第31頁目
ブライアンは焦っていた。
苦痛に口許が歪む。脳を侵蝕していく感覚がたまらなく不愉快で、抉られるような痛みが断続的に身体を苛んでいた。当然だ。本来、人間が生命維持に使用している領域を魔導演算の領域として強制的に割り当てているのだ。前例のない試みであり、その行為がどのような危険性を孕んでいるのか、ブライアンとて予想できなかったわけでない。化け物を支配下に置くためにはこうせざるを得なかった。
目の前の少年は依然こちらへの反駁の意志を持ち続けている。これはブライアンとって予想外の出来事であった。人は本来弱い生き物だ。絶望を前にしたとき、己の中核となる信念を失い挫折する。かつての自分がそうであったように。
だが、目の前の少年――ハルライト・フェリークスは違った。この絶望的な状況の中で諦めようとしない。それどころか、希望を見出そうとさえしている。
愚かしいことだと、ブライアンは思う。正確にいえば、この状況を打破できる方法がないわけではない。それに少年が気づいているかどうかは分からないが、しかしそれは机上の空論でしかない方法だ。仮にそれが可能だとしても、その方法は自らの命を――いや、これ以上は考えるだけ無駄だ。少年がどうであろうと、邪魔立てするなら叩き潰すまでだ。
視界の端がわずかに霞んできた。足元も自覚できるレベルで覚束なくなってきている。意識を失うのも時間の問題だろう。己の身がどうなろうと、それはもはや些末なことだ。目的を達成するためなら、演算器になることさえ厭わない。
(あと少し……あと少しなんだ)
もう少しで目的が達せられる。だが、その前に目障りな反逆者を排除しなければならない。ブライアンはなおも諦めようとしない少年を睨みつけた。
ハンデを抱えてもなお、ブライアンの強さは衰えなかった。狙いを外すことは増えてはいるものの、それを弾幕にするという力業によって補ってくる。ならばと、接近戦を試みるが、魔導司書として場数を踏んできたブライアンの優位は覆せず、防戦一方になるばかりだ。連日の特訓で魔力の使い方をみっちりと教え込まれたおかげで、予想よりも長く戦えていたが――それもついに終わりが訪れた。
「はぁはぁ……」
息切れを起こす。意識が飛びそうになる。魔力切れの兆候だ。そこにブライアンが放った最後の炎の塊が容赦なく直撃する。なす術なく地を転がる。もはや抵抗できる余力も残っていない。
「よくここまで立ち回った。そこは評価しよう」
乾いた拍手をしながら、覚束ない足取りでブライアンが近づいてくる。ここまで感情のこもっていない拍手もそうそうない。
「だが、それも年貢の納め時だ」
確実に、一発で仕留めるため、ブライアンは〝レーヴァティン〟を全力で振り上げる。
(ここまでか……)
自分でもよく粘ったほうだと思う。これも師匠であるユーファミアのおかげだ。かつての自分ならきっとこうはできなかっただろう。
――それでも心残りはある。
起死回生となり得る一手を持っているかもしれないのに、それを試せないまま朽ちていくのだ。自分のために尽力してくれたシャノンやユーファミア、担当教官であるアリシアにも申し訳が立たない。
自分は父親のように魔導書を多彩に使いこなせるわけでもなければ、飛び抜けた才能があるわけでもない。それでもやっと見つけた自分にしかできないこと。この世界に己の価値と存在を示すために、まだこんなところで死んでしまうわけにはいかないのだ。だからもし、この祈りが届くなら――。
――誰か力を貸してくれ……。
「――〝アルクレティス〟!」
突如飛来した聖なる光の矢が灼熱の大剣の軌道を変える。わずかに左に逸れて直撃した地面を抉る。
「誰だ!」
ブライアンはいったん距離を取り、周囲を一瞥する。ここは地上から相当の高さにある場所だ。そう易々と来られる場所ではない。闖入者の気配にブライアンは警戒感を高める。
魔導書で見えなくしているのだろうか。闖入者は姿を現さない。その代わりに多方向からさきほどと同様の光の矢が飛来する。
「そこか!」
光の矢の射出位置を正確に読み切り、〝レーヴァティン〟の炎をぶつける。たとえ姿を消していたとしても、存在そのものが消えるわけではない。広範囲の攻撃は防ぐしか方法がない。そうなれば、自ずと姿を現さずを得なくなる。
「――〝砕護〟」
ガラスが割れるような音ともに炎が消え失せる。
「実力はさすがというわけか」
ハルライトとブライアンの間に割り込むように降り立つ闖入者。ひとりは橙色の髪の少女と長い黒髪を持つ麗人――シャノンとユーファミアだ。
「どこの誰かは存じないが、部外者は引っ込んでいてもらいたい」
ふたりを一瞥し、怒りを込めた双眸で睨みつける。
「部外者ではない。一級魔導司書のユーファミア・マクスバーンだ。私の不出来な弟子は世話になったようだな」
ユーファミアは挑発するような笑みでブライアンを見やる。両者の視線が激突し、激しい火花を散らす。
「ハル……! 生きててよかった」
「シャノン……どうしてここに?」
「ハルを助けに来たんだよ……!」
眼前にあるシャノンの顔は涙で溢れていた。思ってもみないふたりの登場にハルライトは面食らったように目を丸くしている。シャノンに至っては今朝から連絡がつかず、まさか自分を助けに来てくれるなんて予想できるわけがない。
横目でちらりとユーファミアを見ると、一触即発の状況が続いていた。
「ブライアン・コニック。貴様には訊きたいことが山ほどある。おとなしく拘束――されるわけないよな」
ユーファミアが言い切るより先にブライアンは戦闘態勢を整えていた。予想していたというようにユーファミアは動じない。
「魔導局の魔導司書か……。いや、この際誰もいい。誰であろうと邪魔する存在は排除するだけだ」
「むしろ、そのほうがありがたい。躊躇なく叩き潰せるわけだからな」
歓迎するような余裕を見せるユーファミア。そんなユーファミアの尊大な態度が癪に障ったのか、不快そうにブライアンは顔を歪ませる。
「その若さで一級なのは褒めるべきところだが……図に乗るなよ若造」
「そういう割には随分と苦しそうな表情だな」
ブライアンは凄んでみるも、ユーファミアはまるで意に介していないというように平然としている。その態度が元々肉体的にも精神的にも余裕がなくなってきているブライアンを激昂させる引き金となった。
「どうせもうじき世界は終わる。その始まりとして、貴様に引導を渡してやろう」
「ハルライトがやられた分、そっくりそのまま返してやるから――覚悟しろよ、老いぼれ」
「抜かせ――若造がッ!」
一瞬の静寂のあと、ふたりの魔導書が激突する。ユーファミアの〝ラグナロク〟とブライアンの〝レーヴァティン〟。単純なランクでいえば、〝レーヴァティン〟のほうが上ではあるものの、だからといってブライアンが有利になるというわけではない。互いに肉薄し、甲高い音が炸裂する。このふたりの実力の前では魔導書のランクの差など些細なことでしかない。実力は拮抗している。明暗を分けるのはわずかな剣捌きやほんの小さな精神の隙間だろう。
「言うだけのことはあるようだな」
これだけ激しい打ち合いをしているにも関わらず、ユーファミアの悠然とした態度は崩れない。それがさらにブライアンを刺激する。
「灰になれ!」
ブライアンの感情に呼応するがごとく、赤熱化した〝レーヴァティン〟から蒼炎が吹き出す。刀身そのものを受けきることは可能だが、さすがにあの炎をまとった状態では危険だ。様子見もかねて距離を取るため、バックアップする。その最中でも追撃することを忘れない。
「――〝アルクレティス〟!」
奇襲をかけるときにも使った神器シリーズのひとつである〝聖煌弓アルクレティス〟。その聖なる光の矢はいかな敵も果てまで追い続け裁きを下す。避けるのは容易ではない。
「うっとうしいハエどもだ」
〝アルクレティス〟より放たれた無数の光の矢はブライアンに向かって飛来するが、ブライアンもまた周囲に炎の壁を形成し焼き尽くす。
――だが、その行為は悪手だった。
何本もの矢が収束したような巨大な聖なる矢がブライアンを目と鼻の先に捉えていた。炎の壁によって視界を遮られて気づくのが遅れてしまったのだ。
「くそっ!」
露骨な舌打ちをするが事態は変わらない。あの大きさではを焼き尽くす前にこちらに直撃する。迎え撃つほかない。防ぐためにとっさに〝レーヴァティン〟を構えるが、矢の威力を完全には相殺しきれず、衝撃を一手に引き受けるように〝レーヴァティン〟は弾かれて落下していく。
「勝負あったな」
ステージの崖際まで追い詰めてから、ゆっくりとした口調でユーファミアは告げる。妙な動きをされないように〝ラグナロク〟の切っ先はブライアンの喉元を向いている。
「勝負? ああそうだな、確かに勝負あったな。――お前たちのな」
もはや抵抗できるはずのない状況なのに、それでもブライアンは不敵な笑みを浮かべる。
「ふん。見苦しいぞ。なにを馬鹿げたことを言っている」
「耄碌の戯言だと思うかね? どう思おうが自由だ。だが、目の前の現実は受け入れたほうがいい」
ブライアンの肩越しに見える〝ベネトナッシュ〟の姿。さきほどとなにも変わっていないように思えるが、なにかが変だった。
「動きが……止まっている?」
三人とも思うところは同じだ。不自然に動きが止まっていた。意図して止まっているのか、不測の事態が起きているのか。だが、ブライアンの様子を見る限りだと、後者はまずあり得ない。不気味な雰囲気が漂っていた。
「なにをした?」
ユーファミアの目つきが鋭くなる。それでもブライアンは相好を崩さない。
「そう怖い顔をするな。じきに分かる」
そうブライアンが口にした直後だった。
「キュアアアアアアアアアアアアアン!」
闇夜を切り裂かんばかりのひときわ大きい雄叫びが木霊する。直後に〝ベネトナッシュ〟に異変が起きた。少し前に姿勢を傾けると背中から羽が生えてきたのだ。白銀の燐光を零しながら、枷から解き放たれるように両翼は広がっていく。
「くくく……。代理演算させている個体がついに必要数に達したか」
代理演算、個体と聞いて、この状況で思いつくものはひとつだ。
「貴様っ!」
〝ラグナロク〟を握る手に力が入る。
「私を殺したところでもう遅い。奴は私のオリジナルの魔導書すら取り込んだ。もはや、奴に術者は必要ない。何者にも止めることはできない。たとえの〝ラプラス〟を使おうともな。さて……私もそろそろ退場しよう」
不意に〝ベネトナッシュ〟が四人のいる方向に向き直る。それがブライアンが最期に下した命令だった。
「――私ごと奴らを消し去れ」
「キュアアアアアアアアアン!」
その命令に反応するように咆哮を上げる。〝ベネトナッシュ〟の咆哮がさらに命令となって上空を旋回していた〝バハムート〟がどこからともなく現れる。こちらに照準を合わせると大きく口を広げる。
「まずい!」
ユーファミアの叫びをかき消すかのように、口腔でエネルギーを凝縮する甲高い音が響き渡る。
「どこまで絶望に抗えるか、天から楽しみに見ているよ」
「貴様のような外道な人間が行き着く先は地獄だ」
「ふん。人間なんて、生きている限りみな外道だ。そうそう、死ぬ前にひとつ、良いことを教えてやる。代理演算は生きている人間の脳を前提としている。もし、そいつらを全員殺すことができればあるいは……な」
「貴様はどこまで――」
「ユーファミアさん、早く!」
シャノンの急かす声がユーファミアを引き戻す。そうだ。これは挑発だ。少しでも避難を遅くさせるための奸計だ。
「私の弟子が貴様の下種な計画など、粉々にしてくれるはずだ」
「せいぜい死力を尽くしたまえ」
最後にユーファミアを乗せて〝グリフォン〟はこの場を離れていく。ブライアンは追撃をしてこない。魔導書を発動する力すらもう残っていないのだろう。
「エリス……。今お前の元に行くからね」
それからまもなく白銀の熱線がブライアンごと、押し上げられた第一アリーナのステージを跡形もなく消し去った。
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