第29頁目

「……それがあんたがこんなことをした理由なのか?」

 全て話し終えたブライアンにハルライトが問う。その声は驚くほどに低く、今にも爆発しそうな怒りの感情を抑えつけているといった感じだ。

「腐った魔導局も、魔導書を妄信する世界も、いい加減うんざりだ。私にとってエリスを奪った魔導書という存在は悪なんだ。エリスを奪われたことは、これだけのことをするに事足りる絶望だったんだ」

「だけど! こんなことをするなんて間違ってる」

 たったひとりの大切な娘を失ったその胸中は、子供のいないハルライトにでさえ、察するに余りある。それを長い年月の間抱えていたのだから、その闇はきっと深淵よりも深い。

「間違っている? ……そうだな、確かに間違っている。正しくなどないさ。そんなことは私が一番よく分かっている」

「じゃあ、なんで……」

「あいつらが汚い手を使ったからだ。汚い手には同じように汚い手を使って対抗するしかない。世の中、正論だけでは回らないんだよ。さあ、他に訊きたいことはあるか?」

 まるで幼い子供を指導するような優しい口調だが、今もなおブライアンの〝レーヴァティン〟は攻撃的な炎を滾らせている。警戒は怠らない。

「なら、最後にひとつだけ。どうして、俺が持っている魔導書――親父が作った〝ラプラス〟を必要とする?」

 それはもっともハルライトが訊きたいことだった。いや、今もっともすべきことはブライアンの捕縛だ。そうすれば、この最悪の状況も打破できるかもしれない。そんなことは承知のうえだ。分かったうえでそれでもなお知らなければならないことだった。

「……時間だ」

 返ってきたのは問いに対する返答とは到底思えない言葉。それから一拍のあと、押し上げられたステージが激震する。だが、すぐにステージだけの規模の揺れではないと確信する。街全体が揺れていた。それもまるで地下深くから、なにかが浮上しているような、そんな違和感を覚えるほどの異質な揺れ方だ。

「さっき、なんで〝ラプラス〟を必要とするかと言ったな。その答えを言う前にいくつか種明かしをさせてもらうよ」

「種明かし?」

 突然の話の方向転換にハルライト怪訝な視線をブライアンに送る。

「〈全知の書庫〉という存在は知っているか?」

 確かユーファミアから指導を受けた際に耳にした言葉だ。ハルライトは無言でうなずく。

「なら、話は早い。かのレイスター・クロウリーは〈全知の書庫〉を〈七つの断章〉したとされている。……ところで、この『七つ』という数字、見覚えはないか?」

「見覚え?」

 思わず警戒の意識を緩めて考えにふけってしまう。それでもピンとくる答えは出てこない。

「世界でも数少ない魔導書を専門的に取り扱う都市と断章の数が一致しているのは、偶然だと思うか?」

「都市数と断章の数……」

 記憶の中で図書館都市の数と断章の数を照らし合わせる。ようやっとブライアンの言っていることを理解した。両方とも数は同じ『七』ではないか。

「図書館都市と断章の数の奇妙な一致。これは偶然なんかじゃない。ある物の上に図書館都市は意図的に作られたんだよ。その正体がもうじき分かる」

 こうして会話を交わしている間にも揺れは収まるどころか、さらに激しさを増している。それに比例するようになにかの気配はどんどん強くなっていく。

「ちなみに第七図書館都市のベネトナッシュという名前だが、その名前もこれから現れる存在に由来している」

 もはや揺れ具合は地震のレベルを超えて、地殻変動のレベルにまで達している。立っていることすらままならず、ハルライトは地に手をつく。そんな激しい揺れの中でもブライアンは立ち続けていた。それは彼の中に巣食う様々な負の感情がそうさせているようにも思えた。

「いったいなにが起ころうとして……」

 そのときだ。今まで激しく続いていた揺れがぴたりと止まった。本来それは喜ぶべきことだが、今はそれよりも突然揺れが止まったことに対する不信感のほうが勝ってしまう。言い知れない恐怖が心の底から湧き上がってくる。

 ブライアンはなにかを悟ったように目を見開くと、仰々しく天を仰いだ。

「――終わりの始まりだ」

 ベネトナッシュの中心より、天を貫かんばかりの白銀の光の柱が出現する。雲を突き抜けて、波紋を打つ水面のように白銀の光が闇夜の空を塗り替えていく。それだけでも今までに見たこともない驚くべき光景だが、さらにそれを凌駕する光景がハルライトの目に飛び込んだ。

 空に広がる白銀の光の中心からおびただしい数の文字列が溢れてくる。それはまるで意思を持っているかのように集まってなにかを形成していく。

「な、なんなんだよ、あれ……」

 文字列が収束し形成していっているものは例えるなら人間の手だ。その形成の仕方はどこか魔導獣が顕現するものに似ている。

 ドシン! と大地が激震する。それは奇しくも巨大な手が地についたのと同じだった。地についた衝撃で周囲の建物は吹っ飛び、真下にあったものは無惨にも潰れてしまっている。

「さあ、今こそ目覚めのときだ。〝ベネトナッシュ〟」

 その一言を引き金に無数の文字列は急速なスピードで身体を形成していく。まるで人のような胴体が現れた。それはあまりに巨大で、見上げてようやっと顔の部分が見えるくらいだ。白銀に輝く未知の魔導獣の姿がそこにはあった。

「キュアアアアアン!」

 まるで誕生の産声のような咆哮が天空に轟く。金属と金属を擦り合わせたような鳴き声で、とても生物が出せる声とは思えない。思わず耳を手で塞ぐ。

 その咆哮をきっかけに魔導獣の胴体からなにかが飛び出した。そのなにかは瞬く間に自身から出る文字列に包まれて形を成していく。次々と飛び出しては、その一連の動作が繰り返される。その正体はすぐに明らかになる。ベネトナッシュの空は瞬く間に大小様々な魔導獣によって埋め尽くされた。

「素晴らしい……素晴らしいぞ、〝ベネトナッシュ〟。レイスター・クロウリーはとんでもないものを生み出してしまったものだ」

 恍惚とした表情で満面に笑みを湛えているブライアン。そんな表情で眺められるほど、周囲に広がる光景は穏やかなものではない。

「あれは……あの化け物はいったいなんなんだ」

 切迫したハルライトの声からは動揺の色がうかがえる。

「魔導書――〝ベネトナッシュ〟。レイスター・クロウリーが作り出した〈全知の書庫〉の〈七つの断章〉のうちのひとつ。その正体はあらゆる魔導書を行使できる魔導獣なんだよ」

「キュアアアアアアアアン!」

 未知の魔導獣の正体を明かすブライアンの声に白銀の魔導獣――〝ベネトナッシュ〟の咆哮が被さる。

「魔導書を行使する魔導獣……?」

 その声色はにわかには信じられないといった様子だ。それもそのはずだ。今ブライアンから聞かされている事実は従来の魔導司書の常識からは考えられないことだからだ。魔導獣は術者が行使することで初めて顕現する存在だ。その魔導獣が魔導書を行使するなど、聞いたことがない。

「禁止級である〝バハムート〟も、街を徘徊している魔導獣も、全てこいつが発動させている。〈全知の書庫〉にとって魔導獣の同時発動など造作もないことだ」

 全ての魔導書を行使できるということであれば、〝バハムート〟が姿を現しているのも納得できる話だ。

「魔導司書の間では、レイスター・クロウリーは〈全知の書庫〉の魔導書化に成功したという話になっているが、正確には違う。あれはショートカットなんだ」

「ショートカット?」

 ブライアンがなにを言いたいのか、いまいちピンとこない。

「単純な話だ。そもそも〈全知の書庫〉を魔導書化するなんて、土台無理な話だったんだ。あらゆる魔導書の祖である〈全知の書庫〉の正体そのものが魔導獣なんだよ」

 〝ベネトナッシュ〟の咆哮が止んだ。それと同時に移動を開始する。ただ闇雲に進んでいるようではなく、目指す場所があって進んでいるようだ。

「そうとは知らずに、レイスター・クロウリーは〈七つの断章〉として魔導書化という名のショートカットを作ってしまった。つまり、唯一〈全知の書庫〉に直接アクセスできる代物ってことだ。その結果生まれた化け物がこいつだ」

「キュアアアアアアアアアアアアアン!」

 再び白銀の魔導獣が甲高い雄叫びを上げる。いつの間にか〝ベネトナッシュ〟との距離は近くなっていた。そして気づいた。奴の移動先がほかでもないここであるということに。

「その意志ひとつであらゆる魔導書を行使できるとんでもない化け物だが、それでも魔導書であることに変わりはない。……この意味が分かるか?」

 ぞくりと底冷えするような笑みだった。その背後にはまるで傅くように佇む〝ベネトナッシュ〟の姿があった。嫌な予感が脳裏を埋め尽くしていく。

「その顔はやっと意味を理解したということでいいのかな?」

 口にすることさえ嫌だった。もとより最悪な状況だったというのに、それのさらに上をいく絶望があるなんて想像もしたくない。だが、目の前にいる狂った男はそれを口にする。どこまでも楽しそうに、子供のような笑顔で。

「〝ベネトナッシュ〟は私の支配下にある」

 魔導獣が術者の魔導司書に従うのは道理だ。それ自体なんら不思議ことではない。問題は従える術者が常軌を逸したレベルで狂っているということだ。

「だけど、そんなとんでもない魔導書なんて、ひとりの人間の魔導演算じゃ限界があるはずだ」

 仮にブライアンの言ったことが全て事実だとしても、あらゆる魔導書を従える魔導獣の魔導書など、相当な魔導演算能力が必要になることは想像に難くない。そのからくりはいったいなんなのか。

「普通に考えればそうだろうな。だが、もしひとりではなく、複数の脳に魔導演算をさせれば、可能だとは思わんかね?」

「まさか……」

 弾かれるようにステージの縁から眼下に広がる街を見る。至る所で見物に来たはずだった観光客が倒れている。その数はさきほどよりも格段に増えている。ハルライトの記憶が正しければ、倒れた人たちは例外なく外傷もないまま急に意識を奪われたかのように倒れていた。それをブライアンの言ったことと併せて考えれば、彼がやったことに行き着くまでにそう時間はかからなかった。

「魔導祭に来た人たちを魔導書の演算器として利用したのか!」

「ご名答。フィーディナントの息子だけあって、やはり察しがいい」

 この状況でも褒め言葉など、もはや火に油を注ぐだけの行為でしかない。

「魔導司書や司書生は普段から魔導書に触れているだけあって、魔導書に耐性があるからな。一般人のほうが使い勝手がよかったよ」

「狂ってる……」

「褒め言葉として受け取っておくよ」

 今のブライアンにもはや人としての心はないも同然だ。説得云々の次元を超えている。

「いずれは他の断章も共鳴し合う形で目を覚ます。そうなれば、本当に世界の終わりだな」

 目の前の男はそれを嬉々として語る。

「何年もかけてやっとここまで辿り着いた。正直、何万人という人数の脳を乗っ取るための魔導書を作り上げるには苦労したが、しかしそのおかげここまで来ることができた。ここで止められるわけにはいかないんだよ……」

 冷たい双眸は確実に〝レーヴァティン〟を模している〝ラプラス〟を捉えている。

「早く私にその魔導書を渡せ!」

 全ての魔導書を行使できる力を持った今、ブライアンはなにを恐れているのか。そこに違和感があった。そこでひとつの仮説がハルライトの中で生まれる。〝ラプラス〟にはこの絶望しかない状況を打開できる可能性が秘められているのではないか。だとすれば、ブライアンが〝ラプラス〟を執拗に求める理由も納得がいく。

「親父が俺のために作ってくれた魔導書がそんなに怖いのか。なら、なおさら渡すことはできないな。元々渡す気なんてさらさらなかったけど」

 活路を見出すヒントが秘められているならなおさらだ。

「そうか。なら、力ずくで奪うまでだ」

「――やってみろよ!」

 〝レーヴァティン〟に魔力を凝縮させて灼熱の炎を解き放つ。地を駆けるように直進しながら、ブライアンに突っ込んでいく。勝算はほとんどない等しいが、この魔導書に一縷の希望があるのなら、諦めるわけにはいかない。

「そんな紛い物の力では本物(オリジナル)には勝てんぞ!」

 迎え撃つようにブライアンも〝レーヴァティン〟に魔力を込め、解き放つ。線状に残る焦げ跡がその火力を物語っている。

 両者の炎が激突し、紅蓮の火柱が立ち上がる。

「〝ベネトナッシュ〟、お前は適当に暴れてこい。俺はこいつ先に片付ける」

 ハルライトの攻撃に応戦しながら、ブライアンは〝ベネトナッシュ〟に指示を出す。

「よそ見してる場合かよ!」

 ブライアンの意識が自分から外れた瞬間を見逃さず、火柱を切り裂いて接近戦を試みる。〝レーヴァティン〟の恩恵のおかげか、さほど熱さは感じない。

 不意を突かれる形でブライアンは迫り来る刃をぎりぎりで受け止める。つばぜり合いを拒否し、ハルライトは背後に回り込む。常にブライアンの死角を維持する立ち回りだ。

「おのれ、ちょこまかと」

 業を煮やしたブライアンは〝レーヴァティン〟で薙ぎ払いながら、炎を放出する。半円を描くように炎が広がっていく。

 とっさにハルライトは距離を取る。さほど熱さは感じなくなっているが、それは無傷とイコールではない。炎によるダメージは着実に蓄積している。回避できるなら、できるだけダメージを負わない行動を取るのが賢い選択だ。

 だが、すぐにそれが誘導であったことに気づく。

「そのまま灰となれ」

 着地する同時に眼前に炎の塊が迫っていた。タイミング的に回避するのは不可能。〝レーヴァティン〟で防いでも完璧には防ぎきれない。

「終わりだ!」

 ブライアンは勝利を確信する。だが、直後に彼も想像もしなかった出来事が起こった。炎の塊の軌道がわずかに左にずれたのだ。その結果、ハルライトは直撃を免れた。

(狙いを誤ったのか……)

 内心そう思う。横目でちらりと本来自分に直撃するはずの炎の塊が飛んでいった場所を見る。勝負を決めるつもりだったのか、焦げるのではなく、〝レーヴァティン〟の刀身が触れたように融解している。

「次は必ず命中させるぞ」

 そう言ってブライアンはハルライトを睥睨する。

 改めて戦闘態勢を整えるハルライトだが、そこではたと違和感を覚えた。ほんの一瞬だったが、ブライアンが苦しげな表情を浮かべたような気がしたのだ。受けたダメージでいえば、ハルライトのほうが上だ。魔力切れによる反動の可能性も低い。魔力切れに関してはハルライトが念頭に置いておかなければならないことだ。

 気のせいだったと考えればそれまでだが、違和感は他にもあった。ハルライトはそこでひとつの仮説を立てる。

「今度はこっちの番だ!」

 立て続けに炎の塊を射出する。威力を最低限にすることで、全方位からの攻撃を可能にする数を生み出した。避けるか、広範囲攻撃でもしない限り防ぐのは困難だ。

「ちっ!」

 ブライアンは回避行動を取らず、〝レーヴァティン〟を振り回しかき消すことを試みる。それでも着弾までに全てをかき消すには至らず、数発の炎の塊がブライアンに直撃する。それが初めてまともにブライアンにダメージを与えた瞬間だった。

(魔導演算が生命活動を維持する領域まで侵食しているのか?)

 避けるのではなく、ブライアンが魔導書によって対応する行動を取ったことで、ハルライトの中で生まれた仮説は確証へと変わった。

 いくら〝ベネトナッシュ〟を複数人の脳に代理演算させているとはいえ、その大元となる魔導書はブライアンが発動させている。その制御の難しさは想像もつかない。それに加えて、今ブライアンは一級の魔導書である〝レーヴァティン〟も発動させているのだ。通常の魔導演算では賄いきれなくなっていてもおかしくはない。つまり今ブライアンは運動機能を犠牲にして〝ベネトナッシュ〟を支配下に置いているということになる。

 だとすれば――まだ勝機はある。

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