第28頁目
ベネトナッシュの中心地から郊外にある宿は宿泊客がいないのか、静寂に満ちていた。わざわざこの監禁まがいのことするために貸し切ったのなら、我が親ながら相当用心深いものである。それも抜け出すには建物の玄関まで一番距離がある最奥の部屋を手配したとくれば、その用心深さには恐怖の念すら覚える。
部屋にはお目付役のメイドがひとり。扉を挟んで廊下にはおそらく雇われたであろう魔導司書がふたり。さらには玄関前と建物の周囲に複数の魔導司書が配置されていた。抜け出すのは容易ではない。扉からの正面突破はまず不可能。唯一外に見張りがいない出入りできる場所として窓があるが、ここは地上三階。仮に窓から抜け出したところで、足をつく場所がなければ、地面に真っ逆さまだ。
(私がしたいことって……)
周りが敵だらけの逃げ場のない状況は、シャノンにある意味でこれまでのことを考える時間を与えることとなった。特に実の父親に言われた一言は強く心に残っていた。
「シャノン様。なにかお食べにならないと、お身体に障りますよ」
扉のすぐ隣で椅子に腰をかけているメイドが言ってくる。
「……いらない」
ここへ連れて来られてからシャノンはなにも口にしていなかった。口にする気すら起きなかった。それくらい鬱屈していた。今はとにかく、このもやもやとした気持ちを早くすっきりさせたかったのだ。その答えはいまだ出ていない。
(私はハルに依存していただけなの……?)
父親――ロズウェルドに言われた一言。
――お前が奴のそばにいたのは、奴のそばにいることで自分も変わったと、そう思いたかったからにすぎない。
不意にその言葉が脳裏にフラッシュバックする。胸の奥をぎゅっと握られたような感覚に陥る。手は自然と心臓の辺りを掴んでいた。
「シャノン様?」
心配するメイドの声が聞こえてくるが、それには応じない。下手に応じようものなら、身勝手に八つ当たりしてしまいそうだからだ。自分のことは自分が一番よく知っている。だからこそ、分からなくなるのだ。自分が思っていたことが全て否定され、なにが正しくて、なにが間違いなのか分からなくなる。自分というものが分からなくなった。
――ドン。
「……なに、今の?」
ほんの一瞬の微動に意識が奪われる。わずかな揺れだったが、確かに建物は振動していたような気がした。だが、部屋のメイドも含め、他の者たちが慌てふためくような行動はしていない。ならばと、塞ぎ込んで他のことに敏感になっていた自分の気のせいだったと済ませようとした――そのとき。
「グギャアアアアアアアア!」
天地を轟かせんばかりの大咆哮がベネトナッシュの街を劈いた。窓はガタガタと激しく揺れて今にも割れそうだ。魔導司書たちはただごとではないと、慌ただしく一斉に宿の外に集まる。シャノンも窓から顔を出し、いったいなにが起きたのか、事態を確認する。
「な、なんなのあれ……」
夜の闇に浮かぶ漆黒の影。だが、それは影というにはあまりに大きすぎて、絶望そのものが収束しているような、そんな錯覚を覚えてしまうほど圧倒的な存在感を放っていた。
「あんなの……教本の中でしか見たことがないよ」
窓から見えるベネトナッシュの姿は様変わりしていた。ひとりのパニックがさらに大勢のパニックを呼び、それは瞬く間に伝播していっている。シャノンも含め、魔導司書が唯一冷静でいられるのは、混乱の元凶が見知っている魔導書であるからだ。だが、教本で見た限りでは、混乱の元凶――〝バハムート〟は古書であり、禁止級の魔導書であるはずだ。それがなぜ、この街に顕現しているのか。
ベネトナッシュの凄惨な光景に視線が釘付けになっていると、視界の端で真っ赤な炎の柱が上がった。シャノンの視線は一瞬にしてそちらに奪われる。
見慣れないものがあった。それは本来、第一アリーナがある位置だ。否――すぐにそれが第一アリーナのステージであることに気づく。まるでステージだけがピンポイントで押し上げられたようだった。周囲の地形を巻き込んでいるのか、ステージの下に続く無骨な柱には建物の残骸らしきものがいくつもある。そのステージの上では今も断続的に爆炎が起こっている。遠目からでよく見えないが、ステージ上で誰かが戦っているように感じた。
「ハル……?」
自分でもなぜそう思ったのか、よく分からない。確証だってない。だが、もしこの災厄を引き起こした人物を知っていて、その人物の近くにハルライトがいるとしたら――。彼はきっと立ち向かうはずだ。どれだけの罵られようとも、どれだけ目標とする存在から遠くとも、ただ愚直に歩み続けることを諦めなかった彼ならば。
「……そっか」
心を覆っていた霧が晴れたような気がした。
「……行かなきゃ」
ドクンドクンと、この胸の鼓動が訴えている。外を見るために半開きにしていた窓を大きく開け放つ。その窓から一陣の風が吹いた。
「シャノン様!」
窓から身体を乗り出すシャノンを見て、メイドが咎めるような声で叫ぶ。
「ごめんなさい。私、やっぱりお父様の言うことは聞けない。私にはやるべきことがあるの」
この胸に誓ったのだ。ハルライトのための労力を決して惜しまない――と。
「やっといつものシャノン様に戻られましたね」
「えっ?」
メイドの口調にさきほどのような棘はなかった。
「確かに私はシャノン様を見張ることを仰せつかりました。ですが、シャノン様の自由を束縛する権利はどこにもありません。もし、シャノン様が今からなさろうとしていることが旦那様との言いつけを破ってまで成し遂げたいことなら――私は止めは致しません」
「でも、それじゃ……」
このままシャノンを見逃せば、彼女はロズウェルドから受けた命令を履行できなかったということになる。それがどれほど重大なことか、長年アネット家でメイドを勤めている彼女なら分かるはずだ。分かった上で彼女は言っているのだ。
最後に彼女は笑ってこう付け加えた。
「それに私が目を離している隙にシャノン様が逃げてしまったんですから、それは私の責任です」
「……ありがとう」
それ以上、シャノンはなにも言わなかった。彼女が己の全うするべき職務を放棄してまで背中を押してくれている。ならば、あとは実行あるのみだ。
窓枠に足をかける。身体は背中に羽が生えたように軽かった。大空へ羽ばたくように窓から飛び出す。そして、今まで己を蝕んでいた全ての鬱屈を吹き飛ばすように叫ぶ。
「――〝グリフォン〟!」
自分の書庫から引き出すと同時に〝グリフォン〟の魔導書を空に向かって放り投げる。魔導書から溢れ出る文字列がシャノンの足元に収束する。雄々しい鷲の両翼と上半身、勇ましい獅子の下半身を持つ魔導獣が顕現する。
「ハル、今行くからね」
今までなにをくよくよ悩んでいたんだと、自分でも馬鹿らしくなる。やるべきことは、やらなければいけないことはとっくに決まっていたのだ。
(ハルの、私が憧れるハルの……ううん、私の好きなハルの力になりたい)
やっと気づいた本当の想い。最初はロズウェルドの言ったとおりかもしれない。ただ依存していただけだった。だが、今は違うと断言できる。心の底から力になりたい。そこには打算もなにもない。ただ純粋な強い想い。それはたとえ、どんな強力な魔導書でも止めることはできないだろう。
「あのそびえ立つ第一アリーナのステージまでお願い」
自分を乗せるグリフォンに指示を出す。下にはシャノンが逃げ出したことに気づいた魔導司書が続々と集まってきている。あまり時間的猶予はない。急ぎでお願いと付け加える。
グリフォンは猛々しい雄叫びを上げる。気合いは十分だ。主の期待に応えるべく、シャノンを乗せたグリフォンは最初から全速力で大空へと向かって羽ばたいていった。
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