙が横たわる。

「本当にもう方法はないの?」

 アリシアがそれでも一縷の希望を求めてユーファミアに問う。

「奴の話では、あの化け物はブライアンのオリジナルの魔導書を取り込んでいるらしい。おそらくそれがキーとなって化け物の存在を保っているんだろう。その魔導書さえ、なんとかできれば……」

 口にはしてみるも、それは遠い雲を掴むような話だ。そもそも近づくことすらままならない。仮に近づけたとしても、猛攻の中で魔導書を解析するのは至難の業だ。まさに八方塞がり。なんの手立てもない。

 だが、そんな中で――。

「あの」

 ハルライトが手を上げる。

「その方法……俺にやらせてくれませんか?」

 予想外の発言にこの場にいる全員が呆然とする。

「ハルライト、本気で言っているのか?」

 それはできるできないを問うているのではなく、ただ純粋に師匠として弟子を心配しているようだった。

「本気で言ってます」

 迷いのない即答。だが、アリシアが待ったをかける。

「ダメよそんなの! ただでさえ怪我を負っているのに、そんな状態の教え子を危険だと分かっている場所に送り出すなんて……そんなのできないわ。それにハルライトじゃなくても……」

「アリシア先生、心配してくれるのはすごく嬉しいです。……でも、その役目きっと俺じゃないとできません。俺とこの魔導書にしか、きっと」

 ハルライトはゆっくりと立ち上がる。迷いのない真っ直ぐな目で三人を一瞥する。ハルライトの覚悟を垣間見たユーファミアがつぶやく。

「まさか……」

 ユーファミアは唖然とした表情を浮かべる。それにハルライトは答えるようにずっと胸の内で考えていたことを吐露する。

「俺、ずっと考えていたんです。俺は親父にみたいにすごくないし、他のみんなみたいにできるわけじゃない。そんな俺にでもできること、いや俺にしかできないこと――それをやっと見つけたんです。俺はそれを全うしたい」

 こんな救いも希望もない状況なのに、ハルライトの顔つきは憑き物が落ちたように晴れ晴れとしていた。彼は自分が今からしようとしていることを説明する。

「〝ラプラス〟は発動している魔導書を解析する機能があります。それと俺と逆算魔導術式を利用してキーとなる魔導書を事象コードまで戻すことができれば……希望はあります」

「言いたいことは分かる。だが、それはあくまで理論だ。現実的じゃない」

 ユーファミアは即座にハルライトが考えている方法の問題点を指摘する。魔導書を解析する点においては〝ラプラス〟を使用するのが圧倒的に効率がよく確実性があるが、逆変換となれば話は別だ。逆変換は魔導書の魔力を使い切らせるという物理的な方法で解決できないときに用いる最終手段で、通常は複数人で行うものである。

「それにだ。いくら〝ラプラス〟があるとはいえ、ひとりの魔導演算領域では到底処理しきれない」

 もっともな指摘だ。普通ならそこで諦める。それでも彼は諦めを口にしない。

「ユーファミアさん、言ってましたよね。人が生命維持として必要とする領域を魔導演算に使うことができれば一時的に魔導演算能力を高められると」

「お前……自分がなにを言っているか分かっているのか?」

 口にした言葉がこんな形で巡ってくるとは思ってもいなかった。理屈としては不可能ではない。しかし、それは何ものにも代えがたい大切なものを失う前提で成り立っている。彼の命だ。

「それは分かってます。それでも……やらないといけないんです。俺にしかできないこと――そこに親父が俺に託してくれた意味があると思うんです」

 無茶を通り越して無謀ですらある挑戦だ。誰の目にも勝算が限りなく低いのは目に見えている。犬死になる可能性もある。それでもハルライトの意志は揺るがない。大切なのは、できるかどうかじゃない。やるかやらないか。ただそれだけなのだ。

「しかしだな……」

「ハルライトだけが無茶する必要はないのよ……?」

 大人ふたりはそれでもまだ踏ん切りがつかなかった。ハルライトの想いを無下にするつもりがあるわけではなく、師匠として、担当教官としての守りたいという想いがあと一歩を踏み出せずにいた。

 そんな中。

「……私はハルを応援するよ」

 ずっと黙ってハルライトの想いを聞いていたシャノンがそこで初めて口を開く。涙を滲ませながら。

「ずっと近くで見てきて、ハルはどんなときも諦めず、一生懸命だった。だから、そんなハルが心の底からやり遂げたいと思うことなら――私は力を貸すよ」

 まるで絞り出したかのようにか細い声だった。

 それを聞いて大人ふたりはハッとする。同性代でこの場にいる誰よりも近くで寄り添って見てきた彼女が一番辛いはずなのに、ハルライトの想いを尊重し送り出す覚悟を決めているのだ。

 彼女のほうがよっぽど大人だ。状況を理解している。本来なら先輩である我々がしっかりしなければいけないのに。

「……本気、なんだな?」

「本気です」

 決して崩れることのないハルライトの意志を見て、ユーファミアとアリシアは互いに視線を合わせたあと、ようやっと踏ん切りがついたように息をつく。

「まるでいつぞやの決闘のようだな。あのときもハルライト、お前は諦めなかった」

「ほんと、諦めだけは悪いわね」

「それが俺の取り柄ですから」

「そこがハルの良いところだけどね」

 四人の間でふっと笑いが零れる。四人の気持ちがひとつになる。これは絶望に抗う戦いではない。希望を掴み取る戦いだ。

「それで奴の場所まではどうやって辿り着く?」

「それなら私が……」

 シャノンが一歩前に出る。彼女もまた並々ならぬ決意をその目に秘めていた。

「私がハルをあそこまで連れていきます。ユーファミアさんは連戦で疲れていると思いますし、アリシア先生は怪我をしている人の手当てもあります。それに……私だけまだなにもできてない。だから――やります」

 その強い意志を妨げようとする者は誰もない。ハルライトやシャノン、いま戦っている誰もが己の準ずる正義のために死力を尽くしているのだ。それを無下にできる道理は誰にもない。

「ありがとう、シャノン。こんな俺のために……」

「そんなことないよ、だってハルのためだもん」

 少し恥ずかしそうにしながらもシャノンは力強い言葉で言う。

「分かった。その道中は我々が支援しよう。こんな忙しない空だ。一筋縄ではいかないだろう」

 見上げる空にはいまだ〝ベネトナッシュ〟に発動された魔導獣が飛び回っている。

「だが、機を伺っている時間もない。お前たちは先に行け」

「分かりました。シャノン、行こう」

「うん!」

 〝グリフォン〟の羽の傷も回復している。いつでも飛び立てる状態だ。

「いくよ、ハル」

「いつでも大丈夫だ」

 〝グリフォン〟は雄叫びを上げて大空へと羽ばたいていった。

「ユーファ、支援って言っても私たちふたりだけじゃ限界が……」

 心配そうに見つめてくるアリシアにユーファミアは含みのある笑みを返す。

「言っただろう? 我々、だって」

 ユーファミアはおもむろに書庫から魔導書を取り出す。〝通信〟の魔導書だ。非戦闘用の魔導書で魔導獣と渡り合えるとは到底思えないが、いったいなにをするつもりなのだろうか。

「――突然の通信失礼する。ベネトナッシュ魔導局所属、ユーファミア・マクスバーンだ。現在この街に甚大な被害を及ぼしている未知の魔導獣――〝ベネトナッシュ〟。奴を倒すため、〝グリフォン〟に乗った男の司書生――ハルライト・フェリークスが向かっている。彼はこの未曾有の危機を救うを唯一の手段を持っている。いかなる方法を用いても構わない。戦闘に参加できる者は彼が進むための道を作ることに全てを尽くせ。その他の者も己ができる最善を尽くせ。――これは魔導局からの命令である」

 効果範囲を街全体に設定した〝通信〟の魔導書がユーファミアの言葉を街全体に響かせる。言い切ってユーファミアは通信を終了する。

「魔導局から命令って本当なの?」

「そんなわけないだろう。私の独断だ」

「それって……大丈夫なの?」

「さあな。だが、どうせ奴を止められなければ魔導局もなにもなくなる。生きていれば、責任なんぞいくらでも取れるからな。今はできることをするまでだ。さて、私たちもそろそろ……」

 そう言いかけたところで、ユーファミアがふらつく。とっさにアリシアが肩を持って支える。

「ちょっと、大丈夫? やっぱり少し休んだほうが……」

「いや、学生たちだけを危険な目に遭わせるわけにはいかない。それに支援すると言ったんだ。それを遂行する義務がある」

「じゃあ私も行く。ユーファひとりだけじゃ無茶しそうだし」

「それは助かるが……治療のほうはいいのか?」

「それなら、ほら」

 アリシアが指差すほうを見る。そこにあったのは大人顔負けの連携を取りながら治療に当たっている司書生たちだった。さきほどのユーファミアの通信で感化されたのだろう。

「我が学院自慢の司書生たちだからね。魔導司書だってついているし、私がいなくても彼らならきっと大丈夫よ」

「頼もしいな」

 柔和な笑みを浮かべるユーファミア。

「移動は私の〝ペガサス〟にするから、ユーファは少しでも休んでて」

 そう言ってアリシアは書庫から〝ペガサス〟の魔導書を取り出す。純白の翼を持つ天馬がその姿を現した。その背中に乗ってユーファミアもアリシアも大空に飛び立っていった。

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